有栖川
夕方の公園、遠くでかけっこしている子供を眺めながらコーラを飲んでる帝統を、少し離れたところから見ていた。季節は少し体を動かせば汗ばむような熱気を帯びてきている、年中持ち歩いているミリタリーコートがベンチの背もたれにくしゃりとかけてあるのがなんとなく“彼らしさ”に思えた。声を掛けるのをためらったのは、もう少しここで眺めていたいような気持ちからだ。帝統の瞳にこの温和な空間がどう映っているのか想像するのは、めまぐるしい日々に荒んだこころの平穏を取り戻すために必要なことにさえ感じる。
ふわりと風が吹く。それと同時にわたしを振り返る彼の、絵になることったらなかった。
「お、ことみ。それくれんの?」
「うん、お夕飯。ここで食べる?」
「朝からなんも食ってねえの。腹減ってしにそう」
帝統が一日ご飯を食べられていないなんてそもそも自業自得なのだしいつものことだが、体は食べて作られるもの、やっぱり心配になる。だからこうして会う約束をしてはお惣菜を買って渡したり、一緒にファミレスに入ったり。なにかと世話を焼きすぎだと乱数さんや幻太郎さんには叱られたりもするけれど、わたしにとってお腹を空かせている帝統にご飯を与える……困っている人にできる限りのことをするのは普通のことだ。
となりに腰掛けて「肉だ!」とまだ温かいからあげに嬉しそうな顔をする帝統を見て幸せな気持ちになった。帝統が笑っているとわたしも嬉しい。
「ことみは? 夕飯食った?」
「同じの買ったから、お家で食べようと思って」
ビニールを持ち上げてみせる。帝統はふうんとのどで返事をして、視線を前に戻した。
さすがに陽が傾き始め、子供たちは親に連れられてばらばらと帰路に着く。子供はかわいいから好き。何気なく呟いたら笑われた。
「カワイクないガキもいるだろーが」
「あんまりいないよ。うん、ほとんどいない」
「ほら、ちょっとはいるんだろ」
子供は九割九分かわいいよ。引かないわたしに、帝統は話を少しずらした。
「子供はかわいい、ねえ。なにはかわいくない?」
「そう言ったつもりはないんですけどお」
「いやちょっと含みあっただろ」
休みなく箸を動かしながら喋る帝統に、お行儀悪い、と言いかけてやめた。まるで図星みたいだから。ん~、なんていいながら誤魔化して、背もたれに体を預ける。首を後ろに倒して空を見上げてみた。藍色、帝統の色だ。そんなことしか考えられないわたしは相当重症。自覚はしている。
「帝統はどんな子供だった?」
「べつにフツー。ことみは?」
「扱いにくいくらい内気だったよ」
きょとりと動きを止めてわたしを見た帝統が面白くって体を起こす。いまのわたしからは想像もつかないだろう。誰に聞いても「明朗快活」と言われるような女、それが「諸星ことみ」だ。無理をしているわけじゃない、繕っている自覚がないとは言えないが。
黙って咀嚼しながらわたしを見つめるから、じっとその目を見ていた。トリックアートを見ているみたいに視界がぐるぐるしてくる、吸い込まれそうな瞳ってこういうことをいうのだろう。
「友達にあそぼって自分から言えなかったり、授業中に困ったことがあっても手を上げられなかったり。とにかく怖がりで、寂しがりな子供だった」
「いまもだろ。怖がりで寂しがりは」
「え、そんなふうにみえる? よくみられてて恥ずかしいな」
語尾を上げ、首をこてんと傾けてぶりっこしたら、帝統がふふと大人しく笑う。転ばないように足の間に挟んでいたコーラの缶を掴んで、わたしに差し出した。受け取ってひとくち飲む。ぬるい。
「近くに居ると、掴まえてなきゃって思うな。オマエ」
「……なんの話?」
「気づかないうちにしんでそうなんだよ」
死んでそう。ざっくりと体が両断されてしまったみたい。感覚が遠のく。帝統はもう一度、ぬるいコーラを勧めた。黙ったまま少しくちに含む。炭酸はからいからあまり得意じゃない。なにか言わなきゃと思うのに言葉はひとつも出てこなかった。帝統も、なにも言わなくなった。
わたしが死んだら帝統は泣いてくれるのだろうか。
帝統がわたしの為に泣くところも・わたしが死んだことで沈みこむ姿も、想像できないしそんなに弱い人間だとも思わない。わたしが死んでも帝統は・帝統の生活はなにも変わらないということだ。こんなふうにまた誰かと仲良くなって、ご飯もお風呂も寝るところも、どうとでもする。だってわたしがここに座るずっと前から、帝統はここで生きているのだから。
でもわたしは。わたしは帝統がいなくなったら、息ができなくなっちゃうんだよ。
ぽろっと涙が落ちて、指先で化粧が崩れないように頬を拭う。ごめん。とっさにそんなこと言わなきゃ泣いているのもバレなかったかもしれない。帝統はゆっくりわたしの顔を覗いて、なぜかぴかぴか笑っていた。
「ことみ、しぬなよ」
「しなないよ……勝手にころさないで」
「おう。俺もなるべく生きるからさ」
わたしの世界にこんなに干渉しておいて、なるべく、なんて無責任なことを言う。ひどい男だ。
「きょう……きょう、うち来る?」
「ん、やめとく。変な気起こしそうだし」
「それでもいいって言っても来てくれないの?」
じっと、くちもとだけで笑いながらわたしの顔を眺めて、優しい言葉を紡いでいく。俺、オマエには笑ってて欲しいんだよなあ。
「だからきょうは行かない」
辺りはもう真っ暗、街灯に小さな蛾が集まっている。吸い寄せられるみたいに帝統の首に腕を回した。帝統はいつもみたいにぎゅっと抱きしめてはくれなかった。そっとわたしの背中を撫でて「送ってくから、帰ろうぜ」と優しく囁く。欲望のままに壊してもくれないのは、あまりに残酷だと思った。強い電流で焼き殺しはしないのだ、決して。わたしのこころは甘ったるい毒に侵されて、少しずつ腐っていく羽目になるらしい。
(2021.5)