alone flock -ひとりぼっちの群れ-

『物忘れ乙女と蜥蜴男』


「グレイグ、この花は何?」
「それはボノノだ」
「この花は?あっちの花は?そこの花は?」
「おいおい、そんないっぺんに聞くなよ、ビビ」

 ひとつひとつの花の名前を尋ねながら、その色取り取りの花が咲き乱れる草原を少女は駆け回る。
 ふわりと純白のワンピースを翻し、楽しげにくるくる回る様子はまるで花びらをいっぱいに広げているようだった。少女の白銀の髪がゆるりと揺らぎ、澄んだ青い瞳を覗かせるそこには笑みがたたえられている。が、その表情はどこか張り付けただけのような、心を伴わない空ろなものに見えた。
 少女の笑いかける先には一人、と呼ぶのが正しいのか、人とは似ても似つかない容姿をした男が立っていた。
 その男は人間と同じように直立し二足歩行しているが、その風貌はトカゲそのものだった。ぎろりと鋭い眼光に、背丈は二メートルほどもある大きなもので、全身を頑丈そうな鱗に包まれ、振れば軽々人を薙ぎ払えそうな長く太い尾を持っている。また口には鋭い牙を、手足の先には黒く尖った爪を携えていた。
 一見獰猛そうなその姿に畏怖を抱きそうになるが、その表情はどこか優しげで金色の瞳を細める仕草は微笑んでいるように見えた。

「ねえ、この花は?」

 少女もそんな蜥蜴男に恐れる様子もなく、その鱗に覆われた腕を取ると急かすように引く。蜥蜴男はやれやれといった様子で少女の後を付いていき、ひとつひとつ花の名前を教えていった。
 花々の咲き乱れる草原で戯れる少女と蜥蜴男という組み合わせはなんだか異様なものであったが、二人の穏やかな雰囲気からか不思議と馴染んでるようにも見えた。

「俺みたいなのが花なんかに詳しいなんておかしいだろ?」

 蜥蜴男は「ひとやすみ」とでも言うように転がっている岩を椅子にするとどかりと座りこんだ。少女はというとまだ一人で草原を転がり回って遊んでいる。

「昔嫌ってほど教えられたんだよ、あいつに」

 そう言うと視線を少女に移す。呆れたようなうんざりしたような口調でそんなことを言いつつも、少女を見る蜥蜴男の表情はどこか優しく慈愛に満ちているように見えた。

「そのあいつはもうほとんど忘れちまってるけどな」

 ぽつりとそう呟くと蜥蜴男は寂しげに瞳を伏せた。

「花だけじゃない。忘れちまってるんだ、あいつは何もかも、昔のことも、昨日のことすらな」

 少し冷えてきたな、そろそろ冬も近くなってきたか。そんな言葉を挟みつつ、蜥蜴男は葉巻を取り出しその端の片方を切り取った。
 その葉巻は特別なものらしく、身体の体温を上げる効果があるらしい。彼ら、リドルと呼ばれる蜥蜴男たちの種族はトカゲ同様に、外部の温度により体温が変化してしまい寒さを苦手とする。そのため冬を過ごすための必需品となっていると耳に挟んだ。

「少し、昔話でもしようか」

 葉巻の先端が均等に着火したことを確認すると、蜥蜴男はそれをゆっくりと吸い始めた。

「あいつと初めて会ったのも今くらいの季節だった。俺は死にかけてたところをあいつに助けられたんだ」

 俺達リドルと人間の仲は険悪で、出くわせば殺し合いをするほどだったにも関わらず、だ。蜥蜴男はそう続ける。
 その時もそうだった、運悪く一人でいるところを人間達に出くわし、殺されかけ、命からがら逃げ出した。

「小さな洞穴に身を隠したのはよかったが、そこで俺は力尽きて動けなくなり、ここで死ぬのかと思い至った」

 そんなとき、蜥蜴男は少女と出会った。初めて会ったその時も、少女は両手いっぱいに花を抱えていた。
 あいつは俺を見つけるなり、何をしたと思う?蜥蜴男は苦笑する。
 両手に花を抱える少女は、怯えを抱くことなく、嫌悪を浮かべることなく、怪我を負った蜥蜴男のそばへと寄り添った。

「虫の息な俺にトドメを刺すわけでもなく、仲間を呼んで知らせるわけでもなく、あいつ、俺の怪我の手当なんかし始めたんだぜ?」

 敵対し殺し合いをするほどの相手である俺を。
 少女は蜥蜴男に臆することもなく、毎日のように会いに来ては怪我の様子を見、持ってきた花を洞穴に飾っては花の話を聞かせた。

「初めのうちは俺も人間なんかに気を許すつもりなんてこれっぽもなかったんだが、気付けば絆されあいつといるのが楽しいとさえ思っていた」

 おまけにあいつが毎日しつこく花の話ばかりするせいで、おかげで俺はお花博士になっちまった。と蜥蜴男はうんざりしたように言いつつ笑う。
 葉巻を吸い、煙を吐く。目の前をゆらゆらと揺らぎながら消えていく白に、少女との在りし日を思い重ねる。
 彼女は花が咲くように笑うひとだった。

「そういえば、おまえと初めて会ったとき持ってた花、あの花はもう持ってこないのか」
「アメリアの花のこと?あの花はあの季節にしか咲かないの」
「そうか、あの花、わりと好きだったんだけどな」
「そうなの?じゃあまた次の季節には見せてあげるわ!」

 ――だが、その時の約束は果たされることはなく、少女のあの笑顔ももう今では見れなくなってしまった。

「秋が過ぎ、冬を越し、春になる頃には、俺の傷はすっかり良くなっていた」

 いや、本当は傷なんてとっくに良くなっていた。だけど蜥蜴男は少女といるのが楽しく離れがたくなっていた。ここを離れればもう今までみたいに会うこともできなくなるだろうと、ぐずぐずと別れを引き延ばしていた。

「それが悪かったんだ」

 蜥蜴男は重く言葉を吐きだす。
 いつものように少女が帰るのを見送った後、蜥蜴男は異変に気付いた。少女がいつも帰る道、少女の住まう村がある方角から、血と煙の臭いがした。蜥蜴男は慌てて少女の後を追い掛けた。
 辿り着いた先で蜥蜴男が見たのは、真っ赤な炎を上げて燃える少女の村と、そこら中に転がる人間の死体、そして、同じようにそこで息絶えていたリドルたちの死体。

「……俺の弟達だった」

 蜥蜴男は察した。
 弟たちは帰ってこない蜥蜴男が人間に殺されてしまったのだと思ったのだろう。そしてその復讐をするために普段ならば踏み入れない人間の縄張りを襲い、皆殺しにした、……相討ちになる形で。

「皆残らず死んじまったんだ、リドルも人間もな、俺がさっさと帰らなかったばかりに、俺のせいで」

 だけど、あいつは、あいつだけは、助かった。あいつが帰ったころにはすでに全部終わっていたらしい。
 燃え盛る村を前に少女は、泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして、枯れるんじゃないかというくらい声を上げていた。

「あいつのあんな顔は、あんな声は、後にも先にもあの時が初めてだった」

 炎の勢いが強くなり、このままここにいるのは危険だと感じた蜥蜴男は少女を抱えてその場から逃げた。
 いつもの洞穴に戻った。
 少女ははそれから一週間、ずっと眠り続けた。

「俺は怖かった、あいつがこのまま目を覚まさないことも、……あいつが目を覚ますことも。俺はどうやってあいつのそばにいればいいのかわからなかった」

 それからちょうど一週間、朝だった、少女は何事もなかったかのように目を覚ました。
 蜥蜴男は少女が目を覚ましたことに喜んだが、同時にやはり怖かった。少女の住処がめちゃくちゃになったのは俺のせいだと、少女に恨まれ憎まれてるんじゃないかと。
 蜥蜴男が何も言葉が出ずに押し黙っていると、少女が口を開いた。

「あなた、だあれ?」

 少女は魂でも抜けたような、空っぽな笑顔でそう言った。

「それから毎日、あいつは目が覚める度に記憶が空っぽになるんだ」

 蜥蜴男は長い話を終えると、ふうっと煙を吐きだした。大量の煙が空に昇っていき、すうっと消えていく。

「でも、俺のことは一応覚えてるらしく、名前を言えば思い出してくれるんだ。……本当にわかってるのかどうかは怪しいがな」

 俺はグレイグだ。ああそうだったわグレイグね。って、毎日毎日、飽きもせずに、俺達の朝はそうやって始まるんだ。
 蜥蜴男はそう言って笑うが、だが、と言葉を続けると表情を暗くした。

「もしも、あいつが俺のことを思い出さなくなったらって思うと、怖くて仕方ねえんだ」

 勝手な話で、どの面下げてほざくんだって話だけどよ。と蜥蜴男は続ける。
 俺は、罪滅ぼしがしたくてあいつといるわけじゃねえんだ。あいつがああなったのは俺のせいだって罪悪感はもちろんあるが、それが理由じゃないんだ、そんな気持ちで一緒にいたいわけじゃねんだ。と。

「ただ、あいつと一緒に生きたかったんだ、俺はあいつと一緒に、こうやって」

 だから、忘れられるのが怖いんだ。
 一緒に過ごした思い出を忘れられても、あの頃のような笑顔を見れなくなっても、それでも、自分のことは覚えていてくれた、思い出してくれる。
 蜥蜴男にとって少女は少女に変わりなかった。記憶が空っぽになっても、少女の全てが空っぽになるわけではなかった。
 こんな形になっちまったが、きっとこんな形でしか実現しなかったがな、勝手だけどよ、俺はそれでも――。

「辛気臭い話聞かせて悪かったな旅人さんよ」

 蜥蜴男は最後に大きく煙を吐き出すと葉巻の火を消し立ち上がった。
 あいつ、放っておくとすぐ俺の目の届かないところまで行くからな。と、遠くなった少女の姿を追うように歩みを進め、「じゃあな」と手を振った。

「ビビ、あまり勝手に行くな」

 蜥蜴男が呼びかけると少女はすぐに駆けてきた。
 蜥蜴男の心配を余所に、少女は相変わらず空っぽの笑みを携えたまま両手いっぱいに花を抱え楽しそうにしている。花の名前を忘れても、花が好きなことは覚えているようで、記憶があってもなくても変わらない少女のそんな部分に少し安心をする。
 花を抱えた少女が近寄ってくる、すると、ふとどこか、懐かしい匂いがした。

「この花」

 少女が一輪、花を差し出す。
 その花に、蜥蜴男は懐かしそうに目を細める、そういえば、結局あれ以来見たことがなかったな。

「その花は――」

 もう、果たされることのない約束が、あの日々の思い出が頭を巡った。











「アメリアの花よ」

 少女の言葉に、蜥蜴男はぴたりと動きを止めた。
 少女の口から出たその名前は、あの時の約束の花の名前。

「なんで、」

 その花の名前を少女が知る筈がない、教えた記憶がない。
 少女の記憶は毎日眠りにつく度に消えてしまう。蜥蜴男の好きな食べ物も、教えてもらった花の名前も、同じことを毎日のように聞き覚えるが、新しい朝を迎えれば全部忘れてしまうのだ。
 それが、今日初めて見た、それどころか出会った日から今まで目にすることのなかった花の名前を、蜥蜴男が口にしたことのない花の名前を、少女が口にできるはずがない。
 蜥蜴男が状況を理解できずにいると、少女は不思議そうな顔をした。

「この花はこの季節にしか咲かない花だから、次の季節になったらまた見せてあげるって言ったじゃない」

 忘れちゃったの?と少女がそんなことを言う。
 蜥蜴男の胸に、何かが込み上げてきた。
 その込み上げる何かを言葉として上手く出すことが出来ず、おまえが言うなよ、と悪態だけが飛び出す。違う、そうじゃないだろ、蜥蜴男は首を振る。
 いつの日かの約束を、果たされることがないと思っていた約束を見せる少女は、いつの日かと同じように、花が咲くように笑った。


「もう、グレイグったら、何を泣いているの?」
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