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目の前でよだれを垂らさんばかりに犬歯を剥き出し、至近距離でわたしを見つめる彼に「怖い」という気持ちが一切浮かばなかったことは我ながら不思議に思った。胸元で揺れる社員証、『観音坂独歩』の文字と彼の目を交互に見て、小さく息を吐く。いけません。呟いた途端、彼の瞳に意識が戻り、ぶるぶると震え出すのだからどうにもおかしな人だ。
「スミマセン、ゴメンナサイ……本当に、ごめんなさい……俺、その、危害を加えるつもりは無くて、本当に……ああ、ダメだもう終わりだ警察沙汰だ。いくらなんでも自制くらいは効くものだと思ってたのに、クソこれだから俺はダメなんだ……」
自分の世界に堕ち込んでいく彼のようすは幾度となく目にしてきた。同じ部署にいれば当然だ。こうなってしまうと彼はひとりでに「俺のせい、俺のせい」と悲観的な妄想を繰り返すのだが、今回ばかりは完全に本人が悪いのでそのまま静かに見守っていた。
忘れ物をして部署に戻れば、二十一時も回っているのに電気がついているから驚いた。デスクに着いているのはひとりだけ。柔らかい癖毛が印象的な彼はそういえば、なんだかんだと理由をつけて業務を押し付けられる傾向にあることを思い出し、声を掛けようと近づいた。隣に立ってもじっと液晶を見つめていてわたしに気づくそぶりすらみせない。いや、わざと無視しているのか?そんなふうに思ってしまうほど視線が微動だにしない。
「観音坂さん」
意を決して声を掛けると、彼はバッと大袈裟な動作でわたしを振り返る。驚かせてしまったようなのでとっさに謝罪をくちにしたら、彼はぽかりとくちびるを開いてわなわなと震え出した。
どうかしたのかと問いながら手を動かすも、怯えたような悲鳴を上げてついには椅子から立ちあがってしまう。今度はこちらが驚く番だった。
仲が良いなんて認識は、お互いにないことは承知だ、話したといえるほどの言葉を交わした回数も数えられるほど。だが、声を掛けただけでこんな反応をされるような仕打ちを彼に強いた覚えももちろんない。
呆気にとられ黙り込むと、空調も切られている室内では一台のパソコンがファンを稼働させる音しか響かない。観音坂さんは小さな声で「うそだ」と言った。
うそ、とは。この状況の、なにが信じられないというのだろう。ゆらりと体勢を立て直し、よろよろといったような足取りでわたしに詰め寄る彼に、腕を拘束されるまでそう時間はかからなかった。
「俺のせい、俺の……ごめんなさい。諸星さんに、変なことをするつもりは全く……本当に、これっぽっちもなかった……。そもそも俺が諸星さんを一方的に想っていただけで、諸星さんの目に俺なんて映っていないこともわかっていて、だからこんなこと、こんなことあるんだ・って……。
いや、もうなにを言ってもダメだ。俺の社会生活は終わりだ。俺は犯罪者なんだ。どうぞ警察に突きだしてください」
やっと落ち着いたと思った彼は腹をくくっただけのようで、ネクタイをほどくと両腕を揃えてわたしに差し出す。頭をぐっと下げて、ひどく汗をかいていた。
「観音坂さん」
「はい。申し訳ございませんでした」
「今日はもう帰りましょう」
「……は……」
彼の手からネクタイを取り上げ、顔を上げるよう促しながら姿勢を正した。腕を伸ばしてネクタイを締め直す。やり方はなんとなく記憶しているが上手くできなくて、もたもたと手元を動かしながらため息を吐いた。
「わたしが観音坂さんに望むことは、自制心を鍛えることでも、謝罪の言葉を尽くすことでも、警察に自首することでもありません。一刻も早く帰宅して、温かいものを食べて、ゆっくり眠ることです。
そもそもこんな些細なセクハラで、警察は動きませんよ」
これでもかというほど首をのけぞらせわたしの顔から少しでも離れようとする彼は「些細なことですか、これがですか」と声を震わせている。不格好な結び目が出来たところで彼の胸元を軽く叩いた。
「わたしのコレも立派なセクハラです。お互いさまでチャラにしませんか。
観音坂さんが、あまりに不快に感じたので警察に訴えたいと思ったならそれはそれで止めませんが、わたしからは特にそのような気持ちはありません」
「僕のような陰気な男に突然腕を掴まれて、不快では無かったんですか」
「そういうことになりますね」
一歩後ろに下がり、起動したままのパソコンの作成途中だった資料に目を通す。こんなのは営業事務……つまりわたしのような立場の人間がやる仕事だ。観音坂さんが寝食を削ってまですることじゃない。
「これはいつまでに、誰に提出するものですか」
問うと素直に返事をくれたので、他にもいくつかやりかけの資料を見せてもらうと彼がしなければいけない仕事ではないものばかり。データをいただいてバッグにしまう。観音坂さんはきょとりきょとりと視線をさまよわせていた。
「これはわたしが持ち帰ります。今日はもう帰りましょう」
「なんで……なんでそんなこと……。いや、自惚れるな、自惚れるなよ。諸星さんはいつも誰にでも分け隔てなく笑顔で接してくれるじゃないか、その延長だ、仕事のできない俺に同情を寄せてくれているんだ……。ハハ……憧れている女性に無能なさまをまざまざと見せつけて……俺はいったいこんな時間までなにをしていたんだ?はあ……。
ありがとうございます。時間も時間ですので、駅まで送ります」
ぶつぶつとなにか言っていたと思ったら、顔を上げて静かに丁寧な言葉を紡ぐ。転がるように変わる彼のようすに、然るべきところでカウンセリングとかそういう精神的なケアを受けるべきなのではないだろうかと考えるが、そこまで言及するのはさすがに憚られる。お言葉に甘えて、並んで歩きだす。一緒に居るのに黙っているのはおかしいかとひとつ問いかければ、しっかりとした返事が返ってくるので、なんとなく“面白い”と思ってしまった。
「家に帰ったら、すぐ食べられるものはありますか?」
「はい。僕の用意したものではありませんが」
「というと、どなたかが食事の支度をしてくださるのですか」
「そうですね。同居人がいまして。申し訳ないと思いつつも、家事は任せきりです」
「それはありがたいですね。きっと観音坂さんが頑張っているのを知っているんですよ」
「そんな言葉をかけてくださるのは諸星さんくらいです」
帰宅してから食事を用意する必要がないならば、いくら彼が限界ぎりぎりまで疲れていようがなにかはくちにするだろうということと、観音坂さんに生活を支えてくれるパートナーがいることを知って安心した。目の下のひどい隈、細い手脚・薄い身体、覇気のない声音まで。彼の疲弊しきったさまを把握している人がプライベートにいるというのなら、やはり先刻考えた「精神的なケア」の問題にわたしが首を突っ込むのは無粋だろう。
改札に着く前に観音坂さんを振り返りお礼を言う。彼ははくとくちびるを動かしてから少し俯いた。「心配なので、できれば家まで送りたいのですが」彼を傷つけない言い回しを考えたかったが、おそらくどう言っても無駄だろうと、一般論をくちにすることにした。
「女性は、お付き合いしている人以外には、あまり自宅を教えないものと思います」
「あっあの……すみません。ごめんなさい……。その、下心があったわけでは……ないと思うかどうかは相手の感じ方次第だよな……俺がいまさらなにを言ったってダメだ、はあ、終わった。なんで俺はこんなにダメなんだ。諸星さんも明日からはきっと、俺に微笑んではくれなくなるだろうな。こうなったのも全部、俺のせい、俺の、せい……」
この数時間で何度も繰り返したこの「観音坂さんが自分の世界に呑み込まれる」状況。さすがに慣れてきて、一定時間経てば彼は勝手に浮上してくると気が付いていた。ひとりのときはどうだか知らないが、他人が目の前にいるというのは、なにも言葉をかけなくても動きひとつが刺激となって、ぱちんとシャボン玉が弾けるみたいに意識が戻ってくるらしい。だからほら、わたしがバッグを肩に掛け直したら、観音坂さんは顔を上げる。
「資料、押し付けてしまって申し訳ないです。明日は七時には出社致します、声をかけてくだされば幸いです。僕の請け負った業務ですので、確認と印刷、捺印して提出します。本当に助かります。
……今日の思い出だけで、明日からも生きていけます」
大袈裟なことを言う人だ。明日からも、わたしと観音坂さんの世界は交わったままだというのに。もう二度と会わないみたいな挨拶をする必要はないだろう。
「わたしは事務員ですから、資料作成は得意ですよ。いつでもお任せください。
また明日、お声かけます。今夜はゆっくりお休みくださいね。失礼します」
わたしの背中が見えなくなるまで、観音坂さんが頭を下げているような気がして、早足でその場を後にした。
観音坂さんが抱えていた業務は、やはり彼がやらなければいけないことではなかった。わたしにも仕事を割り振ってもらうよう課長に声を掛けようかなと思いながら出社し、すでにデスクに着いていた観音坂さんに横から声を掛けた。
「観音坂さん、おはようございます」
「おっ……おはよう、ございます……」
「昨日いただいた資料の件です。確認していただいてよろしいですか?」
若干挙動不審なところは気になったが、スルーすることにした。もしかしたら彼は昨夜ぶつぶつと言っていたようなことを家でも考えていて、本当にわたしが今日から一切話しかけてこないものだと思っていたのかもしれない。
「助かりました、あとは僕が。本当にありがとうございます」
「いいえ。やはりわたしたち営業事務のやるべき資料でした。課長にもお話しておきますし、今後こういったものはこちらに回してくださってかまいませんから」
なにか言いたげに見えたが、なにも言わない。「ありがとうございます」と繰り返して、じっとわたしを見上げていた。観音坂さんは部署内でも目立つタイプじゃないし、特に独身の女性社員からは「いつもひとりごと言ってる」とか「暗くて地味」みたいな評価を受けているが、髪を少し整えてひどい隈さえ隠してしまえばかわいい顔をしているような。
「コーヒー淹れますが、観音坂さんもどうですか?」
「あ、はい。いただきます……」
笑いかけて、給湯室に向かう。コーヒーメーカーに豆と水、専用の器をセットして待つ間、各個人のマグカップが置いてある棚から自分のものを取り出す。観音坂さんのマグは……と探し始めてから、彼がコーヒーを飲んでいるところを見たことが無いと思い至り、聞きに行こうと振り返る。給湯室の入り口に、観音坂さんは静かに立っていた。
「ああよかった。観音坂さんのマグカップがわからなくて」
「僕のは、上の棚です。滅多に使わないので」
ゆったりした足取りで寄ってきたかと思えば、わたしをシンクと体に挟むようにそのまま棚の奥に手を伸ばす。観音坂さんはわたしからすれば背が高いし、細身だとはいっても男性なので、それなりに威圧感があった。香水だろうか、ほんのり甘いムスクのにおいがする。
彼のシャツに口紅を付けるわけにもいかず顔をのけぞらせていたら、そのままゆっくり腕を下ろしてわたしの体を囲うように作業台に両手を付く。背を丸めていて、やっと体に距離が出来た。顔はびっくりするくらい近い。
「ランチ、ご一緒しませんか」
「観音坂さん。近すぎます」
「ああ……すみません。俺みたいなのに顔を近づけられたら嫌だよな……一二三みたいに整った顔ならともかく……諸星さんいいにおいがするからつい近づいて……いや、これもセクハラだ。すみません、本当にごめんなさい。俺のこういうところがダメなんだ、どうして治らないんだ……俺は俺のせいで諸星さんにまで煙たがられる……俺のせいで……」
彼の呟きに耳を傾けていると、どうやら彼はわたしに思慕を寄せてくれているらしいということがわかる。なぜわたしなのだろう。嫌とか気持ち悪いとも思わないが、嬉しいというほどの気持ちでもない。けれど、わたしは昨日と今日で、観音坂さんに興味を持ってしまっていた。
「いいですよ。いつにしますか?」
「……え……は、本当に……?い、いいんですか?俺と?」
「ええ、観音坂さんと。ランチ。ぜひご一緒したいです」
真白だった頬にほんのり朱が差し、いつも伏せられているまつげもこころなしか上を向く。こうして明るい表情を見せると、観音坂さんは顔立ち自体はまあまあ整っているのだと思い知るが、どうやらわたしは伏し目がちな表情も悪く無いと思っていたらしい。すぐにすんと視線を下に動かしてしまう彼のことも「かわいい」と思う。
「あの……連絡先、を、教えていただけませんか」
「職場にプライベートは持ち込みたくないので、社用の個人チャットでお願いします」
「……はい……。調子に乗ってすみません」
できたばかりのコーヒーを観音坂さんのカップに注いで差し出す。両手で受け取って深々と頭を下げると、薄く笑顔を作ってくれた。
観音坂さんとはそれから、顔を合わせれば立ち止まり世間話をするようになった。仕事の量も多少調整されているのか、いつも両手いっぱいに抱えている資料も前に比べるとほんの少しだが減ったように思う。手を差し出せば助けてくださいと言ってくれるようにもなったし、出社後コーヒーを淹れていると給湯室に顔を出していそいそとマグカップを取り出してきたり。約束していたランチの日も決まった。わたしとしても仕事に差し障りがない程度には信頼を築けてきたんじゃないかと、満足いく関係に持ち込めている。
同僚に「独歩」なんて呼び捨てにされているわりに、観音坂さんから彼らを呼び止めたり、頼ったりしているところは見たことが無かった。体よく使われていた、なんて言えばものすごく失礼なことは承知だが、おそらく下に見られていたことは確かだろう。
残業も多い、連勤もかさんでいる。それは業務量が他の人と違うからだ、こまごました事務処理まで彼は自分でこなしていた。それも、他人から任された分も。観音坂さんは仕事が遅いとかやる気がないとか、そういう評価をされるべきではない。一生懸命がんばっている。
そのことに気づけてよかった。社内全体を変えるちからなんてもちろんないけれど、せめて部署のみんなが円滑に仕事をこなせる環境づくりに貢献したい、そう思うから。
その日もいつもどおり出社し、社内チャットをチェックする。部署全体への業務連絡が並ぶ中、観音坂さんから個人的にメッセージが残っていた。今日は約束していたようにランチに行く予定だったので、それについてかとトークルームを開くと、簡素な言葉が並んでいた。
『今日の予定はキャンセルでおねがいします。申し訳ありません。観音坂』
ふっと冷たいため息がでてしまう。わたしは自分が思うより、今日のお昼のことを楽しみにしていたらしい。外出の用が出来てしまったのかもしれない、彼は営業職だ、こればかりは仕方ない。先方次第で、伺う時間も日も変わる。承知いたしました、と打ちながら、観音坂さんのデスクに目を遣る。いつものように、すこし丸まった背中が見えた。
彼の挙動がおかしいのはいまに始まったことじゃない。でも「いつもと違う」ことくらいわたしにもわかる。通路ですれ違っても会釈もしてくれない、仕事を抱え込んでひたすらパソコンを睨んでいる、コーヒーをねだりにやってこない。わたしと一切の関わりを持たないと逃げ回っているように見えるほどその行動は徹底していた。
嫌われるようなことをした覚えなどないけれど。そう考えると可笑しくて笑ってしまう、そもそも、わたしがいままで好かれていた理由も皆目見当がついていないのだ。
女心と秋の空、とは言うけれど、男性の心情だって移り変わって当たり前。なにかきっかけがあって……いや、なにもなかったのかもしれないが、とにかく観音坂さんはわたしと関わりを断ちたいのだろう。それならば仕方ない。相手のこころは変えられない、自分が変わるしかない。
この気持ちには、蓋をしてしまいこむしかない。
自分一人のためにコーヒーを二度も淹れる気持ちになれず、自販機に向かう。二階の廊下の隅、ひっそり立つその機械に近づくにつれ、そのすぐそばにしゃがみこんでいるのがわたしを避けているその人だとわかった。
頭をぐっと丸め、腕で囲いを作って世界を遮断している。彼がわたしと話したくないというのなら、わたしだって彼に、無理に話しかけたりしない。そう決めて静かにお金を投入し水を買う。ガタン、と大きな音に混じって、嗚咽が聞こえた気がした。
受け取り口に落ちてきたペットボトルを拾い上げることも忘れ、彼の背中に手を添える。観音坂さん、どうされたんですか。彼のとなりにしゃがみ、顔を寄せて声を掛けたら、観音坂さんはびくっと震えて慌てて顔を上げる。わたしだと気づくとくしゃっと顔を歪め、ぐしぐしと目をこする。次の瞬間には静かに言うのだ。
「なんでもありません……だいじょうぶです」
「……そうは見えません」
「だいじょうぶ……本当に……構ってくれなくていいです。俺に構うと碌なこと、ないです。お願いします。もう行ってください」
観音坂さんに構うと碌なことがない。そんなふうにわたしは思ったことがなかった。どうしてそんなことを決めつける、どうしてアナタにそんなことを言われなければいけないの。すこし頭に来た。わたしの気持ちはわたしのものだ。観音坂さんがわたしに構いたくないのならそれに従おうと思ってはいたが、わたしの行動を・気持ちを誰かに決めつけられるのは不快だ。
「観音坂さんがわたしと話したくないというならそれはそれで結構です。尊重します。でも、わたしが観音坂さんと関わりたい気持ち、それに伴う利益損益を他人に判断されたくありません。
観音坂さんと一緒にいると碌なことが無い、そう思うのはわたしではないですよね。勝手に決めないでください」
不愉快な気持ちをはやくちでまくしたてる癖は自分でも把握していた。観音坂さんはぽかりとわたしを見つめて、小さくくちびるを震わせる。言い方を間違えたかもしれない。ただでさえ観音坂さんは精神的に脆い部分があるし、それでなくてもわたしが伝えたいのは「観音坂さんと関わりを断ちたくない」という気持ちで、いくら納得がいかなかったからと言って不快感を示すのはおかしかった。謝ろうとくちを開いたら、観音坂さんが言葉を発する方が早かった。
「なんだよ……なんなんだよ……」
「……ごめんなさい。怒りたかったわけじゃなくて」
「俺はっ、ただ諸星さんに、なんでもない普通の同僚として接してもらえて、やっと会社に、社会に居場所ができたような心地で……それなのに!
諸星さんはみんなに優しいし、気が利くのは知ってるよ!だからみんな慕ってて……俺みたいのが突然、親しくするのはおかしいって……わかってるよ、そんなこと……!釣り合わないだろうなあ、釣り合わない、知ってるって……俺はただ……特別な関係になりたいんじゃなくて、ただ……ただ」
彼の頬をぽろぽろと涙が伝っていく。悲しいから泣いている、苦しいから泣いている。そういうわけじゃないんだろう。悲しいし、苦しいのだろうが、うまく言葉にならない感情が抱えきれなくなって溢れてしまっているみたいだ。わたしの肩をぎゅっと掴む観音坂さんの、頭をそっと抱き寄せた。社内だからなんだ、お昼休みで人に見られたからってなんだ。わたしにはこんなにつらい思いをしている愛しい人を抱きしめないなんてそんなことはできない。
ぐすぐすとわたしの胸に顔を押し付けて、すがるように泣きじゃくる彼の、髪をゆっくり撫でる。柔らかくて細い髪。暖かい色の優しい感触、てのひらがじんわり気持ち良い。
「観音坂さん、だいじょうぶですか」
「だいじょうぶじゃ、ありません……助けてください。つらいんです」
「どうしたら観音坂さんはつらい思いをしなくて済みますか」
返事が来るまで、としばらく黙って抱きしめていたら、観音坂さんはぽつぽつと静かに言葉を紡ぎ出す。
「俺が、諸星さんと一緒にいると、どうでもいいやっかみを受ける……どうでもいいと心底思ってたけど……“優しくするのは仕方ないだろ、同じ部署なんだから”って。仕方なく優しくされてるって思ったら、みじめで……俺、でも、信じたくなくて、どうしたらいいか、わからない」
部署内のわたしのイメージがどういうものかわたしは知らないが、基本的に全員に同じ対応をするようには心掛けている。誰かに特別冷たくしたり、特別優しくしたりはしていないつもりだ。でも、観音坂さんに「同じ部署の人間だから、嫌だけど・関わりたくないけど仕方なく」優しくしていると思われていたなんて心外だ。そんなことを言う人にはきちんと訂正をしなければいけない。でもまずは、目の前で泣くほど苦しんでいる観音坂さんに、わたしの気持ちをを伝えるのが先だ。
「わたしは今日のランチ、楽しみにしていましたよ」
「……うそだ……そんなわけ……」
「観音坂さんがわたしの伝えるわたしの気持ちと、わたしではない誰かが言ったわたしの気持ち、どちらを信じるかは観音坂さんからの信頼の問題なので、仕方ないですが。
わたしは観音坂さんのことが好きですよ。だから気に掛けますし、優しくします。こうして抱きしめて慰めます。それ以上のこの気持ちの証明は、わたしにはできません」
おそるおそる顔を上げた観音坂さんの、顔はぐしゃぐしゃで、思わず笑ってしまった。ハンカチを渡すと彼はそれで顔を抑え、小さく頷いた。なにに納得したかはわからないが、涙が止まったようでほっとした。
「俺は、諸星さんを信じたい……好きだから」
「ありがとうございます。ランチ、一緒に行ってくれますか?」
「もちろんです。ハンカチ、洗ってお返しします」
小さく笑いかけ、たちあがる。涙やら鼻水やらで濡れてしまった胸元を手の平で隠しながら更衣室に向かう途中、同僚が声をかけてきた。
「諸星さん~、やりすぎですよお。彼、ストーカーとかなるタイプですって絶対」
「ええ、かわいいじゃないですか。好きですよ、観音坂さん」
「じゃあ状況に託けてみんなの前で抱きしめたわけですか!誰も狙わないので安心してくださいっ」
「後から良いなって言われても、知りませんからね。わたし、がんばっちゃいますから」
けらけらと笑いながら去っていく彼女を見送り、更衣室でブラウスを代えて部署に戻る。お昼を食べ損ねたのでお腹は空いていたが、届いていた誤字脱字の多いメッセージに胸がいっぱいになった。
「髪を少し切ります。眠るための努力をします。背筋を伸ばすことを意識します。諸星さんの隣にいても、それなりに見えるように頑張ります。観音坂」
そう宣言した彼は週が明けて髪を切っても、目の下の隈が多少薄くなっても、思いだしたように背筋を伸ばす姿が多くなっても。独身の女性社員からの「ひとりごとの多い暗い癖毛の男性社員」という評価から抜け出すことはなかったが、待ち合わせ場所で細身のスーツを着た彼の髪が風にやわらかく踊るさまを見ると、わたしはそんなに見る目がないわけじゃないと再認識する。
社内恋愛なんて面倒くさいことこの上ないと思っていたが、デスクに向かいながら少し顔を上げると愛おしい背中が見えるのは、ストレスの軽減に役に立つと知った。
(2021.3)
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