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子供みたいな顔をして、玄関で眠りこけている独歩さんをベッドまで運ぶ術をわたしは持たない。しゃがみ込み、耳元にくちびるを寄せる。囁くようにくちにしたのは、買ってきたばかりの夕食のメニューだ。
「デパ地下のビーフシチューとバゲット」
「ひっ……う、うう、こ、ことみさん……」
耳のあたりへの刺激に弱い独歩さんはびくっと震えて、自分が立てた物音で目を覚ました。両腕で頭を抑え、これ以上イタズラされないように身構える彼に微笑み、てのひらを差し出す。ただいま、ご飯食べよう。わたしの手に左手を重ね、のろのろ立ち上がる独歩さんに合わせてゆっくりと背を伸ばした。きょとりきょとりと視線を彷徨わせる彼を見上げるついでに、かかとを持ち上げて白い頬にキスをしてみる。途端に顔を赤くして俯いてしまうので、起こしてしまったことを謝りながらリビングに促した。
「起こしちゃってごめんなさい。食欲無かったらお風呂入って寝ちゃったほうがいいかも」
「い、いや、食べます。ありがとう」
この家に引っ越してきて数ヶ月。未だ彼はこの生活を“夢”だと思っているらしい。
食事を終えて片付けをしている間に、お湯を張ってくれた独歩さんがしずしずと近づいてきて、エプロンの裾を引きながら小さな声でお願いをくちにする。
「髪を、洗ってくれませんか」
「もちろん。お湯に浸かって待っていてください」
こころなしか嬉しそうに頷き、いそいそと脱衣所に向かう背中を見届け、お皿洗いを再開する。出したものをすべて残さずきれいに食べてくれるのはありがたい。子供の頃からの習慣なのか、一二三さんの教育のたまものか。
エプロンを外して軽く畳む。ソファの上にそれを置き、髪をおだんごにくくりなおしてから後を追った。独歩さんは身体も顔も洗ってから湯船に浸かるタイプなので、わたしが浴室を覗いたときはまだ泡だらけだった。
「あ、ごめんね、早かったですね」
「ん……もう流すから」
「じゃあついでに背中洗ってあげる」
独歩さんからタオルを受け取り、手の中で揉み込んでから背中をそっと撫でて行く。独歩さんの体は薄くて華奢なのに、背中はちゃんと広くて男の人だなあと感じる。丸まった背を上からツとなぞっていくと、居心地悪そうに指先を捏ねていた。
シャワーを手に取って水温を確認し、首のあたりから流していく。独歩さんの耳が赤くなっているのを見てイジワルを言った。
「熱いですか? お湯」
「へっ? いや……だいじょうぶ」
「ほんとう? 耳が真っ赤だよ」
わたしをゆっくり振り返って涙目で見上げてくるので、どうやら彼の気持ちがわかった上で言っているのはばれているようす。笑いかけて誤魔化し、湯船に入るよう促した。浴槽のヘリに首を乗せてくれたほうが洗いやすいし、独歩さんも楽だろう。
てのひらで水圧を弱めつつ、額の方から濡らす。
「熱くない?」
「うん……」
目を閉じて、とろりと甘えた声で言うからかわいかった。シャンプーはてのひらで軽く泡立ててから髪に乗せ、細くて柔らかい感触を楽しみながら優しく指を通す。ついでにマッサージしてあげようと指先を意識すると、いつもの通り彼の頭皮は凝り固まっている。思考をキリキリとフル稼働させている人は、頭皮がかたい傾向にあるらしいと美容師さんに聞いたことがある。おつかれさま、とこころなかで繰り返した。
「気持ちいい……」
「頭皮がかたいの、よくないからね」
「ハゲるってことか? それだけは……」
とろとろと舌足らずに喋る独歩さんの顔を覗き込んだら、眠りかけてしまっているようだった。
わたしは独歩さんのことをベッドまで運んであげられないから。泡まみれの手で、くるりと両耳を撫でた。ピクッと肩が揺れて、それでも眠気が強いのか抵抗はしてこない。
耳たぶをぐにぐにと揉みながら、中指で軟骨をなぞっていく。トラガスを触り、耳の中に指を入れて音を鳴らし遊んでいたら、独歩さんは悲鳴をみたいな声を上げて震え始める。
「あっ、ダメだってえ……ことみさ……あ、あ」
「恥ずかしい? ……気持ちいい?」
「うう……はあ、あう……」
もっとして欲しいくせにかぶりを振るので、耳全体を優しく包んでから手を離した。ジャンプー、はやく流さないと髪に良くないよね。わたしがそう言ったときの独歩さんの顔には、欲望がぐちゃぐちゃに塗りたくってあった。
「今日はトリートメントしてるあいだに、顔もマッサージしてあげる」
「ありがとう……あの」
「うん? なんですか?」
シャワーの音で聞こえなかったフリをした。独歩さんは焦らされるのも好きだから、サービスのつもりだ。トリートメントを髪に撫でつける間、期待に皮膚の薄いところからだんだん赤くなっていく彼を見下ろして、お腹の底がぞくぞくするのを感じる。
小学生の頃、虫が教科書の上を走っているのを指で追っていたことがある。すこし触っただけで潰れてしまいそうな小さな小さな虫だったのに、授業中ずっと追い立てた。独歩さんを見ていると、その頃に置いてきた嗜虐心が、火をつけられたように熱く大きくなる。
気持ちいいことが好きなのは人間なら当たり前で。独歩さんの体が懸命に血を巡らせているだけの現実を、わたしはどうにも快感とすり替えてしまうようだった。
(2021.12)