二人の乙女の歌
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東街道と緑道が交わるあたりにブリー村と呼ばれる村がある。
この村では人間とホビットが共に暮らしており、少々捻くれた人物もいることにはいたが、大きな争いなどは起こらない平和な村だった。
そして、この村で生まれた夢子という人間の娘は、幼い頃から村一番の賢い娘として有名だった。
知識欲に溢れ、新しい物事もどんどん吸収していく。
夢子の瞳には煌めく知性の光が輝き、豊かな茶色の髪と若々しい晴れやかな顔立ちをしていた。
ある日、ブリー村に一人の老人が姿を見せた。
この老人は、灰色のガンダルフと呼ばれている魔法使いだった。
ガンダルフは神出鬼没でいろいろな土地に現れるが、取分け、ホビット庄やブリー村によく姿を見せた。
そして夢子はガンダルフがブリー村を訪ねてくるのを心待ちにしていたのだった。
躍る小馬亭でガンダルフは空になった皿とジョッキをテーブルに置いて、パイプ草を吹かしているところだった。
躍る小馬亭は旅籠屋であるが、夜になれば男達が酒を飲み、旅の疲れを癒す騒がしい場になる。
そんな場所にはおおよそ似つかわしくないであろう若い娘が店の中に足を踏み入れたのだから、躍る小馬亭の主人であるバダバーは驚きを隠せない様子だった。
バダバーからガンダルフの座る席を聞いて、夢子はその場所まで歩いていった。
「あなたが、魔法使いの……灰色のガンダルフと呼ばれるお方でしょうか?」
声を掛けられたガンダルフは、まだ幼い印象が残る若々しい声の主を見やった。
「いかにも!この辺りでは、わしはガンダルフと呼ばれている。さてお前は……どなただったかな?」
「私は夢子という者です。御覧の通りただの村娘です」
「その村娘が、一体何の用で魔法使いを訪ねてきたのかね?」
「広い見聞と深い知識を携える賢者と名高い貴方のお知恵をお借りしたくて、こうしてやって来たのです」
白い髪の毛と眉毛から覗くガンダルフの鋭い視線は真っ直ぐに夢子を射抜いた。
魔法使いの老成した知性と深い知識が宿る瞳と、夢子の若く健康な心で新しい知識を追い求める晴れやかな瞳がぶつかった。
ガンダルフは夢子の瞳からたくさんの物事を読み取ったのだった。
夢子がガンダルフに求める知恵というのは、とてもシンプルなものだった。
エルフ語を学び、そして彼らの詩歌を共通語……つまりは人間達の使う西方語に翻訳し、それを帳面に書き写すことだった。
そしてガンダルフ以外にエルフ語に通じる人物を知らなかったために、わざわざ……あまりうら若き娘が来るべきではない場所である……躍る小馬亭まで赴いたのだ。
「エルフ語を学ぶことは良いことだ。だが、わしはこれでも忙しい身でな……これからホビット村へ向かわねばならない」
夢子は、どうかそれでもと食い下がった、夢子の縋るような真剣な眼差しはガンダルフを大いに困らせた。
ガンダルフはしばらく思案している様子だったが、とある人物のことを思いついたのだった!
それは、ただの人間の娘にエルフ語を教授する役割、つまりは厄介事を押しつける形ではあったが…ともかく、夢子にとっては願いが叶うことに変わりはなかった。
「……わしの伝手でお前にエルフ語を教える人物を紹介しよう」
その人物の名前を聞いた時、夢子は驚いた。
その人物とは、ストライダー……さすらい人と呼ばれる一定の土地に留まらない放浪者の一人……だった。
*
「あんたが夢子だな?」
それは躍る小馬亭での夢子とガンダルフの会話からひと月ほど経ったある日のことだった。
ガンダルフから言伝られたストライダーは、夢子を訪ねてブリー村まで赴いたのだった。
夢子は自分に会うためにわざわざ家まで訪ねてきた人物を見た。
その人物とは初めて顔を合わせたのだが、夢子はすぐに彼の正体に気が付いた!
それはあまり良いと言えない噂の通り、その人は全身を薄汚れた黒ずくめの旅装束を身にまとっていたからである。
「夢子は私で間違いありません。そして貴方はガンダルフの知り合いのお方……ストライダー殿ですね?」
「そうだとも。私はガンダルフに頼まれてやって来たのだ。あんたにエルフ語を授けよ、とね」
約束通りガンダルフは、夢子にエルフ語を教えるようにストライダーに頼んでくれたのだ。
そしてストライダーもその話を受けてここまでやって来たのである。
夢子は目の前にいるストライダーの姿をぼんやりと眺めていた。
彼は上から下まで黒い衣服を身にまとっていて、同じく黒いフードを眼深くかぶっていたり、腰のベルトに剣を携えているのがマントの隙間から覗いて見えた。
すらりと伸びる長い脚はしなやかな筋肉に覆われていたし、腕や手も普段から剣を握るような生活をしているのが一目でわかる。
そんなストライダーは見るからに恐ろしげだったし、背も高いために威圧的な印象を与えた。
夢子の目から自分に対する不安や恐怖を感じ取り、ストライダーは苦笑した。それは彼が、自分の見た目が少しばかり”ごろつき風”であることを知っていたからだった。
「そう怯えなさるな!と言っても私の姿では仕方のないことかもしれないが……。ともかく、しばらくはあんたにエルフ語を教えて差し上げよう。そのためにここへ来たのだから」
そう言ってストライダーは顔を覆っているフードを脱いで、夢子の前に手を差し出した。
ようやく、夢子は初めてはっきりとストライダーの顔を見たのだった。
日に焼けた顔は厳しい生活や疲れや苦労で削り取られたかのように厳しく鋭かったが、彼の灰色の瞳は力強さと希望に輝いていたし、寛大さと優しさをも感じさせた!そして、その瞳の色だけでも彼を信用できるほどに…実に不思議な色をしていた。
夢子は彼の瞳を見つめながら、差し出された手を取った。
そして、信用の証しとして二人は握手を交わしたのだった。
夢子の家に通されたストライダーは置かれている椅子に腰かけた。
お茶の入った二つのカップはテーブルの上で湯気立っている。
「さて、それでは教える前に一つ聞いてもいいか?あんたは何故エルフ語を学びたいんだ?あんたは普通の人間の娘だろう。ガンダルフに頼まれてから、どうもそれが気になっていたんだ」
ストライダーが気になるのも仕方がない。
夢子のようなただの人間の娘……それも田舎の貧乏な村娘が、エルフ達の言葉を学びたいなんて普通では考えられない事だった。
今までも、夢子が本を読んだり文字を習うことでさえ、まわりからは顔を顰められる事が多かった。
「それは説明するのは少し難しいのですが……」夢子は自分の考えについて上手く説明しようと話し始めた。
「……エルフの方々は中つ国を離れて私たち定命の種族には決して訪れる事のできない西の国へ去ってゆくと聞きました。彼らの美しき言葉や、長きにわたる歴史や、幅広く豊かな知識は私たち人間とは全く異なる文明として花開きました。そしてその文明は後世に伝える者がいなくなっても、文面には残しておきたいのです…。そしてそれが私自身の使命であるように感じるのです」
夢子は、エルフ達の姿を見たことすらなく、ブリー村から出たことさえなかった。
それでも、旅をするドワーフ達、そしてさすらい人と呼ばれるドゥネダイン達……ブリー村の外からやって来る人達と共に情報も流れてきた。
日常的な出来事から胸躍る冒険話や恐ろしい事件など、様々な情報が流れ込んできたが、中でも取分け夢子の心を打ったのは美しき種族であるエルフ達のことだった。
木々の間から彼らの姿を見た者の話、美しくも悲しい古い歌の話、ドワーフと旅に出た一人のホビットが語った話……などである。
それらの話は旅人達の間を渡り、ブリー村にも舞い込むのだった。
夢子はブリー村という小さな世界に退屈してもいたし、エルフという種族の技術や知識や学問に興味を抱き、そして憧れも抱いていた。
学びたいという気持ちは勿論、エルフ達がこの中つ国で暮らしていることを確かめ、そしてその証拠として彼らが歌う古い言い伝えや伝説を…中つ国に残したかったのである。
ストライダーは不思議な気持ちで夢子を見下ろした。
成人するまで裂け谷でエルフと共に生活し成長したストライダーは、エルフに憧れを抱く夢子の気持ちは理解できたが、それでも今の世ではエルフと他種族の間に交流はほとんど無く……、夢子がエルフの詩歌を後世に残すことを使命と感じることが腑に落ちなかった。
ストライダーは夢子の瞳をじっと見つめた。
しかし彼が見通すことが出来たのは、薄茶色の夢子の瞳の色だけだった。
*
3か月ほど夢子はストライダーからエルフ語を教わった。
ストライダーの的確な指導を受けた#はどんどんエルフ語を覚えていった。
基本的な名詞や文法、そしてエルフ語での文字の綴り方。そして発音の仕方も覚え、今では日常会話もほとんど滞りなく行えるようになった。
元々賢い娘ではあったが、夢子が短期間でここまでの上達を見せたことにストライダーは驚いた。
「夢子、あんたは実に良く学んだ。3か月でここまで覚えてしまうのだから!何というか…教えた私も嬉しく思うよ」
「ストライダーの教え方が上手だったからですよ」
その返事にストライダーは声をあげて笑った。
「そう言ってくれると嬉しいものだな!」
普段は厳しい表情をしているストライダーであるが、彼の笑顔は希望や喜びが湧き上がるように明るく快活だった。
きっとストライダーは本来はこのように晴れやかな人なのだろうと夢子は思った。
笑いがおさまってから、暫しの沈黙の後、ストライダーは静かに話し始めた。
「さて、私は長い間をここで過ごしてきた。3か月という時間は現在の私にとっては長い時間だ。その為、そろそろまた旅立たねばならない。私に与えられた使命のために。あんたにエルフ語を教えるのは途中になってしまうが……」
ストライダーの言葉に夢子は残念な顔をした。
しかし彼を長い間引き留めておくこともできない。
今までも彼は彼自身の時間を削って夢子にエルフ語を教えてくれたのだから。
しかし次にストライダーは夢子が驚く事を話し始めたのだった!
「前から考えていたのだが…、夢子さえ良ければ、あんたが裂け谷で滞在できるようにエルロンド卿に頼んでみようと思うんだ。エルフの歌はエルフに教わるのが一番だし、彼らは歌うことが好きだから、十分なくらいに聴かせて貰えるはずだ」
「私が裂け谷へ……?本当にそうなれば、それは……とても嬉しい事です。でも、お許し頂けるのでしょうか?」
「それは頼んでみないと分からない。だが私は裂け谷に顔が利くし、エルロンド卿にはとても懇意にしていただいている。エルロンド卿は中つ国の偉大なエルフの殿方であられるが、他種族にも理解を示される方でもある」
夢子は感激のあまりストライダーの手を取り瞳を輝かせた。
「ストライダー!あなたは私の恩人です。是非裂け谷まで案内してください」
「なに、まだエルロンド卿に頼んでもいないし、許しを頂けるかも分からないぞ!」
苦笑しながらストライダーは夢子の手を握り返した。
「だが、何よりもあんたのためだ!私は3か月の間にあんたが気に入ってしまったようだ。できるだけ安全な道を選び裂け谷まで案内しよう」
不思議な縁であったが、エルフ語が繋いだ師弟の関係は強い絆として結び繋がれたのだった。
旅の準備を整えた二人は裂け谷へ向けて出立したのだった。
*
ブリー村を出て数日が過ぎた。その夜、夢子は焚き火の番をしていた。
空には星が輝き、穏やかな風に吹かれて揺れる草花と木々のざわめき、虫の声以外にはほとんど物音がしなかった。
闇の中に生きる動物達も焚き火の近くにはいないようだった。
いつも夜が訪れるとストライダーは見回りに出かけて行った。夢子も初めは暗闇の中に一人で待つのは怖ろしかったのだが今では少し慣れていた。
赤い火はぱちぱちと音を立てて燃えていた。その火の中に乾いた木の枝を放り込んでいると、静かな夜の空気に足音が振動となって響いた。必要以上に音を立てない足音はストライダーのものだ。旅を続けるうちに、夢子は彼の足音をすっかり覚えてしまったのだった。
「辺りには何もいなかった。裂け谷も近づいてきたし、この辺では悪しき者どもの心配もほとんどいらないだろう」
草むらを掻き分けて姿を現したストライダーは、夢子の隣に座った。焚き火がストライダーを照らし影をつくる。
夢子は拵えておいた温かいスープと保存食の堅く焼いたパンをストライダーに差し出した。
「貴方はとても旅慣れているのですね」
「そうかもしれないな。…あんたは疲れてはいないか?」
「大丈夫です。明日も歩けますよ」
もちろんストライダーは気を使ってくれてはいた。だが慣れない旅はとても困難だった。
街道を逸れた歩き辛い道は足を痛めたし、虫や草で肌は荒れ、寝床も土の上に敷いた薄い絨毯だったために朝起きると体が軋むように痛んだ。旅に出た翌日には夢子の顔に疲労の色が浮かび、今ではそれがありありと見て取れる。
「馬を用意できれば良かったのだが……。とにかく、今は裂け谷へたどり着くために歩いてくれ。裂け谷へ着けば旅の疲れなどすぐに飛んでいってしまうのだから」
「裂け谷……美しい方々の住まう谷!裂け谷ではとても上等の食べ物や飲み物があるのでしょう?それに柔らかいベッドも!今はそれらが本当に恋しい。とても素晴らしいところなのでしょうね。しかし一番素晴らしいのは美しい方々……彼らの言葉や歌ですね。早くこの目で見てみたいです。そして私もそこでしばらく時間を過ごしたい……」
「そうだな。エルフの住まう場所はどこも素晴らしいが、裂け谷という場所は心安らぐところだ……」
そう言いながら、ストライダーは懐かしさと哀しさをはらんだ目をしていた。その目は自らの思い出を辿り、この場所ではない遠くを見つめているようだった。
「さあ眠りなさい。あんたは疲れている。明日もたっぷり歩かねばならない」
そう言ってストライダーは、夢子のために歌を歌った。
彼の低い歌声は夜の闇に溶けてしまうようで……
星明かりが照らす夜の静寂を破ることなく響いた……
目を閉じた夢子は静かに響く歌声に耳を傾けた。
彼が歌ったのはベレンとルシアンの物語だった。
夢子は疲れと眠気を感じてまどろみながらも、頭の中で、中つ国の最も美しき乙女の姿を思い描いた。
空には星の光が輝き、爽やかで優しい夜風が夢子の頬を撫でた。
その晩の眠りは大変心地よく、夢子は旅に出て以来の深い眠りについたのだった。
*
ブルイネンの浅瀬を渡り裂け谷へ近づくに連れて、くたびれて重たくなった足も軽やかに土を踏むようになった。
清々しい木々の香りに誘われて深く吸いこんだ空気はとても澄んでいて爽やかで、いつもは熱く肌を照らす日差しも柔らかく包み込むように感じられた。
アーチの門をくぐり抜けて、木の葉が舞い落ちた道を二人の人間が歩を進めていく。
夢子は裂け谷の様子を見渡した。
天を仰ぐと背の高い木々が葉を揺らし、太陽の光が葉の隙間から夢子の頬を照らした。
美しい建造物は大きいが繊細な造りで、所々にエルフの技による美しい装飾が施されていた。
白い壁は滑らかな手触りで、日差しを受けるとまるで建物自体が輝いているかのようにも見える。
こんなに美しい建物は初めて見る……そう思いながらエルロンドの住まう最後の憩い館を眺めていた夢子だったが、その館のバルコニーから外を眺めている人の姿を見つけた。
……それは眩いほどに美しい女性だった!
長く垂らした艶やかな黒髪は肩を伝い腰のラインに沿って流れ、ドレスから覗く白い腕や首筋はしみ一つなくなめらかだった。
容姿は若々しく美しいが、どこか浮世離れしているような…長い年月を経た落ち着きも感じる。
そして…その瞳は静かな夕暮れの空のように優しく揺れていた。
空や景色を仰いでいた女性は視線を落とすと、道に佇んだまま食い入るように自分を見つめる夢子の姿を見下ろした。
夢子とその女性の視線がぶつかり、糸が絡み合うように、引き合うように……二人は見つめあった。
夢子は今までこのような人を見たことがなかった。
そして、ひと目でその美しい女性に心を奪われたのだった……。
「夢子?」
名前を呼ばれた夢子は、夢から覚めるように、はっとして我に返った。
ストライダーは夢子の視線の先にいる美しい女性の姿を見つけた。
その女性は…アルウェン・ウンドミエル…裂け谷の主エルロンド卿の娘であり、ルシアンの再来と呼ばれるほどに美しいエルフの姫君だった。
そして……、さすらい人であるストライダーが苦難の定めを受け入れ愛を誓った運命の人でもあった!
二人が静かに視線を交わした後、アルウェンは部屋の中へと戻っていった。
ストライダーは心の中で再び、己に与えられた試練の達成を誓うのだった。
あの美しき女性、アルウェン姫と結ばれるために……!
*
最後の憩い館の執務室でエルロンドは不安を胸に抱き顔を顰めていた。
何故なら、噂話を囁くエルフ達のざわめきが窓辺から聞こえてくるからだった。
それは、エルロンドの養い子であったアラゴルンが、数年ぶりに裂け谷を訪れたという噂だった。
彼の傍らには人間の若き女性が付き添っていて、その女性とアルウェン姫がしばらくの間視線を交わしていたと……エルフ達はそう囁くのだった。
落ち着かない様子のエルロンドが窓辺で腕を組んで外を眺めていると、アラゴルンが目通りを願い出ているため、彼を通して良いのかをグロールフィンデルが尋ねに来た。
それを了承すると、噂通りに人間の女性を伴ったアラゴルンが執務室に入ってきたのだった。
グロールフィンデルはこれから面白い事が始まるのかと見物したがっている様子だったが、部屋の外へ出るようにエルロンドに促されたため、客人に一礼をして退室した。
*
「さて、アラゴルン。この度そなたがここを訪れたのは訳がある様子。まずはそれを聞くとしよう」
「はいエルロンド卿。まずはご紹介いたします。こちらの女性は名を夢子といいます。縁があって私は彼女にエルフ語をお教えしておりました。しかし私は自身の使命のために旅立たねばなりません」アラゴルンは夢子をちらりと見て、再びエルロンドに視線を戻した。「そこで彼女を……しばらくの間、裂け谷へ滞在できるようにお願いしたく、この度はエルロンド卿の元へ参ったのです」
エルロンドは夢子という人間の娘を見た。
茶色の髪と目をした夢子はまだ若く、結ばれた口元は利発そうな印象だった。
とても緊張した様子で、両手を前に組んで俯いたまま動かなかった。
「夢子殿。人間の……それも女性である貴女が此処まで旅してきたことはさぞ苦労しただろう。だが貴女はそうする理由があるのだな。それを貴女自身にお聞きしたい」
そのエルロンドの言葉に、夢子は顔を上げた。
「私はエルフ語を学びたく……そしてあなた方、美しき種族であるエルフの詩歌をお聴きしたいのです。それを西方語に訳して帳面に書き残すため、ここへ参りました」
返事を聞いたエルロンドは、夢子の瞳を見つめ、一度瞼を閉じ、そしてまた夢子を見据えた。
夢子は目の前の美しいエルフの殿方が多くの事柄を見通しているように感じた。
「貴女の瞳には知恵が宿っている。偏ることなく物事を見据える賢さも見える」
エルロンドはそう言葉を止めて、しばらく押し黙っていた。
夢子の瞳を見つめた時に、エルロンドは彼女の未来を垣間見たのだった。そして驚きと不安を感じ、彼女を裂け谷に滞在させるべきか考えあぐねていたのだった。
不安そうな表情の夢子と、彼女の隣で成り行き見守るアラゴルン。誰も言葉を発することなく部屋の中は静まり返っていた。
*
「お父様、わたくしからもお願いいたします」
その時、美しい声が部屋の中に響いた。
静けさを打ち破って扉を開けて入ってきた美しい人は、臆することなくエルロンドに声をかけた。
それは彼の娘のアルウェンだった。高すぎることのない落ち着いた美しい声は、まるで部屋の中の不安と緊張に満ちた空気を消しさってしまうようだった。
「エルフの詩歌が後の世に残るのは…きっと良いことですわ。わたくし達エルフは…皆、中つ国を去ってしまうのですから。そして、もし中つ国に留まるエルフがいるのでしたら、きっと慰みにもなりましょう……」それはアラゴルンと添い遂げる未来を選んだアルウェン自身のことでもあった。
そう話すアルウェンの迷いのない晴れやかな顔を見たエルロンドは、ついに心を決めた。
「夢子殿、私は貴女を歓迎いたそう。心ゆくまで滞在なされよ!」
夢子は驚きと喜びに顔を綻ばせた。そしてエルロンドに感謝を述べて礼をした。エルロンドはその様子を眺めているアルウェンに一言述べた。「わが娘アルウェンには、夢子殿が滞在する間、彼女の世話と手助けをする事を命ずる」
その命令にアルウェンはにっこりと微笑んだ。
「かしこまりました。喜んでお引き受けいたします」
「では話は決まった。そして…アラゴルンは、まだ話があるのでここに残るように」
アラゴルンはエルロンドとアルウェンに礼をした。
「さあ夢子様、貴女のお部屋を用意させる間、館の中を案内いたします」
アルウェンは夢子の傍へ歩み寄りそう言った。
「ありがとうございます…。でも、あの…。ストライダーは……」心配そうに尋ねる夢子にアラゴルンは微笑んで見せた。
「大丈夫、後であんたの部屋へ訪ねに行こう。さあ、今はアルウェン姫と共に行きなさい」
夢子はアラゴルンに頷いてみせた。そしてアルウェンに伴われて執務室を後にした。
*
アルウェンは優美な裾捌きで滑るように歩いている。
背の高い彼女によく似合う、青色のドレスの裾が波のように揺れていた。
夢子は、アルウェンに案内されながら館の中を見て回った。
最後の憩い館は内部までも大変美しく、窓から見える景色も、柔らかな日の光も、大変美しかった。
まるで、この世のありとあらゆる不吉な事柄から隠されているように……霧ふり山脈の西の麓に、最後の憩い館は美しいままに建っているのだった。
案内を受けて美しい館を見て回りながら、その場所を実際に歩いているのだと夢子は喜びを感じていた。そして一通りの案内が済んでから、二人は景色が見渡せる高台のテラスに寄って長椅子に腰かけた。
美しい景色に心を癒しながら、夢子は改めてアルウェンと向かい合った。
アルウェンが、エルフ特有の細い身体を動かすたびに、艶めく長い黒髪がさらさらと揺れた。長い睫毛に縁取られた瞳は曇りなく晴れた日の夜空のような灰色をしていて、形の良い唇は赤く艶めいていた。
アルウェンの姿はまるで中つ国中の大いなる美を集めたかのような……そして美しいだけではなく、長い年月によって培われた気品と知識をも持ち合わせているようだった!
「貴女はエルロンド卿のご令嬢なのでしょうか?」
夢子はアルウェンにそう尋ねた。なぜならアルウェンの顔の造りや纏う雰囲気がエルロンドとよく似ていたからだった。
「その通りです。わたくしはアルウェン・ウンドミエル。裂け谷のエルロンドの娘です」
「貴女は……エルロンド卿とよく似てお出でです。それに、まるで……ルシエンのようです……!きっとルシエンは貴女のような姿をしていたのだろうと思います」
アルウェンはその言葉に驚くのと同時に喜びも感じて微笑んだ。
「わたくしの事をそう仰る方は多いのです。ですが、人間の方に言われたのは貴女で二人目ですのよ……」
夢子はその人物の名前を考え……すぐに思いついたのだった。
その人はガンダルフの友人の一人であり、夢子にエルフ語を教え、その後裂け谷まで案内してくれた人物だったのだから。
「ストライダーですね」
そう言った夢子に、アルウェンは微笑んでみせた。
その表情はとても美しく……愛する者をを慕う喜びに溢れた微笑みだった。
*
夜になって、アラゴルンは夢子の部屋を尋ねた。
夢子は親しい人間の姿を見て喜び、そして彼に感謝を述べた。
「ストライダー!ああ良かった。貴方とまた顔を合わせれて嬉しいです。私はまだこの地では心細かったのです。裂け谷では心配事など一つも無いことは分かっていますが……、なんだか私のような者には似つかわしくない場所に感じて落ち着かなかったのです」
「あんたは美しい娘だ、安心しなさい!エルフ達は美しいが、彼らとは違う美しさもこの世にはあるのだから」
「そうだと良いのですが……。しかし本当にそうかもしれません。何故なら目の前にいる貴方も、とても美しく見えるのですから」
その言葉にアラゴルンは微笑んでみせた。アラゴルンは普段の汚れた暗い色の旅装束は脱いで、代わりに銀と濃い灰色のエルフの衣装を身に纏っていた。そして美しい衣装を纏うアラゴルンは、本当にエルフの殿方であるように見えるのだった。
彼は背が高く顔立ちも整っていた。そしてその表情は疲れや苦難の色が消えうせて明るく希望に輝いていた!身のこなしは優雅であり堂々としていた。
今夜のアラゴルンはエルフの貴人たちと並んでも引けを取らないと思えるほどに立派な殿方であった。
「あのう……私もアラゴルンとお呼びしたほうがよろしいのでしょうか?アルウェン姫が教えてくださいました。貴方の本当の名前を……そして貴方がどういう生まれの人であるのかも」
その言葉にアラゴルンは一瞬だけ真面目な表情をした。それは彼が背負っている使命の重さを思い出したからだった。
「確かに私の本来の名前はアラゴルンだ。だが私はストライダーという名前も気に入ってるんだよ。だからあんたの好きなように呼んでくれて構わない」
「ありがとう……。今日の貴方は立派な方ですが、やはり私の知ってるストライダーの貴方とも変わりないようです」
「普段の私はどんな人物なのかね?」
「とても優しい方です……博識で見聞も広く、情け深くもある。確かに、さすらい人の貴方は見かけが良いとは言えません。ですが話せばとても感じが良い人だとわかります。私は貴方がとても好きなんですよ」
夢子は改めてアラゴルンの姿をじっくりと見た。
彼の灰色の瞳はいつも通り明るく希望に輝いていた。
今は旅の汚れを落として美しい衣装を纏った、背の高い立派な殿方の姿であった。しかし、勇壮さや優しさなどの精神は、さすらい人である彼と何一つ違わなかった。
「ストライダー……、いいえ、アラゴルン!私が裂け谷でエルフの方々と出会えたなんて想像すらしたことがなかった。それどころか、こうして貴方と親しくなることさえ想像してませんでした!ブリー村では貴方の評判はあまり良くありませんでした。でも噂や評判なんて全く当てにならないものですね!実際の貴方はとても立派な方ですもの」
「私はまだ何もなし得ていないのだ。そんなに褒められる人物ではないぞ!……しかし、知ってはいるつもりだったが、私はブリー村ではそんなに評判が悪いのか?」
アラゴルンは大げさに落ち込んだ表情をしておどけてみせた。
その冗談に、夢子は楽しげに笑った。それにつられてアラゴルンも同じように声をあげて笑った。
遠くからその笑い声を耳にしたエルフ達は、本来の彼らが持つ、楽しく愉快なことが好きである生まれついての性質を思い出したのだった。
そして、ブリー村から客人として訪れた、明るく楽しげに笑う愛らしい人間の乙女のことを噂しあったのだった。
*
楽しげに話す二人とは別の部屋…同じく最後の憩い館の一角で、エルロンドとアルウェンは長椅子に腰かけて話をしていた。
エルロンドの美しい顔は険しく、引き締めた口元に手を添えて深く考え事をしている様子だった。隣に座るアルウェンはそんな父親を静かに見つめていた。
エルロンドの伏せた睫毛は影を落として重々しげな表情を作っていた。夕暮れの空のような灰色の瞳は、今は雲がかかったかのように暗く見えた。
なぜなら彼は先ほどその瞳に未来を映していて、その時に見た未来によって不安に苛まれていたのだ。
今夜の裂け谷はいつものように優しい夜の風と木々のそよぐ音、そして眩いほどに輝く星が照らしており美しかった。
しかし裂け谷のエルフたちはここ数年ほどでその美しさの片隅に不穏の影が覆い始めるのを感じていた。
かの暗黒の国の冥王が、燃え上がる目を不気味に光らせているのも知っていた。そして静かに影が忍び寄るかのように中つ国の各地で自由の民の平和が脅かされていることも知っていた。
アルウェンは父親が何を見たのかを感じていた。
自由の民の希望であるアラゴルンの使命達成と、その末にある明るい未来のこと。そして、その未来に陰りがあること……。
そしてその未来に絡まった一人の人間の乙女……その乙女は豊かな茶色の髪をなびかせて、利発そうな目をしている。
「お父様は夢子様の未来をご覧になられたのではないですか?そしてその未来にはわたくしの姿も見えたはず……」
「その通りだアルウェン。あの娘の運命はお前の運命と絡まっている。私にも推し量れぬほど複雑に」
エルロンドはアルウェンの言葉を予想していたかのように、淡々と答えた。
エルロンドは先ほど垣間見た夢子の未来を思い出した。
それは、夢子とアルウェンが見つめあう姿だった。
二人の乙女の間には長い時を生きてきたエルロンドでさえも感じたことのない深い思念があった。
そしてその先には、王となり冠を頂いたアラゴルンの姿があった。
アラゴルンとアルウェンは未だ許されぬ間柄ではあるが、お互いに愛を感じ取り、想いを通わせる仲なのである。
アラゴルンは今はさすらい人として時期をはかりながら、いずれは王となり、かつて王だった先祖たちの領土……アルノールとゴンドールの地を取り戻し治めるべく、厳しい旅を続けていた。
それは愛するエルフの姫君と結ばれるために彼に与えられた試練であった。
そしてその試練はエルロンドが与えたものだったのだ。
エルロンドは深くため息をついた。
アラゴルンとアルウェンの運命の糸に絡んだ一人の人間の娘の運命。
それは中つ国の未来に関わることであったし、アルウェンの未来にも関わることであった。
アルウェンは黙りこんでしまった父親を見つめた。
「わたくしは……、夢子様は、きっと良い方向へわたくしの運命を導く者であると……そう思うのです」
「私には分らぬのだ。あの娘がお前やアラゴルンの運命にどう関わるのか……。だが、アルウェンよ。お前の運命を委ねるに値するのだと、お前自身が信じられるのなら、私は何も言うまい」
アルウェンは愛する父親の傍へ寄り、彼の手に自分の手を重ねた。
それは父親に対して尊敬と共に親愛の念を深く感じたからだった。
*
アラゴルンは一人窓辺に座っていた。月と星の穏やかな明かりと、テーブルに置かれたランプの薄明かりが彼の顔を照らしていた。
裂け谷に到着してから、もう何時間経ったのだろうか。すっかり夜も更け、夜の暗闇と静けさが谷を包んでいた。
裂け谷に建つ最後の憩い館は本や歌を書いたり、考え事をしたりするのには打ってつけの場所だった。
アラゴルンはパイプ草を吹かしながら束の間の休息を楽しんでいた。そうしていると、自然と自分の過去を……若き青年だった頃を思い出すのだった。
アルウェンとの出会い、そして…ケリン・アムロスでの誓いのこと。あの場所で、二人は愛を誓ったのだ。
それからアラゴルンは数十年にもなる長い年月を戦いや苦難の中に身を置いてきた。
ここ数年の間に中つ国の運命は大きく変化していた。モルドールでは戦の準備のために兵隊や奴隷達が集められ、指輪の僕であるナズグルの動きにも注意が払われるようになった。アラゴルンはそれらの悪しき者どもからホビット庄を守っていたのだった。
そして夢子と過ごした3か月の間にも中つ国の情勢は静かに変化し続けていた。
エルロンドはアラゴルンに助言を与えていた。
それは今日の午後に裂け谷へ着いてからのこと……夢子とアルウェンが先にエルロンドの執務室を後にした時のことだった。
「暗黒の国の勢力は増し、鳥や獣の様子も落ち着きがなく騒がしい。夜の闇はより濃くより暗さを増した。そして悪い予感がする……。未来を見た訳ではないが、すぐ間近にある未来に何かが起こるだろう」
「ではサウロンが……?」アラゴルンは思わずその名前を声に出してはっとした。「かの忌まわしき冥王の名は、この美しい谷には似合わない。しかし……何れは戦わねばなりますまい。そしてそれは近い未来であるのですね」
「その通りだ」エルロンドは重々しげな表情をしてアラゴルンを見つめた。「必ず戦わねばなるまい!そして、アラソルンの息子アラゴルンよ!この時代において、そなたは人間達を……いや、自由の民を率いることの出来る唯一の人物である。今はホビット庄を……その地に隠されている物と、その持ち主を守られよ。そのうち、運命のほうからそなたを誘い、導きに参るであろうから」
エルロンドの言葉を思い返すたびに、自由の民の敵である冥王のことや暗黒の国の軍勢…、それらとの戦いのこと、そしてそれらに脅かされる民のことも…頭の中に浮かぶのだった。
激しい戦いや、厳しい節制の生活……夜風に吹きつけられ、冷たい雨や雪にさらされ、幾度となく死を覚悟した張りつめた緊張の日々。
それは辛く苦しいものであった。本来であれば耐えがたいものだった。
だが彼は決して逃げ出さなかった。苦しい時にはいつも心の片隅に住まう愛しいエルフの姫君の姿を思い出すのだ。そうすると心の底から望みや希望が湧き出て、どんな苦難にも耐え抜けるのだった!
アラゴルンにとって、アルウェンは愛しい人物であると同時に、己の使命の達成においての目的でもあり心の支えでもあったのだ。
彼の望みはゴンドールの復興だけではない。彼の心の望みは……夕星の光を身に纏う、ひとりの美しい婦人を后として迎えることだった。
明朝、まだ日が昇る前にアラゴルンは裂け谷を後にした。
ホビット庄を守るという現在の任務に戻るためだった。
アラゴルンは見送りに来たアルウェンと暫くの間見つめ合い、そして旅立った。
アルウェンは彼の姿が木々の狭間に隠れて見えなくなるまで、彼の足音が聞こえなくなるまで、静かにその場に佇んでいた。
この村では人間とホビットが共に暮らしており、少々捻くれた人物もいることにはいたが、大きな争いなどは起こらない平和な村だった。
そして、この村で生まれた夢子という人間の娘は、幼い頃から村一番の賢い娘として有名だった。
知識欲に溢れ、新しい物事もどんどん吸収していく。
夢子の瞳には煌めく知性の光が輝き、豊かな茶色の髪と若々しい晴れやかな顔立ちをしていた。
ある日、ブリー村に一人の老人が姿を見せた。
この老人は、灰色のガンダルフと呼ばれている魔法使いだった。
ガンダルフは神出鬼没でいろいろな土地に現れるが、取分け、ホビット庄やブリー村によく姿を見せた。
そして夢子はガンダルフがブリー村を訪ねてくるのを心待ちにしていたのだった。
躍る小馬亭でガンダルフは空になった皿とジョッキをテーブルに置いて、パイプ草を吹かしているところだった。
躍る小馬亭は旅籠屋であるが、夜になれば男達が酒を飲み、旅の疲れを癒す騒がしい場になる。
そんな場所にはおおよそ似つかわしくないであろう若い娘が店の中に足を踏み入れたのだから、躍る小馬亭の主人であるバダバーは驚きを隠せない様子だった。
バダバーからガンダルフの座る席を聞いて、夢子はその場所まで歩いていった。
「あなたが、魔法使いの……灰色のガンダルフと呼ばれるお方でしょうか?」
声を掛けられたガンダルフは、まだ幼い印象が残る若々しい声の主を見やった。
「いかにも!この辺りでは、わしはガンダルフと呼ばれている。さてお前は……どなただったかな?」
「私は夢子という者です。御覧の通りただの村娘です」
「その村娘が、一体何の用で魔法使いを訪ねてきたのかね?」
「広い見聞と深い知識を携える賢者と名高い貴方のお知恵をお借りしたくて、こうしてやって来たのです」
白い髪の毛と眉毛から覗くガンダルフの鋭い視線は真っ直ぐに夢子を射抜いた。
魔法使いの老成した知性と深い知識が宿る瞳と、夢子の若く健康な心で新しい知識を追い求める晴れやかな瞳がぶつかった。
ガンダルフは夢子の瞳からたくさんの物事を読み取ったのだった。
夢子がガンダルフに求める知恵というのは、とてもシンプルなものだった。
エルフ語を学び、そして彼らの詩歌を共通語……つまりは人間達の使う西方語に翻訳し、それを帳面に書き写すことだった。
そしてガンダルフ以外にエルフ語に通じる人物を知らなかったために、わざわざ……あまりうら若き娘が来るべきではない場所である……躍る小馬亭まで赴いたのだ。
「エルフ語を学ぶことは良いことだ。だが、わしはこれでも忙しい身でな……これからホビット村へ向かわねばならない」
夢子は、どうかそれでもと食い下がった、夢子の縋るような真剣な眼差しはガンダルフを大いに困らせた。
ガンダルフはしばらく思案している様子だったが、とある人物のことを思いついたのだった!
それは、ただの人間の娘にエルフ語を教授する役割、つまりは厄介事を押しつける形ではあったが…ともかく、夢子にとっては願いが叶うことに変わりはなかった。
「……わしの伝手でお前にエルフ語を教える人物を紹介しよう」
その人物の名前を聞いた時、夢子は驚いた。
その人物とは、ストライダー……さすらい人と呼ばれる一定の土地に留まらない放浪者の一人……だった。
*
「あんたが夢子だな?」
それは躍る小馬亭での夢子とガンダルフの会話からひと月ほど経ったある日のことだった。
ガンダルフから言伝られたストライダーは、夢子を訪ねてブリー村まで赴いたのだった。
夢子は自分に会うためにわざわざ家まで訪ねてきた人物を見た。
その人物とは初めて顔を合わせたのだが、夢子はすぐに彼の正体に気が付いた!
それはあまり良いと言えない噂の通り、その人は全身を薄汚れた黒ずくめの旅装束を身にまとっていたからである。
「夢子は私で間違いありません。そして貴方はガンダルフの知り合いのお方……ストライダー殿ですね?」
「そうだとも。私はガンダルフに頼まれてやって来たのだ。あんたにエルフ語を授けよ、とね」
約束通りガンダルフは、夢子にエルフ語を教えるようにストライダーに頼んでくれたのだ。
そしてストライダーもその話を受けてここまでやって来たのである。
夢子は目の前にいるストライダーの姿をぼんやりと眺めていた。
彼は上から下まで黒い衣服を身にまとっていて、同じく黒いフードを眼深くかぶっていたり、腰のベルトに剣を携えているのがマントの隙間から覗いて見えた。
すらりと伸びる長い脚はしなやかな筋肉に覆われていたし、腕や手も普段から剣を握るような生活をしているのが一目でわかる。
そんなストライダーは見るからに恐ろしげだったし、背も高いために威圧的な印象を与えた。
夢子の目から自分に対する不安や恐怖を感じ取り、ストライダーは苦笑した。それは彼が、自分の見た目が少しばかり”ごろつき風”であることを知っていたからだった。
「そう怯えなさるな!と言っても私の姿では仕方のないことかもしれないが……。ともかく、しばらくはあんたにエルフ語を教えて差し上げよう。そのためにここへ来たのだから」
そう言ってストライダーは顔を覆っているフードを脱いで、夢子の前に手を差し出した。
ようやく、夢子は初めてはっきりとストライダーの顔を見たのだった。
日に焼けた顔は厳しい生活や疲れや苦労で削り取られたかのように厳しく鋭かったが、彼の灰色の瞳は力強さと希望に輝いていたし、寛大さと優しさをも感じさせた!そして、その瞳の色だけでも彼を信用できるほどに…実に不思議な色をしていた。
夢子は彼の瞳を見つめながら、差し出された手を取った。
そして、信用の証しとして二人は握手を交わしたのだった。
夢子の家に通されたストライダーは置かれている椅子に腰かけた。
お茶の入った二つのカップはテーブルの上で湯気立っている。
「さて、それでは教える前に一つ聞いてもいいか?あんたは何故エルフ語を学びたいんだ?あんたは普通の人間の娘だろう。ガンダルフに頼まれてから、どうもそれが気になっていたんだ」
ストライダーが気になるのも仕方がない。
夢子のようなただの人間の娘……それも田舎の貧乏な村娘が、エルフ達の言葉を学びたいなんて普通では考えられない事だった。
今までも、夢子が本を読んだり文字を習うことでさえ、まわりからは顔を顰められる事が多かった。
「それは説明するのは少し難しいのですが……」夢子は自分の考えについて上手く説明しようと話し始めた。
「……エルフの方々は中つ国を離れて私たち定命の種族には決して訪れる事のできない西の国へ去ってゆくと聞きました。彼らの美しき言葉や、長きにわたる歴史や、幅広く豊かな知識は私たち人間とは全く異なる文明として花開きました。そしてその文明は後世に伝える者がいなくなっても、文面には残しておきたいのです…。そしてそれが私自身の使命であるように感じるのです」
夢子は、エルフ達の姿を見たことすらなく、ブリー村から出たことさえなかった。
それでも、旅をするドワーフ達、そしてさすらい人と呼ばれるドゥネダイン達……ブリー村の外からやって来る人達と共に情報も流れてきた。
日常的な出来事から胸躍る冒険話や恐ろしい事件など、様々な情報が流れ込んできたが、中でも取分け夢子の心を打ったのは美しき種族であるエルフ達のことだった。
木々の間から彼らの姿を見た者の話、美しくも悲しい古い歌の話、ドワーフと旅に出た一人のホビットが語った話……などである。
それらの話は旅人達の間を渡り、ブリー村にも舞い込むのだった。
夢子はブリー村という小さな世界に退屈してもいたし、エルフという種族の技術や知識や学問に興味を抱き、そして憧れも抱いていた。
学びたいという気持ちは勿論、エルフ達がこの中つ国で暮らしていることを確かめ、そしてその証拠として彼らが歌う古い言い伝えや伝説を…中つ国に残したかったのである。
ストライダーは不思議な気持ちで夢子を見下ろした。
成人するまで裂け谷でエルフと共に生活し成長したストライダーは、エルフに憧れを抱く夢子の気持ちは理解できたが、それでも今の世ではエルフと他種族の間に交流はほとんど無く……、夢子がエルフの詩歌を後世に残すことを使命と感じることが腑に落ちなかった。
ストライダーは夢子の瞳をじっと見つめた。
しかし彼が見通すことが出来たのは、薄茶色の夢子の瞳の色だけだった。
*
3か月ほど夢子はストライダーからエルフ語を教わった。
ストライダーの的確な指導を受けた#はどんどんエルフ語を覚えていった。
基本的な名詞や文法、そしてエルフ語での文字の綴り方。そして発音の仕方も覚え、今では日常会話もほとんど滞りなく行えるようになった。
元々賢い娘ではあったが、夢子が短期間でここまでの上達を見せたことにストライダーは驚いた。
「夢子、あんたは実に良く学んだ。3か月でここまで覚えてしまうのだから!何というか…教えた私も嬉しく思うよ」
「ストライダーの教え方が上手だったからですよ」
その返事にストライダーは声をあげて笑った。
「そう言ってくれると嬉しいものだな!」
普段は厳しい表情をしているストライダーであるが、彼の笑顔は希望や喜びが湧き上がるように明るく快活だった。
きっとストライダーは本来はこのように晴れやかな人なのだろうと夢子は思った。
笑いがおさまってから、暫しの沈黙の後、ストライダーは静かに話し始めた。
「さて、私は長い間をここで過ごしてきた。3か月という時間は現在の私にとっては長い時間だ。その為、そろそろまた旅立たねばならない。私に与えられた使命のために。あんたにエルフ語を教えるのは途中になってしまうが……」
ストライダーの言葉に夢子は残念な顔をした。
しかし彼を長い間引き留めておくこともできない。
今までも彼は彼自身の時間を削って夢子にエルフ語を教えてくれたのだから。
しかし次にストライダーは夢子が驚く事を話し始めたのだった!
「前から考えていたのだが…、夢子さえ良ければ、あんたが裂け谷で滞在できるようにエルロンド卿に頼んでみようと思うんだ。エルフの歌はエルフに教わるのが一番だし、彼らは歌うことが好きだから、十分なくらいに聴かせて貰えるはずだ」
「私が裂け谷へ……?本当にそうなれば、それは……とても嬉しい事です。でも、お許し頂けるのでしょうか?」
「それは頼んでみないと分からない。だが私は裂け谷に顔が利くし、エルロンド卿にはとても懇意にしていただいている。エルロンド卿は中つ国の偉大なエルフの殿方であられるが、他種族にも理解を示される方でもある」
夢子は感激のあまりストライダーの手を取り瞳を輝かせた。
「ストライダー!あなたは私の恩人です。是非裂け谷まで案内してください」
「なに、まだエルロンド卿に頼んでもいないし、許しを頂けるかも分からないぞ!」
苦笑しながらストライダーは夢子の手を握り返した。
「だが、何よりもあんたのためだ!私は3か月の間にあんたが気に入ってしまったようだ。できるだけ安全な道を選び裂け谷まで案内しよう」
不思議な縁であったが、エルフ語が繋いだ師弟の関係は強い絆として結び繋がれたのだった。
旅の準備を整えた二人は裂け谷へ向けて出立したのだった。
*
ブリー村を出て数日が過ぎた。その夜、夢子は焚き火の番をしていた。
空には星が輝き、穏やかな風に吹かれて揺れる草花と木々のざわめき、虫の声以外にはほとんど物音がしなかった。
闇の中に生きる動物達も焚き火の近くにはいないようだった。
いつも夜が訪れるとストライダーは見回りに出かけて行った。夢子も初めは暗闇の中に一人で待つのは怖ろしかったのだが今では少し慣れていた。
赤い火はぱちぱちと音を立てて燃えていた。その火の中に乾いた木の枝を放り込んでいると、静かな夜の空気に足音が振動となって響いた。必要以上に音を立てない足音はストライダーのものだ。旅を続けるうちに、夢子は彼の足音をすっかり覚えてしまったのだった。
「辺りには何もいなかった。裂け谷も近づいてきたし、この辺では悪しき者どもの心配もほとんどいらないだろう」
草むらを掻き分けて姿を現したストライダーは、夢子の隣に座った。焚き火がストライダーを照らし影をつくる。
夢子は拵えておいた温かいスープと保存食の堅く焼いたパンをストライダーに差し出した。
「貴方はとても旅慣れているのですね」
「そうかもしれないな。…あんたは疲れてはいないか?」
「大丈夫です。明日も歩けますよ」
もちろんストライダーは気を使ってくれてはいた。だが慣れない旅はとても困難だった。
街道を逸れた歩き辛い道は足を痛めたし、虫や草で肌は荒れ、寝床も土の上に敷いた薄い絨毯だったために朝起きると体が軋むように痛んだ。旅に出た翌日には夢子の顔に疲労の色が浮かび、今ではそれがありありと見て取れる。
「馬を用意できれば良かったのだが……。とにかく、今は裂け谷へたどり着くために歩いてくれ。裂け谷へ着けば旅の疲れなどすぐに飛んでいってしまうのだから」
「裂け谷……美しい方々の住まう谷!裂け谷ではとても上等の食べ物や飲み物があるのでしょう?それに柔らかいベッドも!今はそれらが本当に恋しい。とても素晴らしいところなのでしょうね。しかし一番素晴らしいのは美しい方々……彼らの言葉や歌ですね。早くこの目で見てみたいです。そして私もそこでしばらく時間を過ごしたい……」
「そうだな。エルフの住まう場所はどこも素晴らしいが、裂け谷という場所は心安らぐところだ……」
そう言いながら、ストライダーは懐かしさと哀しさをはらんだ目をしていた。その目は自らの思い出を辿り、この場所ではない遠くを見つめているようだった。
「さあ眠りなさい。あんたは疲れている。明日もたっぷり歩かねばならない」
そう言ってストライダーは、夢子のために歌を歌った。
彼の低い歌声は夜の闇に溶けてしまうようで……
星明かりが照らす夜の静寂を破ることなく響いた……
目を閉じた夢子は静かに響く歌声に耳を傾けた。
彼が歌ったのはベレンとルシアンの物語だった。
夢子は疲れと眠気を感じてまどろみながらも、頭の中で、中つ国の最も美しき乙女の姿を思い描いた。
空には星の光が輝き、爽やかで優しい夜風が夢子の頬を撫でた。
その晩の眠りは大変心地よく、夢子は旅に出て以来の深い眠りについたのだった。
*
ブルイネンの浅瀬を渡り裂け谷へ近づくに連れて、くたびれて重たくなった足も軽やかに土を踏むようになった。
清々しい木々の香りに誘われて深く吸いこんだ空気はとても澄んでいて爽やかで、いつもは熱く肌を照らす日差しも柔らかく包み込むように感じられた。
アーチの門をくぐり抜けて、木の葉が舞い落ちた道を二人の人間が歩を進めていく。
夢子は裂け谷の様子を見渡した。
天を仰ぐと背の高い木々が葉を揺らし、太陽の光が葉の隙間から夢子の頬を照らした。
美しい建造物は大きいが繊細な造りで、所々にエルフの技による美しい装飾が施されていた。
白い壁は滑らかな手触りで、日差しを受けるとまるで建物自体が輝いているかのようにも見える。
こんなに美しい建物は初めて見る……そう思いながらエルロンドの住まう最後の憩い館を眺めていた夢子だったが、その館のバルコニーから外を眺めている人の姿を見つけた。
……それは眩いほどに美しい女性だった!
長く垂らした艶やかな黒髪は肩を伝い腰のラインに沿って流れ、ドレスから覗く白い腕や首筋はしみ一つなくなめらかだった。
容姿は若々しく美しいが、どこか浮世離れしているような…長い年月を経た落ち着きも感じる。
そして…その瞳は静かな夕暮れの空のように優しく揺れていた。
空や景色を仰いでいた女性は視線を落とすと、道に佇んだまま食い入るように自分を見つめる夢子の姿を見下ろした。
夢子とその女性の視線がぶつかり、糸が絡み合うように、引き合うように……二人は見つめあった。
夢子は今までこのような人を見たことがなかった。
そして、ひと目でその美しい女性に心を奪われたのだった……。
「夢子?」
名前を呼ばれた夢子は、夢から覚めるように、はっとして我に返った。
ストライダーは夢子の視線の先にいる美しい女性の姿を見つけた。
その女性は…アルウェン・ウンドミエル…裂け谷の主エルロンド卿の娘であり、ルシアンの再来と呼ばれるほどに美しいエルフの姫君だった。
そして……、さすらい人であるストライダーが苦難の定めを受け入れ愛を誓った運命の人でもあった!
二人が静かに視線を交わした後、アルウェンは部屋の中へと戻っていった。
ストライダーは心の中で再び、己に与えられた試練の達成を誓うのだった。
あの美しき女性、アルウェン姫と結ばれるために……!
*
最後の憩い館の執務室でエルロンドは不安を胸に抱き顔を顰めていた。
何故なら、噂話を囁くエルフ達のざわめきが窓辺から聞こえてくるからだった。
それは、エルロンドの養い子であったアラゴルンが、数年ぶりに裂け谷を訪れたという噂だった。
彼の傍らには人間の若き女性が付き添っていて、その女性とアルウェン姫がしばらくの間視線を交わしていたと……エルフ達はそう囁くのだった。
落ち着かない様子のエルロンドが窓辺で腕を組んで外を眺めていると、アラゴルンが目通りを願い出ているため、彼を通して良いのかをグロールフィンデルが尋ねに来た。
それを了承すると、噂通りに人間の女性を伴ったアラゴルンが執務室に入ってきたのだった。
グロールフィンデルはこれから面白い事が始まるのかと見物したがっている様子だったが、部屋の外へ出るようにエルロンドに促されたため、客人に一礼をして退室した。
*
「さて、アラゴルン。この度そなたがここを訪れたのは訳がある様子。まずはそれを聞くとしよう」
「はいエルロンド卿。まずはご紹介いたします。こちらの女性は名を夢子といいます。縁があって私は彼女にエルフ語をお教えしておりました。しかし私は自身の使命のために旅立たねばなりません」アラゴルンは夢子をちらりと見て、再びエルロンドに視線を戻した。「そこで彼女を……しばらくの間、裂け谷へ滞在できるようにお願いしたく、この度はエルロンド卿の元へ参ったのです」
エルロンドは夢子という人間の娘を見た。
茶色の髪と目をした夢子はまだ若く、結ばれた口元は利発そうな印象だった。
とても緊張した様子で、両手を前に組んで俯いたまま動かなかった。
「夢子殿。人間の……それも女性である貴女が此処まで旅してきたことはさぞ苦労しただろう。だが貴女はそうする理由があるのだな。それを貴女自身にお聞きしたい」
そのエルロンドの言葉に、夢子は顔を上げた。
「私はエルフ語を学びたく……そしてあなた方、美しき種族であるエルフの詩歌をお聴きしたいのです。それを西方語に訳して帳面に書き残すため、ここへ参りました」
返事を聞いたエルロンドは、夢子の瞳を見つめ、一度瞼を閉じ、そしてまた夢子を見据えた。
夢子は目の前の美しいエルフの殿方が多くの事柄を見通しているように感じた。
「貴女の瞳には知恵が宿っている。偏ることなく物事を見据える賢さも見える」
エルロンドはそう言葉を止めて、しばらく押し黙っていた。
夢子の瞳を見つめた時に、エルロンドは彼女の未来を垣間見たのだった。そして驚きと不安を感じ、彼女を裂け谷に滞在させるべきか考えあぐねていたのだった。
不安そうな表情の夢子と、彼女の隣で成り行き見守るアラゴルン。誰も言葉を発することなく部屋の中は静まり返っていた。
*
「お父様、わたくしからもお願いいたします」
その時、美しい声が部屋の中に響いた。
静けさを打ち破って扉を開けて入ってきた美しい人は、臆することなくエルロンドに声をかけた。
それは彼の娘のアルウェンだった。高すぎることのない落ち着いた美しい声は、まるで部屋の中の不安と緊張に満ちた空気を消しさってしまうようだった。
「エルフの詩歌が後の世に残るのは…きっと良いことですわ。わたくし達エルフは…皆、中つ国を去ってしまうのですから。そして、もし中つ国に留まるエルフがいるのでしたら、きっと慰みにもなりましょう……」それはアラゴルンと添い遂げる未来を選んだアルウェン自身のことでもあった。
そう話すアルウェンの迷いのない晴れやかな顔を見たエルロンドは、ついに心を決めた。
「夢子殿、私は貴女を歓迎いたそう。心ゆくまで滞在なされよ!」
夢子は驚きと喜びに顔を綻ばせた。そしてエルロンドに感謝を述べて礼をした。エルロンドはその様子を眺めているアルウェンに一言述べた。「わが娘アルウェンには、夢子殿が滞在する間、彼女の世話と手助けをする事を命ずる」
その命令にアルウェンはにっこりと微笑んだ。
「かしこまりました。喜んでお引き受けいたします」
「では話は決まった。そして…アラゴルンは、まだ話があるのでここに残るように」
アラゴルンはエルロンドとアルウェンに礼をした。
「さあ夢子様、貴女のお部屋を用意させる間、館の中を案内いたします」
アルウェンは夢子の傍へ歩み寄りそう言った。
「ありがとうございます…。でも、あの…。ストライダーは……」心配そうに尋ねる夢子にアラゴルンは微笑んで見せた。
「大丈夫、後であんたの部屋へ訪ねに行こう。さあ、今はアルウェン姫と共に行きなさい」
夢子はアラゴルンに頷いてみせた。そしてアルウェンに伴われて執務室を後にした。
*
アルウェンは優美な裾捌きで滑るように歩いている。
背の高い彼女によく似合う、青色のドレスの裾が波のように揺れていた。
夢子は、アルウェンに案内されながら館の中を見て回った。
最後の憩い館は内部までも大変美しく、窓から見える景色も、柔らかな日の光も、大変美しかった。
まるで、この世のありとあらゆる不吉な事柄から隠されているように……霧ふり山脈の西の麓に、最後の憩い館は美しいままに建っているのだった。
案内を受けて美しい館を見て回りながら、その場所を実際に歩いているのだと夢子は喜びを感じていた。そして一通りの案内が済んでから、二人は景色が見渡せる高台のテラスに寄って長椅子に腰かけた。
美しい景色に心を癒しながら、夢子は改めてアルウェンと向かい合った。
アルウェンが、エルフ特有の細い身体を動かすたびに、艶めく長い黒髪がさらさらと揺れた。長い睫毛に縁取られた瞳は曇りなく晴れた日の夜空のような灰色をしていて、形の良い唇は赤く艶めいていた。
アルウェンの姿はまるで中つ国中の大いなる美を集めたかのような……そして美しいだけではなく、長い年月によって培われた気品と知識をも持ち合わせているようだった!
「貴女はエルロンド卿のご令嬢なのでしょうか?」
夢子はアルウェンにそう尋ねた。なぜならアルウェンの顔の造りや纏う雰囲気がエルロンドとよく似ていたからだった。
「その通りです。わたくしはアルウェン・ウンドミエル。裂け谷のエルロンドの娘です」
「貴女は……エルロンド卿とよく似てお出でです。それに、まるで……ルシエンのようです……!きっとルシエンは貴女のような姿をしていたのだろうと思います」
アルウェンはその言葉に驚くのと同時に喜びも感じて微笑んだ。
「わたくしの事をそう仰る方は多いのです。ですが、人間の方に言われたのは貴女で二人目ですのよ……」
夢子はその人物の名前を考え……すぐに思いついたのだった。
その人はガンダルフの友人の一人であり、夢子にエルフ語を教え、その後裂け谷まで案内してくれた人物だったのだから。
「ストライダーですね」
そう言った夢子に、アルウェンは微笑んでみせた。
その表情はとても美しく……愛する者をを慕う喜びに溢れた微笑みだった。
*
夜になって、アラゴルンは夢子の部屋を尋ねた。
夢子は親しい人間の姿を見て喜び、そして彼に感謝を述べた。
「ストライダー!ああ良かった。貴方とまた顔を合わせれて嬉しいです。私はまだこの地では心細かったのです。裂け谷では心配事など一つも無いことは分かっていますが……、なんだか私のような者には似つかわしくない場所に感じて落ち着かなかったのです」
「あんたは美しい娘だ、安心しなさい!エルフ達は美しいが、彼らとは違う美しさもこの世にはあるのだから」
「そうだと良いのですが……。しかし本当にそうかもしれません。何故なら目の前にいる貴方も、とても美しく見えるのですから」
その言葉にアラゴルンは微笑んでみせた。アラゴルンは普段の汚れた暗い色の旅装束は脱いで、代わりに銀と濃い灰色のエルフの衣装を身に纏っていた。そして美しい衣装を纏うアラゴルンは、本当にエルフの殿方であるように見えるのだった。
彼は背が高く顔立ちも整っていた。そしてその表情は疲れや苦難の色が消えうせて明るく希望に輝いていた!身のこなしは優雅であり堂々としていた。
今夜のアラゴルンはエルフの貴人たちと並んでも引けを取らないと思えるほどに立派な殿方であった。
「あのう……私もアラゴルンとお呼びしたほうがよろしいのでしょうか?アルウェン姫が教えてくださいました。貴方の本当の名前を……そして貴方がどういう生まれの人であるのかも」
その言葉にアラゴルンは一瞬だけ真面目な表情をした。それは彼が背負っている使命の重さを思い出したからだった。
「確かに私の本来の名前はアラゴルンだ。だが私はストライダーという名前も気に入ってるんだよ。だからあんたの好きなように呼んでくれて構わない」
「ありがとう……。今日の貴方は立派な方ですが、やはり私の知ってるストライダーの貴方とも変わりないようです」
「普段の私はどんな人物なのかね?」
「とても優しい方です……博識で見聞も広く、情け深くもある。確かに、さすらい人の貴方は見かけが良いとは言えません。ですが話せばとても感じが良い人だとわかります。私は貴方がとても好きなんですよ」
夢子は改めてアラゴルンの姿をじっくりと見た。
彼の灰色の瞳はいつも通り明るく希望に輝いていた。
今は旅の汚れを落として美しい衣装を纏った、背の高い立派な殿方の姿であった。しかし、勇壮さや優しさなどの精神は、さすらい人である彼と何一つ違わなかった。
「ストライダー……、いいえ、アラゴルン!私が裂け谷でエルフの方々と出会えたなんて想像すらしたことがなかった。それどころか、こうして貴方と親しくなることさえ想像してませんでした!ブリー村では貴方の評判はあまり良くありませんでした。でも噂や評判なんて全く当てにならないものですね!実際の貴方はとても立派な方ですもの」
「私はまだ何もなし得ていないのだ。そんなに褒められる人物ではないぞ!……しかし、知ってはいるつもりだったが、私はブリー村ではそんなに評判が悪いのか?」
アラゴルンは大げさに落ち込んだ表情をしておどけてみせた。
その冗談に、夢子は楽しげに笑った。それにつられてアラゴルンも同じように声をあげて笑った。
遠くからその笑い声を耳にしたエルフ達は、本来の彼らが持つ、楽しく愉快なことが好きである生まれついての性質を思い出したのだった。
そして、ブリー村から客人として訪れた、明るく楽しげに笑う愛らしい人間の乙女のことを噂しあったのだった。
*
楽しげに話す二人とは別の部屋…同じく最後の憩い館の一角で、エルロンドとアルウェンは長椅子に腰かけて話をしていた。
エルロンドの美しい顔は険しく、引き締めた口元に手を添えて深く考え事をしている様子だった。隣に座るアルウェンはそんな父親を静かに見つめていた。
エルロンドの伏せた睫毛は影を落として重々しげな表情を作っていた。夕暮れの空のような灰色の瞳は、今は雲がかかったかのように暗く見えた。
なぜなら彼は先ほどその瞳に未来を映していて、その時に見た未来によって不安に苛まれていたのだ。
今夜の裂け谷はいつものように優しい夜の風と木々のそよぐ音、そして眩いほどに輝く星が照らしており美しかった。
しかし裂け谷のエルフたちはここ数年ほどでその美しさの片隅に不穏の影が覆い始めるのを感じていた。
かの暗黒の国の冥王が、燃え上がる目を不気味に光らせているのも知っていた。そして静かに影が忍び寄るかのように中つ国の各地で自由の民の平和が脅かされていることも知っていた。
アルウェンは父親が何を見たのかを感じていた。
自由の民の希望であるアラゴルンの使命達成と、その末にある明るい未来のこと。そして、その未来に陰りがあること……。
そしてその未来に絡まった一人の人間の乙女……その乙女は豊かな茶色の髪をなびかせて、利発そうな目をしている。
「お父様は夢子様の未来をご覧になられたのではないですか?そしてその未来にはわたくしの姿も見えたはず……」
「その通りだアルウェン。あの娘の運命はお前の運命と絡まっている。私にも推し量れぬほど複雑に」
エルロンドはアルウェンの言葉を予想していたかのように、淡々と答えた。
エルロンドは先ほど垣間見た夢子の未来を思い出した。
それは、夢子とアルウェンが見つめあう姿だった。
二人の乙女の間には長い時を生きてきたエルロンドでさえも感じたことのない深い思念があった。
そしてその先には、王となり冠を頂いたアラゴルンの姿があった。
アラゴルンとアルウェンは未だ許されぬ間柄ではあるが、お互いに愛を感じ取り、想いを通わせる仲なのである。
アラゴルンは今はさすらい人として時期をはかりながら、いずれは王となり、かつて王だった先祖たちの領土……アルノールとゴンドールの地を取り戻し治めるべく、厳しい旅を続けていた。
それは愛するエルフの姫君と結ばれるために彼に与えられた試練であった。
そしてその試練はエルロンドが与えたものだったのだ。
エルロンドは深くため息をついた。
アラゴルンとアルウェンの運命の糸に絡んだ一人の人間の娘の運命。
それは中つ国の未来に関わることであったし、アルウェンの未来にも関わることであった。
アルウェンは黙りこんでしまった父親を見つめた。
「わたくしは……、夢子様は、きっと良い方向へわたくしの運命を導く者であると……そう思うのです」
「私には分らぬのだ。あの娘がお前やアラゴルンの運命にどう関わるのか……。だが、アルウェンよ。お前の運命を委ねるに値するのだと、お前自身が信じられるのなら、私は何も言うまい」
アルウェンは愛する父親の傍へ寄り、彼の手に自分の手を重ねた。
それは父親に対して尊敬と共に親愛の念を深く感じたからだった。
*
アラゴルンは一人窓辺に座っていた。月と星の穏やかな明かりと、テーブルに置かれたランプの薄明かりが彼の顔を照らしていた。
裂け谷に到着してから、もう何時間経ったのだろうか。すっかり夜も更け、夜の暗闇と静けさが谷を包んでいた。
裂け谷に建つ最後の憩い館は本や歌を書いたり、考え事をしたりするのには打ってつけの場所だった。
アラゴルンはパイプ草を吹かしながら束の間の休息を楽しんでいた。そうしていると、自然と自分の過去を……若き青年だった頃を思い出すのだった。
アルウェンとの出会い、そして…ケリン・アムロスでの誓いのこと。あの場所で、二人は愛を誓ったのだ。
それからアラゴルンは数十年にもなる長い年月を戦いや苦難の中に身を置いてきた。
ここ数年の間に中つ国の運命は大きく変化していた。モルドールでは戦の準備のために兵隊や奴隷達が集められ、指輪の僕であるナズグルの動きにも注意が払われるようになった。アラゴルンはそれらの悪しき者どもからホビット庄を守っていたのだった。
そして夢子と過ごした3か月の間にも中つ国の情勢は静かに変化し続けていた。
エルロンドはアラゴルンに助言を与えていた。
それは今日の午後に裂け谷へ着いてからのこと……夢子とアルウェンが先にエルロンドの執務室を後にした時のことだった。
「暗黒の国の勢力は増し、鳥や獣の様子も落ち着きがなく騒がしい。夜の闇はより濃くより暗さを増した。そして悪い予感がする……。未来を見た訳ではないが、すぐ間近にある未来に何かが起こるだろう」
「ではサウロンが……?」アラゴルンは思わずその名前を声に出してはっとした。「かの忌まわしき冥王の名は、この美しい谷には似合わない。しかし……何れは戦わねばなりますまい。そしてそれは近い未来であるのですね」
「その通りだ」エルロンドは重々しげな表情をしてアラゴルンを見つめた。「必ず戦わねばなるまい!そして、アラソルンの息子アラゴルンよ!この時代において、そなたは人間達を……いや、自由の民を率いることの出来る唯一の人物である。今はホビット庄を……その地に隠されている物と、その持ち主を守られよ。そのうち、運命のほうからそなたを誘い、導きに参るであろうから」
エルロンドの言葉を思い返すたびに、自由の民の敵である冥王のことや暗黒の国の軍勢…、それらとの戦いのこと、そしてそれらに脅かされる民のことも…頭の中に浮かぶのだった。
激しい戦いや、厳しい節制の生活……夜風に吹きつけられ、冷たい雨や雪にさらされ、幾度となく死を覚悟した張りつめた緊張の日々。
それは辛く苦しいものであった。本来であれば耐えがたいものだった。
だが彼は決して逃げ出さなかった。苦しい時にはいつも心の片隅に住まう愛しいエルフの姫君の姿を思い出すのだ。そうすると心の底から望みや希望が湧き出て、どんな苦難にも耐え抜けるのだった!
アラゴルンにとって、アルウェンは愛しい人物であると同時に、己の使命の達成においての目的でもあり心の支えでもあったのだ。
彼の望みはゴンドールの復興だけではない。彼の心の望みは……夕星の光を身に纏う、ひとりの美しい婦人を后として迎えることだった。
明朝、まだ日が昇る前にアラゴルンは裂け谷を後にした。
ホビット庄を守るという現在の任務に戻るためだった。
アラゴルンは見送りに来たアルウェンと暫くの間見つめ合い、そして旅立った。
アルウェンは彼の姿が木々の狭間に隠れて見えなくなるまで、彼の足音が聞こえなくなるまで、静かにその場に佇んでいた。
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