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すべてがほしいと願ったならば 初出:2018年8月23日


 暑い日差しの中、俺はそれを見下ろす。
 腰までの高さしかない白い石は黙して語らない。
 しかし俺にはそれが実際の大きさとは異なり、目の前に大きくそびえ立っているようにも見えた。

 海を臨む墓地の一角。
 大きな木を背にしている墓標には「S.ODA」の文字がある。

 二ヵ月ほど前の太宰の誕生日。
 俺たちはこの場所を訪れ、太宰に手を引かれて墓地の中を歩いた。
 そのとき太宰が一瞬、この場所で立ち止まったのだ。
 深夜のことだったから暗かったし、あまり周りも見ていなかったが、恐らくここで合っているはずだった。
「……オダ、なんというんだろうなあなたは」
 あの日から、俺はときどき思い出してはここに来ている。

 何故、俺がこんなにこの場所が気にかかっているのかは分かっていた。
 太宰治という男が俺にとって特別な存在で、その相手が唯一ここで一瞬でも立ち止まったからだ。

 本人はこの墓の主を知り合いではないと言っていたが、そんなはずはないと思う。
 一見、ちゃらんぽらんで糸の切れた凧のような男の行動に、わずかばかりの真実が巧妙に混ざっているのを俺はもう知っていた。
 この墓は恐らくそれだ。太宰にとっての「なにか」なのだ。
 しかしあの日、太宰が答えをはぐらかしたのも事実で、易々と答えは得られないだろうことも予想できる。
 だから俺は無為にここに通うことしかできない。

「享年二十三歳、か」
 石の表面に彫られた没年は、太宰が探偵社に入る前のことだ。
 この人物が亡くなった時点での太宰の年齢は十八歳。
 ここに来るたび、俺はその数少ない事実を頭の中でなぞることを繰り返す。
 乱歩さんならもっとなにか分かるのかもしれない。だが俺が墓石から読み解けるのはそれくらいのものだ。
 男か女か。太宰と同じくポートマフィアの一員だったのか、それとも一般人か。どんな見た目なのか。性格は。太宰にとってどんな存在だったのか。
 なにも分からない。
 そのころの太宰がまだポートマフィアに属していたのかも。
 俺は太宰がいつ、どんな風にポートマフィアを抜けたのかすら知らなかった。

「よぉ探偵屋。こんなとこでなにしてんだ」
 唐突に声をかけられて、弾かれたように振り返る。
 いつの間にか数メートル先に小柄な影が立っていた。
 黒い帽子に黒い外套、黒い細身のスーツ。闇から抜け出てきたような外見に、赭色の髪だけが目に鮮やかだった。
 目が合うと、男は黒の皮手袋で覆われた指で帽子の縁をなぞってニヒルに笑う。
「……中原中也」
「ハ。ご明察」
 頭に叩き込んだ人物録にヒットするものがあった。
 わずかに体を落とし、警戒の構えを取る俺に、中原は楽しそうに口端を上げる。
「貴様こそどうしてここにいる」
 ポートマフィアの幹部と挨拶する間柄になった覚えはない。
 というより情報として知っているだけで、俺はこの男とほとんど顔を合わせたこともないはずだ。
 疑問が顔に出ていたのか、中原は肩を揺らして口を開く。
「ただの通りすがりだよ。手前が面白いところに立ってたからな」
「この墓の主を知っているのか……?」
「手前は知らねぇらしいな」
 驚いて、思わず言葉が口をついていた。 
 中原が鼻で笑うのに、俺は己の失態を悟って唇を噛む。
「俺は手前のことも知ってるぜ、国木田独歩。物を具現化させる異能力者。太宰の糞野郎と組んでるんだってな」
「……俺も知っている。ポートマフィア幹部、中原中也。重力使いだそうだな」
「ま、太宰がそっちにいるなら、それくらいの情報持ってねぇとなァ」
 腰の銃に手を伸ばしそうになっている俺とは対照的に、中原は余裕の態度を崩さない。
 ポケットに手を入れ、クツクツと喉を鳴らすと挑発めいた視線を向けてきた。
「じゃあこれは知ってるか? 俺と太宰は昔組んでたんだぜ」
 告げられた言葉に表情が一瞬強張る。しまったと思ったときにはもう読まれていた。
「はは。知らねえことだらけだなァ。本当に現相棒か?」
 嘲りの言葉に世界が回るような錯覚に囚われて、俺は両足を踏みしめる。
 駄目だ。相手はポートマフィアの人間だ。惑わされるな。

 確かに太宰と俺は仕事で一緒に組むことが多い。
 だがつい二ヵ月前、それだけではなくなった。俺たちは恋人と呼べる存在になったはずだった。
 俺はもう太宰の唇の柔らかさも、冷たく整った外側とは裏腹な内側の熱さも知っている。はずだ。
 なのに。なのに俺はなにも。
 ここへ来るたびに思い知らされる無力感も相まって、まるで足元がふにゃふにゃと定まらないなにかになってしまったかのように覚束ない。

「で? 手前、ここでなにしてた? この墓が誰のものかも知らねぇのに」
 中原の問いにも答える術がなかった。
 なにもしていない。俺はただここに立っていただけだ。
「太宰のなにかだってのは知ってるってか?」
 無言でいる俺に、ふっと中原が笑う。
 俺は図星を突かれて唇を噛むことしかできなかった。
 歩き出した中原が無造作に横をすり抜けていくのに、なんの反応もできない。
「……ここ、ずいぶん下草が荒れてるなァ」
 振り返ると、中原は墓石に片手を乗せて周囲を検分するように身を屈めている。
「誰かが頻繁に踏み締めないとこうはならねぇ。と、ここが定位置か?」
 墓石の背後に回り、腰を下ろした。天辺から帽子が覗く。
「はは。探偵じゃなくてもこれくらいは分かるんだぜ?」
 呆然とそのさまを見守っていた俺に、中原は墓石ごしに振り返ってにやりと笑った。
 俺は太宰がここに来ているのを見たことがない。だがその墓参りらしくない態度は容易に想像がついた。
 しかしそれは同時に、この墓の主が太宰にとって親しい人間だったということの証明だ。
 普段、死者に関心がないように見える太宰が足繁く通い、そうして長居をするというのはよほどのことだろう。
「知りてぇか?」
「い、いや俺は……」
「遠慮すんなよ。あの青鯖野郎から聞きだそうと思ったら何年かかるか分からねぇぜ?」
 あんたそういうの苦手そうだもんな、と言われて言葉に詰まる。
 中原の声は悪魔の誘惑だ。
 にやにやとこちらの顔色を読んで唆す。
 ゆっくりと開かれる口を、俺は止められない。

「織田作之助。太宰の大事な男だよ」

 笑みを含んだ声音で告げられる。
 瞬間、金槌で頭を殴られたような衝撃があった。

「あ、いたいた。国木田くーん」
 ぐらりと回る脳に、呑気な声が放り込まれて気つけの役割を果たす。
 振り返ると、太宰が墓地の敷地への階段を下りてきていた。
「また墓参りかい? なんか君と連絡つかないって私の方に電話がきてるのだけど」
 砂色の長外套を翻し、足取り軽く近づいてくる。
 俺はなにも言えないまま相手を迎えた。
「私が君を探すなんて、いつもと逆だ、ね……」
 俺を見ていた目が背後にある墓石に気づいて丸くなり、さらにその向こうの帽子を見つけると口までぽかりと開く。
 と、途端にその表情がぎゅうと嫌そうに引き絞られた。
「うっわ、君なんでいるの。あんまりちっちゃいもんだから本当に見えなかったよ」
「アァ!? ンだと手前! 俺がどこでなにをしようが俺の勝手だろうが!」
 跳ねるように立ち上がった中原が太宰に対して歯を剥き出しにする。こちらも嫌悪感を隠そうともしていない。
 俺は太宰がこんなに素直な感情を表に出すのを見たことがなかったし、中原にもさっきまでのニヒルな雰囲気はどこにもない。
 今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな二人に胸がざわついた。
「……行くぞ、太宰」
「えっ、あれ、国木田君?」
「では失礼する」
 気づけば俺はその手を取って強引に歩き出していた。
 ちら、と振り返った先、中原も少し面食らったような顔をしている。
 気にする余裕もないまま、墓地を後にした。


 今見たものが頭をめぐる。
 太宰は子供のような表情をしていた。
 いつも見ているようでいて、そのどれとも違う顔。
 人が相手によって対応や反応を変えるのはいたって普通のことで、仕方のないことだとは分かっていた。分かっていたがどうにも胸の内がもやもやして落ち着かない。
「……くん、国木田君ってば! 痛い! ちょっと、手が痛いってば!」
 ぱしぱしと腕を叩かれて我に返る。
 いつの間にか掴んだ手にずいぶんと力が入っていたようだ。
「すまん……」
 慌てて手を離す。
 往来の真ん中で項垂れる俺を、太宰は息をついて道の端に誘導した。
「中也になにか言われた?」
 そんな風に呼ぶのか、と反射的に思ってしまって自嘲に口元を歪める。
 太宰は困ったように笑って顔を覗き込んできたが、俺は目を逸らしてしまった。
「…………織田作之助というそうだな。あの墓の主は」
 その名を聞いた途端、すとんと太宰の顔から表情が抜け落ちる。と、くしゃりと歪んだと思うとすぐに俯いてしまった。
 落ちる沈黙に、猛烈な自己嫌悪に襲われる。

 太宰以外の口から知ってしまった後ろめたさに。
 それを考えなしに告げた己の愚かさに。

 男だったという事実に言葉にできない衝撃があった。
 大事、という表現に胸の内がかきむしられるようだった。
 黒い靄のように纏わりついて離れない感情は俺の中を這いずり、蝕んでいく。
 こんな状態ではとても並んで歩いてなどいられない。

「……はーあの蛞蝓め!」
 足を引こうとした瞬間、大袈裟な様子で太宰が声を上げた。
 悔しそうにくしゃくしゃの頭を両手でさらにかき回す。
「最悪! うっわ最悪! 今度会ったら万倍にして返してやる!」
「……俺は」
 おそらく演出されているだろう子供のような癇癪に、気づけば言葉が口をついていた。
 きょと、と目を丸くした太宰が見上げてくる。
「俺はお前のすべてを知らない。お前も俺のすべては知らんだろう。それでいいと思っていた」
 人には、今に至るまでの道筋がそれぞれあるものだ。
 生まれて、さまざまな経験をして、出会って。その過程を知らなくても親しくなれる。そのはずだった。
「だが俺は今、誰かが俺の知らないお前を知っているのがどうにも我慢ならない……」
 血を吐くような気持ちで告げる。
 醜い、と思った。
 こんなことを考える自分は。相手を尊重することのできない自分は。
 だが一度口にしまったものは戻らない。
「国木田君それ、もしかしてやきもちっていう?」
「……そうだな」
 小首を傾げて容易く抉ってくる太宰に歯を食いしばる。
 違うと否定したいところだったが、どう考えてもそうとしか言いようがなかった。
 俺の見たことがない表情を引き出す中原が羨ましい。
 姿も知らない織田作之助の隣で、少年時代の太宰が笑っていたのかと思うと堪らない気持ちになる。
「……すまない。過去のことは気にしないつもりだった。お前が言いたくなるまで待とうと思っていたのに……」
「国木田君……」
 情けない、と零すと、太宰が少し困ったように眉を下げた。
「……君、私の過去を知ったら幻滅してしまうかもしれないよ?」
「それでもお前は今、マフィアではなく武装探偵社にいるだろう。探偵社の一員として、するべきことをしようとしているのではないのか」
「……だといいのだけど」
 ふ、と声色が落ち、微笑む太宰は寂しそうに見える。
 知りたいと思っていたが、そこまで過去を重視するつもりはなかった。
 三つ子の魂百までと言っても、きっと昔の太宰と今の太宰は違うものだと思ったからだ。
 少なくとも実際に知るまで、俺も含めた同僚の誰もが太宰を元マフィアだと思ったことはなかった。でなければ前職当ての賞金があんなに膨れ上がるはずがない。
「そうだね……君には話してもいい、かな。でもできたらもう少し時間がほしい」
 太宰は言って、肩を竦める。
「私だってね、君に嫌われてしまうかもしれないと思うと怖いんだよ」
「お前が?」
「そう、私がさ。らしくないだろう」
 思わず問いかけてしまった俺に太宰は肩を揺らして笑う。
 そしておもむろに周囲をきょろりと見回した。
 声が潜められる。
「ねぇ国木田君。一つだけ、ほかの誰も知らない、君しか知らない私もいるよ」
「な……」
 腕に細い指がかかる。
 伸び上がってきたと思うと唇に柔らかいものが触れて、頭が爆発するかと思った。
 頬が熱い。
「ば、こんなところで……っ!?」
「誰も見てないよ」
 確認したもの、としれっと言った太宰が近い位置から顔を覗き込んできた。
「ねぇ、国木田君。この顔、覚えておいて」
 視線が絡む。
 太宰が柔らかく微笑んだ。
「君のことを好きな私だ。言っておくけど、こんな風に人を好きになったのは初めてなのだからね」
 少し恥ずかしそうに頬を染めて口を尖らせる。
 瞬間、俺は衝動的に目の前の痩身を抱きしめていた。
「わ」
「……太宰、好きだ」
「うん。私も好きだけれど。……国木田君、ここ外だよ?」
 思わず口をついた告白に返答があって喜んだのもつかの間、慌てて離れる。
「あああああ……」
「うふふ、今日の国木田君はやきもち焼いたり照れたり忙しいねぇ」
 羞恥に頭を抱える俺に楽しそうに笑って、太宰は軽い足取りで歩き出した。
「さて、ではそろそろ帰ろうじゃないか。さすがに社長もご立腹かもしれないよ」
「……はぁ!? さっきの電話云々は社長からだったのか!? そういうことは早く言え莫迦者!」
「言わせてくれなかったのは君じゃないか」
 信じられない気持ちで太宰を見る。
 社長から直々に連絡なんて、なにかあったに違いない。
 慌てて走り出した。
「とにかく急げ太宰!」
「え、待って。君、足早いんだよー」
「歩くな! 走れ! この唐変木っ!!」
 のろのろと足を動かす太宰に焦れて踵を返す。
 俺はその腕を掴むと、引きずるようにして再び走りだした。



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「ほしいものひとつだけ」の続き。フォロワーさんのお誕生日に捧げたものです。
前作の感想を頂いたときに会話が盛り上がってこの話ができました。
いつも好き勝手書いていますが、こうしてお喋りの中でできた話もいくつかあります。ありがたいことですね……。
太宰さんは織田作のことを伝えるのか伝えないのか。伝えるならいつどんな風に。わりとしょっちゅう考えます。
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