このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

有栖川


 寝ぼけながら額の汗を拭ったら、やけに空気がひんやりしていることに気づく。隣に帝統がいない。
 体を起こしてくるりと部屋を見回すが、1Kのアパートでどこに隠れられるはずも無いだろう。廊下にも人の気配は無く、ベッドの上で膝を抱えて俯いた。深く息を吸って・吐くことを繰り返す。涙が溢れそうになったから慌てて上を向いた。こんな夜にひとりで泣いているなんて嫌だった。
 ヒュウと風が入り込んで体を震わせる。窓が開いているらしい。そっとベッドから足を出し、のろのろとベランダに近づいたら、広い背中が見えた。
 しばらく、夜風に揺れる藍色の髪をレースカーテン越しに眺めていた。どんな顔をしているのだろう。流れる紫煙を目で追いながら袖で目をこすり、そっとガラス戸を押してベランダに出る。ひょいと振り返った帝統は咥えていたタバコを指に持ち替えて「寝れねえの?」とこんな時間にはそぐわない明るい声でわたしに尋ねた。

「うん。わたしにもちょうだい」
「コレ? ……吸ったことある?」

 ないけど、と返事をしながら手を差し出す。帝統は一本取り出すと、わたしの手をスルーしてくちびるにそっと差し込んだ。

「咥えて、吸って。火つけるから。
あ。あんま深く吸うなよ、たぶん咽せる……」

 咽せると忠告をしてくれたのが少し遅かった。タバコなんて吸ったこともないのに、急に体に煙が入ってきて驚いてしまって、思い切り咳き込む。
 パッとタバコを取り上げてくれた帝統は、座り込んだわたしに顔を寄せて背中を撫でてくれた。

「げほっ、うっ……うえっ……」
「だいじょうぶか? キツかった?」
「うっ、ううっ気持ち悪……」

 体が入ってきたものを全部吐き出そうとしている。胃液が迫り上がってきて、少し戻してしまった。両手でくちもとを抑えていたが、どろどろと指の隙間から溢れ出す。ぽたりぽたりとベランダを汚す吐瀉物を見下ろして、脳内が冷えていくのがわかった。なにをやっているんだ、わたしは。
 背中に添えられた帝統のてのひらが震えている。ごめんね、と意味もない謝罪をして泣きそうになっていたら、彼はなぜか吹き出した。
 見上げると、さっきまでの静かな夜が嘘みたいに、明るい笑い声が耳から入り込んで体の中で反響する。

「オマエってほんと……おもしれえなあ」
「……初めてタバコ吸ってゲボ吐くのおもしろい?」
「やめろよ、笑い死ぬ」

 くく、と背中を丸めて堪える姿を見ていたら、わたしも笑えた。えへへ、とだらしない声が溢れて、しばらくふたりでしゃがみ込んだまま笑い合う。
 落ち着いたころ、帝統が「もったいねーから」とわたしから取り上げたタバコをくちびるに挟んだので、顔を洗ってくると伝えて部屋に戻った。
 冷たい水でくちをゆすいでも、苦い味はずっと舌にこびりついていた。ベランダの汚してしまったところは濡らしたキッチンペーパーで拭いて、帝統に声を掛ける。

「先に寝てるね」
「すぐ戻るよ」

 ベッドに横になっていたら、ひとりなのに、帝統と一緒にいるみたいだった。タバコのにおいなんてぜんぜん好きじゃなかったのに、もうこのにおいがないと落ち着かない。
 言葉の通りいくらも経たずベッドに戻ってきた帝統が上を向いて寝転がるから、そうっと胸に手を置いて体を寄せた。

「帝統のにおいが好きだから、他の人のにおいもすぐわかるんだよ、わたし」

 目を閉じた。めんどくさい感情が伝わってしまえば良いと言葉にしたのに、めんどくさい女だとは思われたくなくて。そんなの十分めんどくさいと考えながら帝統の返事を待っていた。彼は「ふうん」と興味なさげに声を漏らして、自分の胸に置かれたわたしの手を握る。

「だから今日調子悪りぃの?」
「そう。ごめんね、だって」
「謝らなくていい」

 言葉を遮られることが珍しいと思ってまぶたを持ち上げた。そっと盗み見た横顔はいつもと同じようにまっすぐ前を見ていたし、嘘なんて混じってない声音を紡いでいた。

「俺は今日、パチ屋と乱数のとこしか行ってねーよ」
「……乱数さん香水つける?」
「ん。甘いヤツな」

 バカみたいだ。いや、みたいじゃない、わたしはバカだ。
知らない道だと思い込んで走り回って、勝手に迷子になって、ひとりで泣いて。助けてもらうまでそれが全部無駄なことだったと気づけない。
 ごめんねと言いたい。こんなに弱くてごめん、こんなに愚かでごめん。アナタのことを無条件に信じてあげられなくて、ごめん。
 わたしが謝罪なんてくちにしたら、帝統はきっと、さっきみたいに「謝るな」って言うだろう。そして子供を慰めるように視線を合わせてやわらかく笑う。
幾度となく見たあの顔がどうしようもなくわたしを可哀想にさせるのだけれど、その気持ちと同じくらい強く、いつまでもそうやって甘やかして欲しいと思ってしまうのだ。

(2022.1)
9/12ページ