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そのクロネコに降り注ぐ


幻太郎がわたしのこと大切に思ってるなんて、乱数の想像でしかなかったのだろうか。書斎にこもってしまった幻太郎のことを考えながら夕食の支度をした。
彼はきっと和の文化が好きなのだろうと思うと、食事も白米とメインの煮物や焼き魚、お味噌汁・おひたしといったようなメニューを作ってしまう。わたしはつい最近ここに居候するようになっただけの女で、食べ慣れた味を作れるわけもないのだが、なんでも文句のひとつも言わずに食べてくれる。
そういえば、お風呂もいつも一番を譲ってくれるし、冷える夜にはかならず湯たんぽを作ってくれた。
幻太郎はわたしのこと、大切に思っていない?そんなわけない。少なくとも、わたしがいなくなったら精一杯を尽くして探してくれた。世話を任せた人がわたしの行方を知らないとなったら、怒ってくれたのだ。
ありがとうをたくさん込めて煮付けた鰤はきれいに照っておいしそうだ。

また泊まると言いかけた帝統を、乱数が慌てたように言いくるめ「たまには静かに過ごしてねえ」と連れ立って帰ってしまった。こんなによくできた夕食は本当ならみんなで食べたかったけれど、幻太郎は一緒に食べてくれる。それだけで嬉しかった。いまは、食事を共にする人がいる。少し前のことを思い出して身震いをしてしまう。お皿によそい、冷める前にと幻太郎を呼びに部屋を出た。
書斎の前で、そっと声を掛ける。夕飯、一緒にどうですか?ことりと小さな音がして、静かな声が響いた。

「ありがとうございます。直ぐに行きますよ」
「待ってるね」

胸が温かくなって、テーブルに並べた料理を前にドキドキしながら待っていた。言葉のとおり、いくらも経たず居間に来てくれた幻太郎は、わたしと夕食を交互に見てふふと笑って目を伏せた。「鰤ですか」と嬉しそうにいそいそとわたしの向かいに座ると、そっと手を合わせてこちらに視線を向ける。わたしも手を合わせた。ふたり分の「いただきます」が、肌寒かったこの部屋の温度を上げてくれた気がする。

ポツポツと、旬のものはおいしいよねとか、お味噌汁の出汁がうまくとれたのとか、話すのはわたしばかりで、幻太郎は動作だけで頷いたり「ええ」とか「そう」とか、小さな相槌を返すだけ。それでもわたしは嬉しかったし、楽しかった。顔を上げると作った料理をおいしそうに食べてくれている人が、なんでもない話を聞いてくれる人がいる。いままで出来なかったたったそれだけのことが幸せでたまらない。
ふと、話を止めると幻太郎はすうっと視線を持ち上げてわたしの表情を伺うような素振りをみせた。笑いかけて、お礼を言う。ありがとう。

「幸せ。ありがとう。幻太郎のおかげだよ」
「……ずっと過ごしてきた世界から、突然放り出されたのに?」
「うん。それでもいまが幸せなの」

目を伏せて「おかしな人」と呟いた幻太郎は笑っているように見えた。幻太郎が笑ったところ、初めて見たような気がしてじっと見つめてしまう。見られていることを知ると、シャイな彼は「お茶の用意をしましょうか」と立ちあがって台所へ。お皿の隅にきれいによけられた骨、空の汁椀と飯椀。綻ぶ頬が少し熱くて、てのひらをそっと当ててみた。自分はいまどんな顔をしているんだろう。見られたくないような・そうでもないような。きっとだらしない顔だ。でも、幻太郎にこの感情を、言葉にして伝えるなんてとても無理なことなのだから。

御盆に急須とお湯のみをふたつ並べて持って来てくれた幻太郎と目が合ったとき、彼はまたすぐにふいと視線を逸らした。お茶を注いでくれる手元に、ぼんやりと意識が持っていかれて、そこからきっちりと袴を着こんだ幻太郎の体躯を想像する。指は華奢だけど、男性らしく骨が浮いた印象の手、なんとなく乾燥している。肌の色はどこもこんなに白いのだろうか、例えば、太ももは、お腹は、もっと白いのか。

目の前に湯のみが降りてきて、それを置いた手ごと、両手で包み込む。肌の感触は見てくれよりもずっと硬くて、引っ掻いたくらいじゃ傷なんてつかないだろうと想像した。握った手をじっと、てのひらで確かめる。
時間が止まったような錯覚を起こしていた。この部屋にも壁かけの時計があったはずだが、秒針の音も聞こえなかったし、例えば目の前にあるはずの幻太郎のくちびるから漏れる呼吸の気配も感じなかった。

わたしね。そう呟いて幻太郎を見上げたら、いつもより近い距離で、くちびるを薄く開いた彼がわたしの瞳を覗き込んでいた。とんでもないことが起こって呆然としているような表情に、自分がなにを言いかけたのかわからなくなる。
視界の隅に真っ赤な耳が見えた途端に我に返り、慌てて手を離して後ろに飛び退いた。幻太郎はわたしを見つめたまま、ぐっとくちびるを噤んで震えながらテーブルの向かいに座りなおす。
なにを、なにをしようとしていたのか、わたしは。なにを言おうとしていたのだろう。パニックを起こして、目の前の幻太郎と同じ動き……彼の向かいに静かに腰を下ろして湯のみの中に視線を落とす。

それから、お互いに一言も発さないまま。ゆっくりと食後のお茶を飲み、並んで食器を片付け、順番にお風呂に入り、よそよそしくそれぞれの床に着いた。
ぼんやりと月の明かりが差し込む部屋で天井を見つめていたら叫びだしたくなってしまい、枕に顔を押し付ける。なんであんなことをしたんだろうと、後悔に近い感情が生まれる。

わたしが幻太郎に、どんな気持ちを・どういう想いを抱いてしまったとしても、幻太郎には幻太郎の気持ちが・想いがある。相手の感情は相手のもので、いくら考えたとしてもそれは想像の域を外れない。けれどそんなの、相手の感情を考えることもせずに自分の願望だけを押し付けるような行動をしていい理由にはならないじゃないか。
穏やかで優しい日常を共に過ごしてくれる人に、なにかを思うのはわたしの自由。いままで出来なかったこと・ずっと欲しかったものをくれる人に、思慕のようなものが生まれてしまうのはごくごく自然なことだと理解はできる。自分自身の気持ちは否定しないし、するべきではないと思う。でも、だけど、あんなのって。

幻太郎が幻太郎なりに、わたしのことを大切にしてくれているのを、わかっていたはずだ。少なくともわかりたいとは思っていた。
総てを踏みにじるような行いをしてしまった気分だった。

インターホンが鳴って目が覚めた。眠りにつくまで時間がかかってしまったからか、随分ゆっくりと寝ていたようだ。廊下を歩く音がしないので、幻太郎もまだ起きていないのかなと、急いで着替えだけして髪を手で梳かしながら玄関に向かう。はあい、と返事をして引き戸を開けると、いつか会ったスーツの男性が立っていた。出版社の、担当の方だ。以前は合鍵を渡していたようだが、先日のことで返却をお願いしたらしい。

「おはようございます。幻太郎さんですね。お呼びします」
「ああ、驚いた。おはようございます。夢野先生の家に女性が居るなんて」
「え?あはは。ただの、居候なんですけどね……」

「へえ?」と相槌を打って首を傾げた彼に中に入るよう促し、幻太郎を呼びに行こうと振り返ったら、奥で襖が開く音がした。ぺたりぺたりとのんびりした足音が響いてきて、なんとなくどきどきしながら廊下を覗いたら、疲れた顔をした幻太郎が浴衣姿のまま現れる。

「おはよう。だいじょうぶ?」
「ええ。心配には及びません。どうされました?」
「夢野先生!いただいた原稿、編集部で評判が良く、どうしてもお伝えしたくて……」

捲し立てるように集まった感想を話し始めた担当の方の言葉をちゃんと聞いているのか、幻太郎はまぶたを閉じて眉間にしわを寄せている。頬に指を当てて、一応こくりこくりと頷いてはいるが、眠いだけなんじゃないかと思って隣からそっと顔を覗く。目の下に薄くクマが出来ていた。
話が止まらないようすの担当さんに、やっと「わたしはいないほうがいいかも」と思い、そろりと身を引く。朝食の用意でもしておこうかな、と台所に向かっている途中、こんな話が聞こえた。

「よりリアルな感情が伝わってきましたよ。先の女性、居候です、なんて仰ってましたが……いや、これ以上は野暮ですね。失礼しました」

彼の言葉に対する幻太郎の返事が聞きたくなくて、台所に飛び込んで扉を閉める。料理に集中し始めたらもう彼らの話は聞こえない。
担当の方が帰ったのがどのくらい前なのかもわからなかった。簡単な朝食を御盆にのせて振り返ったら、いつの間にか幻太郎が台所の入り口に立っていて、ひゅ、と呼吸がおかしなことになる。真顔でこちらを眺めるだけの幻太郎に「あさごはん……」と言うと、こくりと頷いてわたしに背を向けた。

敷きっぱなしだった居間の布団をたたみ、テーブルを下ろし、お皿を並べる。昨日と同じ、ふたりとも一切の言葉を発さないまま、黙々と朝食を片付けた。食事が終わると必ずお茶を淹れてくれる幻太郎に、用意を任せて自分の膝を見ていたら、湯のみを置く音がして顔を上げる。目が合いそうになると逸らされ、気まずい空気が流れていた。
お茶をいただこうと湯のみに手を添えたとき、玄関の方から騒がしい声が聞こえてくる。またも来客らしいが、今度は誰だかわかりきっている。幻太郎が迎えに出ると、がやがやとにぎやかに会話しながら乱数と帝統が入ってきた。なんだかほっとしてしまって、泣きそうになりながら「おはよう」と言うと、乱数はなにかを察したようにへにゃりと笑ってわたしの頭を撫でた。

「も~、ことみ、かわいい顔しないの!」
「涙目じゃね?なんで?」
「うるさい帝統のおくちは塞いじゃう~っ」

パッと振り返り帝統にキスしようとする乱数と、それを抑えつけて慌てる帝統を眺めていた。幻太郎は眉間を抑えながら、ふたりに文句を言う。

「寝不足なんです……少し声を抑えて」
「幻太郎、締め切り明けただろ?」
「帝統はよっぽどキスして欲しいんだねえ!」

一切空気を読まない帝統の発言にわたしと幻太郎が肩を震わせていると、乱数がふざけた調子で帝統の言葉を遮る。乱数には「わたしと幻太郎の間になにか気まずいことがあった」と御見通しのようだ。帝統は乱数をいなしながら、わたしと幻太郎を交互に見て首を傾げている。心配そうに「ケンカでもしたのか?」と言うので、否定しながら笑って見せた。

「ケンカなんてしてないよ。だいじょうぶ」
「ふうん……。なんで泣きそうなワケ」
「な、泣きそうじゃないから……」

帝統がじっとわたしを見るのがなぜだか怖くて、俯いてくちびるを噤んだら、それまでとは違う明るい声でこんなことを提案する。

「なあことみ、今からさ、俺に付き合ってくんねえ?」
「え?な、なにするの?」
「ちょっと気分転換?的な?」

的な……?と首を傾げていると、わたしの手から湯のみを取り上げてテーブルに滑らせ、腕を掴んでどんどん歩きだす。後ろで乱数が「危ないとこ連れてかないでよねえ」と顔だけ覗かせていて、返事もしないまま玄関をくぐる帝統に、ただ引っ張られて歩いた。
背の高い帝統と、わたしの歩幅は全然違う。小走りなことに気が付くと少しスピードを落としてこちらを振り返り、笑顔で「どこ行きたい?」と尋ねてきた。

「え……帝統が行きたいとこで、いいよ?」
「競馬一択じゃん。物好きだな、オマエ」

競馬……と何気なく呟くと「パチ屋の方が良い?」と言うのでどちらでも良いと首を振った。
競馬場に着くと一万円をちらつかせて「頼んだぜ」というので、掲示板に表示されている中から、カワイイ名前というだけで選んだ馬を差すと、本当にその馬に一万円も賭けてしまって驚いた。こういうのはもちろん運の要素も大きいだろうけど、倍率とかも考慮しなきゃいけないものだと思っていたから。
帝統はわたしに馬券を握らせると日向のベンチに腰掛け、タバコを吸い始めた。そこそこ賑わっている印象で、今日のこの場所だけで、どれくらいのお金が動くんだろうと考える。帝統はぼーっと空を見ていて、なにも言わないし、これから始まるレースに集中している感じもしない。
なんで誘ってくれたの?と聞いてみた。無造作に伸びた髪をくしゃっと混ぜて、言葉を選んでいた。

「んー、どんな関係のヤツでも、たまにひずむんだよな」
「……なにが?」
「妄想」

妄想が、ひずむ。言っている意味がまったくわからないわけじゃないのに、上手に言葉にすることができなくてもどかしかった。妄想が、ひずむ。

「近すぎると見えねーだろ。なんでもそう。だから、ちょっと離れる」
「……わたし、見えなくなってた?」
「知らねえ。でも着いてきたってことは離れたかったんじゃねえの」

帝統にも「妄想がひずむ」こと、あるんだろうか。アナウンスが大きく鳴り響いて、周囲が歓声や怒号で溢れだす。帝統の周りだけ静かだった。この場の騒々しさなんて、彼の空気には一切干渉しない、できない。それがうらやましくて、少しだけ近くに寄った。ん、と声を漏らしてわたしを見下ろす瞳になんの感情も見えなくて、つい笑ってしまう。
思い出した、昨日の夜のこと。

「帝統ってすごいね。ありがとう」
「どーも。っていうかなに買ったんだっけ」
「え?なんかカワイイ名前の……」

わたしの握った馬券を覗き込んだ帝統は、立ち上がってバッと競技場の方を見た。「うおっ……」と興奮した声を上げてわたしを振り返ると、勢いもそのまま、子供のように抱きあげられて悲鳴を上げる。

「ひゃあっ!なにっ、なに?!」
「勝った!倍!」
「えっ?馬?勝ったの……?」

しばらくにこにこしながら「あの馬は~」とか「ビギナーズラックすげえ」とか言ったあと、わたしを腕に抱えたまま、うきうきと窓口に向かう。しばらく経ったら換金の受付が始まって、二枚になって帰ってきた一万円札の一枚をわたしのポケットに入れた。元は帝統のお金だからと断ったが、そもそも幻太郎に借りた残りだったようなので受け取っておくことにする。後で幻太郎に返そう。
やっと地面に下ろしてくれたとき、ああ怖かった、と零すと帝統はキョトンとしていた。

「女のひとりくらい余裕だって。落としたりしねえよ」

「帝統は力持ちなんだね」と言いながら、てのひらには硬い感触がよみがえる。幻太郎の手、大きかった。そういえば、帝統のほうががっちりしているけれど、幻太郎と帝統に身長差はあまりないような気がする。悶々としていたら、帝統はスマホを取り出して電話をかける。相手は乱数のようだった。まだ幻太郎の家にいるのだろうか。勝ったからなにか買って帰ろうか?と提案する帝統に、乱数が嬉しそうに「しゃぶしゃぶしよ」と言うのが聞こえた。
帝統と、スーパーで肉や野菜を買い込んで家路につく。荷物も全部持ってくれて、ご機嫌に歩く帝統の手に、そっと触ってみた。ガサガサしてる、硬い皮膚。わたしの手とはやっぱり違う。でも幻太郎の手とも全然違った。幻太郎の手は、触ったら熱が伝わり顔に集まって、胸がぎゅっとなった。

「なに?」
「ん?帝統の手、おっきいね」
「ことみが小さいんだよ」

にっかり笑った帝統を見上げてわたしも笑う。
胸の中でありがとうの気持ちが膨れ上がってたまらなくなり、もう一度伝えようとくちを開いたら、後ろからバタバタと数人の足音が伸びてくる。揃って振り返ると、男性が数人、声を荒らげながらわたしたちに近づいて来た。
怒られるようなこと……悪いことなんてした記憶もないのでぼさっと眺めていたら、ぐっと腕を掴まれる。青い顔をした帝統が慌てて走り出すので、引きずられるように着いていく。

「なに?どうしたの?!」
「わかんねえ!わかんねえから逃げるんだよっ!」
「ええっ……?」

混乱しながら必死に足を動かし、心当たりが無いなら逃げなくてもいいんじゃないか・誤解ならば事情を話さなければいけないのではないかと提案したが、帝統は『まったく心当たりがない訳ではない』という趣旨のことをもごもごとくちにしていた。
もしもわたしたち(というか帝統)になんらかの責任が発生しているというのなら、なおさら逃げてはいけないのではないかと考えたが、二十歳の体躯の良い男の子と並走するのはあまりに苦しく、徐々に思考が鈍るほど酸素が足りなくなってくる。それは帝統にもわかっていて、追っ手を気にしながら「死ぬな!」などと縁起でもないことを言う。
しかし、それもまるで見当違いな発想ではない。あっという間に限界に近づき、気を失ってしまいそうだ。

「だいす、だけでも……にげ……」

なんとか声を振り絞っていたとき、顔の横になにかが向かって来た。見えてはいたが、避けることもできないままぶつかってしまったものはどうやら直線的に飛んできた水で、変な声を上げてしまう。帝統が悲鳴を上げたのも聞こえた。
握られた手から自分の腕がするりと抜けて、体がぐるっと一回転するように空に投げ出される。この感覚は……と冷や汗をかきながら、いましがた全力疾走で死を垣間見た女とは思えない、妙に軽やかな着地をした。

顔を上げると、走り去っていく帝統とそれを追いかける数人の男性。ホースを手にした女性が「ごめんね〜!」と彼らが走り去る方へ声を上げている。後ろに植木鉢が見える。
ああ、またやってしまった……と毛むくじゃらの手を見下ろして落胆していたら、エンジン音が響き、驚いて尻餅をついた。よく見るとわたしがいるのはトラックの荷台で、しかもその車はいままさに走り出そうとしている。慌てて降りようとしたが間に合わなかった。どんどん流れていくシブヤの景色。途中で帝統を追い越したが、気付いてくれるはずもないだろう。

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