有栖川
朝からご機嫌な帝統を見上げてゆるむ頬を両手でおさえた。そんなわたしには気づくそぶりも見せず、玉子焼きを上手にひっくり返し「ほら簡単だろ?」と得意げにこちらを振り返る。うん、と言いながら涙を堪えていた。
帝統には「愛してる」なんて感情はわからないらしい。わたしの話をしたときだ、わたしがなんの理由もなく他人を愛せる人間だと話したとき。帝統は「ふうん」と興味なさげに頷き、それでもわたしの瞳の奥をぐっと覗き込んでいた。
「俺も?」
「帝統は……えっと」
「はあ〜? 誰でも良いのに俺じゃダメなんかよ?」
誰でも良いとか言わないでよ。喉元まで出かかった言葉を吐き出さず飲み込んだのは、それは本当のことだって気づいてしまったからだ。
数日前に『スマホ売ったから』とへらへらしながら家に来た彼のポケットにはタバコしか入っていないはずなのに、なにか探すみたいにもそりもそりとてのひらを動かしている。動いているものに目が行くだけ。でも帝統は見られていることで居心地悪そうに足を組み替えていた。
「帝統がアイを知らないからだよ」
「知らねえよ。金にならねえじゃん」
「わたしお小遣いあげるでしょ」
ふと表情を暗くして、上目遣いにわたしを見る帝統の瞳に映っていたのは、わたしの顔をした“誰か”に見えた。
「俺のこと愛してるんじゃないって言った」
「……あいしてるよ」
「要らねえよ。そんなの」
いつか言ってやる。それ、わたしもアナタに言ってやるから。
帝統が作ってくれる朝ごはん、好きだ。幸せな家庭の普通のごはん。真っ白なお米に、具がたくさんのお味噌汁と、玉子焼き。焼いた魚のにおいが部屋に残るのは嫌だから、代わりに炒めたウインナーを二本ずつ。お皿のすみにちょっとだけ野菜を切って並べてある。普通の朝ごはんが食べられる幸せな朝。
帝統は、ギャンブルやめたらイイ男だ。にこにこしながら言ったら、彼も笑っていた。
「よく言われる」
「ウソだね」
「言われたことねえよ」
なんで俺なんかがイイんだろうなあ、オマエ。お米を一粒、頬に付けている帝統にそう呟かれると、心臓がきゅっと苦しくなった。ハタチって、まだ子供みたいなもの。わたしだって全然、大人なんかじゃ無いのだから。
「帝統はお酒好きだし、タバコ吸うし、ギャンブルする。でも、痛いことも嫌なことも怖いこともしないでしょ」
「へえ? たとえば」
「ぶったりとか」
きょとんとした顔でわたしを見つめている隙に、手を伸ばして頬の米粒をすくいとる。なんの気無しにそれをくちに運んでしまって、あ、コレからかわれるヤツ、そう思ったのに帝統はまじまじとわたしを見るだけだ。
「オマエのこと殴ってどうすんの?」
「スッキリする」
「ハハッ、しねえよ!」
きゃらきゃらと笑い合っているわたしたちを、少し離れたところで、もうひとりのわたしが眺めている。そんな心地。
「今日は期待してろよ!」そう言ってわたしの頭を撫でた帝統。ギャンブルなんかで根拠も無く『勝てる』と思うタイプの人は、プラシーボ効果が出やすいそうだ。よく効く頭痛薬ですよとビタミン剤を渡されて、本当に頭痛が緩和するとかそういう話。
帝統はいつも自信満々に賭場に行くけれど、乱数さんや幻太郎さんに借金しているくらいだ。大勝ちしたなんて日はほとんど知らない。というか、たまに出目が良かったところで、それ以前の負債が多く返済で手一杯。わたしのところにはコンビニスイーツ程度のおこぼれしかやってこない。しがないパート労働者に、都心に事務所を構える売れっ子デザイナーさまや引く手数多の見目麗しいカメレオン作家さまのような財力は無いので、これまで帝統に与えた金額を考えれば恩恵もそれなりで不満など無いが。
というか。“一攫千金で大金持ち”なんて、帝統が謳うステキな未来を期待しているはずも、もちろん無いのだ。
ベランダに出て、帝統がタバコの吸い殻を押し込んでいる空き缶を手に取った。その重さは、わたしと彼の過ごした日々の重さ。こんなの片手で放り投げられる。ドロドロになっている中身をべしゃべしゃとゴミ箱にひっくり返し、錆びが出てきた空き缶は軽く洗ってエアコンの室外機の上に戻しておいた。
季節はもう冬を通り越したのに風はいつまでも冷たい。目を瞬かせながら在りし日を想った。
愛って・愛してるってなんだ。わたしが帝統を愛しているとくちに出せない理由はなんだ。
ことみ。呼ばれた気がして下を見ると帝統が眩しく笑っている。ダメだった日は、顔を見ればわかる。はやく上がっておいで、怒らないから。そんな気持ちとは裏腹に、わざとベランダの柵に頬杖をついて目を細めたら、帝統は笑顔のまま両手を合わせて頭を下げてみせた。
「スマホまだ買わないの」
「勝てねーのに、買えねーよ」
「あれ。なんで売ったんだっけ?」
ん、と不自然に会話が途切れてパッと帝統を見たら、彼はポケットからタバコを取り出して咥え、黙ってのろのろとベランダに出てしまう。
じっとその背中を見ていた。一瞬でもまぶたを閉じたら涙が溢れそうだった。この日々の終わりを見た気がしたのだ。
夕飯はなにを作ろうか。帝統の好きなものをたくさん作ってあげたい。わたしと帝統の間に愛なんてものが無かったとしても、十年後に「アイツ俺の好きなモンばっか作る女だったなあ」って、思い出す瞬間に夢を見たい。そんな姑息なことを考えて目を伏せる。こんなちっぽけな夢しか見られない女だ、わたしは。
軽い音を立てて動いた引き戸から帝統が顔を覗かせて、わたしを見て首を傾げる。どうかしたのか。お互いの声が重なった。
「吸い殻捨ててあったから。ありがとな」
「どれだけ放っといたの? アレ。汚かったよ」
「わり。捨てた覚え一回も無え」
ずっとそこにあったんだ。『わたしたちの過ごした日々の重さ』なんてものが、妄想では無かったということ。それを、わたしがひっくり返して蓋をした。
暗い顔をしていた自覚はある。まだ半端な長さだったタバコを捨て、わたしの肩を抱き寄せる帝統は眉尻を下げて瞳を揺らした。わざと、そうやってかわいい顔を作ってみせる。
「ことみ……いや、ことみサマ! 悪かったよお〜、な? このとおり! 機嫌直してくれよお」
「……なんの貢ぎ物も無しに、謝罪だけで許されると思ってるの? 今月の食費半分に削って帝統に賭けたのに?」
「うお……正にデッドオアアライブだぜ……やるなことみ!」
バカ言ってないで勝ってこい。軽口を叩きながらいつもどおり笑ったはずだ。『難しいことなんてなにも考えていません』『いま、楽しいです幸せです』って顔、作ったつもりだった。帝統は眉尻を下げて瞳を丸くしたまま、ふいっと壁の方を向いて掠れた声で一言「ウン」って頷いた。
帝統がいないと世界が暗くて仕方ない。わたしはひとりでぐるぐる・キリキリ考えごとをするのが得意だ。勝手に未来を悲観したり、有り得もしない出来事を空想したり。明日が来ればそれらは全部杞憂だったとわかるのに、まだ訪れない時間に対する不安が、恐怖が自分じゃ拭えない。帝統に出会ってそういう思考はより顕著になった。だって忘れてしまったんだ。あの日に、愛を。
わたしは他人をなんでもなく愛する。理由なんて必要ない、『愛してるから愛してる』。それなのに帝統のことを愛してると、とてもじゃないけどくちにできなかった。
静かにわたしの名前を呼び、肩に回していた腕を解くと、黙ったまま両腕を広げている。そろりと手を伸ばしたらあっという間に熱いくらいの体温に包まれてしまった。体の真ん中から溢れてくるあまりの幸福感に、ぼんやりと思考が鈍っていく。
「ことみ、泣くな」
「うん。泣かないよ」
「悪かったって。オマエそういうの面倒くさいくらいめざといのに、誤魔化せるワケねえよな」
メンドクサイとか言うなって笑いながらぎゅっと帝統の体を抱きしめたら、渇いた汗のにおいがした。もう夏が来るなあと思った。太陽が輝く季節は、帝統が生きているって感じのにおいになる季節。帝統の生きているにおい、嫌いじゃない。ときどき臭いと思っちゃうけど。
耳元でどうどうとちから強い鼓動を感じながら、帝統の心臓はきっとわたしよりも大きいのだろうと想像する。腸の長さを算出する計算式を聞いたとき、帝統のお腹の中には七メートルもの内臓が詰め込まれているって知った。帝統の腕の中はこんなに広い、帝統の背中はこんなに大きい。てのひら、靴のサイズ、舌の厚さ、首の太さ。総てがまったく自分と違う。
大きい男の人、嫌いだ。わたしに勝手に触ってくると、気持ち悪いとさえ思ってしまう。でも好きだから触りたいって、そんな気持ちがわからないわけじゃない。肩に頬を擦り寄せて目を閉じる。ちからを抜いて全体重を預けても、ぐらりともしないでじっとわたしを抱きしめている。
ころりとこちらに頭を傾けて、きっと帝統も目を閉じていた。わたしたちはまだ見えないものを見ようとしていたんだろう。
「ことみ、結婚する気ないんだろ?」
「うん。え? 帝統となんて絶対しないからね?」
「はあ? プロポーズなんてしねえよ」
そりゃあそうだろう、冗談だ。婚姻なんていう一種の契約は、帝統が大嫌いな「束縛」だ。自分が縛られることももちろん、相手を縛ることも好まない。じゃあなんでそんなことを聞くのか。言葉の続きを待っていたら、チリッとチェーンの擦れる音がした。
まぶたを持ち上げると、目の前で無造作に掴まれたそれにしっかりピントが合ってしまって、他の景色が全部ぼやけて遠のいている。
「やる。誕生日おめでとう」
「……あのさあ……」
「ちょうど金ができたんだよ! いま買わねえと次いつ買えるかわかんねえし、オマエなんかずっと変なこと考えてるし、隠し通せなくなったの!」
ふうんと言いながら背中を向けた。後ろで帝統がなにか言いたげにくちびるを開いた気配がして、被せるように呟く。着けて。
言葉は飲み込んだらしく「ン……」と小さく喉で返事をしてわたしの体に腕を回す。体温の移った細いチェーンが首に回され、うなじに短い爪が当たる。くすぐったかった。バッグからチークのパクトを出してきて覗き込む。イエローゴールドのチェーンと澄んだブルーのストーンが肌の上でキラキラ輝いて、わたしとネックレスのどちらが主役だかわかりやしなかった。少し視線をずらすと、不安そうにわたしを見る瞳と目が合う。
こんなふうに、心臓を柔らかく細いヒモでゆっくりと括られる感覚、わたしはよく知っていた。
「ありがとうね。だいすだいすき」
「おう……オマエそれ好きな」
「うん。こころこめなくても言えるし」
振り返って笑ったら、「ココロこめて言えよっ」と元気に突っ込んでくれて、目の淵からあふれてしまいそうだった「本当の気持ち」をまだ自分の中で大切にしまっておけた。
朝がくるたび、わたしは絶望する。まだ歩かなければ、また歩き始めなければ、と。途方もなく続く平坦な道のり、終わりが見えない日々をはやく終わらせたいなんてくだらないことばかり考えて涙をこぼすのがあまりに上手い。
帝統と出会って、大きなものを失った。わたしの生活の、こころのほとんどを形成していたと言っても過言ではないくらい大切なものだったのに、それはもう取り戻せない。もう見えなくなった。“彼”を想って泣くことが、出来なくなってしまった。
わたしの世界に突然現れて、瞳を焼いたのは他でもない、帝統だ。
帝統がスマホを売った理由。わたしが帝統に愛してると言えない理由。同じところにあった。手を伸ばしても届かないところ、まだ見えないもの、まだ見えないずっとずっと先のこと。わたしたちが出会ったのはたった一年前なのだ。
「ありがとう。大好きだよ」
応える言葉を知らない帝統に、時間をかけて教えてあげたい。わたしがアナタを愛おしいと思う気持ちと、アナタの愛おしい人にわたしがなるまでの軌跡。いつかちゃんと、愛してるって、こころから伝えられる日が来るはずだ
(2021.5)