有栖川
玄関を開けるや否や、自分の家かのように入ってきた帝統は「今日寒くねえ?」なんて言っているくせにコートを脱ぎ、トップスもボトムスも下着さえも脱ぎ、そしてお風呂場に消えた。
わたしがぶつぶつと文句をつぶやきながらコートをハンガーにかけ、それ以外を全部洗濯機に突っ込み夕飯の支度に戻ると、ガチャリと後ろで浴室の扉の開く音。お湯の温度を調節しているようだ。
「も~、あんまり熱くしないで?次、わたし入るから」
「え?一番風呂かよ。悪ぃな、なんか」
「……いまさらだね?」
からりと笑って、すぐに引っ込んでいった。
食事を終え、わたしがお風呂に入っている間に、勝手にスマホのロックを外してラインを見ていたらしい。慌てて取り上げると彼は悪びれた様子もなく「なんで乱数と連絡とってんだよ」と首を傾げていた。
「その前にどうやってロック……」
「乱数なんてやめとけよォ」
「アナタの寝床の話をしただけ」
「内容見たから知ってるけど」とあくびをして、ベッドにもそもそともぐりこんでいってしまった。小さくため息を吐いてパスワードの変更をはじめるも、後ろで帝統が呼んでいる。
「ミーコ。さみぃからはやく」
「……今日そんなに寒い?」
こころなしか潤んだ彼の瞳を見て頬に手を当てたらいつもより熱いような気がする。体温計を持ってこようと動いたら腕を掴んで引き込まれた。
「ひゃっ……もう、いきなりやめてよお」
「さみぃつってんのに、どこいくんだよ」
「熱、測ろう?風邪かもしれないよ」
「いいよ」とややぶっきらぼうに提案をはねのけ、後ろからわたしの首に額を擦りつけている。腕は当たり前みたいにわたしを抱きしめていて、また、小さく息を吐いた。
すぐにくうくうと寝息が聞こえて、やっぱり体調が悪いんだろうと思いながらじっとしていた。
一昨日、帝統が夢に出てきた。
否、あれは帝統だったのだろうか。もしかしたら、わたしの脳みそが勝手に作りだした「理想的な彼氏」の図でしかなかったのかもしれない。
藍色のパサパサした髪を綺麗に流して、白いシャツにジャケット、スラックス。「行ってくるな」とちょっと振り返って笑う彼の、背中を見つめて呟いた。早く帰ってきてね。
ギャンブルを辞め、定職に就き、毎日同じ時間にわたしのところに帰ってきてくれる帝統がいてくれる夢の中は、穏やかでささやかな、春の陽気みたいな幸せを醸していた。
夜は、帰宅した帝統と一緒に丁寧な時間を過ごしていく。
ダイニングテーブルで向かいあって夕食を済まし、交代でお風呂に入って、間接照明に切り替えた寝室の中で静かにアロマを炊いて横になる。
帝統は穏やかに目を細めてわたしの髪を撫で、そっとくちびるに触れ、ふたりで照れたようにくすくす笑う。
後ろで、帝統が唸った。
寝苦しいのだろうかと、腕の中で体を反転させた。顔を覗こうにも胸元に額を押し付けられて全く見えない。でも眠ってはいるようだ。
わたしは帝統にどうなって欲しいのだろう。たとえば、ギャンブルをやめて欲しいなんて思ったことは無かった。
考えたことが無かった。ギャンブルをしない、帝統。
一緒に、ささやかに、丁寧に、なんて。暮らしたいわけじゃないと思っていたのはわたしの頭であって、こころではなかったのだろうか。
帝統の体からすうっとちからが抜けていって、ころりと頭が枕の方に転がった。わたしの体に手をまわしたまま、帝統はいつも寄りっぱなしの眉間も伸ばして、子供みたいな表情を見せる。
ぽろり、涙が伝ったのが、わたしの頬だったらどれだけ良かっただろう。
たまらなくなって、名前を呼んだ。帝統、帝統、起きて。泣かないで、笑って、だいじょうぶだって、あっけらかんと言って。
んん、とのどを鳴らした彼は、自分でも違和感があったのか顔をこすると、潤んだ瞳でぼんやりわたしを見た。
「あンだよォ……便所か……?」
「帝統、キス、してほしいの」
「んあ……?なんで?」
帝統を忘れてしまわないように。呟いたら、静かにわたしの頭を自分の方に寄せて、優しくくちびるをついばむ。熱っぽくて、かさついたくちびるだった。
わたしがぽろぽろ泣きだしたら、帝統は体を丸めてわたしのことを抱きしめる。ああ、面倒くさいと思っているだろうな。体調が悪いのに、夜中に起こされて、“アナタを忘れないためにキスしろ”だなんて。メンタルのヘルスを疑われてしまうような行動なんだろうな。
「帝統は、わたしのこと、どう思ってる?」
「どうって。よくわかんねえけど」
「わたし、帝統に、変わって欲しいのかな?」
わたしの問いに「さあなァ」と興味なさげにあくびをこぼし、わさわさと頭を撫でてくる。
帝統がギャンブルを辞めて、定職に就いて、毎日わたしのところに帰ってくる。嬉しい?嬉しくない?
じゃあ帝統は、そんな未来、望んでるの?
答えは簡単に出た。
「帝統に、変わって欲しいなんて、わたし……言いたくないよ。元気に、笑っててくれたらさ……それでいいんだもん。
それでときどきわたしに構ってよ。ときどきで、いいから」
帝統はハハと笑って、わたしの頬を両手で包んだ。顔を正面から突き合わせて、笑う帝統、泣いてるわたし。指先でそっと、涙をぬぐう仕草は、この世の優しさのすべてみたいな温かさを孕んでいた。
「俺は飼い猫になんてなりたくねえから」と言った彼に、うん、といって鼻をすする。目をぎゅっと閉じて、涙を押し出した。ちゃんと、顔を見たかった。
「でもオマエのことは手放したくないんだよなあ。俺は、そんな程度の低い男だ。だからいいんだよ、オマエも。変わらなくて良い。勝手に想ってればいい。
俺はオマエの為には変われない。だから、オマエも……俺の為に変わらなくて、いいだろ」
優しいキスが何度か下りてきて、まぶたを開けたらマゼンタピンクがゆらゆらしてた。
帝統はいつも、ここに幾度となく泊まっても。キスしかしてこなかった。体の繋がりを求められたことは無い。わたしから求めたことも無い。
わたしたちは臆病だった。くちびるを奪うことができるような距離に居るのに、こころに触れられる気がしなかったのだ、お互いに。それでも帝統の言葉はぶしつけに、わたしの胸をなじる。入りこんで、くしゃくしゃに握って、離さない。
「わたし、好きな男じゃなかったら、家に泊めたりしないよ」
「ふーん。いいんじゃねえの。好きにしたら」
帝統の腕の中は、春の陽気なんてもんじゃなかった。じわりと汗のにおい、湿度を含んだ熱が篭る。
風邪っぴきとキス、してしまった。後悔はなかった。
(2020.5)
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