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有栖川


薄紅色の花びらが目の前にはらりと落ちてきて、ふと顔を上げる。自分が足元ばかり見ていたことを反省しながらきょろきょろと辺りを見渡すが、桜の木なんてどこにも無かった。どこから飛んできたのかと考えながら、このままコンビニでお酒でも買ってお花見もいいなあと空想する。でも一緒に花を見上げて笑い合いたいと思うような人が、すぐには浮かんでこなかった。いや、正直に言うとひとりもいないというわけじゃないのだけれど。
小さく息を吐いてバッグを肩に掛け直す。歩きだそうとしたら後ろからポンと肩を叩かれて驚いた。幻太郎さんだった。

「あ、こんにちは」
「こんにちは。お仕事中ですか?」
「いいえ。今日半休貰ったので、帰るところです」

わたしの言葉にころりと笑い、「そうですか」と言った彼は、隣を歩きながらのんびりと天気の話を始める。つられて歩幅を合わせ着いていく。

「日差しも温かくて、良い日ですねえ。ここのところ雨続きでしたから」
「雨は嫌いですか?ああ、袴の裾が汚れてしまいますよね」
「嫌いというほどでは。まあ、出掛けるのは億劫に感じますね」

ぽつぽつと他愛もない会話に興じているうちに、自分が駅ではない方向に誘導されていることに気が付いた。あの、と言って会話を区切ったら、幻太郎さんはまた控えめに笑う。「アナタは本当に良く似ている」懐から封筒を取り出すとわたしに握らせるので、表を確認すると大きく「督促状」と書かれていた。幻太郎さんにお金を借りた覚えなどなく、くちびるをぽかんとさせながら見上げる。

「この先に、桜が咲いている公園があるんですが……そこを根城にしている浮浪者に渡してくれませんか」
「……あの……、わたし」
「小生、この後に予定がありまして。嘘ではありませんよ」

口篭もっている間にひらひらと手を振って去って行く。仕方ないと腹を括って、真っ直ぐ続く道を歩きだした。

会ったらなんて言うべきか、まず謝ろうかと考えて、小さく首を振った。それはわたしの悪い癖だ。自分に非が無いとは言わないが、圧倒的に相手が悪いのだし、そもそも仲直りをする気などさっきまでさらさら無かったじゃないか。『幻太郎さんから預かってきた。コレ。じゃあ……』それでいい、それだけで。シミュレーションを繰り返して、ぶつぶつと伝えることを呟きながら歩いていた。
ざあっと風が吹いて、目の前を花吹雪が通りすぎていく。もう目的地に辿り着いていたらしい。顔を上げたらあまりの光景に感嘆の声を上げてしまった。わあ。グシャッとなにかが拉げたような音がして、そちらを見るとベンチに座った帝統が新聞紙を握り締め、目を丸くしていた。わたしはつい、ケンカしていたことも忘れてはしゃぎながら歩み寄る。

「見た?いまの!すごかったねっ、ぶわあって……」

わたしを見つめたまま黙っている帝統のすぐ近くまで来て、ハッとした。慌てて顔を伏せ、ごめん、とやっぱりくちにしてしまった。帝統はまだなにも言わない。さっき預かった封筒を差し出し、しどろもどろになりながら「幻太郎さんから預かった」と伝える。表の文字を見た帝統は眉間にしわを寄せ、無造作に端を破ると中身を確認していた。書面に目を落とすその横顔をじっと見つめてしまった。直接会うのはひさしぶりだったし、そもそも頻繁に会っていると忘れてしまいがちだが、帝統はその姿が妙に美しい瞬間がある。いまがそれだった。伏した睫毛の描くカーブを、まるで絵画を鑑賞するような気持ちで眺めていた。
帝統は一通り読み終わったのか、ため息をつくとその紙を丸めてコートのポケットに押し込み、小さく「余計なお世話だっつうの」と零した。その言葉にびくりと肩が震えてしまい、またごめんと言って踵を返す。歩きだそうとしたら腕を掴まれた。状況が飲み込めなくて悲鳴を上げると、すぐに離れていく。振り返るとバツが悪そうな顔でてのひらをさまよわせる帝統がいた。

「ごめん」と言いかけては黙り、黙ったくちはまた「ごめん」と言おうと動く。そんな様子を見ていたら泣きそうになってしまった。うつむきながらになってしまったが、ちゃんと謝った。いくつも年下の帝統に、こんな思いをさせてしまったのが申し訳なかった。わたしにも非はあったのだから、あの日。

「ごめんね。大人げなくてごめん」
「……俺も、悪かったって、思ってる」

ふたりしてしょぼくれて、少し話をしようと並んでベンチに座った。
話をするとはいっても離れていた時間はいままでになく長かったので、お互いどうすればいいのかわからなかったのか、沈黙が流れる。わたしはじっと靴の先を見つめていたが、帝統は桜を見上げていたようだった。「一緒にいられなくなると思った」と帝統が告白したとき、パッと見上げたら真っ直ぐ前を向いていたから。

「もうそれでもいいって。俺はなんも変わんねえもん。オマエの為にギャンブル辞めて定職に就くなんて無理だし。酔ったら誰でも抱くし。クズなのは俺が一番わかってんの。だから、オマエが嫌になったならもういいって……」

ちがうよ、と言葉を遮って呟いた。やっとわたしの方をみてくれた帝統は、悲しいような寂しいような、それでいてスッキリしたような顔をしていた。胸がぎゅっとなって、言いかけた言葉を飲み込む。帝統がわたしと一緒にいることでこれからもそういう思いを抱えなければいけないなら、本当にもう、お別れするべきなのかもしれない。

「帝統がいいなら、いい。苦しいなら……つらいなら、もう会うのやめよう」

やっと絞り出した建前に、帝統は小さく頷いてふいと前に向きなおった。薄く笑っているような気がして、これでいい・これで正解なんだとわたしも自分に言い聞かせる。

「……次は女泣かすような男、選ぶなよ。俺、オマエの笑ってる顔、好きだった」

知り合ってから一度だってわたしに「好きだ」なんて言ってくれなかったのに、いまそんなことを言うのはあまりにずるいと思った。涙が出てしまっててのひらで拭いながら、わたしも帝統の笑った顔好きだよ、とはにかむ。

「ありがとう。わたし、桜が咲くたび思いだすんだろうなって、思っちゃった」
「桜もさ、出会いとか別れとか、勝手に代名詞にされて背負わされて、迷惑な話だよなあ」

そんなことを詠んだ詩人がいたなと、笑いながら立ち上がる。じゃあ、と言って顔も見られないまま歩きだした。涙がぽろぽろ出てきて、嗚咽を零しながらいろんなことを考えた。いろんなことを思い出した。思い出なんて全部きれいなもの。楽しかったこととか、嬉しかったことばかりだった。だから今日のことも、きっと十年も経てばとんでもなく美しい記憶になっていて、桜をみたら笑えるようになる。十年も経てば、きっと。

くしゃくしゃとしぼんでいくばかりだった思考は、大きな声が聞こえて一旦停止した。後ろで聞こえた言葉を解析している間に、すぐそばに誰かがやってきた。振り返るとわたしの足元に滑り込むようにしゃがんで、泣きそうになっている帝統がいた。

「やっぱ無し、いまの全部無し!俺オマエのこと好きだから別れるとか無理、桜咲くたびオマエの泣き顔思い出したくない、オマエが他の男に抱かれるの嫌、だから……だから!」

地面に膝をついて土下座する勢いで頭を下げ、声を震わせる帝統を見下ろして呆然としながら、妙に静かな頭の中で考えた。帝統がさっき言ったこと、わたしがさっき言ったこと。帝統は「オマエが嫌になったならいい」って、わたしは「帝統がいいならいい」って言った。お互いに責任を押し付けようとしただけ。わたしたちふたりのことなのに、ふたりとも自分の本当の気持ちを隠して、傷つきたくないから相手のせいにしようとしていた。
幻太郎さんに会ったとき、少しだけ期待をした。帝統の大切な友人だから、帝統の気配を濃く感じられる人だから、しばらく連絡も取れなかった帝統にもう一度会えるんじゃないかと。ちゃんと顔をみて話ができるんじゃないかと。それだけで心臓が疼いた。
わたしはまだ帝統のことが好きで、本当は別れ話なんてするつもりはなくて、ただ仲直りしたかっただけのはずだと、思い出した。

帝統の正面にしゃがんで、両手で頬を掴んで顔を上げさせた。帝統はすごい、今だけを楽しんでいるのだとしても・今を生きているだけだとしても、明日後悔しない選択がちゃんとできる。自分の気持ちをかっこつけないで伝えられる。

「ごめん、ごめんね。仲直りしたかっただけなのに、素直になれなくてごめん。帝統に変わって欲しいなんて言いたくない、思ってないんだよ。本当だよ。わたしが好きなのは帝統だから、変わらなくて良いの……ごめんね……」

涙でぐしゃぐしゃなわたしの顔を見た帝統は、眉間を寄せて眉尻を下げて「泣くな」と言った。『泣かないで』って言われるの、ずっと好きじゃなかった。でも帝統にそう言われると笑いたくなる。帝統はわたしの泣き顔より、笑顔の方が好きだって、それだけの話だから。
ぎゅっと抱きしめてくれた帝統の腕の中は乾いた汗のにおいがした。ご飯にする前に、服を全部剥ぎとって洗濯をしなくちゃ。お風呂もちゃんと入ってもらう。じゃなくちゃベッドには寝かせてあげられない。

泣きじゃくりながらごめんなさいと繰り返すわたしに、うんうんと何度も応えながら、帝統はたった一度、一度だけ「ごめん」と言った。なんだか冷たくって、すごく重たく感じた。さっきの「好き」と同じだった。帝統はたくさん声を重ねることで感情を伝えてはくれないけれど、大切な言葉をちゃんと気持ちを乗せて紡いでくれる。それだけですうっと楽になった、胸に蟠った変なもやもやが溶けていくみたい。謝りたかったのは本当だけど、謝って欲しいのも本音だったんだ。

泣き疲れて目がしょぼしょぼしてきた頃、帝統が少し体を離してわたしの顔を覗く。困った顔で笑っているから、わたしもそっと笑った。

「おんぶして……家まで。ご飯作ってあげるから」
「おう、まかせろ!」

向けられた背中に寄りかかるとひょいと持ち上げてくれて、そのくせ「重てえなあ」と言うので首に回した手で髪を引っ張る。それでもカラカラと笑うばかりなので、幸せの重さだよ!と叱ってみたら、思いもよらない言葉が帰ってきてくちを噤んだ。

「幸せがこんなに軽くてたまるかよ」

ウソと、建前と、くちにできる限りの本当の気持ちと、ずっと言えないでいる本音。全部まぜこぜにするから、人間関係はややこしくなる。もっと素直になろう。少なくとも、失いたくない人の前では。
桜には悪いけど、また同じ季節に咲いて欲しい。今日のことを忘れないように。

(2022.4)
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