このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

名前はまだない 初出:2018年4月29日


「やぁ、中原中也君!」
 目の前に男が立っていた。
 馴れ馴れしく名前を呼んで片手を上げるのに、中也は眉をひそめる。
「なんだ手前」
 男は中也が手を伸ばせば届きそうな距離に立っていた。
 だというのに、なにも「見」えない。
 男だということは分かるが顔も分からず、服装すら認識できない。
 異能力者だろうか。奇妙な感覚だ。
 中也は動揺を悟らせまいと眼光を鋭くする。
 だが大の男でも怯むはずのそれも、目の前の男にはあまり効果がないようだった。
「おめでとう! 君はやり直すチャンスを得た!」
「……やり直す?」
 道化めいた仕草で両手を広げる男に、ただ言葉を反芻するしかない。
 真意を問う前に、男が指を二本立てた手を突きつけてきた。
「君が選べる道は二つ! 太宰治と出会う道と、太宰治に出会わない道だ!」
「はぁ……? なに言ってんだ手前」
 どうして太宰の名前が出てくるのだろう。
 ますますわけの分からない展開に、中也は唇を歪めた。
 太宰治。中也の相棒。そして最も嫌いだと言って憚らない相手。
 確かに太宰治という存在は中原中也にとって汚点以外のなにものでもないが、それとこれとは別だ。時間は巻き戻らないと決まっている。
 まさか本当に過去に戻って人生を歩み直せるわけがない。
「……おい、なんか言えよ」
 だが謎の男は、ピースサインにも似た形をした手を中也に向けたまま黙っている。にこにことしているのだけは伝わってきて気味の悪いことこの上なかった。
 しかもそうされていると、まさか本当に? という気分になってくるからどうしようもない。
「……たとえば、会わない道を選べばどうなる?」
「さぁ?」
 慎重に口を開けば、男はスイッチが入ったかのように動き出した。
 大袈裟に肩を竦めると、その場でくるりと回る。
「君はずっと羊の王でいられるかもしれない。それともやっぱり荒覇吐を追ってマフィアに辿りつくのかな。やってみないと分からないなぁ」
「……太宰は」
 ぽろりと言葉が転がり出た。
 なにやら楽しそうに肩を震わせていた男がぴたりと動きを止める。
 不思議なものを見るような様子で首を傾げた。
「それこそ君の知ったことじゃないのでは? 太宰治は森鴎外と出会わない。したがってマフィアには入らない。ただそれだけのことだ」
 つまり太宰はそこで死ぬ、か。
 中也は心中で呟く。
 きっかけは、当時まだ医師をしていた森鴎外のもとに、自殺未遂をした太宰が担ぎ込まれたことからだと聞いている。
 別の医師のもとに担ぎ込まれるか、そのまま打ち捨てられるか。どちらにせよ太宰治はその時点で死ぬ。きっとそういうことなのだろうと理屈ではなく理解した。
 それは年中死にたがっている太宰にとっては願ってもない道なのかもしれない。
 中也自身もきっとあの悪魔的な男に悩まされることもなく、今より平穏な日々が送れることだろう。
 だが。
「出会う道だ。今の人生をやり直す気なんてねぇよ」
 フンと鼻を鳴らして中也は答えた。
 今、進んでいる道が紛れもなく中原中也の選んだ人生だ。
 たとえ嫌悪してやまない男がのうのうと生きていようとも。
 出会ってまだ数ヵ月しか経っていないが、太宰がいたからこそやれたこともたくさんある。悔しいが、もはや太宰がいない人生なんて考えられないのだ。
「……見かけによらずドMだねぇ君」
「アァ?」
 首を傾げたまま止まっていた男が再び動き出す。
 中也の凄みにも動じず、呆れたように息をつくと芝居がかった仕草で腹に手を当てて一礼した。
「ならば行くがいい。自ら選んだ地獄をね」
 ふ、と顔を上げる。
 にや、と笑った表情が突然はっきりと見えた。
 少年だ。
 蓬髪にやけに整った容貌。
 よく知った顔に中也は目を見開く。


「だ、ざ……っ」
 ばちっと目が開く。
 途端、至近距離からこちらを覗き込む目とかち合った。
「……え」
 涙を湛えた瞳が大きく見開かれる。と、弾かれたように離れていった。
 大きな動きに転がり落ちた雫がぱたぱたと中也の顔に降りかかる。
「……つめてぇ」
 掠れた呻きはうまく声にならない。
 何度か空咳をすると体中に鈍い痛みが走った。
 ベッドの上だ。
 無機質な小さな部屋。
 傍らには物々しい機械が設置され、規則正しく電子音が鳴っている。そこから伸びた線が布団の下で中也の体に繋がっているようだった。
「なんだ、起きたの」
 前後の記憶が繋がらなくて、中也がぼんやりと考えを巡らせていると傍らから声がかかった。
 つんと澄ました冷たい声。
 目を動かすと蓬髪のシルエットがあった。太宰治。
 夢ではなく、今度は本物だ。
 部屋が薄暗いせいで表情はほとんど分からない。
「……手前、なに泣いてんだ」
 目覚めの瞬間に見たものと、目の前にいる男が一致しなくて素直に首を傾げてしまう。
 と、太宰が顔を顰めたような気配がした。
「見間違いじゃない? 怪我して頭もおかしくなったの?」
「嘘つけ。しょっぺぇ」
「ちょっと、なに舐めてるのさ」
 中也が唇の近くを濡らすものをぺろりと舐めとると、慌てたような声が上がる。
 タオルが顔に押しつけられて、ぐいぐい拭われた。
 味覚をきっかけに、いろいろと戻ってくる。
 そうだ。怪我をしたのだ。

 もともと作戦参謀をしていた太宰を狙った超遠距離からの狙撃だった。
 タイミングを計っていたのだろう。中也は汚濁を使った直後、気を失う一歩手前の状態で。
 異能で防ぐこともできない。それでも。
 咄嗟に体を投げ出していた。

「手前、怪我は」
「知らない」
「……オイ」
 ぽい、とタオルを放った太宰が不機嫌そうに顔を反らすのに苛立つ。
 人も殺せそうな中也の低い声に、しばらく黙っていた相手はただため息をついた。
「……ないよ。莫迦だね。僕なんて庇ってそんな怪我をして。僕はいつ死んだっていいのに」
「仲間は守る。そんだけだ」
「……そう」
 迷いはなかった。
 太宰は初対面からいけ好かない男だったが、今は同僚で相棒だ。中也の辞書に仲間を見捨てるなんて言葉はない。
 背中に銃弾を数発受けたのは覚えている。
 もろとも地面に倒れこんで、すぐに意識を失ってしまったから気がかりだったのだが、太宰が無事ということはおそらく狙撃手も始末できたのだろう。
 今現在、体がうまく動かないのだけは難点だが概ね満足な結果だった。
「最悪……」
「太宰?」
 傍らの痩身が傾ぐ。
 体を折ると、ぽす、とシーツに蓬髪を預けてきた。
「さすがにもう起きないと思った」
 独り言のような呟きに、中也は瞠目する。
 太宰の表情を窺い知ることはできない。
 だが本気で心配していたらしい。それに中也のしたことに多少なりともショックを受けているようだった。
 珍しく弱った様子の太宰に、中也は己の未熟さを痛感する。
 仲間を守るだけでは駄目なのだ。同時に自分自身も守らないと本当に守ったことにはならない。
「……駄目だよ中也。君はカミサマなんだから、僕より先に死んでは」
「なんだそりゃ。知らねぇよ」
 表情が見えないままの言葉はどこか縋るような音を含んでいて、中也はわざと強く突っぱねる。
 確かに中也の出生は人とは違うかもしれない。
 だが肉でできた体があって、命がある。怪我をすれば痛いし血も流す。
 目の前の少年とどこも変わらない。
 中也は太宰の自殺癖に毎回辟易しているというのに、勝手に「消えないもの」と安堵の対象にされても困る。
「……まぁ、今回は悪かったよ」
「本当だよ。今度は僕の終わりの邪魔をしないでよね」
「そういうことじゃねぇよ」
 ぱっと顔を上げた太宰はもう見知った表情をしていた。
 こうしてすぐに本心を隠してしまう相棒に、中也は複雑な気持ちになる。
 と、太宰がにこりと笑った。
「そうだ中也。今日はなんの日か知ってる?」
「はぁ? どれだけ寝てたのかも分からねえのにそんなん……」
「はっぴぃばーすでぃ、でぃあ、ちゅーやぁ」
 出し抜けな質問に眉をひそめると、太宰が囁くように一節歌う。
 案外うまい。ではなく。
 はたとして中也は目を見開いた。

 五日。

 瞬時に叩き出される日数に眩暈がした。
 今日が四月二十九日であるなら、中也は五日も眠っていたことになる。
 それはさすがに心配されても仕方がないではないか。
「うふふ」
「おい、痛ぇ」
「まぁまぁ。痛み止め効いてるでしょ?」
 腰を上げた太宰がベッドに座り、胸の上に頭を乗せてくる。
 鈍い痛みと重みに文句を言えば、どこ吹く風と聞き流された。
 耳を胸につけた太宰が目を閉じる。
「残念だねぇ。誕生日には好きなもの驕ってあげるって言ってたけど、反故だ」
「はぁ? 治ってからでいいだろ」
「なに言ってるの。誕生日は一日きりだよ? こんな日に怪我してる君が悪いのさ」
 けち臭い言葉に顔を顰めるが真理ではある。
 それに太宰の声が案外静かなので怒りまでは湧いてこなかった。
「来年に持ち越しかな?」
「くそ、来年はもっといいもの要求してやるからな」
「いいよ? 君と僕が無事でいられたならね」
 三百六十五日後。
 マフィアという明日をも知れない職業に、自殺嗜癖の少年。
 来年の四月二十九日にお互い元気で立っている確率はどれだけあるのだろう。
 だが中也は勝率の低い賭けも嫌いじゃなかった。
「……なぁ太宰」
「ん?」
 呼べば、中也の上で子猫のように丸くなって今にも眠りそうだった少年がうっすらと目を開ける。
 中也が口をぱくぱくと動かすと、面倒くさそうに身を起こした。
「なに、聞こえない」
 覆い被さるように顔を覗き込んでくるのに、中也は不自由な体に力を入れる。
 苦労して一瞬だけ上半身を持ち上げると、太宰の唇に自分の唇を押しつけた。
 キスとも言えない掠っただけの接触に、それでも中也は満足してベッドに背を落とす。
 太宰が目を零れんばかりに見開いた。
「前借りだ。来年、もっとスゲーことしてやる」
 不敵に笑ってみせると、口をあんぐりあけた太宰の頬が暗闇でも分かるほど赤く染まる。
「……ば、っかじゃないの!?」
 喚くとそのまま部屋から飛び出して行ってしまった。
 突然のことに、中也はその背中をぽかんと見送る。が、次第にこみ上げてきたものに肩を震わせた。
 体中が軋んで痛んだが、思いがけず暴いてしまった太宰の子供っぽさに、笑いはなかなか治まりそうもない。

 あの道化の提案に乗らなくてよかったと中也は思う。
 太宰がいない道を選んだところで本当に人生をやり直せたかどうかは分からない。だが、恐らく中也は目を覚ますこともなくあのまま死んでいたのだろう。
 川ではなかったが、きっとあれが分岐点だった。
 死ねばこんなに楽しいこともなかったのだと思うと、選んだ道は大正解だ。
 太宰治という人間は強烈で、ときに最高にうんざりし、ときに最高に面白い。
 それを簡単に手放せるはずもなかった。

 この感情に、名前はまだない。



-------------------------------------------------------

初めてした誕生日祝いは中也十六歳設定でした。ストームブリンガー読了前なので距離がだいぶ近い。
私が書くと僕君めっちゃ子供になってしまいます……。
十五歳で中也に見惚れていた太宰が強く印象に残っているのですが、ストブリでも大概だったのでもうずっとそうなんだろうなと深く頷きました。
太宰は一目惚れだし初恋だし、中也はンだこいつ……とか思いつつ徐々に目が離せなくなっていくし、中太は喧嘩が絶えないけど精神面はわりと円満な印象です。やっぱり運命なんですよ……(何度言うのか)。
アップしたとき、中也実は八歳なのでは? とか言ってましたがそこらへんの疑問も解消されてよかったですね。日付の謎は永遠なんだろうな……。
1/1ページ