忠誠
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セオデン王は、この度、新しく侍医を雇う事に決めた。
セオデン王の側近グリマが言うには……その人は放浪の医者として各地の病める人々を治療し、その医学の知識は豊富で、とても評判が良い……との事だった。
しかしローハン人の中にはそうした評判を耳にした者はいなかったし、グリマの言葉を信用する者もほとんどいなかったから、夢子がエドラスの黄金館を初めて訪れたときには、疑惑の眼差しが一斉に向けられた。
突き刺さるような視線に顔色一つ変えず、夢子はセオデンの前に跪いた。
セオデンはまだ年若い医者を見下ろした。
儀礼的な挨拶を経て、セオデン王の侍医として正式に雇われた夢子は、顔を上げて新しい主人に視線を合わせた。
削り取られたかのような鋭い眼差しは、セオデン王に対する忠誠など一つも感じられない。
それもそのはず。夢子の主人はモルドールの支配者であり、偉大なる御目と呼ばれるかの冥王だけなのだから。
夢子はモルドールで生まれ育った。
彼の母親はモルドールの奴隷で、父親はいなかった。
物覚えが付くころに母親と離されて間者としての教育を施された。
肌も髪も明るい色のため、ローハン人の血が流れているらしい。美しい見た目を持つこの間者をサウロンは重宝した。
どこかの王宮や貴族たちの中に紛れ込んでも目立たないためである。
*
エルフや人間の間にも様々な噂が飛び交い、きな臭い話もそこかしこで耳にするようになった。
サウロン率いるモルドールの軍勢は確実に力を取り戻しつつあり、集められた兵士たちは戦いに備えて厳しい訓練を続けていた。
自由の民であるエルフや人間たちも防衛のために準備を進め、灰色の魔法使いガンダルフは各地に警戒を促した。
全ては一つの指輪の在り処が暴かれた事にある。
長い間手がかりさえ掴めなかった一つの指輪が、再び姿を現したのだ。
ゴラムから”シャイア” ”バギンズ”という手がかりを得たサウロンは、すぐにナズグルを動かすことに決めた。
ナズグルはすぐにそれらを見つけ捕えるだろう。
モルドールでは迫る開戦に向けて様々な情報が集められていた。
白の魔法使いサルマンは堕落し、今ではサウロンに従っていた。
サルマンは多くの知識と情報をモルドールに献上した。
だがサウロンはサルマンを完全には信用しなかった。
遠く離れたオルサンクの塔の全てにサウロンの目は届かない。
サウロンは用心深くサルマンを見張り続けた。そして忠誠の影で慎重に進められている『計画』に感づき始めていた。
夢子はローハンの情勢を探る間者としての役目と、サルマンの配下であるグリマを監視する役目も担っていた。
グリマも夢子がモルドールから遣わされた役目を知ってはいたが、表立っては敵意を向けなかった。
表面上は互いの利益と立場のために協力し合わねばならないのである。
セオデン王に下された診断は、心労による精神の消耗だった。
夢子は、セオデン王がこれ以上余計な心労を抱えないように、暖かい部屋で過ごすことが一番良い治療だと話した。
その診断には、セオドレドもエオメルも納得してはいないようだった。
しかし彼らは医者ではない。異を唱えるのは懸命ではなく、渋々、その診断と治療法を受け入れたのだった。
彼らは常に夢子に対して疑いの眼差しを向けた。
何時まで経っても、彼らの夢子に対する評価は”蛇の舌が差し向けた得体のしれない医者”のままだった。
しかし彼らが夢子を見張り続ける事は難しかった。
セオドレドもエオメルも、黄金館を出て国境の警備や防衛へと行かねばならないのである。
彼らが留守の間は、エオウィンが王家の姫としてセオデン王の世話をした。
そのため必然的に夢子とエオウィンが顔を合わせたり言葉を交わす機会は多くなった。
エオウィンが見る限りでは、夢子は、セオデン王の治療はともかくとして、怪我人や病人に適切に治療を施していた。
夢子はローハンのものではない治療を行ったが、患者の回復具合を見ると、彼の用いる医学知識はローハンのものよりも発達したものだと考えられる。
夢子は医者として患者やその家族からとても信頼されていた。
セオデン王も文句を言わず夢子の言うとおりになって治療を受けていた。
彼の仕事に不審な点は無く、それどころかとても手厚く……手厚すぎるほどに、セオデン王を治療しているようにも見えた。
だが夢子が来てからというもの、セオデン王はより年老いたようにも見えた。
王の背中は曲がり、白い顎鬚は膝に付くほどに伸びていた。
以前の若々しい姿はどこかに消え失せ、顔の皺は数え切れないほどに増えていた。
見た目と共に、精神までも老いてしまったようで、セオデン王は周囲からの忠告や助言を鬱陶しがるようになっていた。
何代にもわたって王家に使える忠臣の言葉や、息子セオドレドの言葉でさえ、ほとんど耳を貸さなくなっていた。
そんなセオデン王が唯一まともに耳を貸すのはグリマの言葉だけだった。
グリマが話すのは、どれもが親切な忠言や労わりの言葉だった。
グリマは常に耳障りの良い言葉を選び、セオデン王の気苦労を和らげた。
それでもグリマの心は別のところにあった。セオデン王の傍に控えながら、彼の目は美しい姫君を追っていたのだ。
ねっとりと絡みつくような視線は、獲物を捕えようと張り巡らせた蜘蛛の糸のように、エオウィンを絡め取ろうとした。
それでもエオウィンは、常に気高くいて、取り入るようなグリマの言葉を撥ねつけた。
そんな生活を続けているうちに、エオウィンは、夢子に対する評価を変えつつあった。
夢子は、従兄や兄が言うような”得体の知れない医者”では無く、物静かだけど、仕事は手早く的確にこなす本物の医者なのだと。
何故なら彼は、エオウィンに対してグリマのような視線を向けなかったし、王家の姫君に対する敬意を持って接していた。
それどころかグリマに対してさえ、一定の距離を持って接していたのだ。
彼がグリマに投げかける言葉は冷ややかで、軽蔑の色を含んでいた。
*
エオメルは妹に挨拶をしようと、広間へと向かった。
軍団長である彼は、報告のため黄金館に戻っても、息つく暇もなく、また直ぐに領地の警備へと行かねばならないのだ。
広間には窓辺に長椅子が置かれていて、その長椅子に、裁縫道具が入った美しい箱を傍らに置いてエオウィンは腰かけていた。
エオウィンは器用に指を動かして、一つ一つ、針を通して刺繍を続けていた。
窓辺から差し込む陽の光が、白い肌と金色の髪を照らしていた。
その姿は一枚の絵画のように美しいものだったので、エオメルはしばらくの間、妹の姿を眺めていた。
兄の姿に気付いたエオウィンが顔を上げた。
エオウィンの表情はどこか影があった。
妹の様子を気にかけながら、エオメルは窓辺に寄って外を眺めた。
「エオウィン、お前は伯父上の様子をどう思う?」
そう問われたが、エオウィンは無言だった。
心労によるものなのか、近頃のセオデン王は見る見るうちに年老いて、かつての若々しく雄々しい姿はどこにもなかった。
「グリマが紹介した医者など信用できない」
エオメルは強い口調でそう言った。エオウィンは刺繍の手を止めて兄を見上げた。
「勿論です。わたくしとて彼を信用してはいません。ですが、わたくしの見る限り、彼はグリマとは親しくなどいないのです。それどころか敵対しているようにも見えます」
エオメルは窓辺から視線を外し、エオウィンを見つめた。
「しかしそれは何故だ?奴はグリマが紹介した医者であり、今もこのローハンに仕えている」
「彼の普段の行動に怪しいところは御座いません」
エオウィンは、はっきりとそう断言したので、エオメルも反論しなかった。
「夢子はグリマと通じ合ってはいないのだろうか……だとすると、彼の忠誠はどこか別の場所にあるのかもしれない」
エオウィンは表情を強張らせた。エオメルの推理が当たっているように感じたからだ。
エオウィンは目を伏せた。そして頬を白くして、手元に置いた途中までの刺繍をじっと見つめた。
柔らかく上質な布の上で、金糸で縁取った白い馬が緑地を駆けている。それはローハンの紋章だった。
刺繍されているのがローハンの紋章だと気付いたエオメルは、妹に優しく微笑みかけた。
「私は直ぐにまた行かねばならない。私の幸運と健康を祈っておいてくれよ」
「勿論です。兄上がお健やかに居られますように、そして無事にお戻りになられますように!毎日この城から祈りましょう」
エオメルはエオウィンの横に腰掛けて、彼女の膝の上に乗っている、途中までの刺繍に視線を移した。
「その刺繍は……間に合わないかな?」
エオメルがそう尋ねて、ようやくエオウィンは笑顔を見せた。
「間に合いそうにありません。ですから、今度兄上が戻られましたら、その時に差し上げます」
「楽しみにしているよ」
エオメルはエオウィンの頭を軽く撫でて、部屋を後にした。
*
エオメルとセオドレドが不在の間、グリマは気を大きくして随分と大胆な行動を取ることがあった。
政治に口を出したり、王の代わりだと言って、国の運営を取り仕切る事もあった。
エオウィンは怒ったが、セオデンは文句を言わず、夢子はただ冷やかな視線を向けるだけだった。
世界は大きく変化しつつあり、ローハンにもその影響が及び始めていた。
国境付近で諍いが起こったり、ローハン人ではない見知らぬ人々が度々目撃され、ローハンの民は不安に身を震わせていた。
ある日、エオウィンは王の膝に身を投げ出して懇願した。
「王よ、伯父上よ。この国にはグリマの他にも大勢の臣下が王にお仕えしているのです。わたくしもその一人なのです。どうかグリマ以外の言葉にも耳をお貸しくださいませ」
セオデン王は眉間に深く刻まれた皺をより深くして、白っぽく濁った目でエオウィンを見下ろした。
「聞いているぞ。エオウィン。皆が私に向かって様々な言葉を投げかける。お前は彼らの顔を見たことがあるか?私は王位を継いでから、この玉座に座って毎日のように見てきたぞ。しかし何故、誰も私の事を見ていないのだろうか?皆が見ているのは、私ではなく、私の国なのだ」
「グリマは王を見ているのではありません。グリマが見ているのは、王ではなくセオデンという一人の人物なのです。国をお守りする事は王をお守りする事と同じなのです。どうか王家の繁栄と誉れを思い出してくださいませ」
エオウィンの言葉に、セオデン王は詰まらなさそうに口を真直ぐに結んだ。
王の膝に身を投げ出したエオウィンと、彼女を見下ろすセオデン王の固い表情。
暖炉には絶えず火が燃え部屋の中は熱せられているのに、王と姫の心は互いに通じ合わず、そのどちらも冷たく閉ざされていた。
二人の様子に居た堪れなくなった夢子は、さっと顔を反らして自分の部屋へと引き下がった。……グリマのほうは、遠慮なくじろじろと眺めていたが。
グリマは王の膝からエオウィンの体を起こすようにと、彼女の白い手をとった。
エオウィンは今にも泣きだしそうな顔をして、グリマをじっと見つめた。
グリマの顔はいつも通り青白かったが、その目はぎらぎらとしていて、エオウィンの白い肌や赤い唇の動きをじっと見ているのだった。
エオウィンはグリマの手を振り払って、自分の力でさっと体を起こして立ちあがった。
そしてセオデン王に一礼をして、広間から足早に立ち去った。
エオウィンの足は自然とある部屋を目指していた。
エオメルもセオドレドも留守にしていた。現在、黄金館に頼れる人物は居なかった。自分の力だけが頼りだった。
エオウィンは白い手を固く握り、息を大きく吸った。
恐れと不安で胸の奥はざわついた。
気をつけなければ全身が震えて、立っていることさえ儘ならないだろう。
それでもエオウィンは、セオデン王とエオル王家を守るために、勇気を振り絞って、廊下を歩いていた。
着いた先は、夢子の私室だった。
*
エオウィンが自分の私室に直接訪ねて来た事に驚きながらも、夢子は紳士的な態度でエオウィンを部屋の中に迎え入れた。
エオウィンは勧められた椅子には座らず、立ったままで夢子と向き合った。
「貴方は、何処でグリマと知り合ったのですか?グリマは他所の国の医者の評判に詳しいようですが、わたくしは貴方の事を存じません」
夢子はエオウィンをじっと見つめた。エオウィンの声には棘があった。
「私がグリマと通じ合っていると仰るのですか?私は蛇の舌の同胞なのだと?」
夢子は唇の端を上げて静かに笑った。だがその目はとても冷たい。「グリマはセオデン王の忠実なるしもべですよ。貴女もご存じのはずです」
夢子の落ち着き払った態度を前に、エオウィンは自分が酷く馬鹿げた事を訪ねてしまったように思った。
だがエオウィンの心には未だ疑いが渦巻いていた。
「セオデン王に忠誠を誓う者は、誰一人としてそのようには仰らないでしょう」
夢子はエオウィンの瞳を見つめた。彼女の瞳はとても真直ぐで、正義の光に輝いていた。
引き下がろうとしないエオウィンの様子から、夢子は、彼女が自分に対して抱く”疑い”をこのまま放っておくのは良くないと考えた。
夢子はエオウィンから目を逸らさずに、慎重に返事をした。
「グリマの事をあなた方がどのように噂しているのか、この城で生活して気付かぬ者はいないでしょう……勿論、私がなんと言われているのかも存じております」
エオウィンの鋭い視線は夢子を捉えたままだ。
「噂は真実なのですか?」
「どの噂かは分かりませんが、貴女がお考えの噂に関しては『いいえ』と答えましょう。そしてこの話はこれで終わりにしたい。貴女は姫君らしくない。王族としての礼儀を弁えるべきです」
夢子の言葉に、エオウィンは顔を顰めた。辱められた気分になったのだ。
「わたくしは王に忠誠を誓っているのです」
「それなら、尚更礼儀を弁えるべきです。現在、私はセオデン王に雇われているのですから」
握った手や細い肩を小さく震わせて、エオウィンは唇を噛みしめた。
それでもこのまま引き下がるのは負けのような気がして、気丈にもエオウィンは顔を上げた。
その瞬間エオウィンは驚いた。
そしてエオウィンは、思わず自分の頬がかっと赤くなってしまった事に気が付いて慌てて顔を伏せた。
夢子の目にはエオウィンに対する好意がはっきりと示されていた!
夢子は二十歳を越えたばかりの年若い姫君の気高さに驚いていた。
そして己の正義に従って、自分に立ち向かってくる美しいエオウィンの事を好ましく感じたのだった。
エオウィンの忠誠は本物だった。
そして彼女の血筋からなる気高さも本物だった。
エオウィンは自分の心臓が音を立てているのに気付いて戸惑った。
その戸惑いを悟られないように、エオウィンは逃げるように部屋から立ち去った。
*
私室でのやり取りの後、夢子はエオウィンに好意を向けるようになった。
微笑みや優しい表情を見せ、エオウィンもそれに応えた。
二人の男女の間に、新しい感情が芽生えつつあった。
エオウィンは年頃の乙女らしい温かな微笑みを見せるようになったし、夢子も高貴な乙女に誠実に仕えた。
自然の流れに身を任せれば、二人の男女が恋に落ちるのは明白だった。
そして、身分の差はあれど、エオウィンの笑顔を取り戻した夢子の事を悪く言う者はほとんどいなくなった。
*
ある日、黄金館の広間を通りかかったエオウィンは、興味深い光景を見かけた。
医者である夢子が、剣を握っているのだった。確かめるように何度か剣の柄を握りなおし、姿勢を正して剣を構えたりしていた。
そんな夢子の姿は、到底医者には見えなかった。
「貴方にも剣の心得が?」
エオウィンは夢子に声を掛けた。
夢子は台座に剣を置いて、自分の傍に歩いてくるエオウィンの問いかけに、首を横に振って答えた。
「いいえ。私は剣は扱えません。私には小さな小刀の心得しかないのです」
夢子は何時も持ち歩いている、ベルトに下げた手術用の小刀に触れた。
「わたくし、貴方には剣の才能があるように思いましてよ。手足は長いし、背中は真っ直ぐで姿勢も美しいのですから」
エオウィンも広間の台座に置かれた訓練用の剣を手に取った。エオウィンの白い腕はしなやかで、優雅に動いた。それは正しく騎馬の国の姫君の身のこなしだった。その美しさに、夢子は思わず目を奪われた。
エオウィンは剣先を揺らし夢子ての首を狙うしぐさをした。
剣を向けられた夢子は両手を上げて微笑んだ。
「貴女には敵いませんね」
夢子も再び剣を手に取って、エオウィンと向かい合った。
黄金館に来てからというもの、夢子が剣を握る機会はほとんど無くなっていた。
夢子は剣の柄の感触を確かめるように握り、構えた。
それは訓練用として造られた何の装飾もない簡素な剣だが、ローハンの姫君であるエオウィンが扱うには随分と物騒な代物だった。
夢子はあらゆる武器の扱い方を知っていた。幼い頃から訓練を受けていたからである。
随分と大切に育てられた間者だと揶揄された事もあった。だがそれは夢子の腕が立つ証拠でもあるのだ。
夢子は剣を構えてエオウィンと向かい合った。
真正面に立つエオウィンの瞳は光を携えているかのようにきらきらと輝いていた。
先に攻撃を仕掛けたのは、エオウィンだった。
身体全体を使ってしなる様に振るわれた剣の重い一撃を夢子は受け止めた。
黄金館の暗闇の中に隠された、白い肌の姫君の姿しか知らなかった夢子は、エオウィンの力強さを剣の衝撃と共に受け止めた。
剣と剣がぶつかり合い、重い音が部屋の中に響く。
真剣ではないがしっかりとした造りの剣は重く頑丈だった。叩きつけられれば、エオウィンの細い腕など簡単に折ってしまうだろう。
夢子は慎重に剣を受け止めながら、エオウィンの隙を窺った。
普段は優雅な微笑みを浮かべるエオウィンの赤い唇は、緊張と期待とで引き締まっていて、頬は赤く上気し、乱れた金色の髪は汗で濡れていた。
エオウィンが真っ直ぐに振り下ろしたのを見た夢子は、剣の柄と刃を両手で握って受け止め、そのまま押し返した。
その衝撃でエオウィンの身体はぐらりと揺らいで後ろに倒れこんだ。ここで一歩踏み込んでしまえば彼女は簡単に剣の餌食となってしまうだろう。
夢子はエオウィンを床の上から起こそうと手を差し出した。
エオウィンはその手をじっと見つめた。
エオウィンは迷っていた。差し出された手を取るべきか、取らざるべきかを。
何故ならエオウィンは、ここで夢子の手を取ってしまえば、二人の運命が大きく変わる事を悟っていたのである。
エオウィンは緩々と手を伸ばして夢子を見つめた。
夢子は小さく頷いて、自分のほうからエオウィンの手を取って、力強く床から引き上げた。
エオウィンは乱れた髪を撫でつけた。
白い額には汗が滲み、荒い呼吸を繰り返しては息を整えた。
「完敗しました。夢子よ、貴方は医者にしては、随分と腕が立つようですね」
「旅の医者ですから、道中、危険な目に合うことも御座いましてね」
夢子は楽しげに目を細めて、エオウィンに微笑みかけた。「貴女こそ、姫君にしては腕が立ちすぎる」
エオウィンは声をあげて笑った。とても明るくて晴れやかな笑い声だった。
「姫よ、貴女がそのように楽しげに笑い声を上げる姿を見るのは初めてです」
夢子がそう言うと、エオウィンは口元を隠すように手を添えた。
「貴方の仰る通り、近頃は笑う事を忘れていました。こんなに楽しい気分になったのは、もう何時の事だったのでしょうか」
エオウィンは剣を台座の上に乗せて、柄に刻まれた模様を指先で辿った。
よく手入れされてはいるが、使い込まれた剣の柄は濃い色に変化していた。
夢子も手を伸ばして、エオウィンの手の上から剣の柄に触れた。
大きな掌はエオウィンの細い指を覆い隠した。
驚きでエオウィンの肩が跳ねた。
夢子はとても優しい目をして、エオウィンを見つめていた。そしてそのままエオウィンの手を優しく握った。
エオウィンは頬を赤くして、夢子の行動に抵抗せず、身を任せた。
夢子の指は骨ばっていて、手の皮は厚く固かった。
エオウィンははっとして、夢子の顔を見上げた。
彼の手は、間違いなく剣を握る者の手だった。エオウィンがよく知る、戦闘の訓練を受けた者の手だった!
夢子は何も話そうとはしなかった。ただ、その目はとても悲しげだった。
*
閉ざされた扉を開いたのは、老人の姿の魔法使いだった。
老人は灰色の衣を脱いだ。その下に隠されていた白い衣が、セオデン王の目の前に晒された。
白の魔法使いによって、ついに閉ざされた扉が開かれたのである。
グリマの悪事が暴かれ、夢子にも嫌疑がかけられた。
夢子は、何も言わずにただセオデン王の足元に跪いた。
「王よ、私は今一度忠誠を誓いましょう。これは真実の忠誠です。私は降りかかる脅威を恐れません。どうか戦場までお連れください」
「私は知っている。お前が真実に忠誠を誓うべき者は、私ではない事を……」
そう言って、セオデン王は部屋の隅に視線を向けた。
そこには、セオデン王と夢子のやり取りを見守るエオウィンの姿があった。
「私ではなく、我が王家に。そして我が王家の姫君がお前の忠誠を受け入れると言うならば、私はお前を戦場へ連れて行こう」
夢子とエオウィンは見つめあった。
不安そうなエオウィンを力づけるように、夢子は微笑んでみせた。
エオウィンは胸の前で手をぎゅっと握り、セオデン王に頷いて合図をした。
セオデン王は視線を夢子に戻した。
「私はお前を連れて行く。我が王家と姫君のために。私に使え、よく働くように」
こうしてモルドールの裏切り者に、運命の判決が下された。
*
出立の前に、エオウィンは夢子を呼びとめた。
「貴方に贈り物があります」
そう言ってエオウィンが差し出したのは、美しい刺繍が施された手巾だった。
金糸で縁取られた白い馬が、緑地を駆けている。手巾から飛び出して、本当に駆けだしてしまいそうなくらいに見事な刺繍だった。
「貴方の幸運と無事を願っています」
エオウィンは手巾にキスをして、夢子に手渡した。
夢子も手巾にキスを返し、胸元にしまった。
「私にとっては、他のどんな物にも勝る贈り物です」
夢子はエオウィンの手を取って、じっとエオウィンの顔を見つめた。
白い指先は柔らかく滑らかで、よく手入れされた爪先は丸かった。
「姫よ、お許しください」
夢子は一言断ってから、エオウィンの指先に小さくキスをして、その手を頬に寄せて目を閉じた。
エオウィンの指先は微かに震えていた。エオウィンは夢子の顔を見下ろして、そのままにさせた。
夢子は名残惜しそうにエオウィンの手を離して、再び美しい姫君の姿を見つめた。
夢子の目は熱っぽく輝いているのに、表情は暗く、顔色は真っ青だった。
エオウィンは夢子の愛の言葉を待っていた。夢子もそれを承知していた。
だが夢子はエオウィンに答えなかった。答えられなかったのだ。
夢子の主人はただ一人。
”燃える目”からは逃れられない。
自分の傍から離れ、死地へと向かうモルドールの裏切り者の後ろ姿を、エオウィンはただ静かに見送った。
甲冑の下の夢子の胸には、金色に縁取られた白い馬が生き生きと緑地を駆けていた。力強く、そして自由に。
おわり
2015.9.5
セオデン王の側近グリマが言うには……その人は放浪の医者として各地の病める人々を治療し、その医学の知識は豊富で、とても評判が良い……との事だった。
しかしローハン人の中にはそうした評判を耳にした者はいなかったし、グリマの言葉を信用する者もほとんどいなかったから、夢子がエドラスの黄金館を初めて訪れたときには、疑惑の眼差しが一斉に向けられた。
突き刺さるような視線に顔色一つ変えず、夢子はセオデンの前に跪いた。
セオデンはまだ年若い医者を見下ろした。
儀礼的な挨拶を経て、セオデン王の侍医として正式に雇われた夢子は、顔を上げて新しい主人に視線を合わせた。
削り取られたかのような鋭い眼差しは、セオデン王に対する忠誠など一つも感じられない。
それもそのはず。夢子の主人はモルドールの支配者であり、偉大なる御目と呼ばれるかの冥王だけなのだから。
夢子はモルドールで生まれ育った。
彼の母親はモルドールの奴隷で、父親はいなかった。
物覚えが付くころに母親と離されて間者としての教育を施された。
肌も髪も明るい色のため、ローハン人の血が流れているらしい。美しい見た目を持つこの間者をサウロンは重宝した。
どこかの王宮や貴族たちの中に紛れ込んでも目立たないためである。
*
エルフや人間の間にも様々な噂が飛び交い、きな臭い話もそこかしこで耳にするようになった。
サウロン率いるモルドールの軍勢は確実に力を取り戻しつつあり、集められた兵士たちは戦いに備えて厳しい訓練を続けていた。
自由の民であるエルフや人間たちも防衛のために準備を進め、灰色の魔法使いガンダルフは各地に警戒を促した。
全ては一つの指輪の在り処が暴かれた事にある。
長い間手がかりさえ掴めなかった一つの指輪が、再び姿を現したのだ。
ゴラムから”シャイア” ”バギンズ”という手がかりを得たサウロンは、すぐにナズグルを動かすことに決めた。
ナズグルはすぐにそれらを見つけ捕えるだろう。
モルドールでは迫る開戦に向けて様々な情報が集められていた。
白の魔法使いサルマンは堕落し、今ではサウロンに従っていた。
サルマンは多くの知識と情報をモルドールに献上した。
だがサウロンはサルマンを完全には信用しなかった。
遠く離れたオルサンクの塔の全てにサウロンの目は届かない。
サウロンは用心深くサルマンを見張り続けた。そして忠誠の影で慎重に進められている『計画』に感づき始めていた。
夢子はローハンの情勢を探る間者としての役目と、サルマンの配下であるグリマを監視する役目も担っていた。
グリマも夢子がモルドールから遣わされた役目を知ってはいたが、表立っては敵意を向けなかった。
表面上は互いの利益と立場のために協力し合わねばならないのである。
セオデン王に下された診断は、心労による精神の消耗だった。
夢子は、セオデン王がこれ以上余計な心労を抱えないように、暖かい部屋で過ごすことが一番良い治療だと話した。
その診断には、セオドレドもエオメルも納得してはいないようだった。
しかし彼らは医者ではない。異を唱えるのは懸命ではなく、渋々、その診断と治療法を受け入れたのだった。
彼らは常に夢子に対して疑いの眼差しを向けた。
何時まで経っても、彼らの夢子に対する評価は”蛇の舌が差し向けた得体のしれない医者”のままだった。
しかし彼らが夢子を見張り続ける事は難しかった。
セオドレドもエオメルも、黄金館を出て国境の警備や防衛へと行かねばならないのである。
彼らが留守の間は、エオウィンが王家の姫としてセオデン王の世話をした。
そのため必然的に夢子とエオウィンが顔を合わせたり言葉を交わす機会は多くなった。
エオウィンが見る限りでは、夢子は、セオデン王の治療はともかくとして、怪我人や病人に適切に治療を施していた。
夢子はローハンのものではない治療を行ったが、患者の回復具合を見ると、彼の用いる医学知識はローハンのものよりも発達したものだと考えられる。
夢子は医者として患者やその家族からとても信頼されていた。
セオデン王も文句を言わず夢子の言うとおりになって治療を受けていた。
彼の仕事に不審な点は無く、それどころかとても手厚く……手厚すぎるほどに、セオデン王を治療しているようにも見えた。
だが夢子が来てからというもの、セオデン王はより年老いたようにも見えた。
王の背中は曲がり、白い顎鬚は膝に付くほどに伸びていた。
以前の若々しい姿はどこかに消え失せ、顔の皺は数え切れないほどに増えていた。
見た目と共に、精神までも老いてしまったようで、セオデン王は周囲からの忠告や助言を鬱陶しがるようになっていた。
何代にもわたって王家に使える忠臣の言葉や、息子セオドレドの言葉でさえ、ほとんど耳を貸さなくなっていた。
そんなセオデン王が唯一まともに耳を貸すのはグリマの言葉だけだった。
グリマが話すのは、どれもが親切な忠言や労わりの言葉だった。
グリマは常に耳障りの良い言葉を選び、セオデン王の気苦労を和らげた。
それでもグリマの心は別のところにあった。セオデン王の傍に控えながら、彼の目は美しい姫君を追っていたのだ。
ねっとりと絡みつくような視線は、獲物を捕えようと張り巡らせた蜘蛛の糸のように、エオウィンを絡め取ろうとした。
それでもエオウィンは、常に気高くいて、取り入るようなグリマの言葉を撥ねつけた。
そんな生活を続けているうちに、エオウィンは、夢子に対する評価を変えつつあった。
夢子は、従兄や兄が言うような”得体の知れない医者”では無く、物静かだけど、仕事は手早く的確にこなす本物の医者なのだと。
何故なら彼は、エオウィンに対してグリマのような視線を向けなかったし、王家の姫君に対する敬意を持って接していた。
それどころかグリマに対してさえ、一定の距離を持って接していたのだ。
彼がグリマに投げかける言葉は冷ややかで、軽蔑の色を含んでいた。
*
エオメルは妹に挨拶をしようと、広間へと向かった。
軍団長である彼は、報告のため黄金館に戻っても、息つく暇もなく、また直ぐに領地の警備へと行かねばならないのだ。
広間には窓辺に長椅子が置かれていて、その長椅子に、裁縫道具が入った美しい箱を傍らに置いてエオウィンは腰かけていた。
エオウィンは器用に指を動かして、一つ一つ、針を通して刺繍を続けていた。
窓辺から差し込む陽の光が、白い肌と金色の髪を照らしていた。
その姿は一枚の絵画のように美しいものだったので、エオメルはしばらくの間、妹の姿を眺めていた。
兄の姿に気付いたエオウィンが顔を上げた。
エオウィンの表情はどこか影があった。
妹の様子を気にかけながら、エオメルは窓辺に寄って外を眺めた。
「エオウィン、お前は伯父上の様子をどう思う?」
そう問われたが、エオウィンは無言だった。
心労によるものなのか、近頃のセオデン王は見る見るうちに年老いて、かつての若々しく雄々しい姿はどこにもなかった。
「グリマが紹介した医者など信用できない」
エオメルは強い口調でそう言った。エオウィンは刺繍の手を止めて兄を見上げた。
「勿論です。わたくしとて彼を信用してはいません。ですが、わたくしの見る限り、彼はグリマとは親しくなどいないのです。それどころか敵対しているようにも見えます」
エオメルは窓辺から視線を外し、エオウィンを見つめた。
「しかしそれは何故だ?奴はグリマが紹介した医者であり、今もこのローハンに仕えている」
「彼の普段の行動に怪しいところは御座いません」
エオウィンは、はっきりとそう断言したので、エオメルも反論しなかった。
「夢子はグリマと通じ合ってはいないのだろうか……だとすると、彼の忠誠はどこか別の場所にあるのかもしれない」
エオウィンは表情を強張らせた。エオメルの推理が当たっているように感じたからだ。
エオウィンは目を伏せた。そして頬を白くして、手元に置いた途中までの刺繍をじっと見つめた。
柔らかく上質な布の上で、金糸で縁取った白い馬が緑地を駆けている。それはローハンの紋章だった。
刺繍されているのがローハンの紋章だと気付いたエオメルは、妹に優しく微笑みかけた。
「私は直ぐにまた行かねばならない。私の幸運と健康を祈っておいてくれよ」
「勿論です。兄上がお健やかに居られますように、そして無事にお戻りになられますように!毎日この城から祈りましょう」
エオメルはエオウィンの横に腰掛けて、彼女の膝の上に乗っている、途中までの刺繍に視線を移した。
「その刺繍は……間に合わないかな?」
エオメルがそう尋ねて、ようやくエオウィンは笑顔を見せた。
「間に合いそうにありません。ですから、今度兄上が戻られましたら、その時に差し上げます」
「楽しみにしているよ」
エオメルはエオウィンの頭を軽く撫でて、部屋を後にした。
*
エオメルとセオドレドが不在の間、グリマは気を大きくして随分と大胆な行動を取ることがあった。
政治に口を出したり、王の代わりだと言って、国の運営を取り仕切る事もあった。
エオウィンは怒ったが、セオデンは文句を言わず、夢子はただ冷やかな視線を向けるだけだった。
世界は大きく変化しつつあり、ローハンにもその影響が及び始めていた。
国境付近で諍いが起こったり、ローハン人ではない見知らぬ人々が度々目撃され、ローハンの民は不安に身を震わせていた。
ある日、エオウィンは王の膝に身を投げ出して懇願した。
「王よ、伯父上よ。この国にはグリマの他にも大勢の臣下が王にお仕えしているのです。わたくしもその一人なのです。どうかグリマ以外の言葉にも耳をお貸しくださいませ」
セオデン王は眉間に深く刻まれた皺をより深くして、白っぽく濁った目でエオウィンを見下ろした。
「聞いているぞ。エオウィン。皆が私に向かって様々な言葉を投げかける。お前は彼らの顔を見たことがあるか?私は王位を継いでから、この玉座に座って毎日のように見てきたぞ。しかし何故、誰も私の事を見ていないのだろうか?皆が見ているのは、私ではなく、私の国なのだ」
「グリマは王を見ているのではありません。グリマが見ているのは、王ではなくセオデンという一人の人物なのです。国をお守りする事は王をお守りする事と同じなのです。どうか王家の繁栄と誉れを思い出してくださいませ」
エオウィンの言葉に、セオデン王は詰まらなさそうに口を真直ぐに結んだ。
王の膝に身を投げ出したエオウィンと、彼女を見下ろすセオデン王の固い表情。
暖炉には絶えず火が燃え部屋の中は熱せられているのに、王と姫の心は互いに通じ合わず、そのどちらも冷たく閉ざされていた。
二人の様子に居た堪れなくなった夢子は、さっと顔を反らして自分の部屋へと引き下がった。……グリマのほうは、遠慮なくじろじろと眺めていたが。
グリマは王の膝からエオウィンの体を起こすようにと、彼女の白い手をとった。
エオウィンは今にも泣きだしそうな顔をして、グリマをじっと見つめた。
グリマの顔はいつも通り青白かったが、その目はぎらぎらとしていて、エオウィンの白い肌や赤い唇の動きをじっと見ているのだった。
エオウィンはグリマの手を振り払って、自分の力でさっと体を起こして立ちあがった。
そしてセオデン王に一礼をして、広間から足早に立ち去った。
エオウィンの足は自然とある部屋を目指していた。
エオメルもセオドレドも留守にしていた。現在、黄金館に頼れる人物は居なかった。自分の力だけが頼りだった。
エオウィンは白い手を固く握り、息を大きく吸った。
恐れと不安で胸の奥はざわついた。
気をつけなければ全身が震えて、立っていることさえ儘ならないだろう。
それでもエオウィンは、セオデン王とエオル王家を守るために、勇気を振り絞って、廊下を歩いていた。
着いた先は、夢子の私室だった。
*
エオウィンが自分の私室に直接訪ねて来た事に驚きながらも、夢子は紳士的な態度でエオウィンを部屋の中に迎え入れた。
エオウィンは勧められた椅子には座らず、立ったままで夢子と向き合った。
「貴方は、何処でグリマと知り合ったのですか?グリマは他所の国の医者の評判に詳しいようですが、わたくしは貴方の事を存じません」
夢子はエオウィンをじっと見つめた。エオウィンの声には棘があった。
「私がグリマと通じ合っていると仰るのですか?私は蛇の舌の同胞なのだと?」
夢子は唇の端を上げて静かに笑った。だがその目はとても冷たい。「グリマはセオデン王の忠実なるしもべですよ。貴女もご存じのはずです」
夢子の落ち着き払った態度を前に、エオウィンは自分が酷く馬鹿げた事を訪ねてしまったように思った。
だがエオウィンの心には未だ疑いが渦巻いていた。
「セオデン王に忠誠を誓う者は、誰一人としてそのようには仰らないでしょう」
夢子はエオウィンの瞳を見つめた。彼女の瞳はとても真直ぐで、正義の光に輝いていた。
引き下がろうとしないエオウィンの様子から、夢子は、彼女が自分に対して抱く”疑い”をこのまま放っておくのは良くないと考えた。
夢子はエオウィンから目を逸らさずに、慎重に返事をした。
「グリマの事をあなた方がどのように噂しているのか、この城で生活して気付かぬ者はいないでしょう……勿論、私がなんと言われているのかも存じております」
エオウィンの鋭い視線は夢子を捉えたままだ。
「噂は真実なのですか?」
「どの噂かは分かりませんが、貴女がお考えの噂に関しては『いいえ』と答えましょう。そしてこの話はこれで終わりにしたい。貴女は姫君らしくない。王族としての礼儀を弁えるべきです」
夢子の言葉に、エオウィンは顔を顰めた。辱められた気分になったのだ。
「わたくしは王に忠誠を誓っているのです」
「それなら、尚更礼儀を弁えるべきです。現在、私はセオデン王に雇われているのですから」
握った手や細い肩を小さく震わせて、エオウィンは唇を噛みしめた。
それでもこのまま引き下がるのは負けのような気がして、気丈にもエオウィンは顔を上げた。
その瞬間エオウィンは驚いた。
そしてエオウィンは、思わず自分の頬がかっと赤くなってしまった事に気が付いて慌てて顔を伏せた。
夢子の目にはエオウィンに対する好意がはっきりと示されていた!
夢子は二十歳を越えたばかりの年若い姫君の気高さに驚いていた。
そして己の正義に従って、自分に立ち向かってくる美しいエオウィンの事を好ましく感じたのだった。
エオウィンの忠誠は本物だった。
そして彼女の血筋からなる気高さも本物だった。
エオウィンは自分の心臓が音を立てているのに気付いて戸惑った。
その戸惑いを悟られないように、エオウィンは逃げるように部屋から立ち去った。
*
私室でのやり取りの後、夢子はエオウィンに好意を向けるようになった。
微笑みや優しい表情を見せ、エオウィンもそれに応えた。
二人の男女の間に、新しい感情が芽生えつつあった。
エオウィンは年頃の乙女らしい温かな微笑みを見せるようになったし、夢子も高貴な乙女に誠実に仕えた。
自然の流れに身を任せれば、二人の男女が恋に落ちるのは明白だった。
そして、身分の差はあれど、エオウィンの笑顔を取り戻した夢子の事を悪く言う者はほとんどいなくなった。
*
ある日、黄金館の広間を通りかかったエオウィンは、興味深い光景を見かけた。
医者である夢子が、剣を握っているのだった。確かめるように何度か剣の柄を握りなおし、姿勢を正して剣を構えたりしていた。
そんな夢子の姿は、到底医者には見えなかった。
「貴方にも剣の心得が?」
エオウィンは夢子に声を掛けた。
夢子は台座に剣を置いて、自分の傍に歩いてくるエオウィンの問いかけに、首を横に振って答えた。
「いいえ。私は剣は扱えません。私には小さな小刀の心得しかないのです」
夢子は何時も持ち歩いている、ベルトに下げた手術用の小刀に触れた。
「わたくし、貴方には剣の才能があるように思いましてよ。手足は長いし、背中は真っ直ぐで姿勢も美しいのですから」
エオウィンも広間の台座に置かれた訓練用の剣を手に取った。エオウィンの白い腕はしなやかで、優雅に動いた。それは正しく騎馬の国の姫君の身のこなしだった。その美しさに、夢子は思わず目を奪われた。
エオウィンは剣先を揺らし夢子ての首を狙うしぐさをした。
剣を向けられた夢子は両手を上げて微笑んだ。
「貴女には敵いませんね」
夢子も再び剣を手に取って、エオウィンと向かい合った。
黄金館に来てからというもの、夢子が剣を握る機会はほとんど無くなっていた。
夢子は剣の柄の感触を確かめるように握り、構えた。
それは訓練用として造られた何の装飾もない簡素な剣だが、ローハンの姫君であるエオウィンが扱うには随分と物騒な代物だった。
夢子はあらゆる武器の扱い方を知っていた。幼い頃から訓練を受けていたからである。
随分と大切に育てられた間者だと揶揄された事もあった。だがそれは夢子の腕が立つ証拠でもあるのだ。
夢子は剣を構えてエオウィンと向かい合った。
真正面に立つエオウィンの瞳は光を携えているかのようにきらきらと輝いていた。
先に攻撃を仕掛けたのは、エオウィンだった。
身体全体を使ってしなる様に振るわれた剣の重い一撃を夢子は受け止めた。
黄金館の暗闇の中に隠された、白い肌の姫君の姿しか知らなかった夢子は、エオウィンの力強さを剣の衝撃と共に受け止めた。
剣と剣がぶつかり合い、重い音が部屋の中に響く。
真剣ではないがしっかりとした造りの剣は重く頑丈だった。叩きつけられれば、エオウィンの細い腕など簡単に折ってしまうだろう。
夢子は慎重に剣を受け止めながら、エオウィンの隙を窺った。
普段は優雅な微笑みを浮かべるエオウィンの赤い唇は、緊張と期待とで引き締まっていて、頬は赤く上気し、乱れた金色の髪は汗で濡れていた。
エオウィンが真っ直ぐに振り下ろしたのを見た夢子は、剣の柄と刃を両手で握って受け止め、そのまま押し返した。
その衝撃でエオウィンの身体はぐらりと揺らいで後ろに倒れこんだ。ここで一歩踏み込んでしまえば彼女は簡単に剣の餌食となってしまうだろう。
夢子はエオウィンを床の上から起こそうと手を差し出した。
エオウィンはその手をじっと見つめた。
エオウィンは迷っていた。差し出された手を取るべきか、取らざるべきかを。
何故ならエオウィンは、ここで夢子の手を取ってしまえば、二人の運命が大きく変わる事を悟っていたのである。
エオウィンは緩々と手を伸ばして夢子を見つめた。
夢子は小さく頷いて、自分のほうからエオウィンの手を取って、力強く床から引き上げた。
エオウィンは乱れた髪を撫でつけた。
白い額には汗が滲み、荒い呼吸を繰り返しては息を整えた。
「完敗しました。夢子よ、貴方は医者にしては、随分と腕が立つようですね」
「旅の医者ですから、道中、危険な目に合うことも御座いましてね」
夢子は楽しげに目を細めて、エオウィンに微笑みかけた。「貴女こそ、姫君にしては腕が立ちすぎる」
エオウィンは声をあげて笑った。とても明るくて晴れやかな笑い声だった。
「姫よ、貴女がそのように楽しげに笑い声を上げる姿を見るのは初めてです」
夢子がそう言うと、エオウィンは口元を隠すように手を添えた。
「貴方の仰る通り、近頃は笑う事を忘れていました。こんなに楽しい気分になったのは、もう何時の事だったのでしょうか」
エオウィンは剣を台座の上に乗せて、柄に刻まれた模様を指先で辿った。
よく手入れされてはいるが、使い込まれた剣の柄は濃い色に変化していた。
夢子も手を伸ばして、エオウィンの手の上から剣の柄に触れた。
大きな掌はエオウィンの細い指を覆い隠した。
驚きでエオウィンの肩が跳ねた。
夢子はとても優しい目をして、エオウィンを見つめていた。そしてそのままエオウィンの手を優しく握った。
エオウィンは頬を赤くして、夢子の行動に抵抗せず、身を任せた。
夢子の指は骨ばっていて、手の皮は厚く固かった。
エオウィンははっとして、夢子の顔を見上げた。
彼の手は、間違いなく剣を握る者の手だった。エオウィンがよく知る、戦闘の訓練を受けた者の手だった!
夢子は何も話そうとはしなかった。ただ、その目はとても悲しげだった。
*
閉ざされた扉を開いたのは、老人の姿の魔法使いだった。
老人は灰色の衣を脱いだ。その下に隠されていた白い衣が、セオデン王の目の前に晒された。
白の魔法使いによって、ついに閉ざされた扉が開かれたのである。
グリマの悪事が暴かれ、夢子にも嫌疑がかけられた。
夢子は、何も言わずにただセオデン王の足元に跪いた。
「王よ、私は今一度忠誠を誓いましょう。これは真実の忠誠です。私は降りかかる脅威を恐れません。どうか戦場までお連れください」
「私は知っている。お前が真実に忠誠を誓うべき者は、私ではない事を……」
そう言って、セオデン王は部屋の隅に視線を向けた。
そこには、セオデン王と夢子のやり取りを見守るエオウィンの姿があった。
「私ではなく、我が王家に。そして我が王家の姫君がお前の忠誠を受け入れると言うならば、私はお前を戦場へ連れて行こう」
夢子とエオウィンは見つめあった。
不安そうなエオウィンを力づけるように、夢子は微笑んでみせた。
エオウィンは胸の前で手をぎゅっと握り、セオデン王に頷いて合図をした。
セオデン王は視線を夢子に戻した。
「私はお前を連れて行く。我が王家と姫君のために。私に使え、よく働くように」
こうしてモルドールの裏切り者に、運命の判決が下された。
*
出立の前に、エオウィンは夢子を呼びとめた。
「貴方に贈り物があります」
そう言ってエオウィンが差し出したのは、美しい刺繍が施された手巾だった。
金糸で縁取られた白い馬が、緑地を駆けている。手巾から飛び出して、本当に駆けだしてしまいそうなくらいに見事な刺繍だった。
「貴方の幸運と無事を願っています」
エオウィンは手巾にキスをして、夢子に手渡した。
夢子も手巾にキスを返し、胸元にしまった。
「私にとっては、他のどんな物にも勝る贈り物です」
夢子はエオウィンの手を取って、じっとエオウィンの顔を見つめた。
白い指先は柔らかく滑らかで、よく手入れされた爪先は丸かった。
「姫よ、お許しください」
夢子は一言断ってから、エオウィンの指先に小さくキスをして、その手を頬に寄せて目を閉じた。
エオウィンの指先は微かに震えていた。エオウィンは夢子の顔を見下ろして、そのままにさせた。
夢子は名残惜しそうにエオウィンの手を離して、再び美しい姫君の姿を見つめた。
夢子の目は熱っぽく輝いているのに、表情は暗く、顔色は真っ青だった。
エオウィンは夢子の愛の言葉を待っていた。夢子もそれを承知していた。
だが夢子はエオウィンに答えなかった。答えられなかったのだ。
夢子の主人はただ一人。
”燃える目”からは逃れられない。
自分の傍から離れ、死地へと向かうモルドールの裏切り者の後ろ姿を、エオウィンはただ静かに見送った。
甲冑の下の夢子の胸には、金色に縁取られた白い馬が生き生きと緑地を駆けていた。力強く、そして自由に。
おわり
2015.9.5
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