ただの恋する幽鬼
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黒衣の男は、机の上に両肘を付いて小さくため息をついた。
彼……ナズグルには名前が無かった。正確には、名前など遥か昔に使わなくなって忘れてしまっていた。
かつて彼は偉大な人間の王だったが、今ではサウロンの僕でしかないのである。
「でも何だかんだで個性ってものが欲しいよなぁ……」
ナズグルはそう呟いて部屋でくつろいでいるもう一人のナズグルに視線を向けた。
もう一人のナズグルは、彼らナズグル達を束ねる首領だった。様々な呼び名がある彼だが、ここでは魔王としておく。
魔王は読んでいた本を顔の前に広げて、自分を見つめる陰鬱な部下の視線を遮った。
返事もせず無視を決め込む魔王に、ナズグルはもう一度大きくため息をついた。
忌々しい!私は読書をしているというのに!
魔王は少しだけ本を下げて、部下の様子を伺った。
部下のナズグルは、机に覆いかぶさるように背中を丸めて物思いに耽っていた。
その姿は普段の冷酷で恐ろしい印象とは打って変わって、何とも頼りなげに見えた。
「魔王様!」
何かを思い立ったのか、ナズグルは両手を机に付いて立ち上がり、大きな声で魔王を呼んだ。
魔王も名前を呼ばれてしまっては、無視を決め込む事は出来ない。
「何事だ」
そう問いかけると、ナズグルはすうっと大きく息を吸い込んだ。
「私は伴侶を持ちたいと考えています」
危うく、魔王は座っていた椅子からずり落ちるところだった。
「それは何故だ?誰か相手がいるのか?」
魔王がそう問うと、ナズグルは自分の指をそわそわと絡めたり動かしたりして、しどろもどろに返事をした。
魔王はナズグルと向き合う様に椅子に座りなおした。
「何故そう考えたのか、話したまえ」
魔王が強い口調でそう問うと、ナズグルはぽつりぽつりと理由を話し始めた……。
*
ナズグルは空を飛ぶのが好きだった。
サウロンが治める広大なモルドールの領地を空から見下ろすのは気分が良かった。
奴隷達が農作業に勤しむ姿や、オークの兵隊が列を組んできびきびと歩く姿。
サウロンに目通りすべく、長い旅を経てモルドールに訪れる異国の人間の姿。
時には、物陰でだらけたオークやら、よほど可笑しい事があったのかげらげらと大声で笑うオークの姿も見えた。
空の上から彼らを観察するのは、とても面白かった。
そんな領地の偵察や警備とは名ばかりの、”空の散歩”をナズグルが楽しんでいたところ、珍しい光景が彼の目に飛び込んできた。
人間の娘が、たった一人で水浴びをしていたのだ。
このモルドールの土地で、たった一人で……しかも若い娘が出歩くなんて!
これはいけない!と、ナズグルは手綱を操って、翼の生えた恐ろしい獣を地面に着地させた。
人間の娘は、空から降りて来たナズグルの姿を見て、小さく悲鳴を上げた。
そして素早く地面に畳んでいた簡素な麻織りの衣装を引っ掴んで、その場から逃げだした。
「待て!」
ナズグルはそう叫んで、娘を追いかけた。
背の高いナズグルの足に適う訳が無く、直ぐに娘はナズグルに捕らえられた。
娘は恐ろしさで泣き出すし、ナズグルも目のやり場に困って、羽織っていた黒いマントを娘の肩にかけてやると掴んでいた腕を離した。
「まずは、服を着なさい」
娘はこくりと頷いて、ナズグルから距離を取ってマントの下で服を身に付けた。
そしてナズグルの元に戻ってきて、かけてもらった黒いマントを汚さないように気を付けながらそっと差し出した。
マントを受け取ったナズグルは再びそれを羽織り、しげしげと娘を観察した。
茶色の髪と目。まだ年若いのだろう、肌はきめ細かくて柔らかそうだった。顔立ちも悪くない。
背はあまり高くないが、これから伸びる可能性は十分にあった。
娘の身分はすぐに予想が着いた。何故なら娘が着ている衣装は、モルドールの奴隷達が身につけるごく標準的なものだったからである。
「寒くはないか」はじめに話しかけたのはナズグルだった。「その、髪が濡れたままだから」
娘は恥ずかしそうにして、濡れて乱れた髪を手で撫でつけた。
「平気です。放っておけば、じきに乾きます」
「そうか」
そう言ったものの、やはりナズグルは娘の髪が気になっていた。
ぽたぽたと髪の毛の先から滴る水が、日に焼けた麻織りの衣装に染みを作った。
ナズグルは羽織りなおしたマントを再び娘の肩にかけてやった。
ナズグルの黒いマントには油が塗ってあって水を弾いた。
「しばらく、それを羽織っていなさい」
娘は頷いてマントの襟を合わせて風が入ってこないようにした。
ナズグルの身体に合わせて仕立てられたマントだったから、娘の身体をすっかり覆い隠しても十分余るくらいに大きかった。
「ありがとう」
そう言って、娘は微笑んだ。
ナズグルが誰かに微笑みを向けられるのは、もう何百年も、何千年も昔以来だった……。
*
ナズグルと娘は、膝くらいの高さの岩を椅子代わりにして座った。
ナズグルは娘に名前を尋ねた。
娘は、自分の名前は夢子といって、モルドールの農地で働いていると話した。
「貴方の名前も教えて欲しいわ。ナズグルって呼ばれているのは知ってるけど、それは名前じゃないもの」
そう言われたナズグルは、自分の名前を娘に教えようと考えたが、上手く話せそうにないと思ってやめた。
彼はナズグルでしかなかった。指輪に魅入られ、幽鬼となった九人のうちの一人でしかなかった。
「私の名前なんて、知らなくていい事だよ」
ナズグルはそう答えたから、夢子も名前を尋ねるのをやめた。
「それじゃあ、ナズグルさん。貴方は私に用があったの?」
「用はなかったよ。ただ、何となく気になったから……」ナズグルは少しだけ言い難そうにして、言葉を続けた。「だって、君は一人で水浴びをしてただろう?」
そうナズグルが言うと、夢子は照れたように笑った。
「誰も居なかったから……でも、まさか空から覗かれるとは考えてなかったわ」
「何故、水浴びを?」
「単なる好奇心。今は農地を休ませているから抜け出す暇もあるのよ」
「大した奴隷だ」
そう言ってナズグルは笑った。
そんなナズグルに夢子は一瞬驚いたものの、自分のほうも楽しくなって笑い返した。
「でもそろそろ戻らなきゃ。日暮れ前に終業の点呼があるの」
夢子は座っていた岩から立ち上がって、借りていたマントをナズグルに返した。
「送って行こうか?」
ナズグルはそう尋ねたが、夢子は首を左右に振った。
「歩いて行くわ。どうもありがとう」
夢子はナズグルに手を振って、小走りで自分の家へと戻って行った。
ナズグルは、しばらくその場に残り、夢子との不思議な交流の余韻に浸っていた。
夢子との出会いは、ナズグルにとって忘れられないものとなった。
ふとした時に夢子と交わした言葉や、彼女の笑顔や笑い声を思い出した。
そんな日々を過ごす内にナズグルは、自分の中に夢子という存在が大きくなっていくのを感じた。
……ナズグルは、ナズグルでしか無かったけれど。
そんな自分でも、夢子が傍に居て自分に目を向けてくれれば、本当の自分が理解できるように思った。
ナズグルが夢子に抱く思いは、かつてサウロンから賜った魔法の指輪に向ける執着のようなものでは無かった。
もっと純粋で、心の奥底から湧きあがるような……。
思い出せないけれど、それは……人間で言うところの愛や慈しみという思いだったのかもしれない。
ナズグルはそんな自分の思いを、不安に感じていた。
だからこそ、自分達を束ねるナズグルの首領……魔王に相談したのだ。
*
ナズグルの話を聞き終えた魔王は、ふーっと長くため息をついた。
「それで、お前はその娘を傍に置きたいと考えているのか」
「ええ。傍に置くと言うよりは、傍に居て欲しいと言うほうが正しいのですが……」
随分、女々しい奴だと魔王は思った。目の前の部下は仮にもナズグルの一人である。それが、今ではただの恋する幽鬼だ!
魔王は目まいがするように感じて、手で目のあたりを押さえた。
「奴隷の一人くらい、お前の力でどうにでも出来るのではないかな?」
「ええ。その辺のオークにでも命じれば、ここミナス・モルグルまで直ちに呼ぶことが出来るでしょう」
しかし、そうしたくは無いのだろう。ナズグルは言葉を切って俯いた。
ナズグルの煮え切らない態度に、魔王は腹立たしくなってきた。
「ならば、お前が直接赴いて、娘を連れて来ればよい」
魔王がそう言うと、ナズグルは大きく頷いた。
ナズグルは魔王がそう言うのを待っていたのだった。
「そうします!」
踏ん切りがついたナズグルは、上司にお辞儀をすると足早に部屋から出て行った。
魔王は再び長くため息をついた。
御目様には黙っていよう。身内の事だ。知らせないほうが良い。
魔王は本を閉じて、部下のナズグルや夢子という娘の事に思いを馳せた。
自分にも伴侶がいたような気がする。魔王はそう思った。
けれど、もう遠い昔の事だったので、はっきりとした事は何も思い出せなかった。
*
「私と一緒に来て欲しい」
翼のある恐ろしい獣に跨り、颯爽と現れたナズグルは、夢子にそう言った。
逃げ出したり家の中に隠れたりする奴隷仲間達を目で追いつつ、逃げ遅れた夢子は戸惑いながらも返事をした。
「どこへ行くのですか?」
「ミナス・モルグル。我らナズグルの住処へ」
「行く理由がありません」
「理由はある。私はお前を気に入っている」
ナズグルは夢子を真っ直ぐに見詰めて、そう言った。
夢子は何かの冗談だと笑った。笑って誤魔化してしまおうと考えたのだ。
しかしナズグルはそれを許さなかった。
「冗談では無い。本当に気に入っている。だから、奴隷として連れて行くのでは無い」
一呼吸置いて、ナズグルは言葉を付け加えた。
「私の伴侶として迎え入れたいと考えている」
あまりに淡々とした言い方だったから、夢子はその言葉を理解するのに時間が掛った。
「それって……」
「愛しているのだと思う。幽鬼の私が言うのは可笑しいかもしれないが」
誰もが恐れる、恐怖の象徴のはずのナズグル。だが目の前の彼は……とても穏やかだった。
「本当に可笑しいわ」
そう言って、夢子はにっこりと微笑んだ。
とても優しくて、暖かい笑顔だとナズグルは思った。そしてとても愛しいとも思った。
ナズグルは夢子の身体をぎゅうっと抱きしめた。そして両手でしっかりと夢子の身体を持ち上げて、翼の生えた獣に乗せた。
自分も獣の背中に跨って、ナズグルは夢子の身体を後ろから抱え込むようにして手綱を握る。
新たに結ばれた夫婦を乗せた獣は、大きな翼をはためかせて、空高くへと飛び立った!
空の上で、二人は口づけをしたとかしないとか。
他のナズグル達も夢子を可愛がったとか。
御目様も不思議な組み合わせの新郎新婦のために結婚指輪を造ってあげたとか。
その結婚指輪は何の魔法も仕掛けも無い、純粋なお祝いの品だったとか。
様々な噂は人々の口を飛び交った。
だが、真実はモルドールに隠されたままである。
おわり
2014.8.13完結
彼……ナズグルには名前が無かった。正確には、名前など遥か昔に使わなくなって忘れてしまっていた。
かつて彼は偉大な人間の王だったが、今ではサウロンの僕でしかないのである。
「でも何だかんだで個性ってものが欲しいよなぁ……」
ナズグルはそう呟いて部屋でくつろいでいるもう一人のナズグルに視線を向けた。
もう一人のナズグルは、彼らナズグル達を束ねる首領だった。様々な呼び名がある彼だが、ここでは魔王としておく。
魔王は読んでいた本を顔の前に広げて、自分を見つめる陰鬱な部下の視線を遮った。
返事もせず無視を決め込む魔王に、ナズグルはもう一度大きくため息をついた。
忌々しい!私は読書をしているというのに!
魔王は少しだけ本を下げて、部下の様子を伺った。
部下のナズグルは、机に覆いかぶさるように背中を丸めて物思いに耽っていた。
その姿は普段の冷酷で恐ろしい印象とは打って変わって、何とも頼りなげに見えた。
「魔王様!」
何かを思い立ったのか、ナズグルは両手を机に付いて立ち上がり、大きな声で魔王を呼んだ。
魔王も名前を呼ばれてしまっては、無視を決め込む事は出来ない。
「何事だ」
そう問いかけると、ナズグルはすうっと大きく息を吸い込んだ。
「私は伴侶を持ちたいと考えています」
危うく、魔王は座っていた椅子からずり落ちるところだった。
「それは何故だ?誰か相手がいるのか?」
魔王がそう問うと、ナズグルは自分の指をそわそわと絡めたり動かしたりして、しどろもどろに返事をした。
魔王はナズグルと向き合う様に椅子に座りなおした。
「何故そう考えたのか、話したまえ」
魔王が強い口調でそう問うと、ナズグルはぽつりぽつりと理由を話し始めた……。
*
ナズグルは空を飛ぶのが好きだった。
サウロンが治める広大なモルドールの領地を空から見下ろすのは気分が良かった。
奴隷達が農作業に勤しむ姿や、オークの兵隊が列を組んできびきびと歩く姿。
サウロンに目通りすべく、長い旅を経てモルドールに訪れる異国の人間の姿。
時には、物陰でだらけたオークやら、よほど可笑しい事があったのかげらげらと大声で笑うオークの姿も見えた。
空の上から彼らを観察するのは、とても面白かった。
そんな領地の偵察や警備とは名ばかりの、”空の散歩”をナズグルが楽しんでいたところ、珍しい光景が彼の目に飛び込んできた。
人間の娘が、たった一人で水浴びをしていたのだ。
このモルドールの土地で、たった一人で……しかも若い娘が出歩くなんて!
これはいけない!と、ナズグルは手綱を操って、翼の生えた恐ろしい獣を地面に着地させた。
人間の娘は、空から降りて来たナズグルの姿を見て、小さく悲鳴を上げた。
そして素早く地面に畳んでいた簡素な麻織りの衣装を引っ掴んで、その場から逃げだした。
「待て!」
ナズグルはそう叫んで、娘を追いかけた。
背の高いナズグルの足に適う訳が無く、直ぐに娘はナズグルに捕らえられた。
娘は恐ろしさで泣き出すし、ナズグルも目のやり場に困って、羽織っていた黒いマントを娘の肩にかけてやると掴んでいた腕を離した。
「まずは、服を着なさい」
娘はこくりと頷いて、ナズグルから距離を取ってマントの下で服を身に付けた。
そしてナズグルの元に戻ってきて、かけてもらった黒いマントを汚さないように気を付けながらそっと差し出した。
マントを受け取ったナズグルは再びそれを羽織り、しげしげと娘を観察した。
茶色の髪と目。まだ年若いのだろう、肌はきめ細かくて柔らかそうだった。顔立ちも悪くない。
背はあまり高くないが、これから伸びる可能性は十分にあった。
娘の身分はすぐに予想が着いた。何故なら娘が着ている衣装は、モルドールの奴隷達が身につけるごく標準的なものだったからである。
「寒くはないか」はじめに話しかけたのはナズグルだった。「その、髪が濡れたままだから」
娘は恥ずかしそうにして、濡れて乱れた髪を手で撫でつけた。
「平気です。放っておけば、じきに乾きます」
「そうか」
そう言ったものの、やはりナズグルは娘の髪が気になっていた。
ぽたぽたと髪の毛の先から滴る水が、日に焼けた麻織りの衣装に染みを作った。
ナズグルは羽織りなおしたマントを再び娘の肩にかけてやった。
ナズグルの黒いマントには油が塗ってあって水を弾いた。
「しばらく、それを羽織っていなさい」
娘は頷いてマントの襟を合わせて風が入ってこないようにした。
ナズグルの身体に合わせて仕立てられたマントだったから、娘の身体をすっかり覆い隠しても十分余るくらいに大きかった。
「ありがとう」
そう言って、娘は微笑んだ。
ナズグルが誰かに微笑みを向けられるのは、もう何百年も、何千年も昔以来だった……。
*
ナズグルと娘は、膝くらいの高さの岩を椅子代わりにして座った。
ナズグルは娘に名前を尋ねた。
娘は、自分の名前は夢子といって、モルドールの農地で働いていると話した。
「貴方の名前も教えて欲しいわ。ナズグルって呼ばれているのは知ってるけど、それは名前じゃないもの」
そう言われたナズグルは、自分の名前を娘に教えようと考えたが、上手く話せそうにないと思ってやめた。
彼はナズグルでしかなかった。指輪に魅入られ、幽鬼となった九人のうちの一人でしかなかった。
「私の名前なんて、知らなくていい事だよ」
ナズグルはそう答えたから、夢子も名前を尋ねるのをやめた。
「それじゃあ、ナズグルさん。貴方は私に用があったの?」
「用はなかったよ。ただ、何となく気になったから……」ナズグルは少しだけ言い難そうにして、言葉を続けた。「だって、君は一人で水浴びをしてただろう?」
そうナズグルが言うと、夢子は照れたように笑った。
「誰も居なかったから……でも、まさか空から覗かれるとは考えてなかったわ」
「何故、水浴びを?」
「単なる好奇心。今は農地を休ませているから抜け出す暇もあるのよ」
「大した奴隷だ」
そう言ってナズグルは笑った。
そんなナズグルに夢子は一瞬驚いたものの、自分のほうも楽しくなって笑い返した。
「でもそろそろ戻らなきゃ。日暮れ前に終業の点呼があるの」
夢子は座っていた岩から立ち上がって、借りていたマントをナズグルに返した。
「送って行こうか?」
ナズグルはそう尋ねたが、夢子は首を左右に振った。
「歩いて行くわ。どうもありがとう」
夢子はナズグルに手を振って、小走りで自分の家へと戻って行った。
ナズグルは、しばらくその場に残り、夢子との不思議な交流の余韻に浸っていた。
夢子との出会いは、ナズグルにとって忘れられないものとなった。
ふとした時に夢子と交わした言葉や、彼女の笑顔や笑い声を思い出した。
そんな日々を過ごす内にナズグルは、自分の中に夢子という存在が大きくなっていくのを感じた。
……ナズグルは、ナズグルでしか無かったけれど。
そんな自分でも、夢子が傍に居て自分に目を向けてくれれば、本当の自分が理解できるように思った。
ナズグルが夢子に抱く思いは、かつてサウロンから賜った魔法の指輪に向ける執着のようなものでは無かった。
もっと純粋で、心の奥底から湧きあがるような……。
思い出せないけれど、それは……人間で言うところの愛や慈しみという思いだったのかもしれない。
ナズグルはそんな自分の思いを、不安に感じていた。
だからこそ、自分達を束ねるナズグルの首領……魔王に相談したのだ。
*
ナズグルの話を聞き終えた魔王は、ふーっと長くため息をついた。
「それで、お前はその娘を傍に置きたいと考えているのか」
「ええ。傍に置くと言うよりは、傍に居て欲しいと言うほうが正しいのですが……」
随分、女々しい奴だと魔王は思った。目の前の部下は仮にもナズグルの一人である。それが、今ではただの恋する幽鬼だ!
魔王は目まいがするように感じて、手で目のあたりを押さえた。
「奴隷の一人くらい、お前の力でどうにでも出来るのではないかな?」
「ええ。その辺のオークにでも命じれば、ここミナス・モルグルまで直ちに呼ぶことが出来るでしょう」
しかし、そうしたくは無いのだろう。ナズグルは言葉を切って俯いた。
ナズグルの煮え切らない態度に、魔王は腹立たしくなってきた。
「ならば、お前が直接赴いて、娘を連れて来ればよい」
魔王がそう言うと、ナズグルは大きく頷いた。
ナズグルは魔王がそう言うのを待っていたのだった。
「そうします!」
踏ん切りがついたナズグルは、上司にお辞儀をすると足早に部屋から出て行った。
魔王は再び長くため息をついた。
御目様には黙っていよう。身内の事だ。知らせないほうが良い。
魔王は本を閉じて、部下のナズグルや夢子という娘の事に思いを馳せた。
自分にも伴侶がいたような気がする。魔王はそう思った。
けれど、もう遠い昔の事だったので、はっきりとした事は何も思い出せなかった。
*
「私と一緒に来て欲しい」
翼のある恐ろしい獣に跨り、颯爽と現れたナズグルは、夢子にそう言った。
逃げ出したり家の中に隠れたりする奴隷仲間達を目で追いつつ、逃げ遅れた夢子は戸惑いながらも返事をした。
「どこへ行くのですか?」
「ミナス・モルグル。我らナズグルの住処へ」
「行く理由がありません」
「理由はある。私はお前を気に入っている」
ナズグルは夢子を真っ直ぐに見詰めて、そう言った。
夢子は何かの冗談だと笑った。笑って誤魔化してしまおうと考えたのだ。
しかしナズグルはそれを許さなかった。
「冗談では無い。本当に気に入っている。だから、奴隷として連れて行くのでは無い」
一呼吸置いて、ナズグルは言葉を付け加えた。
「私の伴侶として迎え入れたいと考えている」
あまりに淡々とした言い方だったから、夢子はその言葉を理解するのに時間が掛った。
「それって……」
「愛しているのだと思う。幽鬼の私が言うのは可笑しいかもしれないが」
誰もが恐れる、恐怖の象徴のはずのナズグル。だが目の前の彼は……とても穏やかだった。
「本当に可笑しいわ」
そう言って、夢子はにっこりと微笑んだ。
とても優しくて、暖かい笑顔だとナズグルは思った。そしてとても愛しいとも思った。
ナズグルは夢子の身体をぎゅうっと抱きしめた。そして両手でしっかりと夢子の身体を持ち上げて、翼の生えた獣に乗せた。
自分も獣の背中に跨って、ナズグルは夢子の身体を後ろから抱え込むようにして手綱を握る。
新たに結ばれた夫婦を乗せた獣は、大きな翼をはためかせて、空高くへと飛び立った!
空の上で、二人は口づけをしたとかしないとか。
他のナズグル達も夢子を可愛がったとか。
御目様も不思議な組み合わせの新郎新婦のために結婚指輪を造ってあげたとか。
その結婚指輪は何の魔法も仕掛けも無い、純粋なお祝いの品だったとか。
様々な噂は人々の口を飛び交った。
だが、真実はモルドールに隠されたままである。
おわり
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