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夜道を歩いていたらガタガタ震えている男性に連絡先をもらった。この街の人はみんな知ってるキレイな顔をこれでもかと歪ませて、腕をいっぱいに伸ばしてわたしに差し出したメッセージカードには、目の前の彼には似つかわしくない軟派な口説き文句が綴られている。だいじょうぶ?と声をかけて下から表情を覗き込んだら、はらはらと泣きながらどういうわけか笑っていた。
肩からずり落ちてくるキャミソールの紐を直すこともせず自室を出ると、寝癖をつけた独歩がうろうろしながら歯を磨いていた。今日はお休みらしい。背中を軽く叩いて挨拶をする。
「おはよお。寝癖すごいね」
「ん……オマエ……」
ホットパンツの裾をいじりながらあくびをするわたしを怪訝な顔で見下ろした独歩は、くちを濯いで歯ブラシを定位置に戻したあと、肩紐をそろっとつまんで上げてくれる。
「良くないって。そういうとこ」
「ありがとうおにいちゃん」
「オマエみたいな妹はいらん」
妹とはかくありき、と、理想と幻想を語り出してしまったのでよほど疲れているらしい。そっとしておいてあげようとキッチンでコーヒーメーカーに好みの豆をセットする。これはわたしのチョイスではないし、自分で買ったこともないのでどのくらいの価格帯のものかもしらないが、とにかくとても良い感じで気に入っている。独歩に飲むかと聞いたら冷蔵庫を開けて朝ご飯を取り出しながら「うん」と簡素な返事が来た。妹論を無視されたことが気に食わないのかとも思ったが、彼は元来穏やかな性格なのでそんなことで怒ったりしないだろう。ただもうなにもかもどうでもいいだけかもしれない。確かに昨日までほとんど家にいなかった。
「起きたら歯磨け」と小言を言われたのでキッチンのシンクで軽くくちを濯いだらこめかみにデコピンされた。
「一二三に怒られるぞ」
「一二三はわたしに怒れない」
「はあ……。ことみどっち食べる?」
レタスとトマトとチキン、なにやら緑色のソースが滴る方のサンドイッチを指して、独歩のマグにできたばかりのコーヒーを注ぐ。独歩は黙って受け取るとダイニングに座って、静かに手を合わせてわたしのとは別のサンドイッチを食べ始めた。自分の分のコーヒーにミルクを入れてから向かいの席に座り、サンドイッチをひとくち齧ると、バジルの香りがした。
「んま。天才」
「モノ入れたまま喋るな」
「独歩はうるさいけどいい朝だなあ」
今度はわたしが無視されたが気にせずひとりで笑いながらコーヒーをすする。詳しい事は忘れたけれど、このミルクは取り寄せているものらしい。
ガチャッと玄関の方から音がして明るい声が響いてくる。どっぽちん聞いてよお。なにかお店でトラブルでもあったのだろうかと、わたしと独歩は顔を上げて足音の方に視線を向ける。
「おかえり。遅かったな」
「もお今日は大変……ってアレ、ことみ……起きるのはやいね」
「うん。おはよう」
さっきまでの勢いはどこへやら。一二三は「おはよ」とぎこちなく笑って、すうっと片足を後ろに戻した。それをじっと見ていた独歩が眉尻を下げる。ふたりの顔を交互に見て、へらりと笑って言う。このサンドイッチ美味しすぎ。
「そ?また作ってやんね」
「うん。お昼ご飯なに?」
「もう昼飯の話かよ。……で、一二三はなにが大変だったんだ?」
わたしが顔を伏せて黙々と食事に集中している間、独歩と一二三はなんやかんやといつものコントを繰り広げている。わたしは気配を消してそれを聞き流し、一二三がシャワーを浴びに行ったタイミングで席を立って食器を洗い始めた。独歩が後ろから自分の分を放り込んできたので冗談を言う。
「洗ってあげるけど、貸しイチね」
「ことみ。いつもありがとうな」
「いいよ、お皿洗うのは好き」
呆れたようにわたしの頭をくしゃっと撫でて、「オマエはいつも皿も洗わないだろ」と、独歩にだけは言われたくない指摘を受けた。
***
朝の五時、人通りが少ないのをいいことに、コンビニに向かうわたしはすっぴんにジャージだった。
路地で頭を抱える男性を見かけた。横目で見て通り過ぎ、コンビニでポカリとカップラーメンを買った。さっきの場所に戻ると、彼はまだそこで項垂れている。少し離れたところにしゃがんで声をかけた。
「だいじょうぶ?」
「ヒィッ……あっ……あの、ヘーキ……」
「気持ち悪い?」
顔を上げた彼のくちびるは色を失っていて、気分が悪いのかと聞いてみてもわたしを凝視して震えるばかり。政権が変わってから、肩身の狭い思いをしている男性もいるとは思うが、こんなに女性に怯えるのも珍しい分類ではないだろうか。華やかな細身のセットアップの彼は寒いのにジャケットを着ていなくて、ふうんと無意識に呟いた。
「なにか困ってるの?」
「うっ……あう……ど、どっぽ……どっぽお」
「どっぽ?」
呪詛のように「どっぽ」と呟き始めた彼は、膝を抱え込んで泣き出してしまう。たまたま知り合いに「どっぽ」という名前の人がいるので電話をかける。たっぷりのコール音のあとやっと繋がり、地を這うような低い声で「なんだよ……」と聞こえた。
「独歩を呼んでる人がいる。すぐ来て」
「はあ……?いま何時だと……」
「泣いてるの。独歩、独歩って」
そう言うと状況を察したのか「位置情報送ってくれ」と電話は切れた。言われた通りにし、袋からポカリを取り出してピカピカの革靴のそばに置いた。その音にすらビクッと肩を震わせた彼に、そっと声をかける。
「独歩来てくれるよ。それまでわたしはそこにいるね。水分とったほうがいいよ、落ち着くから」
路地を塞ぐようにしゃがみ込む。なにか食べるもの買ってくればよかったなあと思いながら白む空を見上げていた。
本当にすぐ来てくれた独歩は髪もばさばさでほとんど寝巻きのような格好だったが、朝日と眠たい目のおかげでヒーローみたいに見えた。きっと金髪の彼もそう感じたことだろう。
独歩が彼に手を貸して立ち上がらせるのを見届け、そっとその場を離れ帰ろうと歩き出す。後ろで独歩が「ありがとうな」と言ったので首だけ振り返ると、渡したペットボトルを握りしめた手が見えた。独歩の影からそろりとわたしを盗み見ている。
「いいよ。今度ご飯奢ってね」
手を振って背を向けた。家に帰ったらカップラーメンを食べようと考えていたが、たしか冷凍庫にアイスがあったはずだと思い出し、足取りは軽い。
後日、独歩から「お礼がしたい」と連絡があり、待ち合わせ場所に向かった。独歩に会うだけならと、タンクトップにアウターを羽織り、スキニージーンズを履いてサンダルを突っ掛けていた。それなのに指定された場所には独歩と、スーツを着た伊奘冉一二三がいて。お待たせと笑うわたしの手をとって「先日はどうもありがとう」と優しく微笑んだ。
「……つまりことみは俺の弟の同級生ってだけの他人だ」
「そんなこと言わないでお兄ちゃん」
「ははは、ふたりはとても仲が良いんだね」
わたしと独歩の話を楽しげに聞いてくれている一二三は、柔らかな口調と穏やかな笑顔を崩さない。まじまじと見つめても目が合うたびににこりと笑いかけてくれて、本当にこのまえとは別人だ。特に突っ込んだりはしなかった。誰にだっていろんな事情がある。
楽しく談笑し、ふと会話が途切れそうになったら一二三は「そうだ」とスマホを取り出してわたしの顔を覗いた。
「連絡先、教えて貰えないかい?」
一二三の職業は聞いていたので営業かと考えたのもあるが、わたしは本音でこう答えた。
「好みの人にしか教えない」
「オマエ……身の程を知れよ」
「ふふ、ことみさんはモテるんだね」
独歩には嗜められたが、一二三は気にしていないように見えた。そこそこね、と適当に答えてカフェラテをすする。
「じゃあ、独歩くんのことは好みなのかな」
「うん。結婚したい」
「ことみは誰にでも言うぞ。これ」
一二三は独歩の発言に「僕もことみさんにそう言ってもらえる、魅力的な男になるよ」と半ば自虐のようにも聞こえる言葉を紡いだが、シンジュクで一番といっても過言ではない美形の男性がそうくちにしても謙虚には聞こえないから不思議だ。
それからというもの、一二三は独歩を介してたびたびわたしを食事に誘ってくれた。いつもスーツをバシッと着てくるので、わたしもそれなりの格好をしなきゃかなあと独歩にぼやいたら「一二三は気にしてないけど、俺はいつもオマエの胸元にしか目がいかない」と言われたので笑ってしまった。セクシャルな意味を含んでいるわけではないとわたしはわかっているが、こういうことを平気で言うので独歩は未だ独身なのだと思う。
一二三と二人で会うことになった日、それはもう真剣な顔で告白してくれたのを覚えている。優しいキミが好き。たしかにわたしは優しいが、それは別に一二三に対してだけじゃない。
「わたしも一二三のこと好きだよ」
「……ありがとう。でもそれは僕とは違う気持ちだね?」
「きっとそうだね」
長いまつげを伏せて、そうか、と小さく頷いた彼の横顔はいつも通り美しかった。女性がみんな虜になるような色気を孕んでいて、こんな甘い声で好きだなんて言われたら誰だって同じ言葉を返すだろう。それは魔法みたいなものだ。
別れ際、一二三はわたしの手の甲にそっとくちびるを寄せて「次に会うときは」と言いかけて、やめた。
「ごちそうさま。またね」
「うん、また」
日が暮れたシンジュクをのんびり歩いた。冷たい空気が酔いの回った熱い体を冷ましていく。つい鼻歌をこぼしてしまう。後ろからバタバタと慌てたように走る音がして、誰かがわたしを呼んでいる。
「こっ……ことみちゃんっ」
「あれ、どうしたの?」
わたしを呼び止めた一二三はジャケットを腕に引っ掛け目に涙を浮かべていて、震える手で懐からなにかを取り出す。名刺サイズの小さな紙。わたしにの方にぐっと腕を伸ばして差し出されたので目を通すと、連絡先と、いまの一二三からは想像できない明るいメッセージが書き連ねてあった。膝から崩れ落ちそうなほど怯えきって、それでもわたしを見つめているので、つい笑った。
「だいじょうぶ?」
一二三はごくんと唾を飲み込んで、わたしを凝視し、薄く笑う。消えそうな声で「うん」と呟く、頬には涙が伝っていた。
「ありがとう。連絡するよ」
「うっ、うん……ま、ま、待ってる……」
一二三はぐずぐすと鼻を鳴らしながら後退り、建物の影に逃げ込んでしまった。
帰宅して、約束通りSNSから連絡すると、すぐに絵文字がチカチカと眩しい返信が来た。画面に浮かぶはしゃいだ顔のキャラクターを眺めながら、一二三がにっかり歯を見せて笑うところをぐにゃぐにゃと想像してみた。どうにもうまくいかず、途中で独歩の下手くそな笑顔にすり変わってしまう。
見てみたい、どうしても。一二三がわたしに笑顔で歩み寄ってくるところ。待ち合わせ場所で手を取り合って再会を喜びたい。頭を寄せて語らいたい。見つめ合って笑いたい。
そんなことを思うわたしは、どうにも恋をしているようなのだ。
一二三からの連絡は他愛もないものばかりだった。今日の夕飯のメニュー、面白かった友達の行動、お客さんにウケたエピソード。他には独歩の話題がやたら多かったので、聞けば彼らは同じ家に住んでいるらしい。いいなあ、と言ったら「遊びに来て!」と"ぴえん"の絵文字付きで言われたので本当に遊びに行くことにした。
独歩は数少ない休日をわたしに割くのを渋っていたわりに、一二三とふたりでもいいけど、と言うとなにやらごねていたので仲間に入れてあげる。コンビニで買った缶ビールを持って訪ねると、出迎えてくれた独歩は「それ必要ないかも」と苦笑しながらリビングに通してくれた。
鮮やかで華やかな料理が所狭しと並んだローテーブルの隣で、いかにも値段が張りそうなボトルを持った一二三が、スーツ姿でわたしに笑いかける。
「ことみさんが僕らの家に来てくれるなんて嬉しくて、張り切ってしまったよ」
「ぜんぶ一二三の手料理?独歩に作れるわけないもんね……」
「オマエは本当にかわいくない……」
独歩がわたしのこめかみに軽くデコピンをしてそう言ったら、一二三は真面目な顔で「ことみさんはかわいいよ」と反論した。なにかがごちゃごちゃになっている印象の表情だった。どこかちぐはぐで、いま喋っているのは一二三であって一二三じゃないのだと考える。でも確かに一二三だ。
ありがとう、知ってる。そう笑っていたら一二三は「少し待っててくれるかい。すぐ乾杯にしよう」と部屋を出て行ってしまった。
独歩とふたりで残されたからと言って気まずいわけがないのだが、なぜか不自然な沈黙が流れて不思議に思って独歩の顔を覗いた。独歩はわたしをチラッと見ると、服の襟を摘んで顎の方に持ち上げるジェスチャーをした。
「そこにしか目がいかないからしまってくれ」
「独歩って……童貞?」
「たとえばそうだって言われたらどんな気持ちになるのか想像した方がいいぞ」
独歩に「童貞です」って言われたら。腕を組んでしばらく考えた。深いため息をついた独歩がなにか言おうとしたとき、そろそろと静かな・だけど妙に不規則な足音が伸びてくる。
一二三はジャケットを脱いでいた。それをみてわたしはつい立ち上がり、満面の笑みで両腕を広げる。
「一二三!がんばったねっ」
「ヒッ……うっうん、ことみちゃんせっかく来てくれたし……えっと……」
「一二三、こっち来い。ことみはそっち、俺の向かい」
指で示されたとおり、一二三が少しでも楽であろう配置で座った。一二三に会えてついにこにこしてしまうわたしと、子鹿のように震えながら肩をすくめてそっとわたしを見る一二三。独歩は「これどうやって開けるんだ」とボトルを手に取りくるくる回していた。
「今日はおうちに招待してくれてありがとう。一二三は料理上手なんだね」
「独歩ちん、なあんにもしないからね……それに、家事とかするの、好きだし」
「きっといいお嫁さんになるよ」
「お嫁さんって……」と眉尻を下げた一二三の隣でポンッと派手な音がして、独歩が目を丸くしている。わたしの顔の横をなにかが掠めてソファにぶつかった。
突然シンとしてしまった部屋の中で、独歩がおずおずとくちを開く。
「す、すまん。こんな簡単に開くとは……」
笑うのを我慢して自分の顔がくしゃくしゃになっていくのを感じていた。独歩がしくじったときのこの空気が、昔からとにかくツボに入ってしまうのだ。ぐっと声を漏らしたら、先に吹き出したのは一二三だった。聞いたことのない大笑い。わたしも我慢できずにお腹を抱える。
「ど〜っぽちん!すっごい音したなあ!下手なボーイの開栓でも聞いたことないくらいのっ!」
「わたしの顔の真横!コルクがスポーンって飛んできたの!みた?!やめてよもう〜!」
ゲラゲラと笑い出したわたしたちの間で独歩はしばらくポカンとしていたが、失敗するとネガティブな思考に取り憑かれがちな彼にしては珍しく、そのうち一緒になって笑い始めた。本当にすごい音したなって。
テンションと勢いに任せて乾杯して、料理が美味しいこととその場があまりに楽しかったのでわたしは飲み過ぎて寝落ちした。インターホンを鳴らした時刻は十六時頃だったと記憶しているが、ソファの上で目が覚めて、時計を見上げたら零時を回っていた。
テーブルはキレイに片付けられ、お水と頭痛薬、あとメモが置いてあった。『楽しかったね。ゆっくりしてって』そのメモをなんとなくポケットに入れて、まだふらふらする足でお手洗いに向かう。トイレの中でまた寝そうになったが、なんとか奮起してリビングに戻る途中、ぽっかり扉が空いている部屋を見つけた。物がぐっちゃぐちゃに置いてあって床が見えず、確実に独歩の自室だろうと足で道を作りながら入ると、ベッドの上に丸まった背中が見えた。奥の空いたスペースに体を滑り込ませる。
毛布を引っ張って奪い取ったら、独歩は掠れた声でうなり、うっすら目を開けてわたしを呼んだ。頭をがっしりと片手で掴まれる。
「ことみ……リビング行け」
「ソファじゃ寝れないよお、今日だけ……」
「知らんぞ俺は……どうなっても……」
どうなっても。くちのなかで小さく繰り返したら、胸にてのひらが押しつけられて、頬にくちびるが触れた。ぐにぐにと乳首を親指で探られてひぃと小さく声が出た。しばらくわたしの体をまさぐったあと、独歩はため息を吐いて離れ、ごろんと背を向けてしまった。
「ことみじゃたたない……」
「わたしも独歩じゃ濡れないよう」
「ぬかせ。ぐしょぐしょにしてやる」
眠気に身を任せていると、思考はもやもやとあらぬ方向へ飛んでいくものだ。独歩が童貞だったら、貰ってあげてもいい。でももし一二三が童貞だったとしたら、絶対にわたしが初めてを貰うのだ。これは決意。目標。希望的観測からきた理想的な妄想。
いつもひとりで寝ているから知らなかったが、肌寒い夜は他人の体温が側にあるだけで睡眠の質が上がるらしい。スッキリした気持ちでまぶたを持ち上げると赤い髪が目の前でわさわさしている。背中にゆるりとまわった腕が重たくて、もぞもぞと体をゆすっていると地獄から聞こえたのかと思うくらい低い音で名前を呼ばれた。
「ことみ……水くれ……」
「あい……貸しイチだからね」
「泊めてやっただろ。チャラだ」
体を起こしたら一二三と目が合った。シンと静かな表情で、扉のところからわたしたちを見つめている。おはよ。笑いかけたら悲しそうに笑っていた。独歩が驚いたようにガバッと起き上がり、一二三を見ると意味のない声を漏らした。
「うあ……」
「……おはよ。ふたりとも、よく寝れた?」
「うん、快眠」
そう返事をしたら独歩はわたしを振り返り、信じられないものを見るような顔で愕然としていた。一二三は「良かった」と呟いて、そっと体をリビングの方へ向ける。そして努めて明るい声を出したが、震えてしまっていたのでなにかを堪えているのだろうとは簡単に想像することができた。
「ほんと仲良いね、お似合いっつーか」
その言葉が不満で、ベッドを降りてすたすたと一二三に歩み寄った。ギョッとして狼狽えているが構わず抱きしめる。一二三は悲鳴さえ上げられず、膝から崩れ落ちてガタガタと震えている。
「こっことみちゃっ……」
「一二三、大好きだよ」
「あっ……ひっ、えっ?あう……でも……」
言葉の意味を理解できているのかもわからないくらい混乱した反応を示しながら、一二三はそろっとわたしのキャミソールの裾を握って泣き出した。
「ああ……あう、でも……ことみちゃ……独歩と」
「独歩まだ童貞だよ」
「でもぎゅって、一緒に、寝て……」
「ずるい」とわんわん泣き始めてしまったので、強く抱きしめながら頭を撫でた。震えもおさまらず、混乱した様子のまま、ごちゃごちゃと感情を吐き出す。
おれはことみちゃんと一緒にいられないのに。独歩ばっかりずるい。ことみちゃんのこと好きなのはおれなのに。ずるい。ことみちゃんもずるい。独歩ばっかりかわいがる。ずるい、みんなずるい。
子供みたいに泣きじゃくって、わたしから離れたい気持ちと、わたしに抱きしめていて欲しい気持ちの狭間で揺れている。独歩はこういうとき本当にダメだ。おたおたと表情ばかり狼狽えて、体は支配権がなくなったのかと思うほど微動だにしない。
「ごめんね、わたしずるかったね。独歩もずるかった」
「ひっ、うん、おれっち、ことみちゃん、好きなんだよ……好きなのに……う、うまくいかないの……」
「上手にできないよね。わたしも同じだよ」
しゃくりあげながらわたしの背中に手を回して、腕はぎゅっと締め付けてくるが、手は服を掴んで引き離そうとしている。このままじゃ一二三は壊れてしまうのかもしれないと考えながら、それも悪くないと思うのだからわたしは本当に性格が悪い。欲しいものは意地でも手に入れるのが女だ。
「わたしも一二三のこと大好きだから、上手にできない。独歩はどうでもいいからどうとでもできる。わかる?」
「どうでもいいのか?俺……」
「うん、本当にどうでもいい」
やっと喋ったと思ったら煩わしいことを言うのでバッサリ切り捨て、一二三からそっと体を離した。泣き過ぎたからか・胸の内を吐露したからか、放心したようにぼんやりとわたしを見る。目が腫れてしまったら今夜の仕事に影響が出るかもしれない。独歩に、一二三を寝室に連れて行くよう頼んで、タオルにくるんだ保冷剤を持たせた。
一二三はされるがままのろのろと自室に入り、すぐに出てきた独歩が「一瞬で寝た」と言うのでいろんな出来事のせいで脳のキャパシティを超過してしまったのだろうと想像した。
「じゃあわたしも帰るかなあ」
「……なあ、オマエ一緒に暮らさないか?」
「え?いいよ。でも一二三の童貞しか貰わない」
独歩は乾いた声で笑って「ちなみに俺は童貞じゃない」と言うのでつまらんとこぼしてバッグを持ち上げた。
一二三は一緒に暮らすと言う話に二つ返事で了承したらしい。
***
独歩は一二三がいなければ人間らしい生活は送れないのだろうが、それはわたしも同じだ。わたしと独歩は休みが重なると、午前中は寝ている一二三が起きてくるまで寝巻きのままで過ごす。そして起床した一二三に「洗濯機回すから着替えて」とせっつかれるのがいつものパターンだ。
疲れ気味の独歩は一二三のかわいいヘアターバンをして持ち帰ってきた書類を睨んでいる。家にいても仕事だなんて社会人の鑑だ。邪魔しないようにと思っていたけれど、近くにいるのに構ってもらえないのもさみしくなってきてしまう。ソファに座って、床に腰を下ろした独歩の肩に踵を乗せる。しばらく無視されていたが、深く重いため息を吐いた独歩が足首を掴んで噛み付いてきた。
「うひゃっ!ちょっ、やばいなコイツ!」
「構って欲しかったんだろ?」
「通報案件ですよ〜……お休み増やしてもらって?」
慌てて足を引っ込め、噛まれたところをさする。意識のある人間に噛み跡がつくほど強く噛み付けるあたりが独歩の異常性だと思う。自分でサイコパスだと歌うだけのことはある。
書類をローテーブルに放り投げて、ソファの座面に背中を預けた独歩は「アア」と動物のような声をあげている。顔を掴んでぐっと上を向かせた。眉根を寄せて目を閉じ、くちびるをへの字にしている。コメカミやらミケンやら、ビリョウなんかを指でぐりぐりとマッサージしてあげた。険しい表情がだんだん緩んで顔色が良くなった気がした。
ぽつりとこぼしたのは本音だったんだろう。
「俺はオマエのこと、家族みたいに思ってるよ。かわいくないもんだからな……本当の妹は」
「うん。これからはお兄ちゃんって呼ぶね」
「想像したらちょっとゾワッとした」
ふふっと笑ったら独歩がわたしの手を掴んでもにもにとマッサージのお返しをしてくれた。くすぐったくて笑い声を上げながら身をよじる。
「くすぐったい」
「終わり。仕事するからあっち行け」
はあいとぼやいて顔を上げると、いつかのように一二三とばっちり目が合った。わたしたちがじゃれている間にキッチンで作業を始めていたらしい。わたしと視線が交わると一瞬体を固くして、すぐ引きつった笑顔を向けた。
「も〜、遊んでないで着替えちゃって!」
「いまのお母さんみたいだったな……」
「独歩ちん!聞こえてんよ〜」
家事を任せきりのわたしと独歩は、そういう点では一二三に頭が上がらないので大人しく自室に着替えに向かう。独歩がリビングを出てから、一二三がわたしを呼び止めるので、ひょいとキッチンを覗いた。眉尻を下げて、恥ずかしいのか・緊張しているのか、視線を手元に向けたままわたしに向き合う。
「お、おれっち……うまいよ」
「なにが?」
「マッサージ……」
震える両手を差し出すので、右手をそこにポンと乗せた。ごくりと喉を鳴らして、冷や汗をかきながらそうっとツボを刺激し始める。ちからが入っていないしぶるぶると指先まで震えていて、気持ちいいかと聞かれたらなんて言おうかなと考えていたが、ふと盗み見た一二三の表情がなんとも言えなくて心臓がジュッとした。わたしの手を握って、一二三がこんな顔をするなんて、誰にも知られたくない。
左手を持ち上げ、両手で一二三の手をぎゅっと包んだ。驚いたようで小さく声を上げた一二三は、ぱっとわたしの顔を見た。背の高い一二三の顔に届くように精一杯背伸びをする。きゅっとくちびるを引き結んで、そろっと目を閉じた瞬間の彼の、愛おしさといったらなかった。そっと触れてすぐに離れる。涙を湛えるまつげの震えを眺め、お礼を言った。
「ありがとう」
「あ……えっと……うん」
手を握ったまま、ぼうっとした瞳でこちらを見下ろす一二三の、頬を静かに涙が伝っていく。恋をすると人のこころは弱くなるが、なにかべつのものが強くなる場合もあるのだ。
てのひらを開いてわたしの方にそろりと腕を伸ばし、柔らかく・優しく胸に抱き寄せてくれた一二三の心臓は飛び出しそうなほど高鳴っていた。こうやって、勢いに任せて飛び越えてしまった方がいいハードルもあるだろう、と他人事のように考えて目を閉じる。いろんな思いが目淵から溢れてしまいそうだ。
一二三に抱きしめてられている。この世の幸福が全部、いまここ詰め込まれているに違いない。一二三の背中にそうっと手を回して、大好きだよと言いかけた。
そう。言いかけただけ。言えなかった。後ろで誰かが腰を抜かして声を上げたのだ。
「うおっ!あっ……ごめっ……」
「……独歩は絶対出世できないと思う」
じっとりと睨みつけたら、独歩は珍しくわたしに対して「すみません・ごめんなさい」と謝罪の限りを尽くしていた。一二三はあまりの羞恥と緊張にへなへなと座り込み、放心してぽろぽろ泣いた。
独歩と一二三と、一緒に暮らし始めるときに約束した。一二三にとって大好きな友人の独歩を大切にすること、独歩にとって大切な友人の一二三を幸せにすること。約束は守るためにあるから、守らないといけない。その代わり、独歩は一二三にとって大好きな恋人のわたしを大切にしてくれるし、一二三は独歩にとって大切な家族であるわたしを幸せにしてくれるらしい。
(2022.2)