有栖川
ああそうだ。昨日の夜、酔っぱらって泣きながら押しかけてきたこの男を、宥めて抱きしめてそのまま寝落ちたんだ。
帝統は眉間をぎゅっと寄せるように、真剣な顔で眠っている。ときおりくちびるがはくと動いて、夢でも見ているのか、わたしの服をきゅうきゅうときつく握り締めた。
なんで、勝手に居なくなったんだよォ。玄関を開けた途端押し倒す勢いでわたしに抱きついてきた帝統は、なんで、どうしてと言いながらわんわん泣いた。意味がわからなくて・面食らって、ずっと家にいたけど、と呟き広い背中に手を添える。私の頭を、存在を確かめるように、動物でも愛でているかのように。わしゃわしゃと力強くまぜこぜにし、あんまり喚いてうるさいものだから、引きずってベッドまで連れてきた。半分野良のような生活の彼をシャワーも着替えもさせないまま自分のベッドに、なんていま思えば信じられない行動だけれど、なにせわたしは眠かった。時刻は零時を回っていたのだ。
「どうしたの。悲しいの?」
「置いてくなよ、俺を……」
また、寒い冬が来るのに。いくらか落ち着いた様子の帝統がぼんやりとわたしのくちびるを眺めながら、さっきとは打って変わって、普段の彼には似つかわしくないくらい優しい手つきで髪を撫でてきた。
しきりに上下を繰り返すまぶたを見つめて、心臓が拉げたような心地だった。寒いっていうのは、さみしいってことだ。帝統は寒さに怯えている。ひとりで越す冬を怖がっている。
「もう寝ようよ。わたしが……一緒にいてあげるから」
「うん」
素直な返事を笑いながら、すんと鼻をならす帝統を横たえて、すぐ隣に寝転ぶ。ぐいとわたしを抱き寄せるその腕が、誰かのものだったことを思ってしまって、泣きそうだった。寒かった。
眉間をちょいちょいと指先で撫でてあげたら、ウウとのどで唸っている彼は、獣のように見えた。眠る帝統に笑いかけても、当たり前だけど笑みを返してはくれない。
帝統には、大切な人が居たのか。
こうしてわたしのところに足繁く通ってくれ、頼りにされている……必要とされていると思い上がってしまっていたのだろう。いつもにかにか笑って、悩み事なんて小石を投げ飛ばすかのような勢いで吹っ切って、たくましく・強く生きていると思っていた帝統が、泣いた。わたしにしがみついて、子供みたいにぼろぼろ泣いた。
帝統はわたしとのこのなんでもない関係が終わっても泣いてくれるのか。考えなくても答えは出た。たくましく・強い、帝統なのだから。わかりきっている。
はらはらと涙が頬を伝って、つい、彼の頬を引っ掻いてしまった。ゆっくり現れたガラス玉みたいな瞳が、ぼうっとわたしを見て、呟いた名前。女の子の名前。
「……泣いてんのか?」
「うん、だって寒いから」
寝起きのぼんやりした熱を孕んだてのひらがそっとうなじを包む。彼のくちびるがまぶたに触れて、離れて、もう一度触れた。帝統、昨日のこと、覚えてる? そう尋ねたら目を泳がせていた。
「忘れてくれ……ただ、ちょっと……」
「……大切な人は、大切にしないとダメだよ」
「わかってるよ、だから」
続きは聞こえてこない。わたしの言葉の意味がきちんと伝わったとも思えなかった。止まらない涙がもどかしい。右手で頬をこすって、左手で帝統の顔を押し返す。もう、優しくしてくれなくていい。ちゃんとした声になったのか自分でもわからなかったのに、帝統にはしっかり伝わってしまう。ぽかりとした表情が白々しくて、苛立ちが募っていく。
「いい、もう。わたしの気持ちばっかりなの、嫌って言うほどわかったから」
「なんの話? 意味わかんねえんだけど」
「帝統が泣くほど大切な人に、わたしはなれないって、知ってる」
ぱしぱしとまばたきを繰り返した帝統は、なぜか頬を紅くしてくちびるを開けたり・閉じたり。そして居心地が悪そうに視線を布団の中に落とした。わたしがぐずぐずと泣く声ばかりが狭い寝室に満ちていく。
数分も沈黙が続いた部屋に響いたのは帝統の、蚊の鳴くような告白だった。
「ネコ……」
「……ネコ?」
「よく休んでる公園に、ずっと住んでたネコが」
ぽつりぽつりと話しだした帝統の声を聞いていたら、涙は止まっていた。また、彼が泣きだしそうだったから。帝統は「彼女」の最期を見ていないし、もう野宿仲間たちが供養をしてあげた後で話を聞いたらしい。たまたま入った収入でお酒を飲んで、店の外に出たら思ったよりも寒くって、たまらなくなってわたしのところに来たと。
寝室に静寂が訪れたとき、わたしたちは抱き合ってまるまっていた。ごめん。呟いたのは同時だった。
「勘違いして、面倒なこと言って……ごめんね。帝統は優しいね」
「オマエがそんなに俺のこと好きなんて、知らなかったしな」
帝統の腕の中で静かに目を閉じる。なにもかも杞憂だったと、そんなのはここにこうしていれば嫌でも理解できた。心臓の音が頭の中に直接響いてくる。彼の熱も、呼吸も、総てがわたしの為に在った。いま、この瞬間だけは。それ以上なにか望むことがあるはずもない。
大切な人はちゃんと、大切にしないとな。呟いた帝統がわたしの背中をそっと撫でて、小さく笑う。
「構ってやらないと忘れちまうんだ。そういうところがオマエと似てた。ひとりだと寒くて仕方ねえなんて……知らなきゃよかったとも、思えねえよなあ」
忘れたくても、忘れられない体温。冬の公園で抱きしめた小さな温もりのように、この想いで帝統の寒さが紛れるのなら、わたしはここで待つのだろう。いつまでも。
(2020.9)