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文庫本の重みで折れそうな細い手首に、支えるように添えられた生白い指先が絡みついている。空に、指でそのさまを描いてみた。爪から関節の曲線を目でなぞり、美術品のようだと思った途端「そんなものがわたしに模倣できるはずがない」と諦めに似た感情が生まれて腕を下ろす。指の骨が木のテーブルを叩いてかろんと渇いた音を立てた。
「もし、わたしがネコになったら飼ってくれる?」
ちらっとこちらに視線を寄こした銃兎さんは呆れたみたいに細く息を吐く。また、なにを言いだすかと思えば。そんな声が聞こえてきそうなほど痛い沈黙だった。アンダーリムの細身のメガネをわざとらしく指先で持ち上げるのを見て、顔を覗き込むつもりでくったりとテーブルに体重をかけた瞬間、額に軽い衝撃が来て目をつぶる。
「いたっ、でこぴん……」
「ただでさえ、ペットよりも手が掛かるんですよ? アナタ」
「……返す言葉もございません」
床に投げだした長い脚をすらりと組み替えて、また活字の海にもぐっていってしまった。じっと、黙って、こうしているのは苦手だ。ぺらぺらとくだらないことを喋り続けないと、冷たい静寂の中に思考が溶けだしてなにもかもが暴かれてしまう。
なんて。わたしの頭の中に意味のあるものが詰まっているはずもないかと、ひとりで笑った。
わたしのような一般人と、どうして一緒にいることにしたのか、尋ねたことがある。彼はそのとき「モブだからいいんだろうが」と、『なにをあたりまえのことを』といった感じで答えた。よくわからなかったがその日の銃兎さんはゴキゲンで、彼の部屋で夕食を作るわたしをうしろから抱きしめたり、眠る前にそっと頬にくちづけを落としてくれたりと優しかった。
銃兎さんは仕事が忙しいほどストレスの捌け口とばかりに女関係にだらしなくなるところがある。いつか、わたしを家に呼んだことを忘れて女の人を連れ込んだことがあった。エプロンを付けたまま放りだされたのは未だ根にもっている。
どうして不規則な生活を送る恋人のためにわざわざ電車でヨコハマに赴き、立ち仕事に張りつめたふくらはぎの筋肉を叱咤し食事の作り置きをしたあげくに、身ひとつで追いだされなければいけないのかと怒りたくもなる。だが、理由など明白、彼は苛ついている。銃兎さんがノーといえば、ノーでしかない・ノーになるのだ。
スマホも財布も家の中で、どこかに行くこともできなくて、朝になるまでマンションの廊下に座り込む羽目になった。陽が昇った頃に部屋から出てきたきれいな女性と銃兎さんは、わたしを見て目を丸くしていた。女性がくすりと笑う、銃兎さんが舌を打つ。
「消えろ」
「バッグください。帰れません」
「オマエに言ったんじゃない」
きょとりとしていたら、わたしの腕を掴んで部屋に戻る。扉を閉める直前「二度と連絡してくるな」と、さっきまで肩を寄せ合っていた女性に噛みつき、乱暴に施錠する音だけが室内に響いた。
銃兎さんは、正直言ってバカだと思う。こんな、ただのモブ女になんらかの感情を寄せてしまうからこういうことになる。バッグ貰えたら帰るから、と言うと、彼は母親にしかられた子供みたいな声を出した。
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら二度としないでね」
そう言って笑ったら、ひどく歪んだ顔で彼も笑った。そっとわたしを抱き寄せて、冷たい、と呟く。
モブ女に抱いた、身に余るほど重たい感情。言葉に乗っていたのは愛情ではないと思ったし、じゃあなんなのかと言われてもわたしにはわからない。
「ことみは俺に捨てられてもどうとも思わないのか? 俺が他の女を選んでも泣き喚きはしない? 許さない。俺ばっかり……俺ばっかりだ」
「諦めがついているだけだよ。わたしは主人公にはなれないの。銃兎さんがわたしの人生の主人公だから」
言葉に乗せたわたしの感情もまた、正体不明なわりに彼の痩身には支えきれないほど重たかったようだ。ずるずると床に沈みこんだ銃兎さんは額を抑えて深く呼吸を繰り返していた。
バクン、と厚い紙の束を勢いよく合わせる独特な音にハッとした。眠ってしまっていたようだ。文庫本をテーブルに置いた銃兎さんが、しげしげとわたしを眺めてそっと手を伸ばす。「他人の寝顔、こんなにじっと見たことがなかったな」と言いながら髪に指を通して耳にかけてくれる。
「……従順な方が好きです。アナタのように」
「なんの話……? ああ、ペット?」
「だからネコは嫌い。寂しいときだけ寄ってくる女みたいで」
わたしがそのとき笑ったのは、じゃあ銃兎さんはネコっぽいね、と言ったらどんな顔をするんだろうと想像したからだった。傷ついた顔で俯くだろうか、心外だと怒るだろうか。余裕を見せて笑うかもしれない。
「でもお世話が大変なほうが情が湧くかも」
「否めませんね」
壁の一点を見つめる瞳に、薄く涙の膜が張っている。眠いみたいだ。
明日からまた、銃兎さんは忙しく日々を駆け抜ける。イライラして、キリキリして、そんな感情を全部肉欲に変換することでなんとか冷静さを保ちながら、生きる。
入間銃兎としての肩書きとか、背負っているものとか。わたしには理解できないこと・把握していないことばかりだから、銃兎さんはわたしをそばに置いてくれているのかもしれないと思う。モブだから良い。その言葉の真意を総て汲み取ってあげられるほどわたしは頭が良くないし、彼の気持ちを全部理解できるほどの感受性も持ち合わせていない。だから甘えることしかできない、銃兎さんがそんなわたしでいいと言ってくれるうちは、傍にいようと思う。
ずっと、なんてできない約束はしないし、そんなワガママは言わないから。いろんな気持ちを正面から抱きしめてくれる誰かが現れるまででいい。血だまりみたいに広がっていく感情を、すぐ隣で眺めていたい。
(2021.11)