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ソファに座るわたしの膝に、頭を乗せてとろりと緩んだ顔をしている十四くんの、髪を撫でながら歌っていた。流行などには疎いわたしがこの歌を好きになったのは、世間の若者たちがもうとっくに歌い古した頃だった。十四くんを取り巻く環境から考えて、聞き飽きるほど耳にしたものだろうが、止めることなくじっと静かに目をつぶってくれている。ふと、眠ってしまっているのかと歌を止めて顔を覗くと、そろっと開いたまぶたから熱に浮かされたような瞳が見えた。

「ことみちゃんの歌、好きっす。甘えてるみたいな声。かわいい」
「そう?どうしても、歌ってるアーティストの真似しちゃうの」
「違うよ、全然違う」

座面に下ろした手をそっと握られる。華奢な長い指が自分の手に絡みつくのを視線でなぞり、しんと沈黙が落ちた部屋の空気に耳を澄ませる。こういうとき、自分の呼吸が目立たないのはなぜなんだろう。彼の呼吸の音ばかり頭に響いて、生きているなあって思う。ついそのことに意識が集中して髪を撫でる手を止めてしまうと、不満なのか、絡んだ指を握るちからが強くなった。小さく笑い声を落とし、問いかける。

「そろそろ帰る?もう暗くなるよ」
「……嫌っす。まだ、もうちょっとだけ」

咎めるように彼の名前を呼んだからか、ひくっと肩を震わせて、顔を上げてわたしの表情を伺っていた。怒っていないし、不愉快でもない。それを認めてほっと息を吐いている。
腕が伸びてきて、わたしの首に回される。抱き寄せながら頬にくちびるを押し付けられて、ん、と意味もなく声が零れた。そのままくちびるにもキスをしようとするので、両手で頬を包んで捕まえた。笑いかけて、文句を言われる前に鼻先にキスをする。

「駅まで送ろうか」
「ことみちゃん、なんで?」
「理由はいつも話してるよね」

そう聞いた途端、まるでアニメーションみたいにぽろりぽろりと彼の瞳から涙が零れ落ちた。わなわなと震えながら、わたしの手をぎゅっと握りなおし、「なんで、どうして」と子供みたいに泣きじゃくる。

「ことみちゃんのこと、好き、大好き。だからキスしたいけど、ことみちゃんが嫌ならしない、それでもいいっす。でもことみちゃんが言ってるのはそういうことじゃない……自分は……」

どんどん溢れてくる大粒の涙を拭うこともしないで、こころのままに・素直に言葉を紡いでいく。目が眩むほどまぶしくて、どんなものよりいとおしい。もしもわたしが天使を見つけたらいまと同じ感想を浮かべるだろう。どれと同時に、うらやましい、とも思った。
まっすぐな恋心なんて、わたしはもう忘れてしまったから。「ずっと」ってどのくらいの期間なのか、なんとなく知ってしまっているから。「大人」がなにを言おうとも、その柔らかいこころは救われないことも。

それでも本当に思いだせない。初恋の疼きが芽生えたとき、心臓がどれだけ弾むのか。胸に抱えきれない思いを吐きだすとき、ズキズキと痛むのはどこなのか。言葉にして初めて気づいた現実に、渇く咽喉はなにでなら潤せるのか。
くちびるを奪ったら、体を重ねたら、わたしがそれらをもう一度味わえるなんてそんなことはわかっている。だから待てと言っているのに。

「いまの十四くんは脳内麻薬に踊らされているね。いつか後悔することになる。残念なことにそれは現実。永遠なんてない、絶対は信じない。ずっとっていうのはだいたい一年くらいなの。わかるときが来るよ」

酷く傷ついた顔で、ぐっと声を堪えて震えている。かわいそうだけれど、わたしは嘘を吐いているわけじゃない。袖で、濡れた頬を撫でてあげた。薄い、形の良いくちびるからはらはらと零れてくる言葉も、嘘じゃないことはわかっている。

「いつか、何万人って人の前で歌うようになっても、ことみちゃんが傍にいてくれたら、僕は僕で居られるの……。それは希望的観測じゃないよ。いまの僕の隣にいてくれるのがことみちゃんだから、だから、いつかのことみちゃんの隣にいるのは僕なんだよ」

知っているよ、わかっているよ。涙と一緒に甘えが漏れだしてしまわないように、彼から顔を逸らす。十四くんの言葉を信用できないんじゃない、信頼に値しない人だと思っているわけでもない。そうじゃないからこんなに必死で逃げている。

「十四くんがそうなったときに、隣にいるのはわたしであって欲しくない」
「じゃあなんで泣くんすか?なんで目を見てくれないの?ねえ……ことみちゃん」
「泣いてないよ。だいじょうぶ」

そろりと立ち上がって、わたしと同じようにソファに腰掛けた十四くんが優しく胸に抱き寄せてくれた。シルバーのアクセサリーがチリッと小さく鳴って、なんだかそれも悲しい響きに感じた。彼の腕の中はわたしにはもったいないくらい広いと、いつも思う。

ぐずぐずと鼻をならしながら「もういいわかった」と言われて、まぶたを下ろしたら頬が濡れた。薄い身体に腕をまわしたら、あんまりにも背中が大きくて溺れたような感覚に陥る。上も下もわからない、ごちゃごちゃにかき混ぜられて、見えない空に向かって手を伸ばしているだけ。それは、諦め、と言うのかもしれない。

「ことみちゃんがそう思うなら、そう思ってていい。自分のこと……侮ったって、ことみちゃんにも、後悔させてあげるっす。強がりじゃないし、冗談でもないっすよ。手離してあげないし、自分以外のこと見る余裕もあげない。その代わり、自分の“ずっと”がどのくらいか、教えてあげるっす」

きつく抱きしめられながら、ひとつひとつの声が・言葉が突き刺さって痛かった。どこが切ないのかわからないくらいどこもかしこも苦しくて、小さく喘ぎながら応えてしまった。「うん」なんて。

十四くんはずっと泣いていた。子供みたいに泣きじゃくっていた。言ってることも、思ってることも、全部幼い夢でしかない。それなのに貰った言葉を捨てられない。心臓の後ろにそっと隠して、ときどき優しく磨いたりして、その温かさを忘れないように頬ずりをするんだ。十年経ったとき、カラカラに乾いた嘘になっていても怒ったりしないよ。一緒にいる間に、わたしの両手じゃ抱えきれないくらいたくさん、きれいな涙を貰っているから。

(2022.4)
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