alone flock -ひとりぼっちの群れ-

『吸血鬼と旅人』


 それは軽やかに、くるりと弧を描くよう宙を舞った。そして真上に来たところで一直線に降下すると、そのままガンッと冷たい床の上に叩きつけるよう人影を押し倒した。背中を強く打ち付け一時の間痛みに呼吸が止まる。

「何しに来た、人間」

 金色の瞳に鋭い牙を携えた少女は自分の下で呻く旅人に尋ねた。

 深い森の奥に忘れ去られてしまったように寂しく佇む古びた教会があった。
 人足が途絶えてから随分と経つのか、長年手入れもされていないらしい建物の壁や床は老朽化し今にもボロボロと崩れ落ちそうで、あちらこちらには蜘蛛の巣が掛かり埃も積もっている。教会内は暗く灯りが灯っておらず、窓から差し込む月明かりだけが頼りだった。

 そんな中、祭壇の前、掲げられた十字架の下に影が二つあった。
 ひとつは押し倒されたまま仰向けに転がっている旅人。痛みで表情を強張らせながらも柔和な笑みを浮かべていた。
 ひとつは旅人を床に叩きつけそのままその上に跨っている少女。感情のない顔と冷めた目で旅人を見下ろしていた。

「何しに来た」

 少女は再度言葉を投げ掛ける。それと同時に少女の小柄で華奢な体からは不釣り合いで想像もできないような力が、――人間のものとは思えないような力が、ガッシリと掴まれた旅人の肩に掛かる。旅人は痛みにまた少し顔を歪めた。

「この教会は吸血鬼が住んでる怖い場所って噂、知らない?」

 ほら、と少女は部屋の片隅を指差す。そこには重ねられた人骨と干からびてミイラのようになった動物の死骸が幾つも転がっていた。

「教会に吸血鬼って不釣り合いだね」

 しかし、その凄惨な光景を目にしても旅人の顔色も態度も変わることはなかった。へらりとした笑みを見せながら呑気にそんなことを口にする。

「もしかして、君がその吸血鬼かな?」
「そう。あなたもああなりたい?」

 怖がる様子を欠片も見せない旅人に、吸血鬼である少女は鋭い牙をちらつかせながら肯定する。感情のこもっていない声色と、無表情の瞳に情けも慈悲もないような冷酷さを秘め旅人を見下ろす。が、旅人はそれに対しても怯えることもせずに変わらず笑顔を見せる。
 力を見せ付けるも、正体を明かすも、吸血鬼に組み敷かれているという状況にも、旅人は軽薄な態度を変えない。吸血鬼と言えど少女の姿をしていることで侮られているのかもしれない。吸血鬼は旅人の肩を掴む手にもう一度力を込めると尋ねる。何しに来た。

「泣いている声が聴こえてんだ」

 旅人は口元に笑みを残したまま、先程までとは違いどこか真剣な眼差しを向けてきた。
 泣いている声?と吸血鬼は繰り返す。この人間は何を言っているのだろうと首を傾げた。泣き声なんか聞こえるわけがない、だってここには私しかいない、他には誰もいない、そしてその私は泣いたりなんかしない。
 ――涙なんて遠い昔に枯れ果てたのだから。

「やっぱり、君が泣いてたんだ」

 吸血鬼のそんな思いとは裏腹に、旅人は確信したようにそう呟くとまた笑顔を見せた。
 一体いつ私が泣いたと言うのだ。理解のできない言動ばかりを繰り返す旅人を吸血鬼は怪訝そうに見つめる。

「私は泣いたりなんかしない、……化け物は泣いたりなんかしない」

 吸血鬼は自嘲気味にそう呟いた。
 化け物、なんて言ったが本当は人間にも化け物にも成り切れないただの成り損ないだ。

 涙が枯れる頃よりもまた遠い昔、吸血鬼はただの人間だった、小さな村で両親や村の人間たちからの愛を目一杯に受け幸せに暮らすただの一人の女の子だった。
 しかしそんな女の子の幸せは唐突に呆気なく幕を閉じた。
 女の子の一家は化け物に襲われた、両親は化け物に全身の血を吸われ殺され、女の子もその時に両親と一緒に殺された、――殺されたはずだった。しかし女の子はただ一人生き長らえた。生き長らえた……というより死に損なってしまった。
 両親を殺した化け物と同じ力を身につけて。

 それからの女の子――吸血鬼になった少女はずっと一人だった。

 化け物の力を得てしまった少女は人間の中で生きていくことができなくなった、しかし化け物の中で生きるにはその力は弱く不完全なものだった。
 少女は人間にも化け物にもなれず、どこにも居場所のないなり損ないの吸血鬼なのだ。

「ここにはその化け物しかいない」

 居場所のない吸血鬼は森の奥に人気の無い古びた教会を見付けた。
 両開きになった扉を開ければこじんまりとした身廊に長椅子が並び、その奥には祭壇と十字架が掲げられ、そして教会内のあちこちには人間の亡骸が転がっていた。
 吸血鬼にはここで一体何があったのか知る由もなかったが、この場所とこの状況は自分が身を置くには都合良く思えた。ここならきっと人間も化け物も寄り付かないであろう。
 吸血鬼はもう誰とも関わりたくなかった、どうせ傷付けられるだけだ。

 人間のふりをしても異質な力を恐れられ迫害され、化け物のふりをしてもひ弱な力を嘲笑われ迫害されてきた。
 ただ居場所の欲しかっただけの吸血鬼は人間と化け物の双方から痛め付けられ傷付けられその度に涙を流し、そして居場所を求めることを諦めた頃には涙も枯れ果ててしまった。

 下に敷く旅人を鋭く冷めた眼光で見下ろす。
 ――弱さを悟られてはいけない。
 化け物はもちろん、化け物の力を恐れていた人間であろうと、相手が自分より弱者だと知るや否や異端を虐げようと牙を剥く。
 吸血鬼はもう一度旅人の肩に掛ける手に力を加えようとする。

「――大丈夫、怖くないよ」

 思いがけない言葉が投げかけられ吸血鬼はその金色の瞳を見開く。

「僕は君を傷付けたりしない」

 その声色は幼い子供に話し掛けるよう優しく穏やかだった。
 吸血鬼は自分が押さえ付け体の自由を奪うよう組み敷いている人間をただ見つめる。この状況で、自分のことを怖がっていないと言うどころか自分に怖がらなくていいと言ってきた。

「怖がるのは、あなたでしょ」

 吸血鬼は戸惑いながらも、それを面には出さないように、そう口にする。
 しかし旅人は「なんで?」と柔らかく笑った。怖がるものなんて何もないよ。

「僕の目の前には、ひとりぼっちで泣いてる寂しがりやな女の子しかいないよ」

 瞬間、吸血鬼の顔から強張りが解けた。緊張の糸が解けたような、唖然とした表情だけが残る。
 じわじわと、胸に何かが染み込み広がってくのを感じた。
 それはその身の奥から次第に滲み出て、泉が湧き出るかのように刻々と込み上げてくる。そしてそのまま止まることを知らず徐々に胸から喉元へ広がってゆき、ついには抑えきれずに両の目から溢れ出した、――枯れ果てたと思っていた涙となって。

「――うっ……、ぁ…」

 なんで。
 言葉の代わりに嗚咽が漏れる。まだ少し半信半疑の震える手で自分の頬に触れると、絶えず流れる雫が指を伝った。その感触に触れた途端に吸血鬼は糸が切れたようにわっと泣き崩れた。

 人間でも化け物でもなく、どちらにもなれない自分のことをただ一人の女の子として見てくれた、そんな自分を見つけてくれた。
 何故かたったそれだけのことにひどく心が震えた。

 今まで散々泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて涙が出なくなるまで泣いてきたが、こんな風に泣いたことがあっただろうか。久方ぶりに流れた涙はそれまでのものとは違い、胸が張り裂けるような痛みは伴わなかった。
 吸血鬼は両の手で顔を覆って泣きじゃくる。旅人は押さえ付けられていた力から解放されると、体を起こし震えるその肩にそっと手を伸ばした。そのまま、吸血鬼の小さな体を優しく抱きしめる。

「自己紹介が遅れたね、僕は名も無いただの旅人、ノーマッドという呼び名で通っているよ」

 吸血鬼が泣き止み落ち着くのを待ち、旅人は改めて吸血鬼と向き合った。
 君は?と尋ねるその顔は変わらず柔らかな笑みを浮かべていて、落ち着いた振る舞いの中にどこか子供っぽい人懐っこさを感じた。
 ――名前を名乗るのなんて何時ぶりだろうか。
 そんなことを思うと吸血鬼は少し照れ臭くなり、伏し目がちに答えた。

「私はレイチェル」
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