幸せな記録
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ここはモルドール。冥王が支配する影横たわる国だ。
この国にも人間は大勢いる。その多くは冥王と契約した戦士や浚われてきた奴隷である。
と言っても、どのような時代にも、どのような場所にも例外は存在する。
このモルドールでの例外は、たった一人だけ。
その名は夢子。まだ年若い少女だ。
茶色の髪と茶色の目。ホビットほどでは無いが背も低かった。
そんな人間の少女が何故このモルドールに居るのか、そしてどのような生活を営んでいるのかをここに書き記す。
*
ナズグルは少女の小さな身体を抱えて廊下を歩いていた。
現世において、おぼろげな実体しか持たないナズグルは、地面の上を音も立てずに歩くことができる。
だが今はしっかりと足音を立てて、足早に廊下を進んでいた。
ナズグルの歩調に合わせて少女の小さな身体はぐらぐらと揺れる。
そのため、少女は振り落とされないように、必死でナズグルの肩にしがみ付いた。
勿論、少女を落としてしまったり、壁や柱にその身体がぶつかったりしないようにするのは、ナズグルにとっては造作無い事である。
それでもこうやって足早に歩けば、少女がナズグルにしがみ付く他は無い。
そしてナズグルは、この小さな少女にしがみ付かれる事がこの上なく喜ばしいと感じていた。(つまりは変態なのである)
ナズグルが主人の前に少女を降ろすと、少女は小さな足音を響かせて一直線にサウロンに駆け寄った。
「サウロン様」
サウロンは少女の身体を軽々と抱き上げた。
恐怖の冥王であるサウロンは、かつてイシルドゥアとの戦いで失っていた身体を取り戻していた。
と言ってもその身体は、ナズグルのようにおぼろげであった。
まるで黒い影が人の形をしたような……闇の塊のような身体に、二つの黄色い目だけがぎらぎらと光っているのだ。
おぼろげな闇の身体に漆黒の鎧を纏う冥王は、誰がどう見ても禍々しい姿をしている。
そんなサウロンがその腕に小さな少女を抱いて目を細める様子は、ある意味不気味な光景だった。
「もうすぐご出陣なさるのでしょう?」
少女は寂しそうな顔をしてサウロンの腕にぎゅっとしがみ付いた。
「我は冥王でありモルドールの支配者。出陣せねばならぬ身だ……だが案ずるな。今や我に抵抗しうる力を持つものは居らぬのだ」
それでも少女はサウロンの腕にしがみ付いたまま離れようとはしなかった。
「あまり泣いてくれるな。そうだな……大人しく待っていれば、お前に土産を持ちかえってやるぞ。我に抵抗する愚か者の首はどうだ?」
少女は怯えて首を横に振った。
「私はそんなのいらない。死人の首って、とても怖いものなのよ」
サウロンは目を開いて少女の顔を見た。
その反応は、まるでこの少女が示した、ごく普通の”死人の首は怖い”という感覚を、初めて知って驚いているかのようだった。
それでもサウロンは少女に土産を与えたかったので、思いつく限りの品を提案した。
奴隷か、領土か、ローハンの駿馬か?
富と権力を求めるサウロンの配下であれば、そのどれもが魅力的なものだろう。
だが少女にとっては何の価値も魅力もないものだった。
少女は自分が望むものを考えてみた。
そして、ぱっと顔を輝かせて、思いついた”素敵なもの“をサウロンに話して聞かせた。
「綺麗なお花や木が欲しいわ。そのお花を植えて、素敵なお庭を造るの」
少女の可愛らしい答えにサウロンもナズグルもぎょっとした。
冥王や幽鬼である彼らは、”綺麗なお花”や”素敵なお庭”を愛する心など、遥か昔に忘れてしまっていたのである。
だがサウロンはこの小さな少女にとても甘かった!
「お前の望みは承知した。我はお前が望むものを与えよう」
そう言い残してサウロンは出陣した。
*
戦場から帰ったサウロンは、様々な種類の木の苗や花の種、そして一人の庭師を持ち帰った。
サムワイズ・ギャムジーこと庭師のサムは、可哀想なくらいに身体を縮こまらせてぶるぶると震えていた。
それもそのはず。サムがいつも通り庭仕事に精を出していたところ、突然翼の生えた恐ろしい獣に跨った幽鬼が現れて、自分の身体を抱えたと思ったら、そのままモルドールまで飛んで行ってしまったのだから!
悪しき者どもが暮らすモルドールには、哀れなサムに優しく接する者は一人もいなかった。
オークどもはサムの柔らかいお肉を見て、美味そうだ!と恐ろしく下品な笑い声を上げるし、幽鬼はサムをサウロンの部屋まで運び終えると、すぐに姿を消してそれきりだった。
サウロンの部屋はとても暗く、窓から差し込む光とおぼろげなランプの明かりで辛うじて手元が見えるだけだった。
サウロンの帰りを待っていた少女は、突然現れたホビットに驚き、勇気を出して声を掛けた。
「はじめまして、ホビットさん」
声を掛けられたサムは、ひいっと悲鳴を上げたが、声の主が小さな少女だと気がついて恐る恐る返事をした。
「お前はいったいどこの誰だね?お前さんもあの恐ろしい奴らに浚われて来たのかい?」
そんなサムの言葉に少女は楽しそうにくすくすと笑った。
「私の名前は夢子よ。この国で生まれたの……サウロン様は私のお父様なの」
少女の答えを聞いたサムは堪らず叫び声を上げた。
夢子は悲しそうな顔をして、両手をぎゅっと握った。
目の前のサムのように、人々はサウロンの名前を出すだけで悲鳴を上げて、恐れおののく。
夢子は、これまでに何度も、人々がそんな反応を示すのを見ていた。
「私は知っているわ。外の人間はお父様を怖がるって……けれど、お父様はとっても素敵な方なのよ。ナズグル達だってとても優しいわ」
少女はそう言ってサムの手を取った。
サムはその手を振り払おうかと考えたが、相手が小さな少女の姿をしているので躊躇った。
薄暗くてよく見えないが、悪意や敵意を向けられていないのは明らかだった。
何故なら少女はとても無邪気で明るかった。
それはホビットの子どもたちと少しも違わない。
サムは混乱しながらも、目の前の少女や自分の状況を把握しようと考えた。
夢子と名乗る少女は、どこからどう見ても人間である。
少なくとも、サウロンやナズグル、はたまたオークなどとも血縁はないだろう。
それに暗黒の国モルドールで育ったとは思えないほど、素直で純粋そうに見える。
サムは部屋の中をぐるりと見渡した。大きな暖炉と、大きな書き物机。
壁に掛けられたタペストリーには、赤く燃える目を背景に、美しい人物が大きな狼や吸血蝙蝠に変化する様子が刺繍されていた。
「ここはお前さんの部屋かね?」
夢子は首を左右に振った。
「いいえ。ここはサウロン様のお部屋よ。私はサウロン様と一緒のお部屋で過ごしているの」
サムは難しい顔をして、首を傾げた。随分と奇妙なことを聞いてしまった。
恐怖と暴力の支配者、強靭なエルフの戦士も真っ青になって裸足で逃げだす、あの冥王サウロンが、小さな女の子と一緒の部屋で日々を過ごしているのだから。
サムの頭の中は沢山の疑問で一杯になった。
しかしサムが一番に尋ねたい事は、何故自分がこのモルドールに連れてこられたのかだった。
「お前さんや冥王のことは聞かねえことにする。おらには分からねえだろうし。でも、どうしておらがここまで連れてこられたのか。これは聞かなくっちゃ。おらみてぇな、ただの庭師のホビットに用でもあるんですかい?」
サムがそう質問すると、部屋の暗闇の中から、巨大な体を持つ恐ろしい人物が姿を見せた。
「無論、用が無ければとっくに殺している」
その人物は黒い甲冑を身に纏い、彼の低い声は兜越しにくぐもって響いた。
若くもなく年老いてもいない男の声で、発音は洗練されて美しいが、その響きは肌を刺すような冷たさがあった。
彼が体を動かすたびに、身に纏う黒い甲冑が、がちゃがちゃと重い音を立てた。
サムは腰を抜かして、食い入るように目の前の人物を見つめた。
「冥王サウロン!」
サムは目の前の人物の名前を叫んだが、恐怖で全身が震えて、悲鳴を上げたようにしか聞こえなかった。
サウロンは足元に転がる小さなホビットを、珍しい獲物を値踏みするように眺めたが、すぐに興味を失って、自分の足元に視線を移した。
それは愛する少女がサウロンの足元に飛びついてきたからだった。
「お帰りなさい、サウロン様!」
サウロンは両手で夢子の体を持ち上げて、自分の胸に抱き寄せた。
夢子はサウロン腕の中で、久しぶりに感じる力強い腕や逞しい胸の感触に、頬を赤くした。
「夢子よ、お前が望んでいた花や木を持ち帰ったぞ。それに庭師もな」
「それじゃあ、このホビットさんは、私の庭師なの?」
サウロンは小さく頷いた。
抑えきれないほどの喜びが、夢子の小さな体を埋め尽くす。
夢子は眩しいくらいに輝く笑顔を見せて、サウロンに抱きついた。
そんな夢子の様子に、サウロンの心は熱い感情で満たされた。
愛や慈しみという感情では無かった。もっと激しい感情だった。
それは、まるで死の山の奥底にどろどろと流れるマグマのように、ふいに溢れ出そうになるのだ。
その感情によって、サウロンは体の内側から焼きつくされてしまうのだと考える事があった。
だが、サウロンは夢子を手放す事はしない。現在もこの先も。
夢子がその生涯を終えて、彼女の魂が肉体の檻を離れたとしても、手放すつもりは無かった。
暗黒の国にさ迷う小さな魂は、鎖に繋げられた指輪のように、サウロンの傍から離れる事は出来ないのだ。
*
牧歌的なホビット庄においても、暗黒の国モルドールにおいても、サムの仕事は変わらなかった。
サムは庭師の仕事を愛していたから、暗黒の国モルドールに居ても、仕事に対する情熱もまた変わらなかった。
気候や環境の違いには頭を悩まされるが、その悩みを解決する事すら楽しんでる節もあった。
美しい庭を一から造り上げるのは、芸術家が優れた作品を造り上げるのと同じ事だ。
それに必要な資材や労働力は、ナズグルが調達してくれた。
今では多くの奴隷たちが、庭を造る仕事に駆り出されていた。
中には戦士として雇われたはずの、オークや傭兵たちの姿まであった。力仕事はオークやトロルが得意とするためである。
*
「庭の中央には、噴水が欲しいですだ」
サムは机の上に紙を広げて、木炭で絵を描いた。
隣には夢子が座り、紙に描かれた絵を覗き込んだ。
絵には、中央に噴水があって、噴水の近くには、くつろげるように椅子が置かれているのが描かれていた。
垂れ下ったツタのカーテンやら、薔薇の垣根やら、サムは思いつく限りの素敵な庭を提案し、紙の上に描いてゆく。
夢子は楽しそうにサムの話を聞いて、頷いたり笑ったりしていた。
サウロンは、小さな背中が二つ並んでいるのを、後ろから眺めていた。
二人が笑ったり、話に夢中になってくると、肩が揺れたり、木炭を持つ手が忙しく動く。
それがとても面白くて、長い時間、退屈せずに眺めていられるのだ。
ふいに、夢子が振り返って、サウロンを見つめた。
「サウロン様は、お庭に噴水があるほうが嬉しい?」
夢子とサムの庭づくりに関して、サウロンは一切口出しをするつもりは無かった。
サウロンにとっては庭づくりなど興味が無く、二人が楽しんでいればそれで良かったのである。
サウロンは腕を組んで、しばらく考え込んだ。
美しく素敵な庭……かつては、サウロンもそれらを愛したり楽しむ心を持っていた。
サウロンは、忘れていたはずの、その記憶や感覚を思い出そうとした。
その行為は悪しき存在となったサウロンには苦痛を伴うものだった。
夢子は心配そうにサウロンを見つめた。
サムも息を飲んで、サウロンを見つめた。
二人には、サウロンの大きな体が微かに震えたり、組んだ腕にも力が入っているのが分かった。
拳を固く握り締め、はっきりとは見えないはずのサウロンの唇が戦慄くのも分かった。
夢子もサムもただ静かに、祈るように見守っていた。
やがてサウロンは大きく息を吐き、組んでいた腕を解いた。
そして机の上に転がっていた木炭を摘まんだかと思うと、瞬く間に素晴らしく精密な庭の設計図を完成させた。
サムは感心して、完成した設計図に見入った。
夢子は喜びのあまり、サウロンに抱きついて離れなかった。
サウロンは自分に抱きつく夢子の髪を撫でた。もちろん少女の柔らかい肌を傷つけないように、籠手を外して……。
そして、その後サウロンが再び、血で汚れた重く冷たい籠手を身につけることは無かった。
*
サウロンが設計した庭の美しさは、遠くホビット庄にまで届くほどの評判だった。
あまりの美しさに、エルフや魔法使い達でさえ、こっそりと訪れるほどだった。
サウロンは彼らが訪れるのを知りつつも見逃したし、彼らもまた、サウロンを見逃してやった。
可愛らしい少女と小さな庭師を伴って、ただ庭を歩くサウロンを、誰が非難するだろうか。
どのような形であれ、平和が訪れる事には、ひとつの問題も無いのである。
おわり
2014.3.10完結
2014.7.16修正
この国にも人間は大勢いる。その多くは冥王と契約した戦士や浚われてきた奴隷である。
と言っても、どのような時代にも、どのような場所にも例外は存在する。
このモルドールでの例外は、たった一人だけ。
その名は夢子。まだ年若い少女だ。
茶色の髪と茶色の目。ホビットほどでは無いが背も低かった。
そんな人間の少女が何故このモルドールに居るのか、そしてどのような生活を営んでいるのかをここに書き記す。
*
ナズグルは少女の小さな身体を抱えて廊下を歩いていた。
現世において、おぼろげな実体しか持たないナズグルは、地面の上を音も立てずに歩くことができる。
だが今はしっかりと足音を立てて、足早に廊下を進んでいた。
ナズグルの歩調に合わせて少女の小さな身体はぐらぐらと揺れる。
そのため、少女は振り落とされないように、必死でナズグルの肩にしがみ付いた。
勿論、少女を落としてしまったり、壁や柱にその身体がぶつかったりしないようにするのは、ナズグルにとっては造作無い事である。
それでもこうやって足早に歩けば、少女がナズグルにしがみ付く他は無い。
そしてナズグルは、この小さな少女にしがみ付かれる事がこの上なく喜ばしいと感じていた。(つまりは変態なのである)
ナズグルが主人の前に少女を降ろすと、少女は小さな足音を響かせて一直線にサウロンに駆け寄った。
「サウロン様」
サウロンは少女の身体を軽々と抱き上げた。
恐怖の冥王であるサウロンは、かつてイシルドゥアとの戦いで失っていた身体を取り戻していた。
と言ってもその身体は、ナズグルのようにおぼろげであった。
まるで黒い影が人の形をしたような……闇の塊のような身体に、二つの黄色い目だけがぎらぎらと光っているのだ。
おぼろげな闇の身体に漆黒の鎧を纏う冥王は、誰がどう見ても禍々しい姿をしている。
そんなサウロンがその腕に小さな少女を抱いて目を細める様子は、ある意味不気味な光景だった。
「もうすぐご出陣なさるのでしょう?」
少女は寂しそうな顔をしてサウロンの腕にぎゅっとしがみ付いた。
「我は冥王でありモルドールの支配者。出陣せねばならぬ身だ……だが案ずるな。今や我に抵抗しうる力を持つものは居らぬのだ」
それでも少女はサウロンの腕にしがみ付いたまま離れようとはしなかった。
「あまり泣いてくれるな。そうだな……大人しく待っていれば、お前に土産を持ちかえってやるぞ。我に抵抗する愚か者の首はどうだ?」
少女は怯えて首を横に振った。
「私はそんなのいらない。死人の首って、とても怖いものなのよ」
サウロンは目を開いて少女の顔を見た。
その反応は、まるでこの少女が示した、ごく普通の”死人の首は怖い”という感覚を、初めて知って驚いているかのようだった。
それでもサウロンは少女に土産を与えたかったので、思いつく限りの品を提案した。
奴隷か、領土か、ローハンの駿馬か?
富と権力を求めるサウロンの配下であれば、そのどれもが魅力的なものだろう。
だが少女にとっては何の価値も魅力もないものだった。
少女は自分が望むものを考えてみた。
そして、ぱっと顔を輝かせて、思いついた”素敵なもの“をサウロンに話して聞かせた。
「綺麗なお花や木が欲しいわ。そのお花を植えて、素敵なお庭を造るの」
少女の可愛らしい答えにサウロンもナズグルもぎょっとした。
冥王や幽鬼である彼らは、”綺麗なお花”や”素敵なお庭”を愛する心など、遥か昔に忘れてしまっていたのである。
だがサウロンはこの小さな少女にとても甘かった!
「お前の望みは承知した。我はお前が望むものを与えよう」
そう言い残してサウロンは出陣した。
*
戦場から帰ったサウロンは、様々な種類の木の苗や花の種、そして一人の庭師を持ち帰った。
サムワイズ・ギャムジーこと庭師のサムは、可哀想なくらいに身体を縮こまらせてぶるぶると震えていた。
それもそのはず。サムがいつも通り庭仕事に精を出していたところ、突然翼の生えた恐ろしい獣に跨った幽鬼が現れて、自分の身体を抱えたと思ったら、そのままモルドールまで飛んで行ってしまったのだから!
悪しき者どもが暮らすモルドールには、哀れなサムに優しく接する者は一人もいなかった。
オークどもはサムの柔らかいお肉を見て、美味そうだ!と恐ろしく下品な笑い声を上げるし、幽鬼はサムをサウロンの部屋まで運び終えると、すぐに姿を消してそれきりだった。
サウロンの部屋はとても暗く、窓から差し込む光とおぼろげなランプの明かりで辛うじて手元が見えるだけだった。
サウロンの帰りを待っていた少女は、突然現れたホビットに驚き、勇気を出して声を掛けた。
「はじめまして、ホビットさん」
声を掛けられたサムは、ひいっと悲鳴を上げたが、声の主が小さな少女だと気がついて恐る恐る返事をした。
「お前はいったいどこの誰だね?お前さんもあの恐ろしい奴らに浚われて来たのかい?」
そんなサムの言葉に少女は楽しそうにくすくすと笑った。
「私の名前は夢子よ。この国で生まれたの……サウロン様は私のお父様なの」
少女の答えを聞いたサムは堪らず叫び声を上げた。
夢子は悲しそうな顔をして、両手をぎゅっと握った。
目の前のサムのように、人々はサウロンの名前を出すだけで悲鳴を上げて、恐れおののく。
夢子は、これまでに何度も、人々がそんな反応を示すのを見ていた。
「私は知っているわ。外の人間はお父様を怖がるって……けれど、お父様はとっても素敵な方なのよ。ナズグル達だってとても優しいわ」
少女はそう言ってサムの手を取った。
サムはその手を振り払おうかと考えたが、相手が小さな少女の姿をしているので躊躇った。
薄暗くてよく見えないが、悪意や敵意を向けられていないのは明らかだった。
何故なら少女はとても無邪気で明るかった。
それはホビットの子どもたちと少しも違わない。
サムは混乱しながらも、目の前の少女や自分の状況を把握しようと考えた。
夢子と名乗る少女は、どこからどう見ても人間である。
少なくとも、サウロンやナズグル、はたまたオークなどとも血縁はないだろう。
それに暗黒の国モルドールで育ったとは思えないほど、素直で純粋そうに見える。
サムは部屋の中をぐるりと見渡した。大きな暖炉と、大きな書き物机。
壁に掛けられたタペストリーには、赤く燃える目を背景に、美しい人物が大きな狼や吸血蝙蝠に変化する様子が刺繍されていた。
「ここはお前さんの部屋かね?」
夢子は首を左右に振った。
「いいえ。ここはサウロン様のお部屋よ。私はサウロン様と一緒のお部屋で過ごしているの」
サムは難しい顔をして、首を傾げた。随分と奇妙なことを聞いてしまった。
恐怖と暴力の支配者、強靭なエルフの戦士も真っ青になって裸足で逃げだす、あの冥王サウロンが、小さな女の子と一緒の部屋で日々を過ごしているのだから。
サムの頭の中は沢山の疑問で一杯になった。
しかしサムが一番に尋ねたい事は、何故自分がこのモルドールに連れてこられたのかだった。
「お前さんや冥王のことは聞かねえことにする。おらには分からねえだろうし。でも、どうしておらがここまで連れてこられたのか。これは聞かなくっちゃ。おらみてぇな、ただの庭師のホビットに用でもあるんですかい?」
サムがそう質問すると、部屋の暗闇の中から、巨大な体を持つ恐ろしい人物が姿を見せた。
「無論、用が無ければとっくに殺している」
その人物は黒い甲冑を身に纏い、彼の低い声は兜越しにくぐもって響いた。
若くもなく年老いてもいない男の声で、発音は洗練されて美しいが、その響きは肌を刺すような冷たさがあった。
彼が体を動かすたびに、身に纏う黒い甲冑が、がちゃがちゃと重い音を立てた。
サムは腰を抜かして、食い入るように目の前の人物を見つめた。
「冥王サウロン!」
サムは目の前の人物の名前を叫んだが、恐怖で全身が震えて、悲鳴を上げたようにしか聞こえなかった。
サウロンは足元に転がる小さなホビットを、珍しい獲物を値踏みするように眺めたが、すぐに興味を失って、自分の足元に視線を移した。
それは愛する少女がサウロンの足元に飛びついてきたからだった。
「お帰りなさい、サウロン様!」
サウロンは両手で夢子の体を持ち上げて、自分の胸に抱き寄せた。
夢子はサウロン腕の中で、久しぶりに感じる力強い腕や逞しい胸の感触に、頬を赤くした。
「夢子よ、お前が望んでいた花や木を持ち帰ったぞ。それに庭師もな」
「それじゃあ、このホビットさんは、私の庭師なの?」
サウロンは小さく頷いた。
抑えきれないほどの喜びが、夢子の小さな体を埋め尽くす。
夢子は眩しいくらいに輝く笑顔を見せて、サウロンに抱きついた。
そんな夢子の様子に、サウロンの心は熱い感情で満たされた。
愛や慈しみという感情では無かった。もっと激しい感情だった。
それは、まるで死の山の奥底にどろどろと流れるマグマのように、ふいに溢れ出そうになるのだ。
その感情によって、サウロンは体の内側から焼きつくされてしまうのだと考える事があった。
だが、サウロンは夢子を手放す事はしない。現在もこの先も。
夢子がその生涯を終えて、彼女の魂が肉体の檻を離れたとしても、手放すつもりは無かった。
暗黒の国にさ迷う小さな魂は、鎖に繋げられた指輪のように、サウロンの傍から離れる事は出来ないのだ。
*
牧歌的なホビット庄においても、暗黒の国モルドールにおいても、サムの仕事は変わらなかった。
サムは庭師の仕事を愛していたから、暗黒の国モルドールに居ても、仕事に対する情熱もまた変わらなかった。
気候や環境の違いには頭を悩まされるが、その悩みを解決する事すら楽しんでる節もあった。
美しい庭を一から造り上げるのは、芸術家が優れた作品を造り上げるのと同じ事だ。
それに必要な資材や労働力は、ナズグルが調達してくれた。
今では多くの奴隷たちが、庭を造る仕事に駆り出されていた。
中には戦士として雇われたはずの、オークや傭兵たちの姿まであった。力仕事はオークやトロルが得意とするためである。
*
「庭の中央には、噴水が欲しいですだ」
サムは机の上に紙を広げて、木炭で絵を描いた。
隣には夢子が座り、紙に描かれた絵を覗き込んだ。
絵には、中央に噴水があって、噴水の近くには、くつろげるように椅子が置かれているのが描かれていた。
垂れ下ったツタのカーテンやら、薔薇の垣根やら、サムは思いつく限りの素敵な庭を提案し、紙の上に描いてゆく。
夢子は楽しそうにサムの話を聞いて、頷いたり笑ったりしていた。
サウロンは、小さな背中が二つ並んでいるのを、後ろから眺めていた。
二人が笑ったり、話に夢中になってくると、肩が揺れたり、木炭を持つ手が忙しく動く。
それがとても面白くて、長い時間、退屈せずに眺めていられるのだ。
ふいに、夢子が振り返って、サウロンを見つめた。
「サウロン様は、お庭に噴水があるほうが嬉しい?」
夢子とサムの庭づくりに関して、サウロンは一切口出しをするつもりは無かった。
サウロンにとっては庭づくりなど興味が無く、二人が楽しんでいればそれで良かったのである。
サウロンは腕を組んで、しばらく考え込んだ。
美しく素敵な庭……かつては、サウロンもそれらを愛したり楽しむ心を持っていた。
サウロンは、忘れていたはずの、その記憶や感覚を思い出そうとした。
その行為は悪しき存在となったサウロンには苦痛を伴うものだった。
夢子は心配そうにサウロンを見つめた。
サムも息を飲んで、サウロンを見つめた。
二人には、サウロンの大きな体が微かに震えたり、組んだ腕にも力が入っているのが分かった。
拳を固く握り締め、はっきりとは見えないはずのサウロンの唇が戦慄くのも分かった。
夢子もサムもただ静かに、祈るように見守っていた。
やがてサウロンは大きく息を吐き、組んでいた腕を解いた。
そして机の上に転がっていた木炭を摘まんだかと思うと、瞬く間に素晴らしく精密な庭の設計図を完成させた。
サムは感心して、完成した設計図に見入った。
夢子は喜びのあまり、サウロンに抱きついて離れなかった。
サウロンは自分に抱きつく夢子の髪を撫でた。もちろん少女の柔らかい肌を傷つけないように、籠手を外して……。
そして、その後サウロンが再び、血で汚れた重く冷たい籠手を身につけることは無かった。
*
サウロンが設計した庭の美しさは、遠くホビット庄にまで届くほどの評判だった。
あまりの美しさに、エルフや魔法使い達でさえ、こっそりと訪れるほどだった。
サウロンは彼らが訪れるのを知りつつも見逃したし、彼らもまた、サウロンを見逃してやった。
可愛らしい少女と小さな庭師を伴って、ただ庭を歩くサウロンを、誰が非難するだろうか。
どのような形であれ、平和が訪れる事には、ひとつの問題も無いのである。
おわり
2014.3.10完結
2014.7.16修正
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