そのクロネコに降り注ぐ
幻太郎に、わたしがネコになったり人間に戻ったりする原因が水にあるんじゃないかという推測を伝えた。ある程度は納得していたけれど、結局「お風呂に入ってもネコになるときとならないときがあるのはなぜか」という話になってしまう。
ああだこうだと話し合ってはみたが、結論は出ず、その日の入浴でもやっぱりネコにはならず。
翌日、朝早くから外出していた幻太郎が、帰ってきて早々「しばらく書斎に籠ります」と追い詰められたような顔をしてわたしに告げた。執筆のスケジュールが押しているのだろう。おそらくそれはわたしを探すために時間を割いてくれていたことが原因だからと、協力したい気持ちで食事の用意は何時にしたらいいかと尋ねた。
しかし、わたしの言葉はばっさりと切り捨てて足速に奥へと進む。
「小生のことは気に留めず生活をしてくれてかまいません」
一緒の家にいるのにそんなことはできないと思ったが、襖がピシャリと閉まってしまい、言葉にはならなかった。
「いつもそうだよ、幻太郎、締め切り前はピリピリしてる」
「ボクは気持ちわかるけどなあ〜。オマエが書けよ……って思ったりするもん」
乱数が帝統を連れて「おかえり、ことみ〜!」と家にやってきて、あまりに元気な声に慌てて静かにしてあげて欲しいと事情を伝えたら、二人は締め切り前の幻太郎のいつもの様子を教えてくれた。
おいしいパティスリーのフィナンシェだと乱数が焼き菓子をくれたので、お茶をいれようと立ち上がる。
「俺、コーヒーがいい」
「ボクはダージリンティーがいいなあ」
そんなことを言われてもなにがどこにあるのかまだ把握しきれていない。緑茶一択だよ、と伝えて文句が増える前に急須と湯呑を並べた。
帝統が小さな声で「幻太郎みてえ」と言ったが、意味がわからなくて聞き返すと、ゲッという顔をしたので追求する。
「"聞こえたのかよ〜"って顔したね?なに?幻太郎みたい……って」
「いやあ〜幻太郎もそういうとこあんだよな〜って……」
「だから!どういうとこ?」
帝統に詰め寄っていると、乱数が「なんとなく、オフクロって感じだよねン」とお菓子を齧りながらニコニコしていた。
お袋……お母さん?衝撃を隠し切れず固まっていたら、帝統が「幻太郎も割烹着とか着て料理すんだぜ?あんなん今日日、見ねえもん」と取り繕うようにくちにする。ふたりとそのあとなんの話をしたのか、あまり記憶にない。お母さんみたいって言葉に思いの外ショックを受けたらしかった。
帝統は少し歳が離れているが、乱数や幻太郎とは同世代……だと思っていたのはわたしだけで、やはり二十代前半と「アラサー」に片足突っ込んだわたしは大きな壁があるのだろうか?なんて悶々と考えてしまう。まあ、帝統は「幻太郎みたいだ」と言ったのだし、乱数も所感をありふれた言葉で伝えただけだろう。それに自分に世話好きな一面があることはよくわかっている。
幻太郎が書斎に根を生やして丸一日ほど経った。食事も摂っているやらわからないし、水分くらいは確実にくちにして欲しいものだが、なかなか声を掛けられずにいた。というか、放っておいてくれと言われた手前、声を掛けるわけにはいかないような気がしていた。執筆に必要な能力などなにも知らないが、集中しているときに外部からの刺激があると良くないのはどんなお仕事でも同じだろう。
襖の前でコップに注いだ水を持って立ち、声が出ず諦めて戻る。そんなことを繰り返していた。
寝る前に、もう一度だけ、とコップに水を汲んで廊下を歩いていた。まだ知らないことのほうが多い幻太郎のこと。気に留めるなというのはやっぱり難しかった。同じ家にいるのだから、足音だって呼吸だって意識すれば感じる。心配してしまうのは当たり前だとわたしは思う。
少し俯いていたようだ。今日も泊まって行くことにしたらしい帝統が、脱衣所から出てきたことに気づかずぶつかってしまった。
「わっ」
「うおっわり……」
水をひっくり返してしまって、慌ててコップが割れていないかと確認したら、なんだか廊下と目線が近い。帝統がしゃがみ込んで「あーあ」と言った。
「なんだろーなホント。風呂入ったんだろ?」
なあん……とちからなく鳴いて頭を下げた。頷いたつもりだ。カラリと襖が開き、幻太郎がぼんやりした顔でわたしを見た。帝統と同じように膝を付き、指先でくしくしとわたしの顔をこする。
「帝統、お願いがあります」
「んあ?なに?」
「……ことみの世話ですよ」
「明日は事務所に行って執筆することになりました……作家なんて信用が無いですからね」と酷く疲れたようすでくちにし、無事だったコップを拾い上げながらティッシュで溢れた水を拭く。
「ここにいろってこと?」
「まあ、そうですね」
「そんぐらいまかせろよ」
にかっと笑いながらわたしを抱き上げ「おやすみ」と挨拶を交わして帝統は居間に戻る。居間の奥が、帝統がいつも布団を敷く部屋だ。
体温が高い帝統の脇のあたりに丸まると暖かくて気持ちよかったし、彼もさしてわたしを気にせず過ごしてくれた。やっぱり帝統は頼りやすい。
朝になって幻太郎が出掛けて、すぐのことだった。珍しく帝統のスマホが鳴ったと思ったら、真剣な顔で話し終え、わたしを抱いて家を出た。
ケージで運ばれるでもなくただ抱かれているのは不安定でもぞもぞしていたら、帝統も同じことを思ったのかフードに丸めて入れられた。さすがに不安になるらしく「ことみいるか?」とときどき声を掛けてくれるのでちゃんと返事はしていた。
帝統は電話を取ってからずっと真剣な顔をしていて、緊張したように汗を滲ませている。なにか大変なことが起こったんじゃ無いかと、ドキドキしていた。歩く道のりは徐々に緑が増え、それでも迷いなく進む帝統からの「ちゃんといるかどうかの確認」は減っていた。
帝統が「おはようございまーす!」と元気に挨拶をしたので、フードから顔を出して外をくるりと見回す。さっきまで歩いていた道なき道とは違い、少し拓けた土地だった。きょろきょろしていると、低く響きのある声が聞こえた。
「有栖川か。ひさしぶりだな」
「急にすみません、理鶯さんにお願いが……」
「お願い?」と聞き返す声にそちらを見ようと帝統の肩に手を乗せて身を乗り出したら、タイミングよくひょっと両手で引っ張りあげてくれた。
帝統の言葉に驚いたのは、その長身でがっちりした「理鶯さん」ではなく、わたしだった。
「一週間くらい、コイツ預かってくんないすかね?」
「それはまた、なぜ」
「でかい賭けがあるんすよ〜!どうしても行かないとだし、その前に資金集めねえと!」
つまり、さっきの電話は「良い話」の連絡で、幻太郎からわたしの世話を任されている手前手放しで飛びつくわけにもいかず、知り合いに預けてしまおうということか。なぜ乱数ではないのかと不思議に思ったが、彼も彼で多忙なひとであると聞いていたので気を遣ったのかもしれない。
理鶯は「ふむ」と考える素振りを見せながら大きな手でわたしを抱き上げた。帝統が「コイツは大人しくて、絶対引っ掻いたり噛んだりしません!言ってることもわかります!」と雑な説明をしているから、ネコとして預けるつもりなのだと理解する。はあ……とため息をついたつもりがにゃむと声が溢れた。
「ダメっすか……?」
「力になってやりたいが、ここに柵はない。逃してしまうかもしれない」
帝統が「そんなことは」と言い掛けたとき、後ろから声が響いてきた。男性の声だった。しかも一人じゃない。
「理鶯?誰と……ああ、アナタですか」
「また飯たかりに来たンかよ?」
黒いすらっとしたスーツの男性と、白い髪に白い開襟シャツの男性。帝統とも面識があるらしいが、どうやら理鶯の知り合いのよう。
「今日は食事ではないようだ。ネコを預かって欲しいと言われてな」
「ネコお?」
理鶯の手の中でひょいとひっくり返された途端、白い髪の男性がぐっと顔を寄せてきた。眉間にシワが寄っていて、なんとなく怖い。緊張したせいかしっぽがぴんと伸びてしまった。帝統が笑っている。
「こんなとこでネコは無理だろォな」
「左馬刻、代わりにどうだ?」
「パス」
言うなり白い髪の男性……左馬刻は、どっかりと丸太に腰掛け、タバコを取り出して火をつける。理鶯はもうひとりの男性を見て、ひょっとわたしを差し出した。彼は素直に手を伸ばしてから、躊躇うそぶりを見せて慌てて引っ込めた。
「予定外に家を空けることもありますし……私も……」
「銃兎は小動物が嫌いではないだろう?」
「ええ、まあ……でも、飼ったことはありませんので……」
その様子を見て押せばイケると思ったのか、帝統が「絶対噛まないし、壁とか家具とか引っ掻かないし!大人しくてめっちゃ賢い!」とアピールしている。理鶯が腕を伸ばしてもう一度抱くことを勧めると、おずおずとてのひらを差し出してそうっと抱き上げてくれる。怖がっているのかと思うくらい優しい手つきだったので、安心してしっぽを垂らす。黒いスーツの彼……銃兎の顔をじっと見上げていたら、子供みたいにつやつやした瞳でわたしを見ていた。
「いまは追っている案件なども無いと言っていたな」
「はあ……でも、人様のネコを預かるのは責任もありますし」
「ヘーキっスよ。言ってることわかるんで」
「なっ」と帝統がわたしに笑いかけるので、どうせこの中の誰かに預けられてしまうのだし、大人しくアピールしておこうと返事をした。
帝統のスマホがけたたましく鳴り、彼は「やべっ!じゃあお願いしまス!一週間後迎えに来るんで!」と元来た道を走って行ってしまう。頼りがいがあるなんて幻想だったな……と目を細めて見送り、わたしを優しく抱き上げたままの銃兎に頭を擦り付けて媚びを売る。理鶯は優しそうだがこの環境では無理ということだし、左馬刻はちょっと言葉遣いも態度も怖い。せっかくなら可愛がってくれる人のところでお世話になりたいのは当たり前の感情だろう。
「銃兎、頼めるか?」
「……わかりました。一週間ですね」
「ありがとう」
それは帝統のセリフではないかと思ったが、もうここにいないのだから仕方ない。
理鶯が火に薪をくべながら、左馬刻と銃兎に「食事にしようか」と言った。途端にふたりはくちを揃えてお腹がいっぱいだと言ってここに来た要件をくちにする。なんの話かわからなかったので火に近づき暖まって待っていた。そんなわたしの様子に気がついた理鶯は「火が怖く無いのだな」と驚いたようだった。肯定の意味でひとつ鳴く。
「本当に賢いな……」
「んとにネコなンかよコイツ」
「そういえば、名前を聞くのを忘れたな」
深い意味はないだろうが、左馬刻の言葉にドキッとしたので手で顔を擦ってネコっぽくしておいた。理鶯が名前の件をくちにすると、銃兎は「愛称だけでも考えておけば楽か」と顎に手を当てる。わたしは銃兎に預けられた身、好きに呼んでくれて構わない。
話が済んだらしくそそくさと帰る支度を始めた左馬刻と銃兎に「今度はぜひ食事を振る舞わせてくれ」と笑顔を見せた理鶯だが、ふたりは引き攣りながら曖昧な返答をしていた。帰り際、銃兎に抱き上げられたときに見た、焚き火の上に吊るされた鍋の中のものがなんだったのかわたしにはさっぱりわからなかった。……わからなかったということにした。
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