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そのクロネコに降り注ぐ


銃兎の家はオシャレな家具が並び、殺風景なくらい整頓されていた。まったく生活感が無い。帰り道にホームセンターでわたし用の買い物を済ませてくれた銃兎にお礼のつもりで頭を擦り付ける。お皿に水を汲んでくれていた銃兎は緊張したような顔でそそくさと奥の部屋に猫砂などを設置しに行ってしまった。
廊下から、お風呂場とトイレ・洗面所やキッチンを眺めつつゆっくり追いかける。銃兎は設置を終えるとスウェットに着替えていて、今日はお仕事ではなかったのだろうか?とさっきまでのスーツ姿を思い浮かべる。もしかしたら、夜勤のあるような職種なのかもしれない。肌が白いからか、目の下の薄いクマが妙に青っぽく見えた。


ベッドに腰掛けスマホを眺めているのを、しばらく床から見上げていた。ぶつぶつと呟きながら確認しているのはネコの飼い方の基本のようだ。わたし自身もよくわからないので適当にしてくれて構わないのだが、彼は見た目のとおり真面目なところがあるらしい。
わたしが銃兎を見てしっぽをゆらゆらさせていたことに気づいたら「おいで」と抱き上げてベッドに下ろしてくれた。ころりと横になった銃兎に習って体を横たえ、鼻先をすこし顔に寄せたら穏やかな表情でお腹を撫でてくれる。

「おやすみ。ミア」

ミア。一週間限定のわたしの名前。

コポコポとお湯が沸く音で目が覚めた。見覚えのないホテルのようにキレイな部屋に一瞬戸惑ったが、そうだ、預けられたのだと思い出す。銃兎はもう隣には居なくて、タバコと柔軟剤のにおいがゆるりと混ざる部屋の中はしんとしていた。ベッドを降りて伸びをする。寝起きのこれがとても気持ちいいということは(ネコの姿に慣れたことが良いが悪いかは別として)よく知っている。
リビングに行くと銃兎がコーヒーを淹れていた、聞こえていたのはこの音だったらしい。後ろから「おはよう」の意味で鳴くと、ぱっとわたしを見て穏やかに笑った。

「よく眠れましたか?」

マグカップを置き、わたしを抱き上げてキスをする。動物を飼ったことが無いからわからないのだが、ネコが好きな人はみんなこうして恋人のようにキスをしたりあやしたりするものなのだろうか。わたしはネコ、と言い聞かせながらも、整った容姿の男の人に甘やかされれば満更でも無い。恥ずかしいという感情は薄れつつあった。大問題である。

ごはんを用意してくれてそれを食べている間に、銃兎は寝室へ戻りスーツに着替えて出てきた。初めて会ったときと同じアンダーリムのメガネもかけ、お仕事モードだ。
ふとカーテンが閉まっていることに気づき近づくと、銃兎は「外は雨ですよ」と少し隙間を作って覗かせてくれた。起きたばかりだから迷いなくおはようと挨拶してしまったが、外は薄暗い。車のキーを持って玄関に向かう銃兎を追いかけていくと、彼はこちらを振り返り少し考える素振りを見せる。そしてわたしにこう言った。

「今日中には戻ります。いたずらしないように」

思わずピシッとするような言い方。返事もんにゃっと短く元気になってしまった。くすくす笑いながら「本当にわかってるみたいだ」と呟き、一度わたしの頭を撫でて出て行った。
リビングに戻って時計を見上げると十七時だった。お仕事の外出ではないのかもしれないが、零時までには戻る、なんて謎のタイムスケジュールに首を傾げた。カーテンの内側に潜り込んでぽたぽたと雨が落ちるのを見ているのは、不思議と飽きはしなかったが、そのうちまた眠くなってしまう。

体に乗ったわずかな重さがはらりとなくなってまぶたを上げる。銃兎がカーテンを持ち上げたらしい。床にしゃがんでわたしの顔を覗き込んでいた。おかえり。ひとつ鳴くと、小さく息を吐いている。

「生き物が家にいると思うと気が気じゃないな……」

そんな独り言を言いながらジャケットを脱ぎハンガーに掛ける。丁寧なその姿を見ていたら独歩のことを思い出した。彼は帰ってくるなりばさりと放り投げてしまうことの方が多かったなって。そして一二三に世話を焼かれるのだ。
銃兎はなんのお仕事をしているのか知らないが、服装は露出を一切と言っていいほど抑え、そのせいか妙に生白い肌をしている。元来色が白い方でもあるのだろうが、なんとなく冷たさを感じる。
わたしを甘やかすときの穏やかな銃兎と、そうじゃない姿。一緒にいたら当然、目にすることになった。

明日で約束の一週間。朝一番に耳にしたのは怒号だった。銃兎が電話口でいままで聞いたことのない乱暴な言葉を重ねている。バタバタと身支度を整えながら、吐き捨てるように「すぐに行く」と通話を終えると、そっと扉の陰から見ていたわたしににっこり笑いかける。

「夜には戻りますよ。いい子にしていなさい」

返事も出てこなかったし、しばらくその場から動けなかった。
扉の閉まる音を聞いて、ベッドに戻って丸くなる。銃兎はたぶん、人を使うこともあれば、責任を負うこともある立場の人間なんだ。厳しさも、強さも、きっと必要。仕事をするってそういうことだと、わかっているけれどやっぱり怖かった。怖いと思った自分の気持ちは認めてあげたい。
銃兎はわたしに作り笑いを向けた。
寝巻き代わりのスウェット姿で髪を下ろしたまま・マグカップ片手に笑いかけてくれたときとは違うことくらい、たった数日しか一緒にいなくたってわかる。
厳しい世界にいるのだろう。幻太郎たちから聞いた"女尊男卑"なんていう世相の、そのせいかはわからないが、生きづらいと感じる一因にはなっているんじゃないかと想像する。
部屋をくるりと見回した。誰も、ここで生活していないみたい。そう思ったら銃兎の華奢な指先を・生身の肌を見たときの違和感の正体に気づいた。生きていないみたいに見えたのだ。

銃兎が帰宅したのは二十二時も回った頃だった。解錠の音に玄関に走ると険しい顔で、それでも静かに「ただいま」と言ってくれた。黒いスーツに毛だらけにするわけにはいかないかと、擦り寄るのを我慢して見上げながら後を追う。リビングに入り手套を脱ぐとデスクに放り投げて、銃兎はそのままソファに沈み込む。床に座ってその姿をじっと眺めた。とても疲れているようだった。

はあ、と小さく息を吐いてメガネを外すと、眉間を揉んで背を丸めている。体に触ることも、声を掛けることもできず、ただそばに座って撫でてくれるのを待っていた。
十分もそうしていただろうか。銃兎は小さく笑った。そしてスーツを脱いでいつも通りハンガーに掛ける。髪をくしゃくしゃと混ぜてわたしを呼んだ。

「ミア……おいで」

しゃがんでくれた銃兎の膝に手を乗せて顔を近づける。なあんと鳴いてみたらとても甘えた声が出た。おかえり、お疲れさま。そんな気持ちを込めて顔を舐める。銃兎は嫌がりもせず好きなようにさせてくれた。背中をそっと撫でながら、頬を寄せて微笑んでくれる。

「シャワーを浴びてくる。そしたら一緒に食事にしよう」

返事をして離れると、銃兎は着替えを用意して浴室に向かっていった。
独歩と一二三のところにいるときにも、何度思ったか知れない。わたしがネコの姿でなかったら。ぼんやりと廊下に視線を向けて考えた。

銃兎のスマホが着信を知らせる音で我に返った。浴室からはシャワーの音が聞こえる、銃兎には届いていないだろう。デスクに飛び乗り画面を覗くと『左馬刻』の文字。仕事の関係ではないのなら……と一瞬思ったが、左馬刻はちょっとガラが悪い感じの男性だったことを思い返す。呼び出しも長い。咥えるわけにもいかずスマホを運ぶことができないので、浴室に走った。
脱衣所に入り込んで浴室の扉をカリカリと引っ掻いて鳴いていたら、すぐにガラリと開いた。もう入浴を終えるところだったようで、銃兎がわたしに気づいて不思議そうに名前を呼んだ。見上げると、ばたばたとぬるま湯が降ってくる。
目をしぱしぱさせていたら、やけに銃兎の顔が近い気がした。すぐに、それは「気のせい」なんかじゃないと察して短い悲鳴をあげる。

「ひゃっ……す、すみませ……」
「あ……え?は?」

メガネが無いからか、それともこの状況が飲み込めないからか。眉間に皺を寄せてわたしの顔を覗き込む銃兎は、咄嗟に腕を掴んで距離を取ることもさせてくれない。

「あの、ごめんなさい、一旦離してください!逃げないので……!」
「……すみません。状況が把握できなくて。ここにネコがいませんでしたか?」
「わたしです!わたしがミアです!服を着てください……」

そう言うとやっと両手が解放され、銃兎は「少々お待ちください」と着替えを掴んで浴室に引っ込む。逃げないと言った手前その場を動けず、熱くなった顔をてのひらであおいでいたら、銃兎はすぐに出てきてわたしをリビングへと促した。そしてソファに座らせると、自分はそばに立ったまま尋ねる。

「お名前とご住所をお聞きしても?」
「は、はい。諸星ことみです。住所は……」

先日のこともあり、幻太郎の家の住所は確認して記憶している。こんなところで役に立つとは、と並べられる問いにひとつひとつ答えながら思った。そして彼は小さくため息を吐くとこう言った

「ここが警察官の家であると知っていて忍び込んだのですか?」
「えっ……あの……わたし……」

冷たい声に、なにを言ったらいいのかもわからなくなってしまった。銃兎はメガネを外していたし、湯気で視界も悪かった。わたしがこの家で過ごしていたネコ……ミアであったという証明ができない。さらに銃兎が警察官であるということを知って、逮捕されてしまったら幻太郎たちにどれだけ迷惑をかけるのかと考え、必死になってわあわあも捲し立てる。もうほとんど泣いていた。

「あのっ、わたしがミアで、説明すると長いんですけど、水をかぶるとネコになったり人間になったりしちゃってて、左馬刻さんから電話があって銃兎さんを呼びに言ったんですが、水、かかっちゃったから……それで……」

わたしの言葉を真顔で聞いていた銃兎は静かに「左馬刻とはお知り合いで?」ともうひとつ尋ねる。

「知り合いと言うほどでは……帝統から理鶯さんのところに預けられたとき、会っただけで……」
「……はあ。しつこく失礼しました。信じますよ。正直信じられませんが」
「し……んじられないけど、信じてくれる……?」

切羽詰まってぐるぐるしたままの思考では言葉のあやをうまく処理できず問い返す。銃兎はもう一度深くため息を吐いて、あのとき一緒にいたのは理鶯、左馬刻、自分とネコだけだったじゃないかと言った。そばに誰かが隠れていれば理鶯は気がつくだろうし、とも言っていて、よくわからないが逮捕されないとわかって安心した。安心したらぽろっと涙が出てくる。

「ううっありがとうございます……」
「まったく。彼も可笑しなことに巻き込んでくれますね……」
「すみません……人間に戻れたので、帰ります。お世話になりました」

立ち上がったら銃兎はきょとんとしていた。

「もう日付が変わりますよ。約束の日は明日ですし、今日はここで過ごしていかれては」
「で、も……えっと」
「私は警察官です。保護している女性に無体を働くことなどありませんのでご安心を」

あっ……と意味もなく声を溢して固まっていたら、銃兎のスマホがまた着信を知らせた。ちらりと見えた画面にはさっきと同じ名前が表示されていて、銃兎はわたしにてのひらで断ってから応じていた。

「急ぎだったか?こっちも少しごたごたしていて……は?いや……あ、ああそうだ、明日はミアを……そう、シブヤの彼に返しに行くから!ハハ、なんとでも言え……理鶯によろしく」

なんの話かはわからないが、銃兎は取り繕うようにわたし(というか、ネコ)を返す予定をくちにしていて、それに対して電話の向こうで左馬刻がごねているような声が聞こえる。「そういうわけだ、切るぞ」と焦ったようすで言うそばで銃兎を見上げていたら、パチリと目が合う。その瞬間、フとからかうような笑みを見せ、電話口の左馬刻に「そういえば」とこんなことを言った。

「やっぱり、ただのネコじゃなかったぞ」

なぜだか恥ずかしくなって目を逸らす。通話を終えた銃兎は食事にしようと言い、わたしがなにか言う隙もなくキッチンへ。おたおたしている間にササっと親子丼を作って「簡単なものですみませんが」と振る舞ってくれた。ネコの姿のときはカリカリも美味しく食べられているが、人間のご飯はそれとは別、やっぱり美味しい。夢中で食べ終えお礼を言うと、着替えを用意してくれてシャワーを貸してくれた。やたらいい匂いのする浴室でドキドキしながらお湯を浴び、下着は無いのも心許ないし、洗うわけにもいかず(干すわけにもいかないので)着ていたものを入浴後も着けた。一日くらい仕方ない。
髪を乾かしてリビングに戻ると、銃兎は本を読んでいたが時計を見て「そろそろ寝ましょうか」と寝室に足を向ける。おやすみなさいと頭を下げたら不思議そうに手招きをした。

「ソファなんかで女性を寝かすわけが無いでしょう。誓ってなにもしませんから、どうぞ寝室へ」

恋人でもない男性の穏やかな寝息を聞きながら、ぼうっと白い天井を眺めた。わたしは特別恋愛経験が豊富なわけでもないし、「デキル男」なんかと交際に発展することもいままで無かったのだが、すごい世界を見てしまったと思った。世の中にはこういうスマートの具現化みたいな男性がいるのである。
ネコの姿でなくても、わたしに出来ることなどなかった。わたしの力添えなどなにも、必要なかったのだ。



カーテンを開ける音で目が覚めた。寝転んだまま窓の方へ顔を向けると、柔らかく笑う銃兎がいた。「おはようございます」と言われて目を細めてしまったのは、麗かな日差しが目に沁みたのか・銃兎の笑顔が眩しかったからなのか。もう着替えを済ませていた銃兎は「着替えて、朝食を済ませたら出掛けましょう」と寝室を出てくれたので、もそもそと着替えをし、姿見を覗き髪を触る。寝癖はそんなに酷くなくホッとした。化粧ができないのは、こちらに来てから慣れてしまった。肌だけは……歳なりとはいえきれいで助かった。

「おはようございます。すみません、朝ご飯までいただいて」
「問題ありませんよ。コーヒーは飲みますか?」

こんがりトーストされたパンに厚切りのハムと目玉焼き、少し添えられたトマト。それらに気を取られてコクリと頷くだけの返事をしたら、くすりと笑いながら「ミルクと砂糖は?」とからかわれてしまった。

理鶯には連絡を入れるからと、直接幻太郎の家に送ってくれることになった。車に乗っている間、なにを話せばいいのかもわからなくて窓の外ばかり見ていたが、銃兎がなんでもない話をぽつぽつと提供してくれて、気まずくはなかった。すごいなあと思いながら、見たことがあるような景色に変わってきたころ、こっそり横顔を盗み見た。整った顔立ちの、すらりと背が高い、おまわりさん。欠点なんて無いんじゃないかと思ってしまう。
わたしが見ていることに気がついたのか銃兎は小さく笑うと「ありがとうございました」と言った。お礼を言うのはわたしの方だと慌てたら、少し姿勢を正して真面目な声を出す。

「ミアが……アナタが、家にいると思うと頑張れましたから。感謝しています。癒されていたんですよ。年甲斐も無く甘やかされていました、アナタに」
「そんなこと……わたしの方が、してもらうばかりで」
「私のしたことは、すべてアナタがしてくれたことのお礼に過ぎません」

もう、目的地に着いてしまった。車を降りてドアを開けてくれたので照れながら足を出す。恥ずかしさに似た気持ちがいっぱいで、なにも言葉が出てこなくなってしまっていた。
運転席に戻りエンジンをかけた銃兎は、「また会えるといいですね」と優しく笑った。小さくなるまで見送りながら、いまのは作り笑いじゃなかったな、とこころが温かくなる。しばらくぼんやりと立ち尽くした。

後ろでカラカラとガラス戸を引く音がして振り返る。そこに立っていた人を見て泣きたくなってしまった。懐かしいといえるほどわたしと彼に思い出は無いはずなのに、とても会いたかった気持ちになったのだ。
涙を堪えながらただいまと笑ったら、幻太郎はむすっとした顔で、それでも「おかえりなさい」と言ってくれた。わたしが家に居なかった事情を知っているのだろうかと「帝統が……」と話し出したら、彼はわたしの言葉を遮った。

「随分、嬉しそうでしたね」
「えっ?なにが?」
「わからないのならよろしいです」

首を傾げながら、家の中に引っ込んで行く幻太郎を追って一週間ぶりの我が家(図々しいだろうが、いまは事実だ)に足を踏み入れる。畳と木のにおいにすごくホッとした。
さっさと奥に行ってしまった幻太郎を不思議に思いながら家に上がったら、すぐに戻ってきた彼がなぜか着替えを差し出す。そしてわたしの顔を見ないまま、シャワーを浴びてこいと言うのだ。

「く、くさい?わたし」
「とても耐えられません」

慌てて着替えを受け取って、幻太郎と距離をとる。謝りながらお風呂場に逃げ、バサバサと服を脱いで片っ端からにおいを嗅いだ。くさいと言われればそうなのかもと思ってしまうが、銃兎の家のにおいがまだ濃く残っている気がしてよくわからない。シャワーを浴びて全身をよくよく洗った。

お風呂から上がると、居間がなんだか騒がしい。そっと覗いたら正座をさせられた帝統が、仁王立ちの幻太郎に叱りつけられていた。

「どうしても行きたくて、理鶯さんなら安心だと思って……」
「ことみは入間銃兎と帰宅しましたが?その経緯をアナタが説明できないのはなぜです?」
「ご、ごめんなさいぃ」

幻太郎の声音も低く恐ろしかったが、帝統の震える声も聞いたことが無くてかわいそうに思えた。くちを出そうとしたら、いつのまにかすぐそばに来ていた乱数が肩を叩いて止める。

「でも、帝統だって悪気があったわけじゃ」
「大切なひとを任せたのに行方知れずになっちゃっても、ことみは怒らないの?」
「……大切なひと」

たいせつなひと。くちのなかで何度か転がしてみた。その言葉の真意が、うまく想像できなくてモヤモヤした。
乱数に尋ねる。前にわたしが、幻太郎の担当さんにネコの姿のまま追い出されてしまったときのこと。そのときの幻太郎のようす。乱数はカラカラと笑いながら教えてくれた。

「そんなに怒って良いのかってくらい担当さんに文句言って、そのあと泣き出すんじゃないかってくらいおろおろしてたよ」

そっか、とそれだけしか言葉が出てこなかった。胸に蟠っているのがなんていう名前の気持ちなのか、よくわからなかったから。
帝統の隣に正座して幻太郎を見上げた。涙目できょとんとする帝統と、わたしたちを立ったまま見下ろす幻太郎。頭を下げることしか出来なかった。幻太郎がわたしのことを大切に思ってくれているのなら、それをちゃんとわかってあげられなかったことが総ての原因だ。

「心配かけてごめんなさい。怒ってくれて……大切に思ってくれてありがとう」

わたしの声の後、シンと鎮まりかえった部屋の中、帝統がすんと鼻を鳴らしたから顔を覗く。目が合うと泣きそうな顔をしていて、悲壮な声でわたしの名前を呼ぶので、そっと一度だけ抱きしめる。

「もうしないよね。帝統も」
「しねえよお」
「幻太郎、帝統も反省してるから……」

帝統から体を離してもう一度幻太郎を見上げる。顔を赤くした幻太郎は、くちびるを開いたり閉じたりしながら肩を震わせていた。余計に怒らせてしまったのかと背筋を伸ばしたが、ポツリと溢れた小さな声は怒りの感情を乗せてはいなかった。

「アナタのことが大切だなんて、小生は、言っていません、から」

そう言い終えると、首から耳まで真っ赤にしたまま、よろよろと居間を出て行ってしまった。帝統と顔を見合わせて、ふたりで乱数を振り返る。苦い顔をした乱数は「自覚無かったんだねえ」と呟いて頭にコツンと拳をぶつけた。

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