このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

近くて遠い 初出:2020年6月7日


「……ざい。太宰」
「んん……」
 優しい声が鼓膜をくすぐる。
 とんとんと腕を叩かれて私は小さく呻いた。
 誰だ。邪魔をするのは。
 ゆっくりと意識が浮上するのにしたがって苛立ちを覚える。
「太宰」
 せっかく温かくて心地いいのに。
 もっともっとこの微睡に浸っていたいのに。

 ──まどろみ?

 無意識を意識した途端、びく、と肩が震えた。
 がばりと体を起こした私はその場から跳ねるようにして離れる。体がうまく動かなくて、つんのめって無様に膝と掌を地面についた。
「……どうした、悪い夢でも見たのか?」
「お、ださく」
 振り返った先、織田作がきょとんとこちらを見ている。
 傍らに、私の外套が落ちていた。
 おそらく今の今まで私の体にかかっていたもの。
「やはり姿勢がよくなかっただろうか」
「…………私、眠っていた?」
「ん? あぁ。ぐっすりだった」
 ぶつぶつと思案げにしている織田作に、私は呆然と口を開く。
 こともなげに頷いた彼の長い足は不自然に大きく開かれていて、さっきまで私がそこに納まっていたのだと強く自覚させられた。

 取引で訪れた、県外の廃倉庫だった。
 昨夜はあまりにひどい嵐で、外に止めた車に戻るのも躊躇われたのだと思い出す。

   *   *   *

「うーん、どうしようか」
「来たときより酷くなっている気がするな」
「そうだねぇ」
 仕事は滞りなく終了した。
 したのだけれど、私たちは倉庫の出入口から数メートル離れた内側に立って──これ以上前に出ると吹き込んでくる雨で濡れるのだ──途方に暮れていた。
 ザバザバびゅうびゅう。
 すごい音がしている。
 真夜中であるため視界はいまいち不明瞭だが、その音だけで外がどうなっているのか想像に難くない。
 普段から入水を嗜むなどして濡れ慣れている私でも、さすがにこの雨の中に出ていくのは勇気がいった。
 ここに到着したときも、車から倉庫までのたかだか二十歩足らずで外套の肩やズボンの裾がずいぶん濡れたのだ。今も足元は多分に湿気たままだし、それがさらに酷くなるのかと思うと憂鬱しかない。
 傍らに立つ織田作も手にした傘を開きあぐねているようだった。困ったように眉をかすかにひしゃげ、床に突いた傘の柄をくるりくるりと回している。
 本部を出たときにはまだ降り始めていなかったので、傘は車に備わっていたその一本しかないのだ。
「……ま、急ぐ旅でもない。少し雨宿りしていこうか」
 私は肩を竦めて踵を返す。
 どうせ戻っても成果を報告しろと言われるだけだ。取引相手は早々に引きあげて行ったが、それに倣う気は起きなかった。
「あ、織田作はこのあとなにか予定があったりする?」
「いや、お前を本部に送り届けるだけだ。特に時間は指定されていない」
「ならよかった」
 今日の織田作は私の護衛という立場だ。
 もし私の隣にいるのが彼以外だったのなら、私は濡れたくないと我儘を言いながらも即座に帰ることを選択しただろう。けれど織田作と一緒ならもう少しこの鄙びた場所にいてもいいかなと思えた。
 ひとまず腰を落ち着ける場所を探そうかと歩く私を追って織田作も倉庫の中に入ってくる。
 その姿ににこりとしてから、私は足元に転がっていた廃材を爪先で押しやった。
「太宰」
「うん、ありがとう」
 織田作が車から持ち出していた懐中電灯を点ける。その灯りを頼りに二人で周囲を見回した。
 建物は打ち捨てられてからずいぶんと経っているらしく傷みが激しい。
 窓ガラスは一枚残らず割れるかひびが入っているし、天井は漏るどころか雨が素通りしている箇所すらある。
 外よりはずいぶんましだが雨風をしのげる場所は限られそうだ。
「……寒くないの?」
「少し濡れたからな。着ている方が冷える」
 ふいに足元を照らす灯りが揺れたので振り返ると、織田作が外套を脱いだところだった。肩に通したホルスターと二丁の銃が露わになる。
 今夜はそれらの出番はもうなさそうだ。
「そうだ。これ貸してあげようか」
 ばさばさと外套の水気を払っている織田作に私はぽんと両手を打つ。
 肩にかけていた外套を脱ごうとすれば彼は少し困ったような顔になった。
「それではお前が寒いだろう」
「私は上着もあるから平気だよ。ほら、内側までは滲みていないしさ」
 私は黒い外套を肩から落として表面を掌で軽く払う。
 生地が厚いから表面が少ししっとりしているだけで無事だ。というより濡れ具合からして、彼が私ばかりを傘に入れてくれたのだろうと思う。
 だとしたら織田作が濡れてしまったのは私のせいでもあるのだ。
「ほらほら、遠慮しないで」
「だが」
 私は織田作から彼の外套を引ったくると代わりに自分のを押しつける。
 黒い外套を手に、いよいよ織田作は途方に暮れたような顔になった。
「……これはお前が首領からもらったものだろう。俺が着てもいいのか?」
「いいよ? っいいとも! というかむしろ私、君がそれを着ているところを見てみたいな!!」
 なるほどそういうことか。
 理解と同時に私の脳内に好奇心の灯がぴかりと点った。
 わくわくしてきてしまって、ねぇ! お願い! ちょっとだけ! と途端にねだる姿勢になってしまう。
 その勢いに押し切られるような形でようやく織田作が頷いた。
「……では少し借りる」
「うん!」
 織田作が遠慮がちに外套の袖に腕を通すのを、私は固唾を呑んで見守る。
 その視線に気づいた彼がちょっと眉を下げた。
「どうだ。……太宰?」
「──あ、ごめん」
 こちらに向けて両手を広げてみせた織田作にはたとする。
 なんだか呼吸も忘れていたみたいだ。私は妙に深い息をして、どうしてかできてしまった間を埋めようと慌てて口を開く。
「す……っごく似合っているよ織田作! まるで君のためにあつらえたようじゃないか! これはどんな女性も放っておかない! 間違いない!」
「そんなことはないと思うが……」
 両手を握り合わせて褒めたたえると織田作は居心地が悪そうにする。きっと慣れない衣裳がそうさせているのだろうけれど、それはまごうことなく私の本心だった。
 私が着ると余りがちな肩も長すぎるくらいの裾も見事ぴたりと納まっている。黒が彼の長身をいっそうすらりと見せて、ここが街中ならすれ違う誰もが振り返るだろうと想像できた。
「うふふ、これはよいものを見たなぁ。ここに安吾がいないのが残念なくら……っしゅん!」
「太宰」
 ふいに鼻がむずむずしてくしゃみが出る。
 織田作が咎めるような声を出したので、私は反射でぶるりと震えそうになる体を慌てて押し隠した。これは単に外套を脱いだことによる体感温度の変化のせいだ。そのはずだ。
「だ、大丈夫。寒くないよ」
「来い」
「織田作?」
 だというのに織田作は誤魔化されてくれないようだった。
 ため息をつかれたと思うと、手を引かれて倉庫の一角に連れ込まれる。
 いつの間に目星をつけていたのか、廃材がうず高く積み上げられたそこは天井の劣化も少なく、窓からも遠く、雨宿りをするには過不足がなかった。
「埃っぽいのは少し我慢してくれ」
「お、織田作。うわ、ちょっと……」
 彼は私の手から自分の外套を奪うと適当に廃材の上に広げ、その下に傘を立てかける。
 再び手を取られた私は、物と物の隙間に潜り込むように腰を下ろした織田作の足の間に引き込まれてしまった。
 背後から抱き込まれるような姿勢に驚いて身を捩るが、体の前に彼の腕にがっちりと回っているのでほとんど動けない。
「こうしていれば温かいだろう」
「それは、そうだけど……っ」
 突然近づいた距離に戸惑ってしまう。
 今までも内緒話をするのに顔を寄せ合ったり戯れに抱きついたりしたことはあったけれど、ここまで明確に密着したことはなかった。
 背にあたる胸が、私を抱きしめるようにする腕が硬くて柔らかい。じんわりと衣服越しに体温が伝わってきた。
 織田作とくっついている。
 その状況にらしくもなく混乱して、私は忙しなく目を瞬かせた。
「幹部殿に風邪なんて引かせられないからな」
「う、ん」
 すぐ耳元で声がするのも変な感じだ。
 その息遣いにも耳を澄ませてしまってそわそわと落ち着かない。
 が、どうやら動揺しているのは私ばかりなようだった。淡々と外套の裾を私の足にかけたりしている織田作に気づいてしまえば、胸の内で勢いよく膨らんでいたなにかがぷしゅうと萎んでいく。
 なんだかちょっと面白くない。
「……おださくのばか」
「ん?」
 わけも分からないまま口をついた悪態は、小さすぎて拾われなかったようだ。
 他意なく耳を寄せてくる織田作になんでもないと首を振って、私はこうなれば自棄だと体重を相手の胸に預けてしまった。
 慣れない体温にむずむずするが温かいのは本当だ。
「雨、朝までに止めばいいね!」
「そうだな」
 さすがに明日の始業前までには帰らなければ。
 織田作が据わりのいい場所を探してもぞもぞとする。その過程で抱き直されるのを甘んじて受け入れた。
 懐中電灯が消される。
 暗闇の中、じっと身を寄せ合う奇妙さに思わず笑ってしまえば背もたれも小さく震えた。彼も同じ気持ちだったのかもしれない。
 ようやく状況を楽しめるようになってきた。
「ねぇ織田作。ここは地下ではないし酒もない。だけど私と君がいる。案外いつもと変わらないのかもしれないね」
「あぁ」
 はじめは驚いたけれど、こうしているのが嫌というわけでもない。
 このまま朝まで二人で話せるならそれもいいと思えた。

 そうして──どうやら私はそのまま眠ってしまったらしい。

   *   *   *

 雨は無事に上がったらしく、朝日が窓や割れた天井の隙間から射しこんでいる。
 私は心中の動揺を必死に押し隠し、それもあまりうまくいかずに衝動的に額を押さえた。
「不覚だ。せっかくだからいろいろ話そうと思っていたのに……」
「疲れていたんだろう」
 なんとか声にした口先だけの言葉を信じた織田作が慰めるように言って立ち上がる。その場で軽く伸びをすると落ちていた黒い外套を拾った。ぱたぱたと埃を掃う。
 いつの間に脱いだのか。私はそれすら気づかなかった。

 夢も見ず、朝まで熟睡するなんて。こんなことは初めてだった。
 しかも誰かと。あまつさえ密着した状態で。

「……本当に不覚だよ」
「太宰?」
 思わず深いため息をついてしまった私に織田作が首を傾げる。
 私は首を振ってなんでもないことを示すと、さっきから熱い耳たぶを親指の腹で擦った。
 思わず飛び退ってしまったけれど、今はなんだかとてつもなく惜しいことをしたような気持ちだった。
 体は自身を包んでいた優しい体温をまだ覚えている。
 けれど無邪気に前後不覚でいられる時間は終わってしまった。
 意識はすっかり明瞭で、戻りたくとも戻れない。
 私は勝手に反芻しようとする思考を振り払うように頭を振った。こんなもの、きっと私には似つかわしくない。
「……帰ろう。すっかり長居してしまったね」
「あぁ」
 手を伸ばすと黒い外套が乗せられる。私はそれをいつものように羽織ると踵を返した。



※「あの日」の彼らを見守りたいならこのままブラウザバックを。「今」へ進みたいなら次頁へお進みください。
1/2ページ