有栖川
帝統の、タバコ吸ってる手が好き。呟いて吸う真似をする。隣で天井を眺めていた帝統は「ンだそれ」と笑った。
「他には?」
「欲しがるねえ。
ん〜、髪の毛、芯があってしなやか。羨ましいよ」
「ふゥん」
ころりとこちらに体を向けて片腕をまくらにし、反対の手をわたしのお腹に乗せた。上を向いたまま目を閉じて、じんわりと帝統の体温がうつっていくのを感じていた。
「オマエ、腹、つめてえな」
「そうなの、いつもだよ」
「なんで?」
なんで、いつもお腹が冷たいのか? わからない。帝統のお腹はあったかいの? と尋ねながらごそごそと服の中に手を入れたらポカポカしていた。眠いのだろうか。
「くすぐって」
「ダイちゃん眠いの?」
「お子さまのことみチャンとは違えよ、俺は」
眠いからって体温が上がるわけじゃねえの。そう言いながら頭を寄せられて、きゅっと胸が切ない。そうだね、ごめんね。小さくそう言ったら泣きたくなった。だって「謝るな」って突っぱねられたから。
帝統にその話をしたのはいつだっただろう。二十代も半ばの、こんないい歳をした大人がコミュニケーションの最たるものであるそれがどうしても苦手だなんて、わたしにとってはコンプレックス以外のなんでもなかった。だから言わなかった。でもどうしてもできなかったから。イマドキ学生でもここまでプラトニックな関係に固執しないだろうと思いつつ、ただ手を繋いで歩き、ご飯を食べるだけ・話をするだけの、なんでもないデートばかり重ねて。
帝統はときどきじわりと情欲を滲ませてわたしにキスをすることもあったけれど、家には上げなかったし、夜に会うことも無かった。だって彼が、当たり前みたいに体の関係を求めて来たら、きっとわたしは傷ついてしまうってわかっていた。帝統がなんでもなく、誰かと体を重ねることができるなんて知っていた。帝統のこと、泣きじゃくりながら拒否したくなかった。
わたしがほとほとと本音を吐き出し、はらはら泣くのを見下ろして、どんな顔をしていたのだろう。恋人とセックス出来ないって、帝統はどう思ったのか。聞いたことが無い。
頭を寄せ合って眠っていたらしい。彼の手はまだお腹の上にある。ずっとわたしのお腹を温めてくれた大きなてのひら。愛おしくてそっと触ったら「歯軋りすげえの、オマエ」と掠れた声がぼわんと脳に響いた。こんなに近くにいたらそりゃあ、声もよく伝わる。
「起きてたの? あ……寝れなかった? ごめん」
「ンや、良いけど」
「お水飲んでくる」
帝統の腕から抜け出した。フローリングの上を裸足で歩くと、ぺたりぺたりと音がするたびに足先から冷たくなっていく。奥で帝統が「暗いとこで水飲むなよ」と言っていて、キッチンの電気をつけたら明るさが目に滲みた。
あの日、帝統に出会った日を想った。目がくらむほどの鮮烈な感情。淵から溢れるような光。眩しさ。真夜中に見る蛍光灯に、太陽みたいな帝統の笑顔を重ね、しばらく動けずにいた。
換気扇のスイッチが入りふと横に視線をやると、わたしの太陽が・わたしの好きな仕草でタバコを燻らせている。
「オマエは聞かないんだな」
「なにを?」
「俺の、オマエの好きなトコ」
あるの? と言ったのはいつもの“自虐ネタ”じゃなくて、咄嗟に溢れた本音。ハハと笑ったときに見えた帝統の犬歯があんまり鋭くて、思わずごくりと喉を鳴らした。
「ことみは俺が死んだあと、一年くらい泣き暮らして、また誰かを愛そうとするだろうなって思う」
「勝手に死なないでよ」
「まだ死なねえよ。たぶんな」
そんなところ、ぜんぜん良いと思わない。大きく煙を吸い込んだ帝統は、首を傾げてわたしの瞳を覗いた。
「別に良いんだよ、それで。俺は誰かの所為で変わったりしないし、オマエも誰かの為になんて変わらなくていい。俺の為に変わらなくていいんだ・って話」
帝統はいつも、言い聞かせるみたいにそれをわたしに言う。「変わらないから、変わらなくていい」それってすごく難しいことだ。誰もが生きている上で大切にしているものがあるなんてキレイゴトだもの。ずっと考えている。わたしの脳みそを掻き出して、心臓を暴いてみたところで、言葉なんてものはひとつも見つけられないだろうと。だからわたしはいつだって染まってしまう、誰かに。そんなの帝統で終わりにしたい。
だからアナタが死ぬことなんて考えたく無い。本音はそこだ。
「死ぬなんて言わないでよ」
「お〜、悪かったって」
「……わたしわかんないよ」
タバコを左手に持ち替え、ん、と声をこぼしながらわたしの肩を抱き寄せる。ずっと帝統にお小遣いあげたいの。そう言ったらやっぱり笑っていた。
「変わらなくて良いってのは、変わっちゃ悪いってことじゃねえよな。変わりたかったら変わればいいだろ。俺にはどうせ、ここしか来るとこねえんだから」
ウソツキ。涙を堪えて顔を上げたら、眩しそうに目を細める帝統が見えた。わたしの太陽。遠いどこかの国では、月こそが優しさの象徴なのだと聞いた。太陽は残忍な存在になり得ること、瞳が焼かれてしまう熱を知っている。
わたしの太陽。どうかとこしえに沈まないで。
(2021.5)