芥樋/バレンタイン大作戦 初出:2018年2月14日
「先輩、よければお一ついかがですか?」
三時。
時計を確認して、私はおもむろに菓子袋を開けた。口を隣の席に座る彼に差し出す。
その手は震えていないだろうか。
その声は上ずっていないだろうか。
一月某日。
本日これより私、樋口一葉は極めて重要な任務のため行動を開始する。
「…………」
芥川先輩は私の差し出す袋をじっと見つめ、次いでこちらに視線をよこした。
まるで「これはなんだ」と言わんばかりの表情に、ただでさえ緊張で暴れまわっていた心臓がさらに大きく跳ねる。
「き、キャンディです! その、今日は机仕事が多いですし。脳の疲労には糖分がいいんです」
冷静に。冷静に。そして簡潔に。
努めて無駄のないよう、不自然にならないように心がけ、袋の中身がよく見えるように少し先輩の方に傾ける。
その辺のコンビニエンスストアでも贖える、なんの変哲もないキャンディの詰め合わせだ。
味は三種類。個包装になっていて、それぞれ色分けされている。
なんの細工もしていないと知らせるために、袋も今しがた開封した。芥川先輩はこちらを見ていなかったが、席が隣接しているのでそれくらいは伝わっただろう。
芥川先輩は相変わらず無言を貫いている。
その間、こちらの緊張は高まっていくばかりだ。
心臓がありえないほどバックバックと鳴り響いているし、手汗がひどい。ビニール素材の袋が今にも手から滑り落ちそうだ。
やはり出過ぎた真似だっただろうか。謝ってしまえばこの時間に終わりが来るだろうか。いや駄目だ。そんなことをしたら私の去年からの苦悩が、決意が……。
「……いや、僕はいい」
「そ、そうですか」
ふい、と先輩の視線が逸れた。
一気に緊張から解き放たれて、私は菓子袋を胸元に引き寄せながら肩から力を抜いた。
受け取ってもらえなかったのは残念だが、今は安堵の方が強い。
「……あなたたちはどう?」
「お、マジすか」
次だ。
気を取り直して席を立つ。
少し離れたところにたむろしていた黒蜥蜴の連中に袋を差し出すと、待ってましたとばかりに立原が手を伸ばしてきた。
煙草を喫んでいた広津には断られたが、珍しく銀も遠慮がちにイチゴ味のキャンディを摘まんでいく。
ほかの有象無象の黒服たちにも行き渡ったところで袋の中身はちょうどなくなった。
(よし)
そこで自分の分を取るのを忘れていたことに気づいたけれど、初日としてはまずまずだろう。
私は満足した気持ちで席に戻った。
数日後。
「チョコレートです。いかがですか?」
「……あぁ」
がさ、と小さな音がして、大袋から小さな包みが一つ抜かれていく。
驚いた。まず驚いた。
次いで理解が追いついた顔の筋肉が盛大に緩みそうになったのを懸命に堪える。
初めて受け取ってくれた。
芥川先輩は気負いのない仕草で包みを開け、四角いチョコレートを小さく開けた口に押し込むようにしている。
ついじっと見つめてしまった。
「……どうした」
「い、いえっ」
不思議そうな顔を向けられて慌てて顔を逸らす。
赤くなる頬を見られまいと慌てて席を立った。
「あ、あなたたちも」
今にもスキップしそうな気分で私は周囲の人間に残りを配る。
自分の分を一つ確保するのも忘れない。特に今日は絶対に忘れてはいけない。
「ふむ。ではいただこうかな」
「いつも悪ぃね」
「いえ、自分のついでですから」
ビターを選んだのがよかったのか、今日は広津も一つ持っていく。
立原は嬉しそうに大きな手でチョコレートをまとめて鷲掴んだ。配るのを手伝ってくれるらしい。立ち上がって部下たちに一つずつ投げ与え始めた。
「……ど、どうぞ?」
ふと見れば銀がじっとこちらを見ていた。
少したじろいだが、ぐっとこらえて袋を差し出す。
銀は妙にゆっくりした動作でチョコレートを摘まんでいったと思うと、そこでようやく視線を外してくれた。
芥川先輩も口下手なところがあるから、こうしたところはやっぱり似ているなぁと思う。
銀にはとっくに私の気持ちはバレているのだろうが、仕事場で彼女が喋っているのを聞いたことがないし、特に干渉してくる様子もない。
ゆくゆくは仲良くなれればと思っているが、彼女の態度は今は少しありがたかった。
最初にキャンディを勧めた日から、私は仕事場に菓子を持ち込み続けている。
いつも同じ時間。午後三時。
外での作戦がある日はその限りではないが、なるべく続けるようにしていた。
初めは戸惑った様子もあった同僚たちもだんだん慣れてきて、今ではこの小さなおやつタイムを楽しみにしている節もある。
中には自らも菓子を持ち込む輩も出てきた。
計算どおりだ。
私はそれからもこの習慣を続けた。
クッキー。
キャラメル。
煎餅。
ラムネ。
ゼリー。
おかき。
キャンディ。
チョコレート。
なるべく大袋に入っていて個包装されているものを選んだが、ときおり奮発してマドレーヌなどの焼き菓子や数枚入りのクッキーにすることもある。
その場合は「どうぞ」と包みを机の隅に載せてみたりした。
芥川先輩は食べたり食べなかったりだ。
特に選り好みしている様子はなく、気分で決めているようだったのでまったく読めない。
毎日私は一喜一憂していた。
そして迎えた二月某日。
いや隠す必要もない。
二月十四日、運命のバレンタインデー。
ついに構想数ヵ月、行動ひと月半余りの任務に終止符を打つ日がやってきた。
すべてはこの日のためだった。
自然に怪しまれないように芥川先輩にチョコレートを渡す。受け取ってもらう。そのためだけ。
「大丈夫。やれる。できる。頑張れる!」
「……おねぇちゃん? どうしたの?」
「なっなんでもない! 行ってくるね!」
うっかり玄関先で自分に喝を入れているさまを妹に見られてしまった。
私はそそくさとマンションから出て施錠をすると、手にした紙袋の中身を確認する。
下位の者には普段より少し値段の張るチョコレート菓子、リーダークラスの者には洋菓子屋の小さな箱入りのトリュフチョコレート。そして芥川先輩用に特別に贖ったのも同じくトリュフチョコレート。
リーダークラス用と似た形にしたのは、任務の都合上どうしても衆人環視の下で渡さなければいけないからだ。
違いはリーダークラス用は臙脂のリボン、芥川先輩用は金色のリボン。ほとんどそれだけだ。あからさまな特別感はさすがに私が恥ずかしい。
それでもいつもの駄菓子と呼べるほどの菓子とは雲泥の差だが、そのときは逃げも隠れもせずバレンタインを言い訳にすればいい。そのためにほかの人間のものも用意した。
日ごろお世話になっているから、とそう言えばいい。
早めに行動に移したおかげか、最近は芥川先輩が菓子を受け取ってくれる頻度も増えてきた。
あとは今日の先輩の機嫌次第だが、そこはもう運を天に任せるしかない。
「ふっふっふ……いける……いけるぞ……」
完璧だ。
私は不敵な笑みを浮かべ、出勤すべく車に乗り込んだ。
運は私に味方をしたかもしれない。
「なぁなぁ、今日はなんの日だよ。当然今日はチョコレートだよな!?」
そわそわ三時を待っていたのは私だけではなかったらしい。
時計の針が目標時刻に到達するかしないかのタイミングで、痺れを切らした立原が吠えるようにして詰め寄ってくる。
その勢いに多少たじろいだが、願ってもない好機だ。
単純な男で助かった。
「……仕方ないですね。そう言うと思って買ってきました。今日は特別ですよ」
「ぃやったぜ!」
逸る胸を抑え、ため息をつくふりをして私は机の足元に置いてあった紙袋を引き寄せる。
が、立原が早速手を差し出してきたのを叩き落とした。
「駄目です。芥川先輩が先に決まっているでしょう」
上司より先に受け取るやつがいるか。
というか芥川先輩が一番だ。それ以外ありえない。
「へいへーい」
おとなしく引き下がった立原に頷いて席を立つと、私は袋の中から金のリボンが巻かれた小さな箱をそっと取り出す。
このお祭りムードの中で受け取ってくれるかは五分五分だが、その確率は平時でも変わらない。
覚悟を決めろ、私。
「あ、芥川先輩」
けれど急に緊張してきて声が上ずってしまう。
駄目だ。冷静になれ。
彼は視線だけで答えてくれる。私は唾を呑み込み、なんとか平常どおりを心がけて菓子の箱を差し出した。
「あの、今日はチョコレートです。よかったらどうぞ」
なんの下心もありません。
いつもどおりです。
怪しいものではありません。手作りは断腸の思いで避けました。
だからどうか。どうか。
言外にたくさん込めてしまったが表面上はうまくいった、と思いたい。
私の顔に向けられていた視線が、手の中のチョコレートへと移る。
一瞬の、私にとっては永遠にも似た間のあと、ひょいと小さな箱が取り上げられた。
「……あぁ。すまないな」
「いいえ! とんでもない!」
達成感にぱっと顔が綻んでしまい、慌てて引き締める。
そのころには芥川先輩の興味は配られたばかりの作戦指令書に戻っていたので、おそらく見られてはいないはずだ。
「よかったなぁ樋口サン」
「……なんの話ですか。あげませんよ」
「ごめんなさい」
にやにやしている立原をギロリと睨みつけて、紙袋を掲げてみせると素直に頭を下げて手を差し出してくる。
もういい。バレたってかまうものか。
任務は大成功だ。
表面上は冷静に、内心ほくほくで残りのチョコレートを配ってしまう。
所詮は男所帯。バレンタインデーにチョコレートがもらえたことで皆が皆少し浮足立っている。私が少しポーカーフェイスに失敗していたからといって気にする人間はいないだろう。
ただ一人、気がかりだった銀だけはじとりとした視線をこちらに向けていたが、すぐに逸らしていった。箱にかけられた臙脂のリボンをいじりはじめる。
(……任務完了だ。これで)
わいのわいのとチョコレートを食べはじめる部下たちを見渡して満ち足りた気分になる。
空になった紙袋を畳んでいると、ふいに顔に影が差した。
「樋口」
「っひゃい!?」
芥川先輩がいつの間にかすぐそばに立っていた。
驚いて変な声が出る。飛び上がった拍子に紙袋も取り落としてしまった。
「少し話がある。来い」
「はいっ」
彼はすぐに踵を返して部屋を出て行く。私は反射的に返事をして後を追った。
なぜか芥川先輩の手には私が先ほど渡した小さな箱が載せられていて急に不安になる。
こんなことは初めてだ。
彼は「今」食べたいから、食べてもいいと思ったから菓子を受け取るのだ。証拠に受け取った菓子はいつもすぐに口にしていた。
それなのに箱は開封されもせずそのままだ。
私はなにか失敗してしまっただろうか。
さっきまでの満ち足りた気持ちは瞬く間にしおしおに萎んでしまう。困惑と焦りと不安が胸にわだかまって、ぐるぐると不快なマーブル模様を描いた。
「樋口」
「……はい」
人けのない廊下の隅。階段の下にあるデッドスペースまで来て芥川先輩はようやく振り返る。
名前を呼ばれて私は神妙に答えるしかなかった。
「これはなんだ」
「……そ、れは、あの。ですからチョコレートで……」
手の内の小さな箱を示されて、しどろもどろで言葉を紡ぐ。
芥川先輩はじっとこちらを見ている。
なんだこれは。どうしてこんなことを訊かれるのだろう。
やはり私は芥川先輩の機嫌を損ねるようなことをやらかしてしまったのだろうか。
青くなった私は、なんとか挽回しようと口を開く。
「今日はその、バレンタインなので。ひ、日ごろお世話になっているお礼です。それだけです……」
下心はありません。部下の務めです。
そう見えるように努めてきた。
なのになんだか泣きそうな気持ちだった。
用意してきた言葉だというのに、口にするのがこんなに辛い。
本当は違うんです。
あなたが好きなんです。
そう言えればどんなにいいだろう。
頭の中で明確に形になっていなかったそれらは、音となった途端、現実になってしまう。自分の声が耳に届くことで二重に自身を苛む。
「なので決して、深い、意味はありませ……っ」
言い切れ。最後まで。
とっくに視線は合わせることができなくなっていた。
床を見つめたまま、私は肩を縮こまらせて、血を吐くような心持ちで口を動かし続ける。
「樋口」
「っ」
そのとき、存外近いところから声が聞こえた。
いつの間にか目を閉じていたらしく、びくっとして目を開くと、すぐそばに彼の黒い靴が見えた。
「……泣くな。そんな心算ではなかった」
「え?」
ひやりとした手が頬をたどっていく。
堪えていたはずの涙が勝手に零れていたらしい。
触れられたことに驚く間もなく、肩に回ってきたなにかに引き寄せられた。
よろけて目の前のものに体を預ける形になる。すぐそこに白いスカーフが見えて、芥川先輩に抱き寄せられているのだと思い至った。
カッと瞬時に頭が煮える。
「あっ、あの、せんぱ……」
「騒ぐな。おとなしくしていろ」
「……はい」
とんでもない事態に思わず体が逃げそうになるのを、肩に回った腕にさらに力が入ったことで押さえ込まれてしまった。
その上、命じられてしまえば従うしかない。
私は身じろぎすら戒めて、体をがちがちに固めるしかできなかった。
なんだこれは。どうしてこうなった。
すっかりパニックに陥ってなにも考えられない。
だというのに先輩の腕の中にいるという事実に、心臓は今にも体を突き破りそうなありさまだったし、顔もどんどん熱くなっていく。
苦しい。でも幸せ。
早く解放してほしい。ずっとこうしていたい。
相反する気持ちがせめぎ合う。
ここは天国か地獄か。
「…………はぁ」
頭のすぐ上で芥川先輩がため息をつくのが聞こえる。
しまった、なにか間違ったか。
反射的にさらに体を縮こまらせる私の背を、先輩は柔らかい手つきで撫ぜてくる。
まるで私の緊張を解そうとするかのような仕草に驚いた。誘惑には勝てずにそろりと視線を上げると、こちらをじっと見つめる瞳とかち合う。
「樋口」
「……は、い」
口の中が緊張でからからだ。それでもなんとか返事をすると、芥川先輩は視線を下に落とした。辿っていくと、彼の手に握られた金色のリボンで飾られた小さな箱がある。
「僕とてバレンタインデーがどんな日なのかは理解している。女が意中の男に想いを告げる日、だったな」
「……そ、そうですが、世の中には義理チョコというものも……」
「黙れ」
「すみませんっ」
自身に課した使命が勝手に口を開く。が、ぎろりと睨まれては口を噤むしかない。
「僕には愛だの恋だのはよく分からぬ。……が、それでも貴様の好意に気づかぬほど愚鈍ではないぞ」
「…………は?」
今なんと。
はっきりと聞こえてはいたが、脳が言葉の理解をうまく処理できない。
間抜けにも目と口をぽかんと丸くした私に、芥川先輩はまたもため息をついた。
「ここしばらく菓子を配っていたのは、今日これを僕に渡すためだな?」
「せ、先輩、気づいて……」
「思い至ったのは先ほどだが」
リボンの色がこれだけ違った、と続けられて羞恥で爆発してしまうかと思った。
もう完全に許容量がオーバーだ。
気持ちを先輩に知られてしまった。しかもどうしてか抱きしめられたままだ。私はどうすれば。
「小細工をしおって……。ならば本来なら渡し方が違うはずだな」
度重なる衝撃に目を回している私の意に反して、するりと勝手に片腕が持ち上がった。
反射的に視線を動かすと、先輩の外套の裾が私の手に絡みついている。普段は敵を殲滅するために使われているそれが、私をいささかも損なわずに掌をチョコレートの箱の上へと導いた。
「やり直せ」
「……で、でも、これは先輩には不要のものだと……」
「構わぬ。僕がいいと言っているのだ。聞かせろ」
戸惑う私を、芥川先輩は視線一つで黙らせてしまう。
いいのだろうか。
さすがに都合がよすぎないか?
私が迷って口を開けずにいる間、彼は静かに待っていた。ただ逃がしてくれる気はないようで、肩に回ったままの手にはしっかりと力が込められている。
ああもう駄目だ。
その昏く深い、深淵のような瞳に見つめられ、呼吸すら聞こえるような距離に置かれて、どうして気持ちを抑えることができるだろう。
「……あ、芥川先輩」
「あぁ」
おずおずと呼ぶと、しっかり声が返る。
私は覚悟を決めて深く息を吸い込んだ。
「先輩が、好きです。お慕いしています。バレンタインのチョコレートを受け取ってくれますか?」
言い切った。
ああ。先ほどまでとはまるで逆だ。
気持ちを、言葉を音にすることのなんと甘美なことか。
「……チョコレートだけでいいのか?」
告白の酩酊に陥りかけていた私を、芥川先輩の言葉が引き戻す。
思ってもいなかった返しに顔を上げると彼はどこか満足げな様子で、だが面白がっているような顔をしていた。
「せ、先輩、今日は意地悪です……」
「そうかもしれぬ。僕は自身で思っていたよりも欲張りだったようだ」
なんですか。その素敵な顔は。見たことないです。
もうふにゃふにゃになってしまって、私はよろめくように芥川先輩の体に体重を預けてしまう。これ以上ないくらい赤くなっているだろう顔を外套の襟元に押しつけた。
細いのにしっかりとした男性の体だ。まるで自爆だがそんなことにもどきどきして、白旗を掲げるしかない。
「……わたしも、もらってくれますか」
「あぁ。確かに貰い受けた」
囁くように告げた言葉に、夢にまで見た答えが返る。
するりと背中から移動した手に首の後ろからすくい上げられるようにして仰のかされた。
唇が柔らかく塞がれて、今度こそ私は目を回して昏倒したのだった。
救護室で目を覚ました私に、銀が「目先のことしか見えない兄ですみません」と謝るのはまた別の話。
了
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記念すべき文スト最初の二次創作がこれでした。男女CPも大好きです。
ちょうどバレンタインが近かったので頑張って間に合わせた記憶。芥樋ちゃんには幸せになってほしいですね……。
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