優しさを召し上がれ 初出:2018年4月25日
額に冷たいものが触れる。
気持ちよさに、ふ、と吐息が漏れた。
意識が浮上する。
「あぁ、目が覚めた?」
「……だざい?」
橙色の柔らかい灯りの中、太宰がこちらを見下ろしていた。
額に手を伸ばすと、貼り換えられたばかりらしい冷却シートの冷たさを指先に感じる。
すぐには状況が掴めなくて布団に転がったままぼんやりしていると、太宰が瞳を細めた。
「鬼の撹乱だねぇ。国木田君が風邪を引くなんて」
「……ほっとけ」
伸びてきた指に頬にかかっていた髪をそっと払われる。
揶揄うような口調なのにやけに柔らかい響き。
胸の内側がむずがゆくなって、俺は視線を逸らしてしまう。
風邪を引くのは本当に久々だった。
昨夜はわずかだった体調不良は、目覚めてみると高熱になっていて起き上がるのも億劫なほどで。
社に連絡を入れ、気怠い体を叱咤して病院にかかったのが午前中の早い時間。
薬を出してもらい、帰宅途中で適当に贖った食事とともに胃に収めて横になったのは正午近かったような気がする。
体調管理を怠ったつもりはなかったが、知らずに溜まった疲れが出てしまったのかもしれない。
もっとしっかりしなければと反省しながら目を閉じたのだった。
「太宰お前、仕事は」
「就業時間はもうとっくにすぎたよ? 君は私を何時間働かせる気なのさ」
はっとして見上げると、太宰はやれやれと肩を竦めてみせる。
いつの間にか夜になっていたらしい。
そういえば、しっかり引いたカーテンの隙間からわずかに侵入していた日の光はもうなく、部屋を照らしているのは豆電球の柔らかな灯りだけだ。
「……そういえばお前、どうやって入った?」
だんだんと覚醒してきて、頭も回り始める。
俺は万一を想定して太宰の部屋の鍵を持っているが、荒らされるのを警戒して太宰には俺の部屋の鍵を渡していない。
嫌な予感がして顔を強張らせると、太宰がにやぁと笑った。
架空のなにかを摘まんだ指先が不穏な動きをする。
「そりゃあ、ちょちょちょい~と」
「ピッキングをするな! 不法侵入だぞきさ……ゴホッ、ゴホ……ッ」
「あらら、駄目だよ怒鳴っちゃあ。怒ると余計熱が出てしまうよ?」
「だ、誰のせい、だっ」
立て続けに咳き込むと、喉と胸の上のあたりが痛む。
なかなか止まらない咳が苦しくて背中を丸めると、太宰にその背をさすられた。
根気よく治まるまでそうしてくれるのに、なんだかやけに安心してしまう。
「ううん。けっこうしんどそうだねぇ。熱は……今は薬が抑えてくれているのかな?」
呼吸が落ち着くまで背中にあった手が、するりと滑って首筋に当てられる。
ひやりとした指の感触が心地よくて、俺は思わず目を閉じるとほぅと息を吐いた。
頭上で、ふ、と笑うような気配がする。
「……君、いつから眠ってたんだい? ご飯は?」
「眠ったのは昼前だが、その前に少し食った」
「そう」
いつもはこちらの神経を逆なでするようなことばかりピーチクパーチク囀っているというのに、今日の太宰はやけに穏やかな声で話す。
その丸い音が耳に、胸の内に心地よかった。
「なにか食べられそう?」
「……あぁ。食わんと薬が飲めないしな」
問いかけに頷く。
正直あまり食欲はなかったが、そういうわけにもいかない。
「君は本当に律義だねぇ。長引かなそうでなによりだけど」
また笑う気配がして、いまだ首筋に置かれていた手が頭をひと撫でしてから離れていった。
それを追うように目を開けると、太宰が立ち上がるのが見える。
「少し待ってて」
目が合うと微笑まれた。
その、子供にでも言い聞かせるような様子が妙に気恥ずかしくなる。
離れる体温を惜しんだのが顔に出ていたのかもしれない。
「……風邪なんぞ、ろくなもんではないな……」
台所に立つ太宰の背中を見ながら俺は独り言ちた。
熱で怠いし苦しいし、喉も痛い。なんだか必要以上に心細いような気分になる。
そもそも今日の予定が誰かに乱されるよりも先に台無しだ。
これ以上決定的な醜態を晒す前に速やかに治すに限る。
「国木田君、起きられるー?」
ピーと電子レンジが音を立てた。
太宰が取り出した湯呑みを手にやってきて、俺はゆっくりと起き上がる。
薬のおかげかたくさん寝たからか、今朝よりはいくぶん体が軽いようだった。
枕元に置いてあった眼鏡をかけたところで、太宰が傍らに膝をつく。
「とりあえずこれ飲んでて。水分補給しないと」
「あぁ。すまんな」
受け取った湯呑みの中身は水だ。
冷蔵庫にあったミネラルウォーターを常温にしたらしい。
喉を刺激しない温度にほっとして湯呑みに口をつけると、あらかじめ用意されていたらしい膝かけが肩にかけられた。
「……お前、なんだか手慣れていないか?」
「まさか。誰かの看病をするなんて初めてだよ。君が眠っている間にいろいろ調べたのさ」
介護などの経験があるのかと首を傾げると、太宰がなにやら嬉しそうにする。
「うふふ、合ってたかい? せっかくの機会だからね。もっと甘えていいのだよ?」
また一つ頭を撫でてから台所に行ってしまう。
優しい感触に幼子でもあるまいし、とは思うが、安堵している自分も否定できない。
複雑な気持ちで俺はひたすら湯呑みの水を一口ずつ喉に落とし続けた。
「お待たせ~」
水が三分の一ほどに減ったころ、太宰が盆を掲げて戻ってくる。
棚から探し出したらしい一人用の土鍋に茶碗と蓮華が添えてあった。
「あ。お米と、冷蔵庫にあるもの適当に使っちゃった」
「いや、それはいいが……」
畳に腰を下ろした太宰が土鍋の蓋を開けると、柔らかな湯気が立つ。
卵粥だ。
食欲がないなりに胃を刺激する香りに思わず深く呼吸をしてしまう。
が。それはそれとして。
「口に合うかは分からないけれど、まぁうまくできたと思うよ。……国木田君?」
唖然としている俺に気づいたのだろう。
茶碗に粥をよそっていた太宰が首を傾げた。
「……これは夢か。それとも天変地異が起こる前触れか……」
「やだなぁ国木田君。私も料理くらいできるよ。やりたくないだけさ」
思わず呟くと、太宰はひどいなぁと笑う。
だが俺は出会ってからこの方、太宰が料理をしているところを見たことがなかった。
なにしろこの男の部屋にあるのは、酒と蟹缶となぜか味の素のみなのだ。
食事処やスーパー、コンビニがあるのだからいいじゃない、と常日ごろ言って憚らない太宰を叱り飛ばして俺が手料理を振舞うのが最近の日課になりつつある。
その太宰が料理。レトルト食品を温めたとかではなく、一から調理。
「心配しなくてもレシピどおりだよ。国木田君も弱ってるし、変なアレンジは加えてない」
「それは俺が万全ならおかしなものを入れているということか……?」
「その場合、私は料理をする必要ないよね?」
「そ、そうか……?」
あくまでも太宰の大前提は「料理はやりたくない」らしい。
蓮華に粥を一口分すくってふうふうと息を吹きかけている太宰をぼんやりと見つめながら、俺は頭をひねった。
太宰は料理を作りたくないが、粥を作って、レシピどおりで、それは俺が風邪を引いているからで……。
つまりどういうことだ。
やはり熱で頭が回っていないかもしれない。
よく分からなくなってきた。
「はい、国木田君。あーん」
「ん? あー……って、ちょっと待て。自分で食べられる」
口元に蓮華が差し出されるのについ口を開けてしまいそうになる。
直前で気づいた。危ない。
「えーなんでぇ? せっかくふーふーしたのにぃ」
「子供ではないのだから自分でできる。貸せ」
そういえばしていたな。ふーふー。
どうしてそのときにこうなると気づけなかったのだろう。
熱以外の理由で頬を赤くしてしまいながら湯呑みを畳の上に置いた。茶碗を受け取ろうとするが、太宰がすっと遠ざけてしまう。
「……おい」
「いいじゃないこれくらい。看病ってこういうものなのだろう? 私、やりたいよ」
「う……」
太宰が口を尖らせる。
駄々を捏ねるのはいつもと同じなのに、いつものように喚くことをしないから妙に真摯に聞こえた。
上目遣いでの無言の訴えに引き下がるしかなくなる。
しぶしぶ湯呑みを両手で抱え直す俺に、太宰がぱっと表情を明るくした。
「はい、あーん」
「あ」
にこにこと太宰が蓮華を差し出してくる。
恥ずかしい。
恥ずかしいが食べないと薬が飲めない。
薬が飲めないと風邪が治らない。
俺は自分へ必死に言い聞かせながら口を開ける。そっと口元に寄せられた蓮華から粥を啜った。
「……ん。うまい」
「本当? よかった」
粥は世辞ではなく本当に美味だった。
出汁の甘さが主で、塩味がほどよく抑えられている。それを卵がさらに優しい味にしていた。
温度もちょうどいい。
思わず口をついた感想に太宰がふわりと口元を綻ばせる。
「でも無理しなくていいからね。食べられるだけ、ね?」
「あぁ」
珍しい、諭すような口調に素直に頷いて、促されるまま口を開けた。
そうして太宰が吹き冷ましてくれる粥を少しずつ胃に収めていく。
食べ始めてみると案外食べられるものだ。
他人の手で食事をするのも繰り返していると慣れてきて、羞恥も薄れてきた。その代わりこみ上げるのは懐かしさだ。
幼いころ、こうして看病されたことがある。
具合は悪いのに、胸の内側が温かくて、柔らかな安堵に少し泣きたくなるような気持ちになったのを覚えている。
今も、同じだ。
「……なんだかこういうのいいね」
「ん?」
蓮華に息を吹きかけながら、太宰がぽつりと零す。
首を傾げると、はにかむように表情を緩めた。
「あ、ごめん。なんだか珍しくてさ。君は風邪で苦しんでるのに、不謹慎だったかな」
「いや……」
あーん、とまた口に運ばれる粥を咀嚼する。
異様に体が丈夫で生命力の強い太宰のことだ。寝込むほどの風邪など引いたことがないのかもしれない。
知識があっても実際の一般的な家庭には疎そうだし、ポートマフィアではおそらくこういったこともなかったろう。
詳しく訊いたことはないが。
「そのうちこれが普通になる。これが今のお前の世界だろう」
「……う、ん」
こくんと口の中のものを飲み下してから告げる。
当然そうあるべきだと思ったのだが、太宰からの返答は珍しく歯切れが悪かった。
「太宰?」
不思議に思って顔を覗き込むと、なぜかうっすらと頬を染めている。
俺の視線に気づいて、ふいと顔を反らした。
「……もー急にかっこいいこと言うのやめてよ。口づけたくなるでしょ」
「な、にを莫迦な」
ぽそぽそと小さい声で言うのに、一気に熱が上がったように感じる。
太宰以上に顔を赤くしてしまっていると自覚しつつもどうしようもなかった。
「お、お前こそ急に可愛い顔をするな。誘惑するな!」
「してないよ。ひどい濡れ衣だよそれ」
「とにかく駄目だ。か、風邪が移るからな」
「分かってるってば!」
「むぐっ」
必要以上にそわそわしてしまっていると、突然、粥をのせた蓮華を口に突っ込まれた。
「もう、いいから食べて。薬飲んで寝て。早く元気になって」
「む、ぐ、こら、おい、待て、んむ」
さっきまでの甲斐甲斐しさはどこへやら、とっくに適温になっていた茶碗の中身を次々流し込まれる。
困惑しつつも俺はなんとか粥を胃に収めきった。
「はい、ごちそうさまっ。水取ってくるね」
「あ、あぁ。ごちそうさま」
太宰は傍らにあった薬の袋を俺に押しつけると、盆を手に腰を上げる。
思わず両手で受け取ったそれを抱きしめるようにしながら、俺は太宰をぽかんと見上げた。
「……もう、どうして結局こうなるかなぁ」
不貞腐れたように独り言ち、ふいに屈んだ太宰が耳元に顔を寄せてくる。
「それで、元気になったらたくさん口づけさせてくれ給えよ」
「っ、だ……」
直接脳に吹き込まれたような声に、ドカンと衝撃がある。
衝動的に手を伸ばしたが、薬袋を抱えていたせいで初動が遅れた。それより早く盆を抱えた太宰がぱたぱたと台所に逃げ込んでしまう。
一瞬ちらりと見えた顔は悪戯小僧のようだったのに、赤くなった耳を見てしまって、俺は顔を押さえて布団に倒れこんだ。
「……してるだろうが、阿呆……」
どう考えても誘惑だ。どうして今、俺は風邪を引いてるんだ。
自分へ八つ当たり気味に恨み節を吐いて、俺は決意する。
絶対に明日までに治してやる。
了
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二次創作の定番「風邪」です。
国木田君はちゃんと引いてくれそうだけど、太宰さんは本当に弱ったら身を隠してしまいそうだなという解釈は当時から変わってないです。
これも今は書けない甘さですね……読む分には大好きですけど……。
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