第11話 意外なご縁
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ーー目の前には、男装をした自分がいる。
鏡に映る伝助の姿をした自分を前に、澪はおかしな所が無いか最終確認をしていた。
男装と言っても、本来の性である女の装いをしている時より準備は簡単だ。化粧はせずスッピンにすればいいし、髪も高く一つに結ぶだけ。小汚く見せたければ、顔を炭で汚すという方法もあるが、そうした所で鏡に映るのは中性的な美少年だ。喉仏を隠さねば、看破される可能性がどうしても残る程度の出来栄えである。
くのたま達の宿舎は静かだ。
起きて行動するには早い時間だが、これから京の町に繰り出す澪からすれば丁度いい時間である。幸い外の天気は曇りだが、雨は降っていない。
後は、腹ごしらえに簡単な朝食を食べて出立だ。用意を済ませて食堂に向かうと、既に半助、伊作、仙蔵がおり澪の分の朝食の用意がされてあった。伊作と仙蔵は既に食べ終わりかけている。
「洗い物と片付けは、ぼくと仙蔵がするから土井先生と澪さんは、急がず食べてね」
「お気遣いありがとうございます。伊作くん、仙蔵くん」
お礼を言うと、席を勧められたので着席する。場所は伊作の隣で、向かいには半助が座っていた。朝食は、野菜屑の入った味噌粥に漬物だ。忍術学園では、一通りの事が出来るように皆、厨に立つ。食堂で時たま、当番制で忍たま達が食事を作るのも、訓練と学習の一環である。
温かな湯気が立つ雑炊を口にする。
柔らかな塩気と味噌の香りが何とも美味しい。
野菜から仄かに甘みが出ているようで、全体的に優しい味付けだ。添えてある漬物が、いいアクセントになる。
「美味しい……伊作くん達が作ったんですか」
「まぁね。澪さん程、上手にはいかないけれど」
「いえいえ。人に作ってもらった料理というだけで、美味しく感じます。ありがとうございます」
お礼を言うと、伊作が照れくさそうに笑った。斜向かいに座っている仙蔵は、静かに目を伏せている。
「うん、美味かった。ご馳走様、二人とも」
「ご馳走様でした」
お粥はあっという間に食べ終わった。今日の半助は、京に出るせいか澪が縫った虫襖の色の着物を着ている。
「土井先生、新しい着物ですか。良くお似合いです」
「まぁな」
仙蔵が半助を褒めると、照れくさそうに笑う。はにかむ様な笑顔に、半助のハンサムぶりが際立つ。
と言うより、正直、顔で選んでしまった関白殿下の御屋敷訪問一行は、無駄に煌びやかだと今更気付いた。
年長者の半助は、平均身長が現代の日本人より低いこの時代において、かなりの長身だ。
大男、と言われる部類である。
それだけで目立つのに、顔もよく文句なしの好青年。背が高いハンサムなんて、女子ホイホイであろう。
伊作は色素の薄い柔らかそうな髪に、柔和な顔立ちをしており、いかにも優しそうな美少年だ。本人の温和な性格が滲み出る外見といい、年齢を問わず女性からの受けの良い顔立ちをしている。
そして、仙蔵であるが、女も羨むサラサラのキューティクルを放つ長髪に、切れ長の瞳、色白の顔は殿様の傍に小姓として侍ってもおかしくはない外見だ。中性的でありながらも、少年らしい体つきをしており秀麗な顔立ちに理知的な眼差しは、その気になれば女子を骨抜きにできよう。
ーー今日、男装していて良かった。
と、澪は素直に思った。こんな目立つ男達を連れて女の姿で町に繰り出した日には、無駄に周囲の女性から反感を買いそうである。
澪がそんな感想を抱いてしまう位に、妙に目立つ一行は朝食を食べ終えて片付けてから、早々に忍術学園を出立した。
早朝の出発ため、既に外出届は提出済みである。木で出来た荘厳な忍術学園の門扉を出て、京へと只管向かう。
道中は、他愛ない話をして時間を潰した。早朝のため、辺りに人もおらず澪さん、と呼ばれる。
「澪さん。文次郎から聞いたんだが、異国の歴史に詳しいのだとか。よければ、京へ着くまでの道中、我々に暇つぶしついでに色々と話して教えてくれるか」
「ぼくもその話、留三郎から聞いた。澪さん、話せる範囲でいいからお願いできないかな」
「……澪さん。異国の歴史にまで堪能なんて、異国に詳しい時点で、まぁそうなんだろうなぁって思うけど。でも、わたしはそんな話、聞いてないよ」
教えてくれと、知的好奇心溢れる眼差しを向けてくる仙蔵と伊作。その傍ら、物言いたげな目線を寄越してくる半助。
「知っている、と言っても断片的で大まかにです。堪能という程では。それと、別に隠してたんじゃないですよ」
「どーせ、聞かれなかったから、とか言うんだろう。はぁー、まぁ、いいけれど。その代わり、道中、話しをするにしても人通りが増えてきたら止めるように。そして、澪さんは帰ったら、全部わたしに教えることっ!!」
半助に強く言われ、そのまま約束させられた。なお、本気を出せば可能な宇宙誕生の歴史やら、アウストラロピテクスから始まる人類史等は語るつもりはない。
当たり障りなく、南蛮人から確認した彼等の故郷に伝わる歴史の話を掻い摘んで話すつもりだ。
「あー、そしたら、まずはギリシアの歴史とかにしましょうか。ついでにちょっとした神話とかどうです?」
専門で学んだわけではないので、比較的未だ説明しやすいギリシアの事を話すのを提案する。何がいいのか分からないのだろう。「では、それで」と仙蔵が頷いたので、澪は舌先で軽く唇を湿らせて話をした。
「ギリシアというのは、位置的には南蛮人の支配領域に近い国なんですが、今はオスマン帝国という南蛮人とはまた異なる人種の国家によって支配されています。そのギリシアでは、昔に南蛮人の文化にも大きな影響を今も及ぼす、偉大な文明が栄えていたんです。時代で言うと、紀元前ーー三国志の頃よりさらに昔ですね。日ノ本は、まだ国としての体を成していなかった頃の話です」
「そんな大昔に南蛮の方で発展した国があったんだな。で、紀元前とは何だ?」
ふむふむ、と好奇心も顕に仙蔵が頷きつつ質問してきた。伊作や半助も黙って澪の話に耳を傾けている。
「紀元前というのは、南蛮人が信仰する切支丹の教えを元にした、暦の事ですよ。イエス・キリストという、彼らの信じるこの世の救世主が生まれたのを境に紀元前、紀元後と言います。因みに、今は紀元後千五百年代ですね。ギリシア文明はおよそ、紀元前八百年頃のお話になるので、大体二千三百年くらい昔の話ということです」
澪が話す、途方もない昔の話に目を丸くする仙蔵達。
「世界は広いんだねぇ……」
ほぅ、とため息をついて伊作が呟いた。そう、世界は広いのだ。日ノ本が地球規模で見ると如何に小さく狭い事か。
「今度、上級生を中心にしんベヱのお父上から提供を受けた地図の情報をもとに、日ノ本の外の国の事について、授業をする予定がある。楽しみにしているといい」
「本当ですか!楽しみです」
「つまりそれは……澪さんから得た情報を我々にも広く流すという事ですよね。貨幣等についての話は既に聞きましたが、それ以外も全て」
半助の言葉に素直に喜ぶ伊作。仙蔵は、チラリと澪に視線を投げかけつつも半助に確認していた。
知識というのは、インターネットのない時代において非常に重宝されるものだ。つまり、貴重な情報であればあるほど秘匿され、共有される事はない。
仙蔵の眼差しは、無言の内にそれでいいのか?と澪に問いかけるような物があった。
「土井先生……わたし達としては有難い限りです。が、ないとは思いますが澪さんの意思に反してはいない事を念のため、確認したいのですが」
「大丈夫ですよ、仙蔵くん。これは、わたしを目立たせないための学園長からの計らいです。むしろ、学園の先生方や忍たまの皆さんに色々と知っていただいた方が有難いというものです」
仙蔵らしい気遣いに、何だか擽ったい気持ちになる。半助の代わりに澪本人が返事をすると、納得したのか「なら、いい」と仙蔵は頷いた。
それから、ギリシア文明の事と神話の事も道に人が増えて来る頃まで、三人に話して聞かせた。人間臭い神々が出てくるギリシア神話の物語を伊作が気に入ったらしく、人が増えてきたので話を終いにすると、また続きを是非、と頼まれた。
半助と仙蔵にはどうせなら、ギリシア神話をはじめ、澪の知る異国の神話や昔話を紙に書いて残しておくよう言われた。
束にして本にすれば、忍術学園の図書室に置いておくと、ちょっとした書物になるだろうからーーとの事だ。
忍術学園の図書室にある著者不明な謎の本は、そうやって書き溜められた物らしい。ある意味、忍術学園にしかない書物と言えよう。
京の町に到着したのは、日もだいぶ高くなってからの事だった。関白殿下の屋敷に行く前に、腹ごなしに店に入って昼食を摂り、それから公家屋敷がある界隈へと足を伸ばした。
立派な敷地と、壁のように続く塀が特徴的な界隈は、だが、一方で下級貴族の屋敷等ともなると、塀が傷み所々崩れている物もあった。応仁の乱と呼ばれる京での戦により、公家の屋敷も多くが消失し、そこから再建されているものが多いので、年数は古いものでも手入れが行き届いていない屋敷は百年程度だが、結構な傷みがある。
だが、塀が美しいからと屋敷も立派かというとこれがそうでもない。貴族は対面を重んじるため、塀の修復はしていても屋敷は雨漏りだらけで床が腐ってるなんて珍しくないのだ。
武家の屋敷の方が位は低いのに、頑丈で立派だったりするのを思うと、貴族でないのに何やら切ない気がする。
一時はこの国で栄華を誇った公家達も、今やかつての勢いはない。中には都を離れて武家と肩を並べ、領地で在地経営する貴族もいるがあくまでも一部である。
近衛家の屋敷は、直ぐに分かった。五摂家ともなると、塀の崩れは見当たらないし、一人だが門に居る門番代わりと思われる下男がいたせいでもある。
というより、京という町は大きな公家の家ともなると、周辺の住民が知っているので、聞けばすぐに見つかる。碁盤の目に整えられた町というのもあって、発見は容易であった。
「では、わたしはこの辺りで待っているよ。何かあれば、知らせてくれ」
近衛家の屋敷から、一町程の距離の所で半助が離れた。残る澪と仙蔵そして伊作とで近衛家の屋敷に向かう。辿り着くまでの間、緊張のためか六年生二人は無言だった。
「あの……よろしいですか?」
門の所にいた下男に声をかけ、澪は懐から例の書状を取り出した。
「わたしは、伝助と申します。関白殿下より、屋敷を訪問するよう有難く仰せつかり、お言葉に甘えて友人と共に参じました。証拠の書状はこれに」
「ふむ。確認します故、暫しお待ちを」
怪訝そうな顔をしつつも下男が書状を受け取り、内容を確認する。特に怪しむような目線を投げかけるでもなく、屋敷の中の者を呼び澪の渡した書状を見せていた。
「いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました。屋敷へご案内いたします」
予め、何らかの連絡が使用人達の間にいっていたのか。詳細は分からないが、澪達は門の外で待ちぼうけをくらうこともなく、割とすんなり中へ通された。庭の手入れも最近行われた様子があり、流石は近衛家だと感心する。とはいえ、屋敷自体は大事に使っていそうだが、それなりに古そうであった。
門の所から屋敷までは男の使用人が。屋敷からは女中がやって来て、澪達を客間まで通してくれた。
「主は、内裏よりもう少ししたら帰宅予定でございます。戻られるまでは、こちらでお待ちください。お茶を持って参ります」
「ありがとうございます」
女中は中年くらいで、少しだけ白髪が混じっていた。だが、声はハキハキしている。驚いたのは、どう見ても庶民だろう澪達を客間と思しき部屋に通した事だ。
調度品の豪華さから、すぐにそれを見抜く事ができる。屋敷の庭が一望できるようになっており、景観も文句なしだ。
「ーー伊作、下手に動くなよ」
「分かってるよ。ぼくの行動一つ一つにいつ不運がふりかかるか分からないもんね」
「二人とも、あんまりガチガチになる必要もないのでは。殿下が来るまでの間、庭を見て楽しみましょう」
二人して、まるで地蔵の如くカチコチに固まる物だから、落ち着かせるためにもポンと肩を叩いてやる。
武家屋敷とはまた趣の異なる屋敷に、澪は感嘆のため息をついた。所謂、お嬢様の暮らしをした事はあるが、流石に公家の屋敷、それも五摂家の所有する物になんてお目にかかった事がない。
この屋敷もおそらくは、京の大乱、所謂、応仁の乱の後で建てられた物なのだろう。それでも、住んでいる者の影響か、武家屋敷とはまた違った雅な風情というか趣があるように感じられた。
お茶を持って来たのか、床を踏む足音が微かにした。それも、二人分だ。澪が気付いたのだから、勿論、忍たま六年生二人とも気付いている。居住まいを正して、部屋の入口を見ていた。
「ーーお待たせいたしました」
すっ、と、部屋の中に女中がやって来る。その後ろに、もう一人が立っていた。
「客人が来たと聞いて、顔を見に来た。息子が来るまで、麿が相手をするというのは如何?」
そこには、品の良さそうな老人がいた。
歳の頃は六十前後と言った所か。口調からして、貴族であるのは間違いない。何より、息子が関白殿下である、と言うことは、目の前の老人は近衛家の前当主であろう。
つまりは、先の関白ーー太閤殿下である。
屋敷を訪うため、澪は勿論の事、伊作と仙蔵も近衛家の事は粗方調べてある。近衛家の現当主は先日遭遇した関白、近衛幸久その人であるが、隠居をした前当主が存命である事は勿論、知っていた。その前当主もまた、宮廷で関白にまで上り詰めた御仁である。
とはいえ、屋敷にいるにしてもわざわざ澪達の顔を見に来るとは。
全員、畏まって近衛家の前当主、太閤殿下を前に深く頭を下げた。
「麿はとうに隠居の身じゃ。年のせいか体に時折痛みや痺れが走る事もあり運動不足での。屋敷におるのも退屈する故、顔を出しただけよ」
貴族、それも最上位といってもいい身分なのに、庶民相手にフレンドリーとはこれ如何に。
「面をあげよ」
のほほん、とした口調と雰囲気で言われると顔をあげざるを得ない。おそるおそるといった具合に、三人揃って顔を上げるとにこやかに笑顔を向けられた。
「うんうん。皆、見目が良いでおじゃるの。特にそなたは優しそうじゃ。撫子色の衣のそなた、名は?」
どうやら、太閤殿下は伊作の顔を気に入ったようだ。名前を尋ねられた伊作はカチコチである。
「ぜ、善法寺伊作と申します。太閤殿下」
「太閤殿下はちと堅苦しい。大殿でも構わんぞ。して、残りの二人の名は?」
伊作の返事に柔らかな表情と口調で返事を返す前近衛家当主、もとい、太閤に澪と仙蔵は顔を見合せつつも名乗った。その間に、女中が人数分の茶を出して静かに退室する。
「わたしの名は、立花仙蔵と申します。太閤殿下」
「……わたしの名は、伝助です。姓はございません」
「ほぅ。そなたが伝助か。息子から聞いておるぞ。何でも、牛車の屋形を見かけによらぬ剛力で支えた、とか」
太閤殿下は興味津々とばかりに、澪をじーっと見つめている。穴が開きそうだな、と思わなくもないがその視線を咎められるような身分ではないため、黙って耐えるしかない。
「あはは……まぁ、力には自信がございますので」
「そなた、そんな姿をしているが、ひょっとして女子ではないのか?」
いきなり投げかけられた質問に、澪は固まった。伊作や仙蔵も同じく固まっている。問われれば隠し立てするつもりがなかったとはいえ、こうもさっさと見切られるなんて、まだまだだな、と苦笑いしてしまいそうだ。
なので、ここは潔く謝る事にした。
「その通りでございます。嘘をつくつもりはございませんでしたが、最初に関白殿下とお会いした時にこの姿でしたので、本日はそのままあえて屋敷を訪問した次第でございます。騙すつもりがあったわけではございません。何卒、お許しいただきたく……」
「責めてるわけではない。これこれ、そのように土下座してくれるな。伝助ではなく、そなたの本当の名前を教えてくれればそれでよいのじゃ」
土下座する澪を、どこか焦ったような声で太閤殿下が止めた。
「わたしの名は、澪と申します。姓はございません」
「ーー澪」
ゆっくりと顔を上げ、偽名ではない自身の名前を言うと、太閤殿下は目を細めた。それから、「澪、澪……」と、小さな声で呟くように名前を言う。その声が、気の所為でなければ少し震えている気がした。
「美しい名じゃな。そなたに相応しい」
ーー何だか、こそばゆい。
太閤殿下が、それは優しい声と表情で言う物だから、直視した澪はその場で固まった。若い頃は、間違いなく女にモテだろう外見の美老人から褒められると、照れてしまう。
「お褒め頂き、ありがとうございます」
「うむうむ。声も良いの」
べた褒め過ぎではないか。少し困惑するが、にこにこと笑顔を向けられると、悪い気はしない。太閤殿下は笑顔のまま、お茶を飲もうと湯のみを取ろうとするーーその瞬間。
「っーー!」
太閤殿下が顔を顰めて手を引っ込めた。見ると、目眩でもしたのか目頭を押さえている。
「大丈夫ですか!お傍に寄っても?」
すぐに動いたのは伊作だ。流石は保健委員。ささっと動いて、太閤殿下が了承して頷くや、側までいくと顔色やらを確認している。
「大丈夫じゃ……。話したでおじゃろう、年のせいよ。時たま、目眩や頭痛がするでの。気にするでない」
「ですが、あまり顔色がよろしくありません」
「参内する事もある故、疲れておじゃるのだろう。ここ最近、酷くなってきておる。梅雨のせいかもしれぬの」
伊作がすっかり保健委員の顔になっている。心配そうに太閤殿下を見ていた。
「ーーあの、ひょっとして、呂律が回らなったり、物が二重に見えたり、箸が上手く持てないとかも、あったりしますか?」
気になったので、澪は太閤殿下に問うた。
「おお、それもおじゃる。年寄り故、珍しくない事かと思うが」
「成程……」
症状を聞いた澪は、覚えのある症例に目を細めた。澪の表情を見た仙蔵が、じっと見てくる。
「何か心当たりがあるのか?」
「確証はありませんけど……ひょっとして、という物はあります」
「何と……!」
澪の回答に、一同が目を見開いた。
「わたしは医者ではないので、核心があるわけではありませんが……放っておくと卒中になる可能性や痴呆になる場合があるかと」
「澪さんてば、そんな事まで知ってるの?」
ほぅ、と伊作がため息混じりに呟いた。とはいえ、実際の所は澪の前世の記憶から知り得た知識である。とはいえ、そんな事は言えないのでそれっぽい事を話す。
「以前、同じような症状を長らく放置していた知人が、それから卒中で亡くなったのを知っているもので。あとはその事もあって、たまたま、お医者様から卒中の事で話を聞く機会があっただけですよ」
卒中も痴呆も戦国時代では、なってしまえば手の施しようがない。そのためか、太閤殿下は勿論のこと、伊作や仙蔵も凍ったように固まっている。
「食事療法と、適度な運動等の生活習慣改善で多少は発生する確率がマシになるかと思いますが……」
「うん。もう、わたしは何も突っ込まないぞ。しかし、こうもポンポン色々と出てくるとは。大いに澪さんらしいしな」
仙蔵がやや匙を投げたような様子で呟いた。澪としては、その反応はちょっぴり心外である。
「すまぬが、その事を詳しく説明してほしい。それと紙に書き記すのも、お願いできるかの」
「勿論でございます」
「おお、有難い」
二つ返事で請け負う澪。
途端に伊作と仙蔵が顔を見合せて何やら溜め息をついていたが、それはそれである。
半助がここにいたら、おそらくは二人と同じように深い溜め息をついていただろう。
鏡に映る伝助の姿をした自分を前に、澪はおかしな所が無いか最終確認をしていた。
男装と言っても、本来の性である女の装いをしている時より準備は簡単だ。化粧はせずスッピンにすればいいし、髪も高く一つに結ぶだけ。小汚く見せたければ、顔を炭で汚すという方法もあるが、そうした所で鏡に映るのは中性的な美少年だ。喉仏を隠さねば、看破される可能性がどうしても残る程度の出来栄えである。
くのたま達の宿舎は静かだ。
起きて行動するには早い時間だが、これから京の町に繰り出す澪からすれば丁度いい時間である。幸い外の天気は曇りだが、雨は降っていない。
後は、腹ごしらえに簡単な朝食を食べて出立だ。用意を済ませて食堂に向かうと、既に半助、伊作、仙蔵がおり澪の分の朝食の用意がされてあった。伊作と仙蔵は既に食べ終わりかけている。
「洗い物と片付けは、ぼくと仙蔵がするから土井先生と澪さんは、急がず食べてね」
「お気遣いありがとうございます。伊作くん、仙蔵くん」
お礼を言うと、席を勧められたので着席する。場所は伊作の隣で、向かいには半助が座っていた。朝食は、野菜屑の入った味噌粥に漬物だ。忍術学園では、一通りの事が出来るように皆、厨に立つ。食堂で時たま、当番制で忍たま達が食事を作るのも、訓練と学習の一環である。
温かな湯気が立つ雑炊を口にする。
柔らかな塩気と味噌の香りが何とも美味しい。
野菜から仄かに甘みが出ているようで、全体的に優しい味付けだ。添えてある漬物が、いいアクセントになる。
「美味しい……伊作くん達が作ったんですか」
「まぁね。澪さん程、上手にはいかないけれど」
「いえいえ。人に作ってもらった料理というだけで、美味しく感じます。ありがとうございます」
お礼を言うと、伊作が照れくさそうに笑った。斜向かいに座っている仙蔵は、静かに目を伏せている。
「うん、美味かった。ご馳走様、二人とも」
「ご馳走様でした」
お粥はあっという間に食べ終わった。今日の半助は、京に出るせいか澪が縫った虫襖の色の着物を着ている。
「土井先生、新しい着物ですか。良くお似合いです」
「まぁな」
仙蔵が半助を褒めると、照れくさそうに笑う。はにかむ様な笑顔に、半助のハンサムぶりが際立つ。
と言うより、正直、顔で選んでしまった関白殿下の御屋敷訪問一行は、無駄に煌びやかだと今更気付いた。
年長者の半助は、平均身長が現代の日本人より低いこの時代において、かなりの長身だ。
大男、と言われる部類である。
それだけで目立つのに、顔もよく文句なしの好青年。背が高いハンサムなんて、女子ホイホイであろう。
伊作は色素の薄い柔らかそうな髪に、柔和な顔立ちをしており、いかにも優しそうな美少年だ。本人の温和な性格が滲み出る外見といい、年齢を問わず女性からの受けの良い顔立ちをしている。
そして、仙蔵であるが、女も羨むサラサラのキューティクルを放つ長髪に、切れ長の瞳、色白の顔は殿様の傍に小姓として侍ってもおかしくはない外見だ。中性的でありながらも、少年らしい体つきをしており秀麗な顔立ちに理知的な眼差しは、その気になれば女子を骨抜きにできよう。
ーー今日、男装していて良かった。
と、澪は素直に思った。こんな目立つ男達を連れて女の姿で町に繰り出した日には、無駄に周囲の女性から反感を買いそうである。
澪がそんな感想を抱いてしまう位に、妙に目立つ一行は朝食を食べ終えて片付けてから、早々に忍術学園を出立した。
早朝の出発ため、既に外出届は提出済みである。木で出来た荘厳な忍術学園の門扉を出て、京へと只管向かう。
道中は、他愛ない話をして時間を潰した。早朝のため、辺りに人もおらず澪さん、と呼ばれる。
「澪さん。文次郎から聞いたんだが、異国の歴史に詳しいのだとか。よければ、京へ着くまでの道中、我々に暇つぶしついでに色々と話して教えてくれるか」
「ぼくもその話、留三郎から聞いた。澪さん、話せる範囲でいいからお願いできないかな」
「……澪さん。異国の歴史にまで堪能なんて、異国に詳しい時点で、まぁそうなんだろうなぁって思うけど。でも、わたしはそんな話、聞いてないよ」
教えてくれと、知的好奇心溢れる眼差しを向けてくる仙蔵と伊作。その傍ら、物言いたげな目線を寄越してくる半助。
「知っている、と言っても断片的で大まかにです。堪能という程では。それと、別に隠してたんじゃないですよ」
「どーせ、聞かれなかったから、とか言うんだろう。はぁー、まぁ、いいけれど。その代わり、道中、話しをするにしても人通りが増えてきたら止めるように。そして、澪さんは帰ったら、全部わたしに教えることっ!!」
半助に強く言われ、そのまま約束させられた。なお、本気を出せば可能な宇宙誕生の歴史やら、アウストラロピテクスから始まる人類史等は語るつもりはない。
当たり障りなく、南蛮人から確認した彼等の故郷に伝わる歴史の話を掻い摘んで話すつもりだ。
「あー、そしたら、まずはギリシアの歴史とかにしましょうか。ついでにちょっとした神話とかどうです?」
専門で学んだわけではないので、比較的未だ説明しやすいギリシアの事を話すのを提案する。何がいいのか分からないのだろう。「では、それで」と仙蔵が頷いたので、澪は舌先で軽く唇を湿らせて話をした。
「ギリシアというのは、位置的には南蛮人の支配領域に近い国なんですが、今はオスマン帝国という南蛮人とはまた異なる人種の国家によって支配されています。そのギリシアでは、昔に南蛮人の文化にも大きな影響を今も及ぼす、偉大な文明が栄えていたんです。時代で言うと、紀元前ーー三国志の頃よりさらに昔ですね。日ノ本は、まだ国としての体を成していなかった頃の話です」
「そんな大昔に南蛮の方で発展した国があったんだな。で、紀元前とは何だ?」
ふむふむ、と好奇心も顕に仙蔵が頷きつつ質問してきた。伊作や半助も黙って澪の話に耳を傾けている。
「紀元前というのは、南蛮人が信仰する切支丹の教えを元にした、暦の事ですよ。イエス・キリストという、彼らの信じるこの世の救世主が生まれたのを境に紀元前、紀元後と言います。因みに、今は紀元後千五百年代ですね。ギリシア文明はおよそ、紀元前八百年頃のお話になるので、大体二千三百年くらい昔の話ということです」
澪が話す、途方もない昔の話に目を丸くする仙蔵達。
「世界は広いんだねぇ……」
ほぅ、とため息をついて伊作が呟いた。そう、世界は広いのだ。日ノ本が地球規模で見ると如何に小さく狭い事か。
「今度、上級生を中心にしんベヱのお父上から提供を受けた地図の情報をもとに、日ノ本の外の国の事について、授業をする予定がある。楽しみにしているといい」
「本当ですか!楽しみです」
「つまりそれは……澪さんから得た情報を我々にも広く流すという事ですよね。貨幣等についての話は既に聞きましたが、それ以外も全て」
半助の言葉に素直に喜ぶ伊作。仙蔵は、チラリと澪に視線を投げかけつつも半助に確認していた。
知識というのは、インターネットのない時代において非常に重宝されるものだ。つまり、貴重な情報であればあるほど秘匿され、共有される事はない。
仙蔵の眼差しは、無言の内にそれでいいのか?と澪に問いかけるような物があった。
「土井先生……わたし達としては有難い限りです。が、ないとは思いますが澪さんの意思に反してはいない事を念のため、確認したいのですが」
「大丈夫ですよ、仙蔵くん。これは、わたしを目立たせないための学園長からの計らいです。むしろ、学園の先生方や忍たまの皆さんに色々と知っていただいた方が有難いというものです」
仙蔵らしい気遣いに、何だか擽ったい気持ちになる。半助の代わりに澪本人が返事をすると、納得したのか「なら、いい」と仙蔵は頷いた。
それから、ギリシア文明の事と神話の事も道に人が増えて来る頃まで、三人に話して聞かせた。人間臭い神々が出てくるギリシア神話の物語を伊作が気に入ったらしく、人が増えてきたので話を終いにすると、また続きを是非、と頼まれた。
半助と仙蔵にはどうせなら、ギリシア神話をはじめ、澪の知る異国の神話や昔話を紙に書いて残しておくよう言われた。
束にして本にすれば、忍術学園の図書室に置いておくと、ちょっとした書物になるだろうからーーとの事だ。
忍術学園の図書室にある著者不明な謎の本は、そうやって書き溜められた物らしい。ある意味、忍術学園にしかない書物と言えよう。
京の町に到着したのは、日もだいぶ高くなってからの事だった。関白殿下の屋敷に行く前に、腹ごなしに店に入って昼食を摂り、それから公家屋敷がある界隈へと足を伸ばした。
立派な敷地と、壁のように続く塀が特徴的な界隈は、だが、一方で下級貴族の屋敷等ともなると、塀が傷み所々崩れている物もあった。応仁の乱と呼ばれる京での戦により、公家の屋敷も多くが消失し、そこから再建されているものが多いので、年数は古いものでも手入れが行き届いていない屋敷は百年程度だが、結構な傷みがある。
だが、塀が美しいからと屋敷も立派かというとこれがそうでもない。貴族は対面を重んじるため、塀の修復はしていても屋敷は雨漏りだらけで床が腐ってるなんて珍しくないのだ。
武家の屋敷の方が位は低いのに、頑丈で立派だったりするのを思うと、貴族でないのに何やら切ない気がする。
一時はこの国で栄華を誇った公家達も、今やかつての勢いはない。中には都を離れて武家と肩を並べ、領地で在地経営する貴族もいるがあくまでも一部である。
近衛家の屋敷は、直ぐに分かった。五摂家ともなると、塀の崩れは見当たらないし、一人だが門に居る門番代わりと思われる下男がいたせいでもある。
というより、京という町は大きな公家の家ともなると、周辺の住民が知っているので、聞けばすぐに見つかる。碁盤の目に整えられた町というのもあって、発見は容易であった。
「では、わたしはこの辺りで待っているよ。何かあれば、知らせてくれ」
近衛家の屋敷から、一町程の距離の所で半助が離れた。残る澪と仙蔵そして伊作とで近衛家の屋敷に向かう。辿り着くまでの間、緊張のためか六年生二人は無言だった。
「あの……よろしいですか?」
門の所にいた下男に声をかけ、澪は懐から例の書状を取り出した。
「わたしは、伝助と申します。関白殿下より、屋敷を訪問するよう有難く仰せつかり、お言葉に甘えて友人と共に参じました。証拠の書状はこれに」
「ふむ。確認します故、暫しお待ちを」
怪訝そうな顔をしつつも下男が書状を受け取り、内容を確認する。特に怪しむような目線を投げかけるでもなく、屋敷の中の者を呼び澪の渡した書状を見せていた。
「いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました。屋敷へご案内いたします」
予め、何らかの連絡が使用人達の間にいっていたのか。詳細は分からないが、澪達は門の外で待ちぼうけをくらうこともなく、割とすんなり中へ通された。庭の手入れも最近行われた様子があり、流石は近衛家だと感心する。とはいえ、屋敷自体は大事に使っていそうだが、それなりに古そうであった。
門の所から屋敷までは男の使用人が。屋敷からは女中がやって来て、澪達を客間まで通してくれた。
「主は、内裏よりもう少ししたら帰宅予定でございます。戻られるまでは、こちらでお待ちください。お茶を持って参ります」
「ありがとうございます」
女中は中年くらいで、少しだけ白髪が混じっていた。だが、声はハキハキしている。驚いたのは、どう見ても庶民だろう澪達を客間と思しき部屋に通した事だ。
調度品の豪華さから、すぐにそれを見抜く事ができる。屋敷の庭が一望できるようになっており、景観も文句なしだ。
「ーー伊作、下手に動くなよ」
「分かってるよ。ぼくの行動一つ一つにいつ不運がふりかかるか分からないもんね」
「二人とも、あんまりガチガチになる必要もないのでは。殿下が来るまでの間、庭を見て楽しみましょう」
二人して、まるで地蔵の如くカチコチに固まる物だから、落ち着かせるためにもポンと肩を叩いてやる。
武家屋敷とはまた趣の異なる屋敷に、澪は感嘆のため息をついた。所謂、お嬢様の暮らしをした事はあるが、流石に公家の屋敷、それも五摂家の所有する物になんてお目にかかった事がない。
この屋敷もおそらくは、京の大乱、所謂、応仁の乱の後で建てられた物なのだろう。それでも、住んでいる者の影響か、武家屋敷とはまた違った雅な風情というか趣があるように感じられた。
お茶を持って来たのか、床を踏む足音が微かにした。それも、二人分だ。澪が気付いたのだから、勿論、忍たま六年生二人とも気付いている。居住まいを正して、部屋の入口を見ていた。
「ーーお待たせいたしました」
すっ、と、部屋の中に女中がやって来る。その後ろに、もう一人が立っていた。
「客人が来たと聞いて、顔を見に来た。息子が来るまで、麿が相手をするというのは如何?」
そこには、品の良さそうな老人がいた。
歳の頃は六十前後と言った所か。口調からして、貴族であるのは間違いない。何より、息子が関白殿下である、と言うことは、目の前の老人は近衛家の前当主であろう。
つまりは、先の関白ーー太閤殿下である。
屋敷を訪うため、澪は勿論の事、伊作と仙蔵も近衛家の事は粗方調べてある。近衛家の現当主は先日遭遇した関白、近衛幸久その人であるが、隠居をした前当主が存命である事は勿論、知っていた。その前当主もまた、宮廷で関白にまで上り詰めた御仁である。
とはいえ、屋敷にいるにしてもわざわざ澪達の顔を見に来るとは。
全員、畏まって近衛家の前当主、太閤殿下を前に深く頭を下げた。
「麿はとうに隠居の身じゃ。年のせいか体に時折痛みや痺れが走る事もあり運動不足での。屋敷におるのも退屈する故、顔を出しただけよ」
貴族、それも最上位といってもいい身分なのに、庶民相手にフレンドリーとはこれ如何に。
「面をあげよ」
のほほん、とした口調と雰囲気で言われると顔をあげざるを得ない。おそるおそるといった具合に、三人揃って顔を上げるとにこやかに笑顔を向けられた。
「うんうん。皆、見目が良いでおじゃるの。特にそなたは優しそうじゃ。撫子色の衣のそなた、名は?」
どうやら、太閤殿下は伊作の顔を気に入ったようだ。名前を尋ねられた伊作はカチコチである。
「ぜ、善法寺伊作と申します。太閤殿下」
「太閤殿下はちと堅苦しい。大殿でも構わんぞ。して、残りの二人の名は?」
伊作の返事に柔らかな表情と口調で返事を返す前近衛家当主、もとい、太閤に澪と仙蔵は顔を見合せつつも名乗った。その間に、女中が人数分の茶を出して静かに退室する。
「わたしの名は、立花仙蔵と申します。太閤殿下」
「……わたしの名は、伝助です。姓はございません」
「ほぅ。そなたが伝助か。息子から聞いておるぞ。何でも、牛車の屋形を見かけによらぬ剛力で支えた、とか」
太閤殿下は興味津々とばかりに、澪をじーっと見つめている。穴が開きそうだな、と思わなくもないがその視線を咎められるような身分ではないため、黙って耐えるしかない。
「あはは……まぁ、力には自信がございますので」
「そなた、そんな姿をしているが、ひょっとして女子ではないのか?」
いきなり投げかけられた質問に、澪は固まった。伊作や仙蔵も同じく固まっている。問われれば隠し立てするつもりがなかったとはいえ、こうもさっさと見切られるなんて、まだまだだな、と苦笑いしてしまいそうだ。
なので、ここは潔く謝る事にした。
「その通りでございます。嘘をつくつもりはございませんでしたが、最初に関白殿下とお会いした時にこの姿でしたので、本日はそのままあえて屋敷を訪問した次第でございます。騙すつもりがあったわけではございません。何卒、お許しいただきたく……」
「責めてるわけではない。これこれ、そのように土下座してくれるな。伝助ではなく、そなたの本当の名前を教えてくれればそれでよいのじゃ」
土下座する澪を、どこか焦ったような声で太閤殿下が止めた。
「わたしの名は、澪と申します。姓はございません」
「ーー澪」
ゆっくりと顔を上げ、偽名ではない自身の名前を言うと、太閤殿下は目を細めた。それから、「澪、澪……」と、小さな声で呟くように名前を言う。その声が、気の所為でなければ少し震えている気がした。
「美しい名じゃな。そなたに相応しい」
ーー何だか、こそばゆい。
太閤殿下が、それは優しい声と表情で言う物だから、直視した澪はその場で固まった。若い頃は、間違いなく女にモテだろう外見の美老人から褒められると、照れてしまう。
「お褒め頂き、ありがとうございます」
「うむうむ。声も良いの」
べた褒め過ぎではないか。少し困惑するが、にこにこと笑顔を向けられると、悪い気はしない。太閤殿下は笑顔のまま、お茶を飲もうと湯のみを取ろうとするーーその瞬間。
「っーー!」
太閤殿下が顔を顰めて手を引っ込めた。見ると、目眩でもしたのか目頭を押さえている。
「大丈夫ですか!お傍に寄っても?」
すぐに動いたのは伊作だ。流石は保健委員。ささっと動いて、太閤殿下が了承して頷くや、側までいくと顔色やらを確認している。
「大丈夫じゃ……。話したでおじゃろう、年のせいよ。時たま、目眩や頭痛がするでの。気にするでない」
「ですが、あまり顔色がよろしくありません」
「参内する事もある故、疲れておじゃるのだろう。ここ最近、酷くなってきておる。梅雨のせいかもしれぬの」
伊作がすっかり保健委員の顔になっている。心配そうに太閤殿下を見ていた。
「ーーあの、ひょっとして、呂律が回らなったり、物が二重に見えたり、箸が上手く持てないとかも、あったりしますか?」
気になったので、澪は太閤殿下に問うた。
「おお、それもおじゃる。年寄り故、珍しくない事かと思うが」
「成程……」
症状を聞いた澪は、覚えのある症例に目を細めた。澪の表情を見た仙蔵が、じっと見てくる。
「何か心当たりがあるのか?」
「確証はありませんけど……ひょっとして、という物はあります」
「何と……!」
澪の回答に、一同が目を見開いた。
「わたしは医者ではないので、核心があるわけではありませんが……放っておくと卒中になる可能性や痴呆になる場合があるかと」
「澪さんてば、そんな事まで知ってるの?」
ほぅ、と伊作がため息混じりに呟いた。とはいえ、実際の所は澪の前世の記憶から知り得た知識である。とはいえ、そんな事は言えないのでそれっぽい事を話す。
「以前、同じような症状を長らく放置していた知人が、それから卒中で亡くなったのを知っているもので。あとはその事もあって、たまたま、お医者様から卒中の事で話を聞く機会があっただけですよ」
卒中も痴呆も戦国時代では、なってしまえば手の施しようがない。そのためか、太閤殿下は勿論のこと、伊作や仙蔵も凍ったように固まっている。
「食事療法と、適度な運動等の生活習慣改善で多少は発生する確率がマシになるかと思いますが……」
「うん。もう、わたしは何も突っ込まないぞ。しかし、こうもポンポン色々と出てくるとは。大いに澪さんらしいしな」
仙蔵がやや匙を投げたような様子で呟いた。澪としては、その反応はちょっぴり心外である。
「すまぬが、その事を詳しく説明してほしい。それと紙に書き記すのも、お願いできるかの」
「勿論でございます」
「おお、有難い」
二つ返事で請け負う澪。
途端に伊作と仙蔵が顔を見合せて何やら溜め息をついていたが、それはそれである。
半助がここにいたら、おそらくは二人と同じように深い溜め息をついていただろう。
