甘い世界へようこそ 初出:2020年5月6日
「寝れないならもう帰れば?」
手洗いから戻るついで、応接スペースに寄る。
ソファの上で丸くなっている新人の、くしゃくしゃ頭をひと房摘まんで引いた。
──あぁ、今日も昏い。
新人──太宰──が枕代わりの腕から顔をかすかに上げる。
覗いた瞳は底の知れない闇の色で、僕はやれやれと肩を竦めた。
太宰はよく昼寝している。
朝も夕方も関係なくごろごろしている。
大半はただのサボりだけれど、ときどきこうして手負いの獣のようにじっと息を潜めていることがあった。
まるで置いてきたはずの闇から身を隠すように。間近に迫ったそれが再び自分から興味をなくすのを待つように。
どろりと濁った目はよく知っている。もっと夜の、深い深いところにいる人間が持つものだ。
「……気が変わった」
僕は一つ頷くと、太宰の腕を取る。
驚いて筋肉に力が入るのが分かったけれど、構わず引いた。
「暇ならつき合え。最近気に入りの店があるんだ」
ソファから起き上がらせ、さらに引いて立ち上がらせる。
太宰が唖然と目を見開くのに口端を引き上げ、次いで部屋の奥に声をかけた。
「国木田ー。こいつ借りるぞ!」
「えっ!? はっ!? ちょ、ちょっと待ってください! そいつはまだ仕事が!」
「いーのいーの」
国木田が喚くが知ったことじゃない。
僕は咄嗟に反論もできずにいる太宰の背を押した。
こいつの仕事は考えること。
どうせ今のままではろくな案は出ないだろう。全部没ばかりだ。
社にいても無駄なだけだが一人にするのも不正解。だったら僕がつき合ってやろう。
「あ、あの、乱歩さん」
「なにしてんの。扉開けて」
出入口を前にしてようやく太宰が口を開く。
戸惑いを浮かべてこちらを窺う様子が小さな子供みたいだった。僕よりずっと背が高いくせに。
「そこはな、黒蜜がおいしいんだ。甘くはないけど寒天も悪くない」
「ええと」
「ほらほら早く」
あんみつもみつ豆もおいしかった。
まだメニューは吟味中だが、太宰にならいち早く教えてやってもいい。
なにしろこいつは探偵社の中で、僕の次に頭がいいんだから。
「はーやーくー」
背中に手を当てたまませっつき続けていると、太宰がようやく扉に手を伸ばす。
おずおずとノブを掴むのに、僕はにんまりと笑った。
実にならないことなら考えるだけ無駄だ。
じっとしているしか方法を知らないなら僕が教えてやろう。
そういうときは外の空気でも吸って、おいしいものを食べれば万事解決だよ!
了
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太宰がまだ探偵社に入って間もないころの話。外面は取り繕えてもまだ馴染みきれてない時期があったらいいなと思っています。入社試験なんてマーブルもいいところですし。
うちの乱歩さん、すぐ太宰に甘いものをあげようとする……。好きなものを分けたいと思うのはわりと分かりやすい愛情表現ですよね。
黒蜜がおいしいのは船橋屋で、寒天がおいしいのは竹むらです。
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