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そのクロネコに降り注ぐ


目が覚めたら見知らぬ男の人のお腹の上だった。
ンなあ……といままで発声したことのないような声が出て、慌てて体を起こそうとするも腰に回った彼の手が引っかかってバランスを崩す。そのままごろりと落ちた先、地面だった。
わたしの体に引っ張られて一緒にぐらっと動いた彼は、その瞬間目を覚ましたようで「にゃっ」と変な声を上げていたが、さすが男性と言うべきか。とっさに腕をつっぱって、わたしに覆いかぶさるような形にはなりつつ頭がごつんとなるまえに静止した。
至近距離で顔を合わせて、彼は目を丸くして汗をかきはじめる。

「んーと、えーっと、あれ?俺……ネコ……アンタ……えっと」
「あの、すみません……アナタは……?」
「いや、その……け、警察だけは勘弁してくれ……!」

「ごめんなさい!」と謝られ、彼になにかをされたのだろうかととっさに肩を抱くも、服もちゃんと着ているし、痛むところも無い。体を起こすと彼は慌ててわたしから離れ、びくびくしながら「俺、昨日は酔ってもなかったし、アンタになんかした覚えはねえよお」と泣きそうな顔で両手を合わせている。

「あの、こちらこそすみませんでした。わたしもこれといった記憶がないというか……」

そう言って立ち上がったら、ほっとしたように肩のちからを抜いて胸を抑えている。成人しているであろう男性にここまで怯えられたのは初めてで、本当はなにかやましいことがあるんじゃないかと勘ぐりながら服の砂埃を払った。さっきまでわたしたちがいたのはどうやらベンチの上のようで、どうしてこんなところで寝こけていたのか全くわからない。が、彼もなにもわからないと主張するのなら、仕方がない。とりあえず家に帰ろうと自分のバッグを拾って中身を確認する。財布とスマホはちゃんと入っていた。

「ご迷惑おかけしました。体の痛みとか、違和感とか、ありませんか?なにかあったらご連絡いただけるように、電話番号を交換したほうが安心でしたら……」
「いっいや、アンタがなんともないなら、良いから、俺は!」
「そ、そうですか。では……失礼します」

公園を出てから、さてここはどこだろうとスマホを起動すると、圏外だった。え、と呟いて立ち止まる。こんな街中で?と不思議に思い、デバイスの問題かと再起動をしても直らなかった。
目の前のビルを見上げ、ぐるりと視線を動かしてやっと、ここが住み慣れた土地ではないことに気が付く。
いよいよ混乱して、やっぱりさっきのひとにちゃんと話を聞きなおそうと踵を返したら、ぽつぽつと雨が降ってきた。急がないと彼もどこかへ行ってしまう、歩く速度を上げるのと比例するように雨脚が強くなっていく。なぜか少しずつ息苦しくなってきて、体をきゅうっと丸めてよろよろと進むが、すぐに立っていられなくなってしまう。めまいでも起こしたのかとしゃがみ込んだら、もう立ち上がることが出来なかった。

目の前にバッグが転がっていて、拾おうとしたところで体の異変に気が付く。なんだこの黒いふさふさの手。まるで動物の……ネコの手みたいな……。そこまで考えて、ぎょっとした。目の前のアルミのゴミ箱に反射しているのが、自分じゃなくて小さなクロネコの姿だったから。
え?え?と言うたび耳に届くかぼそいネコの泣き声。意味のわからない状況が怖いのに、にゃあにゃあと鳴くことしかできなくて、涙も出てこない。
バッグを咥えて移動しようにも、重たくて引きずることができない。雨はひどくなる一方だ。公園に戻ろうとしたことを忘れて、バッグも諦め、とぼとぼと屋根を探す。こんなに濡れていては意味もないかもしれないが、少し寒くなってきていた。

ばたばたと走る音にふと振り返ると、男の人がわたしと同じように屋根を探していて、それが偶然……さっき公園で話した彼だった。すがるような気持ちでうにゃうにゃと喚き、走って追いかける。わたしに気が付いた彼は「うお」と速度を緩め、困ったように笑いながらひょいと抱え上げてくれた。

「オマエも雨宿りか~?ったく」

コートの中に入れてくれたから、少し体温が戻って息を吐く。それにしてもこのままじゃ意思疎通もできないし、彼からみたらただのノラネコで、どこかに置いて行かれてしまうことも目に見えている。
頼みの綱が彼だけのわたしは、ぎゅっとしがみつくしかなかった。雨が止むまでは商店街の路地で身を寄せ合っていたが、通り雨だったらしくすぐに太陽が顔を出した。彼はぐしぐしとわたしの顔をシャツで拭って「ほらよ、だいぶ乾いたろ」と下ろそうとするので爪を立てて泣き喚く。

「いてて、いてえって。腹減ってんのか?っつってもなんも持ってねえし……。つうか、俺だって腹減ってんだよ。ネコ鍋もちょっとなあ」

怖いことを言うので体を固くしたら、けらけら笑いながら「なんだオマエ。賢いな」とまたわたしをコートの中に仕舞いこむ。

「しょうがねえなあ……ネコ、連れてったら怒るかなあ、げんたろー……」

なんとか置き去りを免れて、安心した。



「ネコなんて飼えませんよ。逃がしてきなさい」
「だよなあ。でも聞いてくれよ。コイツ朝も公園で会ったんだけど、寝て起きたらいなくてさあ。代わりに女が俺の腹の上で寝てたの」
「はあ。酔っていたのではないですか?」

ふたりの声を聞きながらいいにおいにつられて袴の彼に近づいたら、話を続けつつ背中を撫でてくれた。動物は嫌いじゃないらしい、気持ちよくて勝手ににゃむにゃむと声が漏れる。

「おーおー、懐っこいなあオマエ。
幻太郎、地域ネコにやるエサあるだろ?今晩だけ、頼む!な?」
「……情が湧く前には放しますからね」
「サンキュー。良かったなあ」

抱き上げて鼻先にちゅっとされたので、びっくりして固まる。そりゃあ、この人達はわたしがネコであると疑っていないのだから……忘れることにしよう。

「ン……。コイツにおうな。洗ってやるか」
「帝統、アナタも同じですよ。先にシャワーを浴びて着替えてきなさい。このネコは脱衣所で洗いますから」
「へいへーい」

袴の彼……幻太郎に抱えられて洗面台に下ろされた。手櫛で体中を撫でられ、くすぐったさに身を捩る。優しい手付だ、見上げると穏やかな表情が見える。ミリタリーコートの彼……帝統と、幻太郎は随分仲が良さそうだが、どういう関係なのだろう。随分とタイプが違うように見える。いや、友達とはそんなものかもしれない。考えていたら背中にぬるま湯がかかって少しびっくりした。嫌ではなかったので大人しくしていたら「水が平気なの。良い子」と優しい声が降ってきて、目を閉じる。気持ちよかった。
だんだん体が窮屈に感じ始め、んん、と言いながら腕を伸ばす。パキパキと関節が鳴って、お年寄りみたいだな、と笑いながら目を開けたら、幻太郎の顔がすぐそばにあった。
ぽかりとした表情のまま固まっている幻太郎の耳が、少しずつ赤くなっていくのを見ていた。あれ?と呟いてやっと気が付く。わたし、人間に戻ってる。
「ということは」と恐る恐る体を見下ろすと、洗面台にハマるように座ったわたしは、服は着ていたがずぶぬれ。下着もなにもかも透けている。

悲鳴を上げたのはわたしじゃなかった。幻太郎がばたばたと浴室の方に走って行って「いったいどういうことですか!」と帝統に詰め寄る声が聞こえる。とりあえず、蛇口を締めた。

「は~?女?なんの話……って、あ~~!オマエ!」
「き、聞いてください!わたしすごく困ってて……!」
「いいから、服を着替えなさいっ」

三者三様、それぞれがぎゃあぎゃあと捲し立て、しばらく大混乱だった。帝統はなぜか土下座で謝罪を始めるし、わたしは床を濡らすわけにもいかずその場で自分の身に起こったことを喚き、幻太郎は顔を赤くしてわたしにタオルを押し付ける。

落ち着いたのは思い思いに言葉を投げつけ合ったせいで、全員がどっと疲れを感じた頃だった。幻太郎が「とりあえず」とわたしと帝統に着替えるよう言った。未だ冷静じゃない部分はあったらしく、お互いに背中を向けて同じ部屋で着替えた。貸してもらった服はかわいらしいデザインでサイズもちょうどよく、恋人がいるのかな、と思いながら帝統と一緒に居間に戻る。びしゃびしゃだった洗面台は幻太郎が片付けてくれたようだ。
落ち着きを取り戻した幻太郎は静かにわたしと帝統に座るよう求め、なんとなく顔を見合わせながら並んで正座をした。

「夢野幻太郎と申します。こちらは有栖川帝統」
「あ……諸星ことみといいます。はじめまして」
「はい、はじめまして。ところで、帝統とはどういうご関係で?」

帝統との関係?また顔を見合わせていたら、帝統がこの家にわたしをネコとして抱えてきたときと同じことを言った。昨日、クロネコを抱えて寝た。目が覚めたらクロネコはいなくて、わたしがいた、と。
続けてわたしも自分の状況を話した。ここが住み慣れた土地ではないことや、自分で足を運んだ覚えがないこと。目が覚めたら帝統のお腹の上で、帝統と別れたあと雨のなか歩いていたら突然ネコの姿になってしまったこと。

「ことみとは今朝が初対面」
「にわかには信じがたいことですね。小生はネコからいまの姿になるアナタも見ていますが……」
「あの……ここはどこですか?」

わたしの問いに帝統が「シブヤディビジョン」と言うので目を瞬かせる。

「シブヤディビジョン……って?渋谷は知ってるけど……?」

尋ねた瞬間、幻太郎の眉間がきゅっと寄る。「今年の暦を聞いても?」と言われ、なぜそんなことを聞くのかと不思議に思いながらも答えると、幻太郎だけじゃなく帝統も困った顔をした。

「あ~……それって、何年前だっけか?」
「第三次世界大戦前ですね」
「ん?え?だいさんじせかいたいせん……?」

幻太郎がデスクの上の手帳を手に取り、ペンを走らせながら「少し前の話」をしてくれた。現在の暦が始まった経緯と現首相、その政策。ディビジョンと呼ばれる各区画、中王区を囲う壁の話。
女尊男卑、なんてわたしの生きていた世界ではあり得なかった。
一通りの説明をぐるぐるしながら聞いて、一呼吸置いた幻太郎がパタリと手帳を閉じる音が部屋の中でやけに大きく響いた。

「設定を盛りすぎると読者が置いてけぼりになりますからね。青年がネコを拾ってきてそれが違う時代の人間になる……なんてライトノベルがせいぜいでしょう」

思わずは?と呟くと、いつのまにかゴロリと畳に寝転んでいた帝統は「こういうヤツなんだよな〜」と首を掻いている。

「ンで、ことみはこれからどーすんの?」
「え〜っと……なにがなんだか……どうすると言われても」

帝統と揃ってそろりと幻太郎を見上げたら、幻太郎はまた眉根を寄せて、手を口元に当てた。

「俺が持ち込んだことだけど、俺は家も無えしよォ、連れて歩くのも……ことみは女だし」
「あの……幻太郎さま……」
「……はあ。放り出すこともできませんし、幸い部屋も余っています」

全く知らない世界でひとりきりなことを思えば、親切にしてくれた人たちのそばに置いてもらえるなら安心だ。ぱあっとこころが軽くなって、ありがとうと笑いかけた。幻太郎は「ことみの時代の話を聞かせてくださいね」と目を伏せていて、きっと彼は帝統と違って多少他人を苦手に感じる性質があるんだろうと考える。さっきも顔を真っ赤にしていたし、そのときシャイで女性が苦手な印象を持った。にも関わらずわたしをここに置いてくれるなんて、優しい人。

「家事はもちろん参加するし、仕事も……もし可能ならします。それまでは」
「戸籍もなにもないだろう人に、そこまで求めませんよ」
「マジかよ!いいなあことみぃ」



それからもいろいろと話をしたが、簡潔に言うとタイムスリップしたことになるのだろうと結論が出た。非現実的な、と幻太郎は難しい表情をしていたが、帝統はたいそう面白がっていた。
夕飯は幻太郎が用意をしてくれて、それを3人で食べ終えたら「明日、新台でるから早いんだよな」と帝統が隣の部屋へ行ってしまって、こっそり覗いてみたらすでに布団に潜り込んでいた。

「帝統もう寝ちゃうんだね」

幻太郎と2人になってポツリと話しかけても、彼は小さく頷いただけだった。なんとなく目を逸らすと、すっと立ち上がり奥からスウェットを持って戻ってきた。まつげを伏せたままわたしに差し出す。

「これは帝統のものですが、洗ってあるので我慢してください。いま着ているものは洗濯機へ。下着は……」
「浴室で手洗いして、陰に干しておきます。今日はそのまま、寝ます」

「そうですか。では、先にどうぞ」と背中を向けられてしまったので、小さな声でありがとうと言って脱衣所に向かう。
借りたかわいい服を脱ぎながら、恋人の存在を確認し忘れたといまさらぎくりとした。もし必要ならば幻太郎の恋人にも挨拶をしなきゃいけないし、不快だと言われればここにはいられない。
掛け湯をして体を洗う。一人暮らしのときは勿体なくて泡を浴槽のお湯で流していたので、その癖で体を流し終えてから、この後幻太郎が入るのだったと思い出す。お湯が減っていて寒い思いをしたら可哀想だ。
そうだ、幻太郎も湯船に浸かるのだから、わたしが使ってしまっては彼も気が引けるかもしれない。そう思って髪を洗って上がることにした。

いつもは髪も溜めたお湯で洗っていたけれど、シャワーを使わせてもらおうと蛇口を捻ったら、冷水が降ってきて短い悲鳴を上げる。
後ろに飛び退いたときに、体中の毛が逆立ってる気がして、嫌な予感。見下ろした手は真っ黒の毛むくじゃらだ。

足音がゆっくり近づいてくる。悲鳴が聞こえたのか、様子を見に来てくれたらしい。幻太郎の名前を呼んだつもりが、なおんと鳴いただけだった。カリカリと浴室の扉を引っ掻く。

「……開けますよ」

ゆっくり開いた戸の向こう、わたしに視線を合わせるように膝を折った幻太郎。ネコの姿になると幻太郎からは甘い良いにおいを強く感じる。

「まったく。なにが原因なのやら」

バスタオルを広げて呼ぶので、駆け寄ったらわしわしと力強く拭いてくれた。ドライヤーも使って乾かしてくれた後、「居間に布団を敷いてありますよ」とわたしを脱衣所から出した。振り返ると中から服を脱ぐ音が聞こえたので慌てて背を向ける。
敷いてくれてあった布団に潜り込んだら、下着をお風呂場に置きっ放しだったことを思い出したがもうどうしようもない。

うとうとしながら一人で丸まっていたが、肌寒くてぐっすり眠れそうになかった。仕方ないと居間を出て、脱衣所の前で幻太郎を待つ。
しばらくしたら浴衣姿の幻太郎がわたしを見つけて不思議そうな顔をしていて、足元にまとわりついていると「寒かったですか?」と尋ねてくれたのでひとつ鳴く。

「書斎には人を入れたくないのですが……まあ、ネコ、ですからね」

自分に言い聞かせるようにそう呟いて、書斎と呼ばれた部屋の奥に布団を敷く。照明を落として横になる幻太郎の姿も、ネコのわたしにはなんとなく見えていた。
「おいで」とお腹の辺りに入れてくれたので、遠慮なく潜り込んで丸くなる。温かくてすぐ眠くなってしまったが、幻太郎も体を丸めてわたしで暖をとっていたようだった。

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