そのクロネコに降り注ぐ
「とまあ、そんな経緯でこのネコを飼い始めたのですよ」
昨日の出来事とはまったく違う説明を、ピンクの髪の小柄な彼……乱数にする幻太郎は可笑しそうに笑っていた。宇宙人に攫われそうだったクロネコを帝統が身を挺して守り、そのまま宇宙へと旅立った帝統を涙ながらに見送ったので、このクロネコは大切に育てることにした、と。まあそんなことをペラペラと話していたが、誰が信じるのだろう。なんて思っていたのはわたしだけで、乱数は「帝統は宇宙に行っちゃったの……僕もこのネコちゃんを帝統の生まれ変わりだと思って可愛がるよう」と目を擦っていた。
乱数にぎゅっと抱っこされ、ふにふにツンツン触られるのは嫌ではないのだが、「大人しい子だね〜。あ、女の子なの、へえ〜」と体中を見られるのはちょっと恥ずかしかった。幻太郎を振り返り控えめに鳴いてみたら、乱数から取り上げて畳におろしてくれる。
「じろじろ見るのはやめて差し上げてくださいな」
「え〜、ネコちゃんだよ?げんたろ〜は紳士だねっ」
ふふ、と静かに笑って誤魔化していた。
ふと視線を窓の外に向けた乱数が「あれ?」と呟いて指を差したのは、昨日わたしが借りたあのかわいい服だった。
「なんで僕の服、干してあるの?誰か着た?」
「まさか。帝統にアナタの洋服は着られませんよ」
「あはは、そうだね!彼女でも泊まったのかと思ってさ」
昨日借りたものは乱数のものだったのかと納得していたら、乱数が急に目を細め、すらりと冷たく笑む。思わず背中の毛を逆立てた。尻尾がぼわぼわと大きくなってしまって、乱数を見て固まっていたら幻太郎がそっと背中を撫でてくれる。
「どうしてネコちゃん飼い始めたの?彼女に置いてかれた、とか?」
「小生に恋人はおりません。このネコは帝統が拾ってきたのですよ」
「ありゃ、帝統、まだ地球にいるんだね!」
口元を袖でするりと隠し、わたしを見下ろしながら「すべて話したところで、信じられないと思います」と言葉を濁らせる。意外なところでパートナーの有無を知ることができてひっそり安堵しながら、そりゃあそうだろうと思った。幻太郎と帝統と乱数の関係は知らないが、例えば友人に「タイムスリップしてきた女が、ネコになったりするから匿っている」と言ったところで頭がおかしくなったと思われかねない。
「うんうん、なにか事情があるんだね」
「そういうことです。いずれお話しますよ」
「そっかそっか〜!ところでこの子の名前は?」
「ことみです」と幻太郎がわたしを抱き上げてあごを指先でくすぐる。幻太郎に撫でられると気持ちよくって、勝手にんにゃんにゃと鳴き声が漏れてしまう。
「人間の女の子みたいな名前付けたんだね」
「ええ、間違いなく、人間の女性の名前ですよ」
幻太郎の言葉に乱数が「え?」と呟いたが、それは大きな声にかき消された。帝統がばたばたと家に上がり込んできたようだ。
「幻太郎〜!一週間前に借りた十万、倍になったぜ〜っ」
「帝統ぅ、おかえり〜〜!」
「うおっ、乱数?!」
乱数にがばっと抱きつかれたことによって、帝統が持っていたペットボトルがてのひらを離れ宙を舞う。幻太郎は目を丸くするだけで動けず、真っ直ぐこちらに飛んでくるそれがしっかり見えているのはたぶんネコのわたしだけ。「召し物が汚れたらいけない」と、それだけの気持ちで体当たりする。蓋が開いていたらしく、温い液体を頭から浴びてしまった。
「うわあ、また洗ってもらわなきゃ……」と呟いたら、帝統がアチャーといった感じで額を抑え、乱数がこちらを振り返ってフリーズしている。あれ、と手を見るのと、幻太郎に後ろから抱きしめられたのは同時だった。
「わ……っわたし、なんでハダカっ」
「帝統でも乱数でも良いので着るものを持ってきて、はやく」
「おっ、お〜、待ってろ」
帝統が着ていたミリタリーコートをわたしに投げ、それを手繰り寄せながらうるさい心臓の音を聞いていた。自分の鼓動も騒がしいが、同じくらい早鐘を打つ幻太郎の胸にハダカの背中がぴったりくっついていることに動揺を隠せない。
「ごめんなさい……恥ずかしい思いをさせて……」
「こちらのセリフです。袖で隠しているので、とりあえずそれを着てください」
もそもそと帝統のコートに腕を通し、ジッパーをギリギリまで上げた。やっと離れることができた幻太郎は、ほとんど泣いているような顔になっていた。
「えっと……どういう……」
「ことみ、昨日着てたの全部乾いてたぞ」
未だ混乱している乱数の言葉を遮り、帝統がわたしの下着と昨日借りていた乱数の洋服が乾いていたと、抱えながら戻ってきた。ありがとうと言いながら立ち上がり、引きずらないように裾をちょんと持ち上げて帝統に駆け寄る。そうだ、と乱数に声を掛けた。
「お洋服、勝手に着たりして申し訳ないんですが、今日もお借りしていいですか?」
「あっ、うん、どうぞ……?」
疑問符をいっぱい浮かべている乱数は幻太郎に任せようと帝統に促され別の部屋へ。
丸めて持ってきた衣服をわたしの足元に置くと「俺も戻ってるから」とさらりと言って扉を閉めた。帝統はさっぱりしていて話しやすいし、頼りやすい人だな、と思った。
服を着替え終え、帝統のコートを抱えて戻る。
乱数がさっきとは違うキラキラした目で迎えてくれた。幻太郎と帝統は少し疲れた顔をしている。
「やあやあはじめまして!ボクは飴村乱数ちんだよっ、よろしく、ことみ!」
「あ、はじめまして……じゃあ乱数って呼ぶね、よろしく」
「うんうんっ、ことみはずーっと幻太郎と住むの?ボクの事務所に来るのはどう?ボク、かわいいネコちゃんと暮らしたかったんだ〜!」
わたしが戸惑っていると帝統が「乱数は俺より手癖悪いんだぜ」と言っていて、乱数はきゃらきゃら笑いながら「そんなことないもん」とぶりっこをしていた。
「えーっと、恩返しができるまではここでお世話になろうと思ってて。ありがとう」
「そうなのお?ざーんねん!」
幻太郎とも、帝統ともまったく違うタイプの男性で、ますます三人の関係は謎だ。
それから数日間、人間の姿のまま過ごす日々が続いた。帝統は実家のように上がり込んで寛いでいたりするが、ここはあくまで幻太郎の家で、一緒に住んでいるわけではないらしい。いない日も多い。乱数は、あれからたくさんの洋服を「プレゼント」と言って届けてくれた以外では会っていない。
三人は頻繁に連絡を取っている様子ではあった。どうやらなにかのチームを組んでいて、とても親密な関係であるのだろうと察しがつく。この時代のことと関係があるようで気にはなるが、特に言及することもなかった。
先日はお風呂に入ったらネコの姿になってしまったのでしばらくは恐々とお湯を浴びていたけれど、お風呂が原因ではないことがわかった。
幻太郎と、ネコになったり人間になったりするきっかけについても話し合ったが、結論は出ていない。
とにかく今は、人間で居られるので、安心して過ごしているところだ。
珍しく幻太郎が出掛ける支度をしていて、どこに行くのか尋ねたら「帝統が……」とため息を吐く。帝統はギャンブルが大好きで、毎日のように賭け事に興じているらしい。いつもは負けても自分で責任を取らせるが、今回はさすがに負債の額が大きくなってしまい乱数に召集をかけられて、二人で迎えに行くことにしたようだ。留守番を頼まれたので、二つ返事で了承した。
これからもお世話になる場所であるし、人様の家を預けられたとなれば身が引き締まる。幻太郎が家を出てから一時間ほどはじっと座って家にある本を読んでいたが、ふと何時ごろに帰宅するのかを聞きそびれたことに気が付き、夕飯の支度をしておけばお互いに楽かと台所に足を運んだ。
幻太郎はスケジュールに余裕があれば自炊をすることも多いらしく、十分に食材は揃っていた。わたしにはそんなに凝ったものは作れないが、簡単な料理ならできる。黙々と煮物と味噌汁を作り、時計を見上げるとまた一時間ほど経っていた。鍋の火を止めて蓋をする。食べるころにもう一度火を入れれば味も染みるだろう。
あとはお米を炊いておこうと、一旦流しを片付けるために蛇口を捻った。
想定外だったのは、思ったより水圧が強かったことと、水が落ちる先におたまがあるのに気づかなかったこと。おたまの丸みを滑って跳ね返った水が顔に飛んできて、咄嗟に蛇口を捻り止めることまではできたのだが。
も〜、と悲鳴を上げたつもりが耳に届いたのは動物の……ネコの鳴き声だった。恐る恐る目を開けるとシンクが高く聳え立っている。
ああと落胆しながらも、半ば諦めてしまっている自分を笑う。鍋の火も止めた、蛇口も締めた。床は多少濡れてしまったが、わたしにはもうどうすることもできない。はあ、とため息を吐いてもネコの姿では様にならない。
体が濡れたせいで寒くなってきて、縁側で日に当たろうと腰を上げたら、ガチャリと鍵が回った音がした。幻太郎が帰ってきたのだと、鳴き声を上げながら玄関の方に走る。廊下の途中で鉢合わせたのはスーツを着た知らない男性だった。
男性は「夢野先生?」とキョロリとしたあとわたしに気づき、怖い顔で手を叩いて追い立ててきた。
「こらこら、入っちゃダメだよ。ほら出てって!」
反射的に背を向けて走り出し、勝手口から外に逃げ出した。誰だあの人、泥棒?強盗?とぐるぐる考えながら必死に走っていたが、はたと彼が「夢野先生」と呼んでいたことを思い出す。幻太郎は書き物をして生計を立てていると聞いていたので、担当者の方だと合点が行った。近くに隠れていて、彼が帰るか・幻太郎が戻るのを待てばいいと、足を止めて振り返るももう遅かった。
知らない景色を見て、泣きたかったけど涙はやっぱり出てこない。
うろうろ歩き回りながらにゃごにゃごと鳴いてみたが、すれ違う人がときおり「かわいい〜」と撫でてくれる以外の収穫は無かった。
空はだんだん暗くなってきて、歩けば歩くほど景観も住宅街から街中へと変わっていく。いつかの公園に帝統がいれば……とも思ったが、その公園の場所もよくわからないし、幻太郎は帝統の迎えにと出掛けたのだから公園で寝ていることもないだろう。
せめて駅前で誰かにご飯を強請ろうと、改札からすぐのコンビニの前で座り込んだ。
疲れた顔をした人たちが代わる代わる現れるが、誰もわたしに気がついてくれなかった。喉が渇いてうまく鳴けないのだ。数十分そうして周りを気にしていたが、さすがに疲れて俯いた。
その瞬間、誰かがわたしの前に座り込む。
人だ!といまできる限りの甘えた声で鳴いてみせ、目をくりくりさせて見上げたら、そこにいたのは暗い顔をした男性だった。
「オマエ……ずっとそこにいるな」
掠れた声も覇気がなかった。わたしに触るでもなく、なにかを差し出すでもなく、じーっと見つめるだけ。ちょっとやばいタイプの人かと思って身構える。引いたことがわかったのか、彼は「ハハ」と小さく笑ってぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「ネコだって嫌だよな……こんなくたびれたサラリーマンに話しかけられるのは。かわいいなあと思ってさっきから見てたけど、どうせ話しかけられるならイケメンや美女がいいよな……というか勝手にじろじろ見てしまったが、ネコにもセクハラって意識はあるんだろうか。ネコにセクハラして職質でも受けたら笑いものだな……いやいやさすがにシャレにならん」
自虐的な言葉を吐き出しながら項垂れる彼の様子を呆気にとられて見つめていた。こんなにネガティヴな人には会ったことが無くて、なんと言葉をかければ良いのかわからなかったのだ。
逃げようという意思はもはや無かった。彼は「はあ……癒されたいなんて考えるのは間違いなのか?俺みたいなヤツには癒しなど無くて当然だと?なんなんだ……帰りたい……帰ろう」と言いながらも、立ち上がりもせずわたしを見つめて動かない。なにかに嫌気が差しているのだろうとはもう充分わかったが、放っておいたらこのまま川にでも飛び込むんじゃないかと思ってしまった。
あの、と言ったつもりが喉からはなあんとネコの声。自分がネコの姿なことを忘れていた。照れ臭くて顔を掻く。彼はもう黙ってしまったので、こんなことで癒しになるならば、とごろりと横になってお腹を見せた。
お腹を晒して寝転がるなんて恥ずかしかったが、ネコってこういうものだよね?と自分自身に言い聞かせ、だらっとちからのない彼の手をたしたしと叩く。
彼は目を丸くしてくちびるをそっと開くと「触って良いんですか……?」となぜか敬語で話しかけてきた。返事の代わりにもう一度なあんと鳴く。恐々といった様子でぎこちなくわたしに触りはじめた彼はそのうちに少し顔色を明るくして「かわいい……」と嬉しそうだ。
少しでも元気になってくれたのなら本望だと目を閉じたら、ふわっと体が浮く。びっくりして手足を動かすと、どうやら抱き上げられたようだった。
「俺に懐いてくれたネコはオマエが初めてなんだ……、だから決めた。うちで飼う。一二三の説得は……なんとかする、から」
両腕に抱えられ、もすっとお腹に顔を埋められた。ノラネコにそんなことして良いのかとただ心配になった。
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