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※詳細設定はご自由に……三郎の年齢操作あり


一郎が倒れたと聞いて慌てて病室に駆けつけると、にこにこしながら「こんにちは。来てくれたんすか?」と言われて拍子抜けした。
二郎から「兄ちゃんが救急車で運ばれた」なんて電話がきたものだから仕事を早退したのだが、見たところ命に関わる病状だったり・生活に困るような怪我の類ではなさそうだ。
大きく息を吐いてしゃがみ込むと、二郎が「心配かけてごめんっ」と顔を覗き込んできて、三郎が奥で「だから、言い方が悪かったんだよ!」と怒ったような声を出す。
いつもの光景にフフと笑ってしまった。笑ったら、緊張の糸が切れてどっと疲れた。

「はあ……。一郎、なんだったの?だいじょうぶなんだよね?」
「脱水症状だったみたいで……点滴してもらったらもうだいぶいいです」
「まあ……気をつけてはいただろうから、怒らないよ、わたしは」

棘を隠さず言葉を選ぶと、眉尻を下げて「スミマセン……」と肩を落とすので、反省しているなら良いと、二郎と三郎の横に椅子を持ってきて座らせてもらった。
すると、三郎がしゅんとしながら謝罪をくちにするので、不思議に思って問い返す。

「一兄の身長と体重だと、1.2リットル以上の水分が失われたら危険なんです。排泄や不感蒸泄に加え、発汗が多くある現場だったので……これからは電解質を含んだ水分の摂取をきちんと促すようにします」

二郎が「ふかんじょーせつ……」と呟いているので水分って呼吸からも出ていくんだよと教えてあげながら、落ち込んだ様子の三郎の背中をさする。優しい三郎は責任を感じてごちゃごちゃと考えていたようだが、「多量の発汗が見込まれる現場での水分の摂取」なんて十四歳の弟に管理してもらうことではない。一郎も「さぶが悪いわけじゃないだろ」と笑っているが、わたしも同じ気持ちだ。なにもなかったから良かった、だけで済ましていいことばかりではないかもしれないし、反省して改善点を探すのは大切だろう。でも三郎が頭を悩ますことじゃないのだ。

「じゃあさ、たくさん汗をかくような日に、一郎が飲まなきゃいけない量が入る水筒を買いに行こうか。それは一郎が意識して飲むようにしようよ」
「あ、いいっすね!デカいのあると助かるんで」

わたしと一郎がそう言うと、三郎はパッと表情を明るくして「僕の学校用の水筒より、800ミリほど多く入るものが良いと思います!」と言った。じゃあいまからそれを買いに行こうと話していたら、病室に医師が入ってきた。

席を外そうとしたら「ああ、お姉さんも聞いていってください」と言われ、実姉ではないと伝えようとしたがタイミングが掴めず大人しく座り直す。

「まだ無理しない方がいいです。明日もう一度点滴しに来てください。それと、健康診断などは受けていますか?肥満や貧血などは見たところ無さそうだし、山田さんはまだお若いけれど、年に一度くらいは受けた方が良いですよ」

医師の話を聞きながら「いやあ」とか「はは」とか言ってる一郎を見て、医師に実姉だと思われているのをいいことに提案してみた。ベッドが空いていたら、このまま預かって貰えませんかと。ギョッとした顔をする一郎を無視して、血液検査だけでも、と畳み掛けると医師はキョトンとしたあと「そうですね」と顎に手を当て、看護婦さんと確認を始める。
一郎が「ことみさん……」と困ったような声でわたしを呼ぶので、毅然とした態度で応えた。

「この際にチャチャッとやっちゃおう。なにかあってからじゃ困るもの」

二郎と三郎もうんうんと頷いているのを見て、観念したらしく、ため息を吐いている。
しばらくすると医師が「3日ほどお時間いただきますが、MRIから胃カメラまで済ませましょうか」と思いの外ノリの良い返答をくれたので、お願いしますと言い切った。入院のスケジュールが3日だとわかると一郎はまたごにょごにょと抵抗したが、二郎と三郎に仔犬のような声で口々に諭され、渋々と言った感じで手続きに応じてくれた。

それからは入院のための着替えや生活用品の準備に追われて時間が過ぎ、病院と山田家や薬局などをバタバタと行き来するだけだったが、彼らもこれから数日の依頼の整理に追われていたようだ。移動になった先の個室に一郎が好きなライトノベルの新刊(二郎に頼まれたものだ)を持って行ったとき、二郎も三郎もくったりと項垂れていた。

「三人とも、おつかれさま。飲み物買ってこようか」
「いやいや、いいっすよ!ことみさんも、ほんとスミマセン」
「え?あはは、わたしが頼んだんだもん。ぜんぜんだよ」

笑っていたら一郎も顔を綻ばせ、小さな声で「ありがとうございます」と言ってくれた。謝られるより、ずっと嬉しかった。
ふと、一郎が「そういえば」と言うので、ベッドの脇の椅子に座りながら首を傾げる。

「三郎、ことみさんちに泊めて貰えないですかね?」

たしかに、一郎が家にいない間、学生の男の子ふたりで過ごすのは(一郎も未成年とはいえ保護者ではあるので)不安だろう。返答をしようとしたらガタガタっと慌てて立ち上がる音がしてみんなでそちらを振り返る。三郎が目をまんまるくしていた。

「えっ?な、なんでですか?」
「オマエたち二人で家に置いとけないだろ……。二郎はシンジュクの知り合いが泊めてくれるって言うから、三郎はことみさんちに」
「僕は、ホテルでも、なんでも……!」

おたおたと狼狽ながら拒否しようとするので、ご飯はどうするの?と言うと、くちを開きかけてぐっと黙る。どうとでもできる、なんて「テキトーにやる」みたいな返事をしたら叱られると思いとっさに黙る選択に切り替えたらしい。賢い子だ。
そう、三郎は賢い。だからわたしがここで退くわけがないことなどすぐに理解しただろう。

「ウチおいで。学校までも、乗り換えないし」
「あの、でも……」
「三郎、俺もその方が安心だから」

大好きな大好きな一郎に「お願い」をされて、さすがに断る選択肢は失われたようだった。



荷物を持って我が家に帰る頃には、三郎は現状を受け入れることにしたらしく、いつも通りの礼儀正しい静かな反応を返してくれるようになった。
通学に必要なものや衣服を入れたキャリーケースは寝室の隅に置いてもらって、夕食の準備をしている間にお風呂を勧めた。ジャンプーやボディーソープも使っていいと伝えると「うん」とどこかうわの空な返事が来て、不思議に思って顔を覗き込んだらびっくりしたのかそそくさと脱衣所に行ってしまった。
わたしにとっては"子供"でしかない三郎だけど、年頃の男の子なのであまり干渉しないようにしておこうと決めてパスタを茹でる。

残念ながら彼の好きなペスカトーレは作ったことが無く振る舞うことができないが、ペペロンチーノは材料も少ないしたまに作るのですぐに用意できる。カプレーゼが食べたくて買っておいたモッツァレラチーズとトマトをパスタが茹で上がる前に切っておいた。スープはインスタントだ。一人暮らしも長くなると手抜きも覚えてしまうもの……なんて言い訳がましいが、目を瞑ってもらおう。

お肉も食べたいかな、と思いながらオリーブオイルと鷹の爪・ニンニクを火にかけたら、お風呂から出てきた三郎が寄ってきて「いいにおいです」と笑った。

「このニンニク、かおりはするけどにおい残らないの、すごいよね」
「へえ。パスタ好きなので嬉しいです」
「ペスカトーレも練習しておくね」

わたしの言葉にきょとんとしたあと、頬を染めた三郎は「楽しみにしてます」と俯いていた。なにか彼が恥ずかしがるようなことを言っただろうかと見ていたら、にこにこしながらできたものを運んでくれると言うので、すぐに思考は流れていった。

小さなローテーブルに向かい合って食べた夕食は特別な味がした。自分の作った料理を美味しそうにパクパク食べてくれるひとがいるのはあまりに幸せなことだった。一人暮らしも長くなり、ひとりきりで過ごすことや、ひとりでの食事には慣れていたつもりだった。でも誰かが一緒にいてくれると、それが大切なひとであると、いつもの殺風景な部屋の中が温かい空気で満ちている感じがする。
満腹にはなったと思うが、明日はお肉料理にしてあげようと思いつつ、お腹が落ち着くまでダラダラと雑談をした。一郎と二郎の最近の話を聞くと、コロコロと表情を変えて楽しそうにいろんなことを教えてくれる。三郎の近況も尋ねたが、そちらは「特に変わりない」とそっけなく言うだけだった。

食器の片付けをしてくれるそうなので、お言葉に甘えてお風呂に入った。数日間の夕食のメニューを考えながらゆっくりお湯に浸かっていたら、脱衣所から声を掛けられて扉を振り返る。三郎が静かな声で「スマホが鳴っている」と教えてくれた。

「……電話だった?」
「いえ。メッセージですね」
「後で返すから。ありがとう」

わたしの返答に「わかりました」と言ってすぐにいなくなったので、はやく上がろうと湯船から出る。
急いで服を着てスキンケアだけぱぱっと済まし、髪をタオルで丸めてリビングに戻る。三郎はローテーブルでノートパソコンを開いて難しい顔をしていたので話しかけることはしなかった。スマホを見ると「彼」からいくつもメッセージが来ていて、こんなに通知が鳴ったら伝えるべきだと思うだろうと、三郎の優しさに改めて感謝した。
内容はいつも通りのもので「日曜までは予定がある」「ごめんね」と返信すると、それ以上連絡は来なかった。

浴室を片付けて髪を乾かしたあと、ソファに座ってSNSを見ているとふと三郎の触っているパソコンの画面が目に入り、なにをしているのか尋ねてみた。窓がいくつか開かれていて、せわしなく表示が移り変わっているのをなんとなく目で追う。

「ねえ。それってなにやってるの?」
「大まかに言うと、ゲームをしています」
「うーんと……つまり、ゲームではないわけね」

わたしの言葉に振り返った三郎はじっとこちらを見つめ、少しして嬉しそうな顔で言った。ことみさんは、二郎みたいに騙されてくれないんですね。わざわざ自分からヒントまで出したくせにそんなことを言うので笑ってしまった。

「ゲームとしてやるひともいるんですよ。僕はそう思わないだけで。駆け引きも勝敗も無くてつまらないですが、多少得られるものはあります」

結局なにをしているのかという問いに返答はもらえなかったのだが、どうしても知りたいというわけではなかったので構わない。
パタンと画面を畳んだ三郎の視線が壁掛けの時計を見上げ、つられて視線を動かすと二十二時を回っている。もう寝る?と寝室を示すと、三郎はきょとりと目を瞬かせた。毎日の就寝時間がはやい自覚はあるので、山田家はいつも何時就寝なの?と重ねて尋ねると首を傾げて困った顔をしていた。

「えっと、僕が寝室を使うと、ことみさんは?」
「あっ、ごめん。寝るとこひとつしかなくて」
「え?……は?えっと、一緒に寝るんですか?」

うん、ダメ?と聞き返したら、三郎は長いまつ毛をパサパサと揺らしながら黙っていだが、しばらくしたらいつもどおりの口調で「わかりました」と言う。

「嫌だった?ごめんね……」
「ううん。嫌じゃないです」
「……なら、いいけど」

嫌じゃない。嘘が本当か微妙な反応だった気がしたが、中学生の男の子が倍近く歳の離れた女と".一緒に寝たいか"を考えると答えが怖いのでそれ以上言及するのはやめた。

寝室に足を向けると、三郎ももう寝ることにしたのか大人しく着いてきたので、リビングの電気を消して間接照明の紐を引く。夜中に目が覚めてトイレに行ったり水を飲んだりとうろうろすることがあるので、そのとき気にならないように壁側を勧めた。ソファから持ってきたクッションを枕がわりにした三郎は、壁ではなくこちらを向いて横になったので、毛布をひっぱって肩まで掛けてあげる。ぽんぽんと肩を叩くと、へにゃっとなんとも言えない顔をした。

「子供じゃないですよ、もう」
「そう……だね、うん。でも、わがまま言ってね。聞き分けの良い子でいなくていいから」
「……本当に嫌じゃないです。ことみさんなら」

わたしの言葉を「ベッドを一緒に使うことについて」の進言だと思ったらしい三郎がかわいいことを言うので、わたしも横になって彼の髪をそっと撫でた。一郎や二郎とは違う、まだ柔らかくて細い髪。サラサラと滑らかな感触を味わいながら目を閉じた。

「おやすみ」

体がぽかぽかして、すぐに眠ってしまった。

アラームが無くても決まった時間に目が覚めるタイプのわたしは、たぶん眠りがすごく浅いんだろう。睡眠時間も多く必要だし、太陽の光にも敏感だ。布団の中で伸びをしながらあくびを噛み殺していると、隣で三郎がもそもそと身じろぐ。まだ寝かせてあげようと思いながらそっと体を起こして離れようとしたら、ぼんやり目を開けた三郎が「ことみちゃん……?」と寝ぼけた声でわたしを呼んだ。

二郎は昔から変わらず「ことみちゃん」と呼んでくれるけれど、三郎はいつの間にか「ことみさん」と呼ぶようになっていた。懐かしくて・かわいくて。頭をわしゃわしゃと撫でると腕を伸ばしてぎゅっとくっついてきた。まだこうやって甘えたいこともある年齢なんだなあと愛おしい気持ちが込み上げる。意識がはっきりしたら恥ずかしいだろうから、夢だとでも思っておいて欲しくて黙ったまま頬や肩を撫でて甘やかした。そのうちすうすうと寝息を立て始めたので、そっと抜け出してパジャマのままキッチンに立つ。
朝ごはんは和食が良い。

しばらくしたら、シャッキリしたようすで起きてきた三郎はおはようの挨拶のあと自主的に洗顔とハミガキを済ませ、テーブルに並んだ食事を見てわたしにお礼を良い米粒さえ残さず完食。髪を軽く整えて学ランを羽織り、通学用のバッグの中身を確認してからわたしに「そろそろ出掛けます」と頭を下げた。
昨日まで……いや、さっきまでは「過度に干渉しない」と思っていた。本当に。でもここまで手が掛からないと、なんとなく不満も持ってしまう。かわいいからかわいがりたいのにかわいがる隙をくれない、なんて自分勝手な欲望がその不満の正体だとは知っているのだが、玄関まで見送りながらすねたような声で文句を言った。

「ねー。もっと甘えてよお。こんな中学生いたらたまんないよ、わたしの歳上としてのメンツが保てないじゃない」
「フフ、すみません。絶対迷惑かけないって決めたんです」
「ふーん……。あ、そうだ。コレ」

納得はしていなかったがとりあえずその件に関しては切り上げ、玄関に無造作に置いた鍵をひとつ三郎に渡すと、彼は首を傾げている。家の合鍵だと言うと、ああ、と小さく頷いていた。

「預かります。ありがとうございます」
「十九時頃には帰るよ。ご飯用意しておくから食べてて」
「……いえ。待ってるので」

待ってると言ってくれたが、学校から帰ってお腹も空いているだろうから、と遠慮したら頑なに「一緒に食べる」と譲らない。少し粘ってしまったけれど、よく考えたらこれは彼からの「かわいいお願い」ではないかと思い至り、その瞬間頬が緩んでしまう。せっかくなら一緒にご飯が食べたい。なんて愛おしい気持ちであろう。

「わかったよ。急いで帰るから」
「気をつけて、安全に帰ってきてくださいね」
「う。わたしが言われるの?それ……」

ハハッと笑ったと思ったらすぐ行ってしまった。その声がどことなく一郎に似ていて、笑った目元が二郎みたいで。三郎も気をつけてね、とひとりになった玄関でポツリとこぼす。それは祈りのようなものだった。彼らが傷つくことなど、もうなにも起こらないで欲しい。



職場である小さな事務所の中で、わたしの仕事は基本ルーチン通りに動くことなので、周りとコミュニケーションを取りながらも淡々とこなしていくような日が多い。日々イレギュラー対応が発生しないわけではないが、同僚たちもよく周りを見てくれている人たちが多いので、助けてもらったり・こちらからも声を掛けたり、持ちつ持たれつなんとかやっている。残業もほとんどないのは、正直ありがたい。
就業後、更衣室でなんだかんだと話しながらさっさと支度を済ませて帰ろうとするわたしに「今日ははやいね〜」なんて同僚が笑うので、待たせてるから、と曖昧に返答をする。

「ああ、彼ね。おつかれさま。また明日」
「あ……。うん!明日もお願いします」

おつかれさまです。言いながら裏口を出たら雨が降っていた。傘を持っていなかったのだけれど、走る気持ちにもなれなかった。モヤモヤが胸の中に広がっていく。
スマホを取り出して三郎とのトーク画面を開いた。『家にいる?』メッセージを送り、液晶を見つめながら俯いて歩いていたら、首にじっとりと嫌な汗が浮かぶ。既読が付かないうちに取り消そうと指を動かしたら、雨音が遮られた。見上げたら男性の口元が見えて、見慣れたほくろでそれが誰かすぐにわかったのだけれど。
こんなに背が高かっただろうかとぼうっとしてしまった。その間に、怒ったような・呆れたような声が降ってくる。

「困っているならすぐ呼んでください。そんなに濡れてまで、急いでくれなくていいんですよ」

もう少し視線を持ち上げると、ブルーとグリーンの瞳が滲んで見える。雨が目に入ったせいか思って何度か瞬きをしたら肩を掴まれ、ぐっと顔をわたしに寄せた三郎が「泣いてるの?」と表情を歪めた。

「なにかあったの?嫌なこと?怖いこと?」
「ううん……雨、目に入って、しみただけ」
「本当に?」

黙って頷くと「それなら、いいですけど……」と呟いて背を正す。持ってきてくれたビニール傘を受け取って、開いたらパリッと良い音がした。新しい。

「ねえ三郎、夕飯、買って帰っていい?」
「うん。あの、ことみさんだって同じですよ。僕に気を遣わないで。わがまま言ってください」
「あは。三郎にわがまま言うの、恥ずかしかった。いま」

「夕飯のことは、わがままなんかじゃないです」と言った三郎の、声音が妙に固くて横顔を盗み見たら、じっと正面を睨んでいた。三郎こそ、なにか嫌なことがあったのではないかと心配になる。でも聞けなかった。怖かった。なにが怖かったのか、言語化できないまま帰宅して、びしょ濡れのわたしは先にお風呂に入ったのに三郎は待っていてくれた。
向かい合って食べるご飯は、普通のスーパーのお惣菜なのに、どうしてか泣きたくなるくらい美味しく感じる。

三郎がお風呂から上がり、髪を拭きながら「ドライヤーが」とリビングに来たとき、ソファで探し物を構えたわたしを見て慌てるので笑ってしまった。

「自分でできます!だから、僕は子供じゃないって……」
「思ってないよ。やってあげたいの。わたしが」

返す言葉を失ってウ〜と小型犬の威嚇のような声を漏らした三郎は、笑顔のわたしとドライヤーを見比べ、観念したようでラグの上に座った。
ヘアオイルは使っていないみたいだったけれど、濡れた髪に指を通すと、あまりに手触りが良くて若さの素晴らしさを思い知る。

「キレイな髪。CM出られる」

丁寧に乾かしながらそんなことをポツリとこぼしたが、三郎には聞こえていないだろう。返事もなくされるがままだった。キレイに乾いてからドライヤーを止めて「どうですか?お客さん」と顔を覗いたら、ハッとしたように背筋を伸ばして目をこする。眠くなるほど気持ち良かったのかと思うと嬉しくて、頬を撫でて立ち上がる。

「ベッド行こう。わたしも今日はもう寝たい」
「はい……。ありがとうございました」
「お風呂とドライヤー片付けたら行くね」

目をしぱしぱさせながら「おやすみなさい」と寝室に入っていく三郎を見届けて、ドライヤーを洗面台に戻し、浴室を覗く。一郎の教育の賜物か、浴槽はお湯を流して磨かれ、洗面器や椅子も水が切れるように斜めに立て掛けられている。脱衣所に戻ると排水溝の髪の毛がゴミ箱に捨ててあった。
足音を殺して寝室に向かう。小さな明かりだけの部屋の中、すやすやと眠る三郎はまるで天使のようにかわいい。起きているときにはできないから、きっと拒否されてしまうから。そんな言い訳を頭に浮かべて、ベッドに転がる小さな頭を抱きしめて髪にくちびるを寄せた。あまりに愛おしい宝物。わたしの大切な……大切な。
大切な。

名前を呼ばれて目を開けた。悪い夢を見ていたみたいだ。暗い空間に浮かぶ男性のシルエットにヒュッとおかしな呼気が漏れて、けれど「だいじょうぶ?」と心配する優しい声が三郎のものだったから、忙しなかった鼓動が少しずつ落ち着いてくる。てのひらで額を拭ったら、タオルを差し出してくれた。体を起こしてよく見てみると、ベッドから降りて床に膝をついている三郎はコップを持っていた。水も用意してくれている。

「ごめん、だいじょうぶ。ありがとう。寝な」

捲し立てるように言ったのは『わたしはまだ冷静ではありません』というふうに聞こえただろうか、なんて頭の隅でもうひとりの自分が考えている。
三郎はじっとわたしを見て、サイドテーブルにコップを置くと、タオルをわたしの肌に当ててそっと滑らせていく。頬から、耳の下、首筋、うなじ、デコルテ。なにかを言い掛けてくちを噤む。悲鳴を上げてしまいそうだった。
くちびるを戦慄かせながら俯くわたしの背中をゆっくり撫でるてのひらが、すごく大きく感じた。

「こ、子供みたいね?怖い夢見て、泣いたり、して」
「……僕も、怖い夢を見ます。すごく怖い夢。そういうときはこっそり兄たちの部屋を覗くんです」

穏やかな声が紡がれていくと、物語を読み聞かせられている気持ちになった。三郎の声は弦楽器みたいな響きがあって、それでいて可憐な印象を残す不思議な声だ。落ち着いた喋り方や、深夜という状況も相まって、彼の世界にどっぷり沈み込んだような錯覚を起こす。

「兄たちが生きているって確認して、明日もこの日常を守らなきゃって、思う。でもそれと同時に、自分を守ってくれるひとがいることに安心するんです。笑っちゃいますよね。僕はまだ子供なんです」

そんなことない。小さく呟いたら、三郎は首を振った。わたしの方がよっぽど幼い精神性を抱えていると言いたいのに、すべて吐き出してしまいたいのに、深く息をするので精一杯でとてもまともな文言を紡げる気がしなかった。
「でも」と三郎がぽつりと溢した声は、落ちた雫が水面に波紋を描くみたいにわたしのこころを震わせた。

「大切なひとを守るのは、僕にもできることです。嫌なことや、怖いことがあったら、言って欲しいんです。そばにいるときくらい、僕に」

嫌なことや、怖いことを、三郎に。
唾を飲み込んだらやけに響いた。髪の隙間から三郎を見上げる。わたしの愛おしくて大切な三郎じゃないなにかに見えた。だけど嫌なものや怖いものなんかじゃなくて、もっと、もっと大きな、人間なんかにはとても干渉できないような存在。
例えば、地球、とか。
ぽっかり浮かぶブルーとグリーンが、ぐにゃりと形を変えて行く。めまいでも起こしたのかと思ったが、しばらく耐えた末にそれがとてつもない眠気だと気がつき、なんだか笑えた。笑いながらベッドに横たわって丸くなる。

「ねむいの……ねる……」

後ろでため息を吐いた三郎がわたしを跨いでベッドに上がると、肩まですっぽり覆うように毛布を掛けてくれて「おやすみ」と言いながらぎこちなく頭を撫でてくれた。
昨日、嬉しかったんだなって思ったら、今度は泣けた。



とても寒いような気がして、でも頭ばっかり暑くて。息苦しさに目を覚ましたら三郎がひょこっと視界に現れた。

「ごめえん。寝坊……時間……」
「だいじょうぶ。今日学校ないから」
「あれ?今日は、えっと、朝ごはん」

呆れた顔で「ことみさん、しっかりして」と言われて笑いながら体を起こそうとしたら、肩を掴んで止められた。そのまま元通り横たえられ、え?と言ったら眼前に数字が突き付けられる。なんだと思ったら、体温計だった。38.5℃。慌てて三郎の頬に手を当てると、ひんやりして気持ち良かった、熱はなさそうだ。それじゃあこの測定結果は誰のものかと思うと、自分自身に落胆してしまって途端に具合が悪い。

「あ〜……。ごめんね……ごめん……」
「というわけなので、今日は寝ててくださいね」
「ううっ、情けない。一郎に合わせる顔がない」

めそめそと泣き言を言い始めると「はいはい」とか言いながら、わたしの前髪を避けて冷却シートを貼ってくれた。視線を動かすとサイドテーブルにはお水と市販の解熱鎮痛剤が2種類あって、ゴミをまとめていた三郎が「食欲はあるか」「どこか痛むか」と続けて問うので嘘をついても仕方ないと答える。

「あんまり食べたくないけど、食べられるとは思う。頭が痛い」
「体、起こせますか?」
「うん。だいじょうぶ」

布団や枕を積んで寄りかかれるように背中に置いてくれて、これなら起きていられそうだ。少し寒気がするが、こんな季節だと空調を切るのは怖い(身近に脱水症状のひともでたし)ため、設定温度を上げて様子を見ることにした。
コンビニのゼリーやプリンを数種類並べながら「お粥がよければ温めてきます」とレトルトのものを手にした三郎を見て、また急に情けなくなって涙が滲んだ。風邪を引くと感情の浮き沈みがおかしくなるのは誰しもそうなのだろうか。自分がとんでもなく価値の低い人間のように思えてきて、ポロポロと泣きながら謝る。

「ごめん……めいわくかけて……せっかく、おやすみなのに」
「なっ、泣かなくても!休みなんて来週も来るし……大したことじゃないよ」
「さぶろうのこと、あまやかすつもりだったのにぃ……」

嗚咽をこぼしていると三郎は眉尻を下げて、膝の上に置いたわたしの手をそっと握った。その表情をみてやっぱり呆れているのかと思ったら、頬を赤くして厳しい口調でこう言った。

「いま、苦しいのはことみさんです。僕のこと大事に思ってくれるみたいに、自分のことも大切にしてください。その方が僕は嬉しい……から」

優しい言葉に胸が締め付けられたように痺れる。頷いて、手で顔を擦った。三郎はそんなわたしをみて、小さく笑いながら「子供じゃないんだから」とタオルを渡してくれた。

甘くて冷たいものの方が食べやすそうだったので、ゼリーを少し食べて薬を飲んだ。三郎が、熱が出た場合、それが何度くらいなのか・喉や頭の痛みがあるのかで選択肢を変えた方が良いとこれからのためにアドバイスをくれたが、正常にインプットされる気がしなかったので雑に相槌を打っておいた。わたしの反応は気にも留めずテキパキと世話を焼いてくれる。

「気持ち悪さがなければ横になって、眠れるなら眠った方がいいです。昨夜もあまり質の良い睡眠はとれていないみたいだし」

うんうんと言いながら、もうされるがままである。もしも、三郎が熱を出したら、わたしはこんなに落ち着いて対応してあげられるだろうかと考えていた。一郎のことも、結局病院に丸投げしてしまったし、今日は本当はやらなきゃいけないことがあったはずだ。そう、一郎のために水筒を買いに行く約束してた、三郎と……。
だんだん意識が遠のいていって、なんとなく楽になってくる。薬が効いてきて、熱が少し落ち着いているのかもしれない。はやく良くならなきゃ、と三郎のアドバイス通り眠気に身を委ねた。

目が覚めたのは夕方だった。汗をぐっしょりかいてしまって、気持ち悪い。いったい何時間眠っていたのかと時計を見上げても、一度起きたのが何時なのか確認しなかったのでわからない。
体は楽になっていて、ウイルスによる症状というわけじゃなかったのかなと、着替えを持って寝室を出る。
またパソコンに向かっていた三郎はわたしを振り返って目を丸くした。

「だ、だいじょうぶですか?」
「うん。なんか良くなった。お風呂入ってくる」
「汗、出ましたか?熱が引いたんですね」

うん、と言って廊下を進むと、立ち上がった三郎が着いてくるので首を傾げた。三郎は「病み上がりのお風呂は怖いんですよ。側で待機してます」と言って廊下に座り込んでパソコンを膝に置いた。

「三郎は心配症だね。誰に似たのかな」
「おそらく、ことみさんですね」
「おっと……これ以上はやめとこっ」

ふざけるわたしを見て体調が戻ったことに安心したのか、やっと笑ってくれた三郎が「シャワーの温度、低めにしてくださいね」と言って手元に視線を落とす。SNSの画面が見えて無意識に内容に目を向けてしまう。咄嗟のこの動きは好奇心ゆえなのだろうか。ただ、わたしはあまり目が良くなくて、使っているスタンプが「彼」と同じで、有名なキャラクターの公式スタンプだなということしかわからなかった。三郎がわたしにスタンプを使ってきたことはないけれど、一郎や二郎とはそういうラフなやりとりをするのかもしれない。

シャワーを浴びたらさっぱりしたので、部屋着に着替えてご機嫌に脱衣所を出ると、タオルを肩に掛けたわたしを三郎がしかめっ面で見上げた。

「はやく髪、乾かして。まだ万全の体調じゃないんだから」
「はい、はあい。も〜、さぶちゃんお姑さんみたいなんだから……」
「なっ、心配してるのに!ことみさん!」

顔を赤くしてムッとする三郎の頬をもちゃもちゃと触って笑っていたら、インターホンが鳴った。咄嗟に反応したのは肩だった。それをみた三郎の眉毛もピクリと震える。笑顔を崩さないまま、尋ねた。いま、何時?

「……十七時です」
「約束があったの忘れてた!断ってくるから、ちょっと部屋で待ってて」

玄関に走るとドンと向こうから鈍い音が響き、わたしを呼んでいる男性の声がする。はいはーいとわざと明るい声を出しながらチェーンを外し、震える手を抑えながらドアを開けた。

「遅えよ」と吐き捨てるように言われたので、被せてちょっと外で話そうと言いながら部屋を出る。ドアを閉めてから、文句を言い掛ける彼に近づいて先日話したことをもう一度伝えた。

「日曜日までは予定あるの。ごめんね」

スタスタとアパートの裏の方に進んで行くから、黙って着いて行った。駐車場の隅でやっとわたしを振り返り「じゃあなんで家にいたの?」と言われて一瞬黙ってしまったが、嘘を吐いても仕方ないと思い三郎を預かっていることを話す。

「知り合いの子を預かってるの。保護者が入院してるから、行くところ無くて、それで……っ」

腕を掴まれて声を失う。さっきよりぐっと近づいた彼を恐る恐る見上げると、わたしの言葉をまるで信じていないようだ。男だろ、と言われて首を振る。

「男の子だけど、十四歳だよ。子供なの」

事実、彼の言うような「男」ではないのだが、両腕を拘束されて震えながら弁明するも、お酒の入った彼にはなにを言っても無駄だろう。ごめんね、ごめん。謝りながら笑ったら、罵詈雑言が降ってくる。
だからオマエはダメなんだよ。オマエみたいな女、他の男が本気で相手にするわけねえだろ。ちょっと放っておいたらすぐ他に色目使って、クソビッチ。クズ、ゴミ、バカ女。
いつもみたいに笑った。ほんと、そう、ごめんね。いつもみたいに笑ったはずなのに、彼が舌を打つから、反射的に体が逃げようとする。それさえ気に食わないのだろう。地面にわたしを突き飛ばし、髪を掴み上げて顔を寄せる。
呼べよ、ここに。ソイツの前で抱いてやる。
震えることしか出来なくて、それでも微かに首を振った。彼の荒い呼吸に混じって、ジャリジャリと砂を踏む音が近づいていることにふと気づく。

見てもいないのに、声もしないのに、叫んでしまう。来ないで、お願い、だいじょうぶだから。それを聞いて振り返った彼のすぐ側に、華奢な男の子がポツリと立っている。

西日が差すような時間なのに、アパートに遮られてこの一帯は沈み込むような暗さだった。それが三郎の異様な雰囲気に拍車をかけている。彼がぽかりとしている間に、踵を返して部屋に篭っていてくれないかと、泣きながら首を振って見せたがダメだった。三郎は指先ひとつ動かさず、彼に向かってこう言った。

「呼ばれたから、来てやったぞ」

静かにそう言う三郎の声はゾッとするくらい感情が乗っていない。やっと状況を飲み込んだらしい彼は、てのひらにじっとりと汗をかきながらも「ハハ」と笑って三郎を挑発する。

「マジでガキじゃん。オマエにそんなシュミあったなんて知らなかったわ。お膳立てサンキューな、クソガキ」

言い終わると緊張したように唾を飲み込んだ彼にも、いまの三郎の雰囲気の危うさは伝わっているらしい。目元も、口元も、なにも見えない。暗がりの中に、すらりと肢体が浮かんでいるだけだ。
さぶろう、と小さく名前を呼んだら、ポケットからマイクを取り出してスイッチに手を掛ける。ヒプノシスマイク。ディビジョンラップバトルは映像でしか見たことがない。
三郎がそれを使うところを、実際に見たことがない。

彼はその能力では勝てないと見込んだらしく、パッとわたしから手を離してズカズカと三郎に歩み寄る。三郎は動かない。大切な、大切な三郎が傷つくなんて怖くて、怖くてたまらなくて、駆け寄って間に割って入った。
庇うように両腕を広げて目を瞑ると、服の襟元を掴んでぐっと引っ張られる。尻餅をついたとき、同時に鈍い音がした。人が、人を殴ったときの、醜い音。お腹を抱えるようにしゃがみ込む三郎が見えて、地面に膝をつく音が嫌に響いて。なにが起きたのか理解したら、お腹の底から変なものが込み上げる。吐けるほどなにも入っていないはずなのに、くちびるから溢れ出る熱い粘液。絶望ってこういうことを言うんだ・って、妙に冷静な頭の中で思った。

小さく笑った彼が「あれ?弱いじゃん」と呟く。こうなったら暴力に訴えるしか知らない人だ。わたしが三郎をこんなことに巻き込んで、だから三郎を傷つけたのは他でもないわたしなんだと自責の念に駆られて、おかしくなりそうなほどの後悔が渦巻く。
ごめん、と意味も価値もない謝罪をしたら、三郎がわたしを振り返った。

ビクッと体が跳ねてしまったのは、三郎が笑っていたから。そしてわたしと同じように、謝罪をくちにするから。

「ことみちゃん。乱暴に掴んだりして、ごめんね」

カチッと小さな音が響いて、世界が金色に染まる。キラキラした光がそこかしこに降り注ぎ、呆けていたら立ち上がった三郎が優しい声でわたしに言った。僕だって大切な人くらい、守れますから。
わたしがそのとき見た、あれは、三郎だったのだろうか。ぴかぴかして・ギラギラして、眩しくてたまらなくてよく見えなかったがきっと、あどけない少年の体を少しだけ借りた神様だったに違いない。
悠然とした佇まいを目に、脳に焼きつけたくて、瞬きもせず魅入っていたら涙を流すことさえ忘れてしまっていた。



警察を呼んだあと、三郎はわたしを部屋に押し込んで、一切のことを語らせてくれないまま事情聴取を終えてしまった。おろおろしながら1時間ほど部屋の中で待っていたら玄関の扉が開く音がした。走って出迎えると焦ったようなわたしを見てきょとんと「どうしたんですか?」と言う。それがあまりにいつも通りの穏やかな声だったから、我慢していたものが噴き出した。涙が溢れ出して膝から崩れ落ちる。
「わっ」と声を上げて、抱き止めてくれて三郎のお腹が熱くって、余計になにもかも止まらなくなってしまった。

言葉になんて、文章になんてなっていなかっただろう。わんわんと泣いている合間に「ごめん」とか、言い訳のようなことばかりぐちゃぐちゃと吐き出して、自分がなにを伝えたいのかももうわからなかった。
そっと座らせてくれた三郎はポケットからハンカチを取り出して、「涙は塩分が含まれてるから、ほっとくと肌が痛くなりますよ」と、濡れるばかりの頬を優しく拭ってくれる。こうやって優しく助けて貰うばかりで、わたしはいままで三郎になにをしてあげられただろう。
ごめんね、と何度目かわからない謝罪をすると、三郎は首を振っていた。真面目な顔を見上げて昨夜のように大きな瞳に見惚れていると、ゆっくり・ぎゅっと抱きしめられていた。

三郎に抱きしめられるなんて初めてだった。一郎や二郎もあれでいてシャイなので、大きくなってきてスキンシップも減ったし、わたしから頭を撫でたりはするけれど、彼らから胸に抱き寄せられたことなどない。三郎なんて、いまより小さいときでさえ素直に甘えてこない男の子だったので、その三郎の胸に頭を寄せている現状が信じられなくて目を瞬かせる。頭と背中が大きなてのひらで包まれ、妙に感心した。男の子ってこんなにすぐ大きくなってしまうものなんだ。

「未成年だってことで今日は切り上げてもらいました。明日、僕はまた警察に行きますけど、ことみさんは来なくていいです。ことみさんの証言が無くても済むので。あと、引っ越しましょう。これは絶対です。約束してください」
「でも……でも、わたしが悪かったから、三郎がわざわざ時間を割いたり、することじゃ」
「ことみさんのなにが悪かったんですか?」

問い詰めると言うより、純粋に"わからない"といった口調で尋ねられ、腕の中からそっと見上げる。まっすぐ前を睨んでいる、昨日の夕方、雨の中で見た顔だ。
思わず黙り込んでいると、ぎゅっとわたしの体を抱え直して頭を肩にくっつけた三郎は、ひとつだけわたしの悪かったところを教えてくれた。

「見る目が無いです。それだけ」

つい、笑ってしまった。たしかにそうとしか言えない。あんなひとだと最初に気づいていたら、ここまでにはならなかったのだろうから。
わたしが笑うと三郎は、きゅっとてのひらを握り込んで深呼吸をして呟く。ことみちゃんが笑って過ごすためなら、僕はなんだってする。三郎が一郎や二郎に向ける、無償の愛情。その美しいこころを、わたしにも分けてくれるのかと、お礼を言ったら言葉が重なってしまった。

「ありがとう」
「僕ことみちゃんが好き」

世界中の時間が止まったんじゃ無いかと思った。聞こえた言葉は、さっきわたしが想像した「家族や、それに準ずる存在への愛」を謳ったものではないと、すぐに理解できたから。
でも、応えるわけにはいかない。もちろん。歳の差だけを理由にするのはずるい大人の考えなのだろうけど、とても大きな問題であることは事実だ。三郎は、わたしの半分くらいの歳だから。

「……ありがとう。ごめんね」
「僕、ことみちゃんのこと守るよ。誰にも、傷つけさせたりしない。もう、ひとりで泣かなくて済むようにしたいんだよ」
「うん。できるよ三郎は。でも」

崇拝する長兄が倒れても、わたしに発言を嗜められても、成人男性に殴られても泣かなかった三郎が、さめざめと泣き始める。中学生の男の子の恋愛感情なんて、どこに芽生えるのかもどのくらいの大きさなのかもわからない。でも、思い返せばわたしも高校生くらいまで、親戚の歳上のお兄ちゃんに憧れていた。恋と呼べるようなものだったかはさておき、結婚したと聞いたら多少のショックを受けるくらいには慕っている気持ちがあったのだ。

「僕のことは、子供としか思えない……?」
「そうじゃ、ないけど。捕まっちゃうし」
「交際だけでもダメなの?」

法律のことなど詳しくなく答えあぐねていると、三郎は涙を拭ってまたぎゅうっとわたしを抱きしめる。

「気持ちはあるってことだよね?法が許してくれるなら、僕と付き合えるってことだよね?」

そう言われて少し考えたが、三郎のことを現状「異性として」見ているかと言ったらノーだ。家族……弟という感覚で過ごした時間があまりに長すぎる。でも、将来、三郎が対等に向き合えるような年齢になったとき「パートナーとして」という選択肢に入らないほど異性としての魅力が無いかと言われたら、そういうわけでも無いのか?
と。
ここまで考えて、恥ずかしいことを想像している気持ちになってわたしは思考を放棄した。未来のことを、いまは選べない。想像して備えることが悪いことでは無いけれど、なにがどう転ぶかは、そのときになってみないとわからない。はっきりしたことはなにも約束できない。
つまり、未来永劫ノーだという返事も、わたしにはできないわけだ。

水筒を買いに行かなきゃいけない。約束したから。そのくらいの気持ちで、三郎に言った。じゃあ、ちょっと気長に考えよう。わたしの言葉にパッと顔を上げた三郎は瞳が零れ落ちそうなくらい目を丸くしていて、かわいかったから腕を伸ばして頭を撫でた。

「三郎が、大人になっていろんな人と出会って、それでもわたしを選んでくれるかもしれないって、すごいことだもん。そうならなくても怒ったりしないからさ」
「ことみちゃんが、その間に他の誰かを好きになったら……?」
「それは、三郎が頑張ることでしょ?わたしのことを好きな分だけ、三郎のこと好きにさせてよ」



このときのわたしは、うまく言いくるめようなんて思っていたわけではなかったが、こころのどこかで「いつか潮時が来るだろう」と甘い考えを持っていたらしい。三郎がとても賢い子で、その上優しくて強い男の子なことを嫌というほど知っていたはずなのに。
ともかく、「色んな意味で一郎に合わせる顔がない」なんて、あの夜限りで終わりにしたかったのは事実だ。

昔は女性の憧れの異性といえば「3K」というのが鉄板だったらしい。「高収入・高身長・高学歴」のわかりやすい覚え方だ。それが揃った男性が結婚相手として理想的である、と言う話。
わたしはといえば、特に交際相手の身長に希望も無ければ、相手の学歴や収入など気にした試しがない欲の無い女だった。それまで。

例えば、並んだときに見上げるほどスタイルが良く、博識でいつも興味深い話で笑わせてくれ、生活になんて困らせてもくれないような男性がいたとして。
その男性が寝起きでも見惚れるほど可愛い顔をしていて、わたしのことが大好きで、甘いアルトの声音で"愛おしくてたまらない"といったふうに名前を呼んでくれる。
そんなひとを手放すような女、昔のわたしからしたって「見る目が無い」と叱りつけたくなるだろう。

夢の中にいるみたいだと、ときどき自分で頬をつねってみる。そうすると、それを眺めるまるで『神様』みたいに非の打ち所がないひとが「僕も思ってますよ」と、思考さえ透けてみえるかのように笑うのだ。
眠りかけのわたしの髪を撫でる手だけ、ずっと、あのときみたいに恐々とぎこちない。眠気が飛んでしまわないか心配になるらしいのだが、それを聞くとやっぱり『人間』でしかないなと、思ったりする。

(2022.8)
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