有栖川
好きな人に会えるとわかれば、女性は鏡を見るものだ。ベースメイクが崩れていれば恥ずかしいし、アイラインがよれていないかチェックしないと気が済まないし、リップが薄くなっていたら自信を持って笑えない。たとえばその“好きな人”が、メイクをしていようがいまいが「かわいいね」などと褒めそやすことを知らなかったとしても、連絡があればお手洗いに駆け込むのがオトメゴコロというもの。
昼間は暑かったこともあり、入念にパウダーを叩いていたら少し時間を食ってしまった。早足で彼が指定した場所に向かうと、タバコを燻らせ暇そうに足をぶらつかせている姿が目に入った。まだ距離があったが気が急いて、名前を呼ぶ声が大きくなってしまう。
「帝統っ、ごめんね!」
「おう、おつかれ。なに食いたい?」
「お腹空いてるの? ……それで呼んだの?」
歩み寄ってきてへらっと笑い、ポケットに手を突っ込んだ彼が「所持金」と言って見せてくれたのは、十円玉が二枚と五円玉が一枚、それと一円玉が三枚だけ。くしゃくしゃのレシートと一緒に握り込んであった。こんなにギリギリまで現金を減らせることがすごいと、いつも思う。
走ってきたせいで汗ばんだ首筋をタオルで撫ぜ、髪をくくった。色気のあるデートではないとわかったらつい先刻必死にとかしたことなどどうでも良くなってしまった。女心と秋の空、だ。
「お肉食べたいでしょ? 焼肉行こう」
「めっ、女神かよオマエ〜!」
「お酒は飲まないからね」
うんうんと頷いてにこにこしている帝統がわたしにてのひらを差し出したが、なにが欲しいのかわからず首を傾げる。きょとりと固まっていたら手を掬い取られ、そっとポケットに仕舞われてしまった。小銭と指先が当たってはカチャカチャと高い音を響かせる。「会えて良かったなあ」とひとりごとみたいに呟きながら歩き出す帝統に、引っ張られるように着いて行く。
鼻歌を歌いながら進む彼の腕に寄り添うように歩いていると、周りの景色がぼやけて見えた。まるで流れ星みたいに街灯が視界の隅を横切っていく。暗い空を見上げたら、背の高いビルが立ち並んでいて足元がふわふわした。めまいを起こしたような心地だ。
帝統が「今日はツキが悪くてよお」と話し出すのも、なんだか寝ぼけながら聞いているみたいに感じる。
「乱数に借りた分すっちまって、幻太郎に電話したら着拒されてて、散々。でもことみに会えたし、いいや。焼肉食えるし」
「帝統ってあれだよね、素直って言うか。若いから? すごいなあ」
「褒めてんのかわかんねーけど、オマエも素直だよな、わりと」
首を捻って帝統の顔を覗く。細いしなやかな髪が目元を隠していて、表情はよく見えなかった。
「若さなんて要らねえよ。俺が三十になったらオマエがそんな顔する理由がわかるなら」
「……わたしどんな顔してた?」
「知らねえ」
一軒の店の前で立ち止まり、いましがた交わした言葉なんて消し去りたいとばかりに明るく大きな声で「ここのハラミ、美味いんだよ」と振り返る。じっと見上げた瞳の中に小さく映ったわたしの表情なんて、読み取ることは出来なかった。
「ハラミ〜? カルビ食べなよ、ハタチでしょ」
「どっちも食う! 肉の後、駅前のそば屋行こうぜ」
「う〜ん、がんばる」
笑っても、嬉しい気持ちにならなかった。帝統が三十歳になるころ、まだこうしてわたしと歩いているなんて想像できなかった。
泣いたら、せっかく直したアイラインが滲んでしまうし、チークが流れて汚くなる。それでもいま涙を流せば、帝統の中に少しでも気持ちを残すことができるだろうか。そんなことを考えるわたしの表情は、いつになっても彼のこころには理解されないのだろう。
なんて、虚しい妄想で終わらせたいけれど。
(2021.11)