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ダッサ。そう低く呟いたのが誰なのか、一瞬わからなかった。テレビに注いでいた視線をダイニングテーブルの方に投げると、クロスを握ったままじっと項垂れる一二三がいた。まぶたは伏せられ、長いまつげが細かく震えている。どうかしたのか。声を掛けたらパッとこちらを見て泣きそうな顔をしたが、すぐに弱々しい笑顔を作る。

「えっ?おれっちなんか言った?」

努めて出した明るい声音だ。ごまかそうと強がっていることがわからないほど鈍感じゃないが、受け流してあげられるほど優しくもない。

「言ったよ」
「うん……なんでもないって」

オーバーサイズのTシャツに短パン、前髪をポンパドールにして、すっぴん。そんな姿でも一二三は美しい。繊細に作られたガラス細工のような、いつ壊れてもおかしくないこの関係が一二三をいっそう美しくみせる。見惚れてほうっと息を吐いたら、わたしをちらっと見た彼は「お湯溜めてるよ。先入っちゃって」とだけ言うとキッチンに引っ込んだ。はあいと気の抜けた返事をしながら、自身の寝室に着替えを取りに戻る。

扉を開けてすぐ、サイドテーブルに伏せたフォトフレームが目に入り、ひさしぶりに手に取ってみた。細身のスーツを着てわたしの肩を抱き柔らかく微笑む一二三と、ぎこちなく歯を見せて笑うわたし。一二三の幼馴染である独歩さんが撮ってくれたが、彼はこの写真を見て「俺は写真の一枚も満足に撮れないのか」と落ち込んでいた。返す言葉が見つからなかったほど、違和感しかない思い出の一枚。ただ、それは独歩さんのカメラの腕のせいではないことは明白だ。元通りに伏せて置いたこの写真を、一二三だけは愛おしそうに眺めているとは知っている。

お風呂場に向かう途中、キッチンを覗いたら一二三はやっぱり俯いていた。明日の食事の仕込みをしているらしいが、見たこともない食材ばかりでなにを作っているのかはさっぱりわからない。一二三と暮らし始めてからの食卓は日常的に鮮やかで、なぜこんなものがポンと夕食に出てくるのかわからないようなおいしいものがたくさん並ぶ。やってあげたいから・それをするのが好きだから。理由としてはもちろんあるだろう。でも面倒くさい日が無いわけがないとわたしは思う。

一二三はベランダで干したお布団みたいな人だ。夏場に一日中陽にあてた布団では暑くて寝苦しくなってしまうし、冬場は少し油断すると湿気と冷気を吸って冷たくなってしまう。明るい性格はうそじゃない。でも、ずっと、ずうっと笑っている人でもない。温めてあげないといけないのだと。

近づいたら、ひくっと手を震わせて「こっちくんなし~、包丁使ってるから!」と笑っていた。くちびるが色を失い、首筋に冷や汗が伝う。すぐとなりに立って顔を覗いた。小さな悲鳴がキッチンに反響する。

「な、なに? ことみ」
「かっこいいなあと思って」
「う、ヒ、あ、ありがと……」

体が、脳みそが、わたしを拒否して逃げを打つ。青ざめ、首をのけぞらせて、包丁をそっと手放し、片足を一歩引く。頬に手を伸ばしたら、ガタガタッと膝から崩れ落ち、壁に背を押し付ける。

「あっ……ことみ、ごめ、ごめん、おれ」
「怖い? わたしのこと」
「こわくない、こわくないよ……こわいわけない」

俯いて肩を抱く一二三が震えながら、自分に言い聞かせるように怖くないと繰り返した。それを黙って見下ろしている。温めてあげないと、一二三は冷たくなってしまう。
吐息交じりの小さな笑い声が聞こえて、その瞬間まで自分が酷く冷たい顔をしていたと気が付いた。乾いたくちびるでひとつひとつ噛みしめながら言葉を紡いでいく一二三を見つめる。

「ぜんぜんかっこよくないよ。おれっち、ぜんぜんかっこよくない。ごめん、ごめんね」

正面に膝をついて、そうっと腕を伸ばして抱きしめた。卵を潰さないよう握るみたいな気持ちで、すくいあげるように包み込む。あまりのことに言葉を失い、泣きだしてしまった一二三にもう一度聞いた。わたしのこと怖い? 一二三は混乱して泣きじゃくりながら、わたしに縋り付いている。

「ことみちゃ……おねが、はなして……」
「怖いよね、ごめんね」
「こ、ことみちゃん……はなして……」

手を下ろしても一二三はぎゅうっとわたしの服を握っていて、ひどく背中を丸めて動かなかった。女が怖い、女に迫られて逃げ出したい、隠れたい、助けて欲しい。でもいま、縋れる人がわたししかいない。わたしは女だ。どうしようもなくて壊れそうになっているのが見て取れた。

考えていたことをくちにした。一二三の精神の安定とか、わたしのこころの問題とか、そういうことを全部考慮しない「いいこと」だ。

「一二三、写真撮りなおそう。独歩さんが去年撮ってくれたやつ」
「しゃ、しゃしん……? なんで」
「あれ嫌いなの。うそついてるみたいで」

ううと唸ってまたぽろぽろ泣きだした一二三の頬を掴んで無理やり視線を合わせた。ぼんやり焦点の合わない潤んだ瞳には、それでも女に対する恐怖がありありと浮かんでいるのだから恐ろしいことのように感じる。

「いまのわたしたちを映そうよ」
「やだ……やだよ。おれっちことみちゃんの彼氏なのに、ぎゅっとして撮りたいのに」
「でも、目標、目に見えたほうが達成感あるし。レコーディングダイエット的な」

そう言って笑ったら、握った拳がするりとほどけたので、立ち上がって床に放り投げた服を拾う。
一二三は顔を拭い、つられたようにハハと笑い声をこぼした。

「んじゃあ、毎日撮らないと、じゃんね」
「そうだね。共有アルバムつくろ」
「うん。……ねえ、ことみ」

廊下に出たところで呼び留められて首だけ振り返ると、満面の笑みで腕を抑える一二三が居た。

「手え震えて包丁握れなくなっちった。明日の朝ごはんおにぎりで良い?」
「いいよ。梅干しがいいな」
「あとちょっとなんだよな。今年は多めに漬けるかあ」

メンドクサ、と小さな低い声。なんだ、人間だ。

(2022.2)
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