other
暗い部屋の中でテレビの光だけがこうこうと眩しい。珍しく独歩さんがわたしより先に帰宅する目処が立ち、「夕飯買ってすぐ帰るね」と慌てて連絡したにも関わらず、リビングに入ると彼は菓子パンを齧っていた。そして泣いている。視線は一点に囚われ、涙はぽろぽろと重力のままに落ち続けた。
ストレスが限界までくると、こうした鬱状態とも言えるような姿を見ることは珍しくない。そう、こういうことが“よくある”と言っても過言ではないのだ。それほど彼の置かれている労働環境が過酷だということだけれど、到底わたしには……女にはわからない。
「独歩さん、ただいま。お風呂入る?」
隣にしゃがんで声を掛けたら、彼はいま気づいたというように肩を震わせ、わたしを見上げてくしゃっと顔を歪めた。握っていたパンを床に落とし、わたしの胸にもたれて子供みたいに泣きじゃくる。子供みたいにとは言っても独歩さんのちからはちゃんと成人男性なので、強く掴まれた服の縫い目が危うい音を立てた。この服は諦めようと思いながら、柔らかい癖毛を撫でる。この感触、好きだ、てのひらが気持ちいい。
落ち着くまで好きにさせてあげようと湿っていく胸元から意識を逸らした。顔を上げると、独歩さんが見ていたのはバラエティ番組だった。わたしは好んでは見ないが、女性司会者が男性ゲストの話を深掘りするような番組はここ最近増えたと思う。ぼうっと眺めていると、突然、独歩さんがリモコンを掴んで電源を落とした。わたしが帰宅したときに付けた廊下の電気だけが薄く差す暗い部屋に、静寂が満ちる。
「……落ち着いた?」
「ことみさんは、俺のことを好きにならないのか?」
「好きだよ。だからここにいるの」
一応返事をしてはみたが、こういうぐるぐるした目をしている状態の独歩さんになにを言っても無駄だと知ってはいる。喋っている意識はほぼなく思考が漏れ出しているだけなので、わたしの返答は求めていないし・声はほとんどの場合、届かない。
「夢みたいな話だと思ったんだ、理想的すぎる。あんなに、みんなに優しいことみさんが、俺のためだけに限りある時間を割いてくれるなんて、信じられないだろ、そうだろ。ああ、俺のせいだ……俺のせい……俺は、俺のせいで、こんな幸福を失う……」
なにを言っているのか。わけがわからないので聞き流していると、恐る恐ると言った感じで独歩さんがわたしの顔を下から覗いた。ここにいるよ。笑いかけるとふにゃりと眉尻が下がって、笑顔なのか泣き顔なのか、判断のつかない情けない顔をしていた。愛おしいもののように、宝物かのように舌の上でわたしの名前を転がす。
「かわいい……ことみさんは、俺のだ。誰にも渡さない。ずっと、俺の、俺だけのことみさん」
「そんなこと言ってくれるの。独歩さんかわいいね。他の誰かについて行かないように縛っておこうかな」
そんな冗談を言ったら、また胸に頬を寄せて目を閉じた独歩さんは甘えた声で「うん」と幸せそうに頷いていた。
しばらく経って、独歩さんが見ていた番組の再放送をたまたま見かけた。番組の中で、足を組んだ気の強そうな女性司会者がこんなことを言っていた。『女は寂しいのが大嫌い。でも自分を寂しがらせることもできない男のことは好きにならない。』大層なことを考えているなあと思いながらすぐに切り、独歩さんが帰って来る前にお風呂を沸かしておこうと立ち上がる。
生まれたときから抱えた空虚は誰が埋めてくれるのか。わたしはそのぽっかりが満たされる瞬間を知っている。独歩さんのこころの隙間にわたしの声が入り込んだ瞬間、彼がぐしゃぐしゃの顔でわたしに縋るとき。あれほどの充足を・快楽を、他の誰が与えてくれるというのだろう。
独歩さんには、まだわからないままでいい。どちらがより相手を必要としているのかなんて。いつか、お互いの束縛で身動きが取れなくなって初めて、ここに愛があったと気付いて欲しい。
(2021.12)