有栖川
わたしの体を抱えるように眠る帝統の寝姿は、想像よりもずっと大人しくて静かだ。自分の寝ているところなんて見ることが無いから帝統に聞いた話になるが、わたしはとにかく歯ぎしりがすごいらしい。腕の中でもそもそと向きを変え、顔を覗いたら形の良い眉毛が変にきりりとしていて、くちびるはきゅっと引き結ばれている。頬にかかった髪をよけてあげたら、くすぐったかったのか小さく身じろいでいた。大きなてのひらが冬用のもこもこパジャマを捲り上げて背中を撫でる。思わずひゃっと声を上げると、帝統は薄目を開けて「さみぃんだけど」と胸に擦り寄ってきた。
「裏起毛のパジャマ、嫌じゃないよね? 買っとくね」
「ん……俺の服、どうした?」
「あ。洗濯して干しちゃった……くさかったんだもん」
お~、と気の無い返事をして、わたしを抱きかかえたまま動かない。時計を見上げるともう九時を回っている。帝統は寒いと言っていたが、温い体温に包まれてぽかぽかしてきた。あくびをしたら「ネコみてえ」と笑っていた。まどろみに意識が沈みこむ。
カランコロンとハンガーが窓ガラスを叩く音に目を開く。体を起こしたらベッドにはわたししかいなかった。もう出掛けてしまったのかもしれないと思いながら、鍵を確認しようと立ちあがって玄関を覗くと、後ろでベランダの扉を引く音がして驚いて身を固くする。
「俺、俺。ビビりだよな~オマエ」
「気配消すからあ……やめてよ……」
振り返ると、明るく笑いながら取り込んだばかりのトップスに袖を通している。まだ乾いていないんじゃないかと思ったが、案の定「湿ってる」と呟いて眉間にしわが寄っていた。
「出掛けるの?」
「そう。オマエも支度しろよ」
「え? わたしも?」
「うん」と返事をしながら姿見を覗いて髪を触っているので、デートのお誘いかと慌ててパジャマを脱いで洗濯機に放り込む。お気に入りのワンピースをクローゼットから引っ張りだし、スチームアイロンでしわを伸ばした。
洗面台で化粧を始めたら、帝統が後ろに来て、上がりきっていなかったらしいチャックを直し、ホックまで留めてくれた。優しくて慣れた手付き。鏡越しにお礼を言うも、そっけなく「タバコ吸ってくるわ」と流されてしまう。なんとなく照れ隠しのような気がしたがどうだろうか。
化粧をあらかた終え、バッグの用意をしながら帝統を呼んだ。間延びした返事をしながらのろのろやってくるとわたしの顔を見て首を傾げる。
「リップは?」
「どっちがいい?」
二本つまんで見せたら、手に取ってまじまじと眺めている。興味のないことだろうと『どっちでも』という返事を想像していたが、帝統はわたしの顔を覗いてしばらく考えたのち、一本をローテーブルに置き・一本をわたしに差し出す。
「こっち」
「わかった。ありがとう」
ローズブラウンのアイシャドウに、このリップを合わせて選ぶのはセンスがいい。
きっと目的地なんて無いんだろうと思っていたが、彼の足取りに迷いはない。わたしのことなど気に留めず進む広い背中を眺めるのが好きだから、わざと数歩後ろをついていく。すると突然、きょろりと振り返り「歩くの遅え」と文句を言ってきた。
「ごめん~。ちゃんとついてきてる、だいじょうぶ」
「……じゃなくて」
差し出されたてのひら。きょとりと帝統を見上げたら、むすっとした顔をしていた。そうだ、これはデートなのだ。手くらい繋いでいないと格好がつかないだろう。笑ってお礼を言った。ひろいてのひらに自分の手を重ねる。
「ご飯食べる? お腹空いたでしょ」
「昼、食ってねえもんなあ」
手を繋いで歩くと、目に映る景色のそこかしこに、光の粒が降り注いでいるように見えるから不思議だ。帝統のてのひらは大きくて温かい。少しがさがさしている。わざと体を寄せたら、今度は「歩きづらい」と文句を言うからわがままなヤツだ。でも覗き込んだ顔は笑っていた。帝統が笑っていると、わたしまで嬉しくなる。
シブヤの街だけの話ではないのだろうが、この季節はどこのお店もクリスマスの飾りつけがされている。華やかなショーケースの中のブーツに目が留まり、帝統から手を離して駆け寄った。ブラウンの、細かい編み上げが特徴的なブーツ。「かわいいな・試着したいな」と思いつつ、細身のものだったので「入らなかったら恥ずかしいかな」などと考えていた。後ろで帝統が「欲しいの?」と言ったとき、別の声が割って入った。
帝統のことを呼ぶ若い女性の声。知り合いなのか、それともチームのファンなのかはすぐに判別できなかったし、振り返って確認することもしなかった。「ありがとな」と言葉を返す帝統が、笑っているのを想像して胸が苦しい。自分のような女が彼と一緒にいるところを見られたくないと、他人のふりをしてそっとその場を離れた。
気が済むまで歩いた先で適当なベンチに座り、帝統にはメッセージアプリで位置情報を送っておいた。じっと、既読になるのを待っていた。そのうちぼんやりと焦点がズレはじめ、おかしな思考に囚われていく。
帝統がかっこいいなんてことは、わたしだけじゃなくみんなが知っている。帝統はわたしのものじゃないし、わたしのものにはならない。わたしだけの帝統にはなってくれない。知っている、覚悟している。わたしに、帝統との確約された未来なんてものは、ない。これから先には、なにもない。
涙も出てこなかった。悲しくはなかった。
アプリを確認したら既読になっていたから、移動販売のお店でクレープを買った。イチゴとチョコと生クリーム。座って食べていたら、のんびりとした足音が響いてくる。帝統の足音はすぐわかる、季節を塗り替えるような渇いた音。
「オマエなあ、急に」
「お腹空いてたの。待ってられなかったんだもん」
言葉を遮ったらなにを言っても無駄だと悟ったのか、あ、と大きなくちを開けるから残りのクレープを全部突っ込んだ。食べづらそうではあったけれど、食べてしまった。それをしげしげと眺める。くちの周りに付いたクリームを舐め取りながら、帝統が「これ」とわたしに紙袋を差し出した。
「なにこれ?」
「ん、プレゼント」
驚いて袋の中を覗き込むと、さっき見ていたブーツが入っていた。わたしをまたベンチに座らせて、自分は地面にしゃがみ込む。
「履いてみろよ。サイズわかんねえし」
「コレ……エムサイズ? 大きいかも」
「は~? エスって子供みてえな小ささで……」
わたしの履いていたパンプスを手に取った帝統はそこで言葉を止め、しばらく黙っていた。そのまま、無言でわたしにブーツを履かせ、もにもにとサイズを確かめている。わたし、子供みたい? 尋ねたらひとつ頷いた。でもそれはわたしの問いに対する返事ではないように見えた。ひとりで考えて、ひとりで納得する。帝統には前からそういうところがある。
「これでいいよ。ちょうどいい。ありがと」
「ちょっとでかくねえ?」
「これ履くときは、靴下にするからいいの」
ふうんと興味なさげな返事をして、元通りブーツをしまい、わたしにパンプスを履かせてくれた。帝統に“王子さま”なんて肩書は似合わない。彼はもっと、もっと大きい。
陽が暮れかけてきた街の中、帝統はわたしより先を歩く。広い背中と、ゆらゆらするショッパー。眺めながらついていく。商店街で買ったローストビーフは、きっと帝統にほとんどあげてしまうんだろうな。帝統がおいしいって笑っているのを想像して、頬が緩んだ。今日がこんなに特別な日で、クリスマスはなにをしたらいいのだろう。
少し前を進んでいた帝統が立ち止まり、わたしを振り返った。足を止める。じっと、彼が黙っているから、いまこの瞬間に伝えなきゃいけないことを探しだす。
「帝統、大好きだよ」
笑って、今日何度目かの『ありがとう』を付け足した。帝統は眉尻を下げて悲しそうに笑顔を作る。そんなことを終わりみたいに言うな、って。すぐに終わらせるつもりは無いけれど、終わりが来るのはわかっているから、覚悟くらいはやっぱりさせて欲しい。
「帝統がいなくなってもだいじょうぶだから、わたし」
「知ってるよ。オマエが、俺が思ってるより強いことくらい」
でも、と小さく落とした声は、ピアノの鍵盤にそっと触れたみたいな、優しくて儚い音だった。
「でも、いまはそばにいてやりたいから、いる」
「うん。ずっとなんてわがまま言わないよ」
ずっとは望まない。強がりでもそう言うしかなかった。夢をみたって叶わないことをわたしたちは知っている。いまだけでいい、明日、居なくなったって悲しまない。一緒に過ごすクリスマスが、たとえ来なかったとしたって、わたしは泣いたりしないこと。そんな約束さえ忘れるくらい遠くに行ってしまうのは、先の未来じゃないんだろう。
だから、差し出されたてのひらは拒まない。ケンカしていたって、嫉妬していたって。悲しくても苦しくても、いま、帝統の熱に触れていることを噛みしめる時間を大切にしたい。
(2021.11)