8、眠る 初出:2018年11月18日
「太宰、風呂が空いたぞ。……太宰?」
タオルで髪を拭きながら脱衣所から出ると、畳の上に細い体が転がっていた。
胸の上にいつもの愛読書が開いたまま伏せられている。
「おい太宰」
常ならば面倒くさそうに返事をして起き上がるのだが反応がない。
訝しく思いながら近づいて傍らにしゃがみ込むと、太宰は静かに両目を閉じていた。
深い呼吸。
眠っている。
「珍しいな……」
俺はつい独り言ちた。
太宰はあまり眠りが深くない。
一緒に眠った日、たまに夜半に目が覚めてみると、布団から抜け出した太宰が窓の外をぼんやり眺めていることが何度もあった。
そのくせ寝不足の様子はないから、元来あまり睡眠時間を必要としないのだろうと思う。
「太宰、起きろ。風呂が冷めるぞ」
こうして声をかけたり近づいたりしても目を覚まさないのは本当に稀有なことだ。
俺は畳に腰を下ろし、手を伸ばす。
胸の上の本を取りあげて返してみると「首吊り」の項目だ。相変わらずろくでもない。
ぱたりと閉じて畳の上に置く。
まだ反応がなかったので、いつも放りっぱなしのぼさぼさ髪を遠慮がちに撫でてみた。
起きない。
「おぉ……」
なんだか貴重な体験をしているような気がして、感嘆の声を上げた俺は次第に手の動きを大胆にする。
ふわふわと案外柔らかな感触をしばらく堪能したあと、髪をかき上げるようにして額を晒してみた。
力の抜けた寝顔も相まって少し幼く見える。
俺はくすりと吐息で笑うと、身を屈めてこめかみのあたりに唇を落とした。
「……まだ寝るか」
ここまでしても太宰はすぅすぅと規則正しい寝息を繰り返している。
ずいぶんと深く眠り込んでいるらしい。
そわそわしてきた。
なにを、どこまでしたら起きるのだろうか。
無邪気な子供のような好奇心と、眠っている相手に勝手をするのを咎める大人の理性がせめぎあう。
長いような短いような逡巡を経て、俺は結局誘惑に勝てずに太宰の頬に手を伸ばしてしまった。
もともと起こすつもりだったのだから、目が覚めてしまっても構うものか。
指先ですべらかな肌をなぞってから掌で包む。
目元に触れ、耳を辿り、頭の輪郭をなぞるように髪を梳いた。
唇でも、瞼や頬、鼻先へと触れる。
親指で唇を撫でて、追うようにして自分のものをそっと重ねれば、甘い痺れが胸中をくすぐった。
「……ん」
つい調子に乗って少し交わりを深くしたとき、太宰が小さく声を上げる。
びくっとして離れたが、相手にそれ以上動く気配はなかった。
「……だざい?」
注意深く名前を呼ぶ。
返ってくるのは規則正しい呼吸音だけだ。
太宰はいまだ深い眠りの淵に沈んでいるらしい。
ほっとしたのもつかの間、無意識に舐めるように太宰の姿を眺め下ろしている自分に気づいて慌てて目を逸らす。
一度口づけてしまったことから、無防備に投げ出された肢体を意識せずにはいられなくなってしまっていた。
シャツの首元から覗く包帯や白い喉が、わずかに濡れた唇が視線を呼んでいるようだ。
俺は内に膨れ上がる衝動に、こくりと唾を呑み込む。
いけないことだとは分かっていた。やめるべきだと思うのに、もう一度手を伸ばしてしまうのを止められない。
「太宰……」
確かめるように呼んで、再び唇に唇で触れる。
太宰はまだ目を開けない。
俺はそれを安堵と失意をもって受け止める。
そろりと太宰のループタイを緩めると、シャツに手をかけた。
震えそうになる指で一つ一つボタンを外していく。
興奮と、それを上回る緊張で、早まった鼓動が痛いほど胸を叩いていた。
みっともなく乱れそうになる呼吸を俺は必死に噛み殺す。
早く起きてくれと願いつつ、どうか起きてくれるなと祈ってしまう。
相反する思いにかき乱されて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
それでも欲に忠実な手は止まることなく、露わにした包帯まみれの体をなぞっていく。
首筋に鼻先を埋めると、ほのかに太宰の体臭が感じられた。
いつも触れるときには許されてのことだという意識が少なからずある。
こうして一方的に彼の匂いや体温を感じるのは初めてで、その背徳感に目が回った。
「だざい」
吐息混じりの声が浅ましく熱を持っているのに、ぎゅうときつく目を瞑る。
俺は眠っている相手になにをしているのか。
罪悪感は確かにあるのに、体の芯に灯った炎は俺の意思を無視して勢いを増していくばかりだ。
死にたいような気持ちになって、太宰じゃあるまいしと俺は唇を自嘲で歪めた。
自殺嗜癖のある男は、いまだに深く呼吸を繰り返している。
抱きしめると、その動きに従ってかくんと首が仰のいた。
「……っ!」
ふいに、そのことに不安が膨れ上がる。
俺は弾かれるように身を起こした。
いつもはすぐに目を覚ますはずの太宰が覚醒しない。
これは珍しいのではなく、異常事態なのではないだろうかとようやく思い至る。
呼吸も体温も平常に見えるが、俺が知らない間にこいつは自分になにかしたのかもしれない。
「太宰!?」
叫ぶようにして、俺は相手の肩を掴んでいた。
揺さぶれば、それに合わせて無抵抗な体ががくがくと動く。
ぞっとした。
「おい! おい、起きろ!! 太宰っ!!」
悲鳴のような声を上げて胸倉を掴み上げる。
その頬を張ろうとしたときだ。
「……ック、ふふ……っ」
太宰の喉が震え、表情のなかった顔が堪えきれなかったように崩れる。
「だ……」
「あっははは! もうだめ……っ」
「……き、貴様、狸寝入りか!?」
けらけらと笑い始めたのに、俺はすぐに事態を察してカッと頭に血を上らせた。
太宰は滲んだ涙を指先で拭いながら「ごめんごめん」とさして悪いと思ってもいない声音で謝る。
「だって、国木田君が寝ている私になにをするのか興味があったんだもの~」
「貴様というやつは……」
「あいたっ!」
一気に力が抜けて、掴んでいたシャツから手を離す。太宰は畳に頭を打って大袈裟な声を上げた。
目を開けた太宰が常のように表情豊かに喋って動く。
確かに怒りを覚えているのに、安堵と羞恥も同時に押し寄せてうまく言葉を継げなかった。
はくはくと唇を震わせている俺に、太宰は楽しそうに目を光らせる。
「最初は本当に寝ていたのだよ? 王子様の口づけで目が覚めたけどね」
「う……」
伸びてきた指先に唇を柔らかく押されて、頬がじわりと熱くなった。
意地の悪いことに、わりと早い段階で目覚めていたようだ。やはり一番知られたくなかったところを知られている。
複雑な気持ちで視線を逸らすと、太宰はうふふと含み笑いをした。
「にしても国木田君たら本当に健全だねぇ。あのまま好きにしちゃう輩も多いのにさ」
「……お前、まさか」
含みのある言葉にはっとして睨むようにすると、今度は眉間の皺を揉み伸ばされる。
「やだな、させるわけないじゃないか。そもそも他人の前でこんな風に寝ちゃったのも初めてだったのに」
「そ、そうか」
瞳を柔らかく細めた太宰に首を頷かせてしまう。
確かに騙されて怒っていたはずなのに、「初めて」という響きに胸中に喜色がじわりと広がるのを止められない。
と、するりと伸びてきた腕が首に回って、引き寄せられた。
「……で、国木田君。続きはしてくれないの?」
太宰があざとく小首を傾げるのにぎくりとする。
見下ろせば、太宰は緩んだループタイに前の開いたシャツと盛大に乱れた恰好だ。
自分がしでかしたとはいえ、その光景に耳まで赤くなるのが分かった。
「それ、は、だな……。そ、そうだ。風呂に、そもそも風呂に入れという話で……」
「えぇ~? どうせあとでまた入ることになるし、いいじゃない」
「し、しかし……」
「国木田君」
うろうろと視線を泳がせていると、柔らかな口調で、しかしぴしゃりと呼ばれて口を噤むしかなくなる。
そろりと目を合わせると、太宰はどことなく拗ねたように口を尖らせた。
「ね、ちゃんとしてよ。起きてる私ならいいのでしょう?」
ここでおあずけは酷いよ、と囁いて。
掌が頬を辿り、細い指が唇をなぞっていく。奇しくも先ほど俺がしたように。
太宰の瞳の奥で欲の光が淡く揺らめいている。
興奮していたのは自分だけではなかったのだと気づかされ、埋め火になりつつあった熱が容易く息を吹き返した。
「……太宰」
「ん、はやく」
それが分かったのだろう。
嬉しそうに口元を緩めた太宰がまた首を抱いてくる。
俺は痩身を抱きしめると、誘われるままその唇に口づけたのだった。
了
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か、可愛げがある~。驚いた。
当時のあとがきに、太宰さんが部屋に泊まるのはそういうことだから国木田君もその気になりやすかったんですと謎のフォローがされていました。そのくせ睡眠姦に発展しない健全さ、推せますね……。
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