第10話 ドッキリドキドキ大作戦
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五摂家とは何か。
簡単に言うと、摂政や関白に任じられる公家の中でも最高の家格を持つ五家の事である。
澪の知る前世の世界の日本では、古くは天皇に次ぐ地位を有し栄華を極めたのは藤原氏であった。五摂家とは鎌倉時代に成立した、藤原氏の嫡流の家柄である。公家の世界は、天皇と藤原氏が支配していると言っても過言ではなかった。
ーーこの世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたる事も なしと思へば。
そう詩にすら詠んだ一族は、伊達ではないという事である。
では、このヘンテコな世界ではどうか?と言うと。
史実と微妙に異なる名前もあるが、歴史の中に藤原の名前もあるし、五摂家もある。
ギャグみたいな名前の大名がいるので、当然ながら笑えそうな公家の名前等もあるわけだが、流石に関白殿下の名前は普通だった。
何だギャグじゃないのかと、何か期待を裏切られたような気になるのは、この巫山戯たなんちゃって戦国に慣れ親しんだ弊害か。
関白の名は、近衛幸久。
大河ドラマとかに出てくる事がある、史実に実在した室町末期の関白、近衛前久と名前が非常に似通っているが、なんちゃって戦国のため史実に限りなく名前が近い別人が居ても、さしたる驚きはない。
ーーが、流石に関白と町中で接触したとなると、ひっくり返りそうな話ではある。
ぶっちゃけて言うと、澪が立ち往生する牛車を助けたのは下心であった。
町で忍たま五年生達とランチに美味しいうどんを食べた後、澪は町中で人だかりを見つけて騒ぎを目撃した。
洛中からもほど近い町のため、牛車に乗っているのは貴族だと一目見て分かった。
御者が十数名になる事からして、屋形の形状こそ下級貴族の物だが、それなりに金があるか、又は屋形にそぐわぬ身分の者かもしれない……そう思った。
これは、ひょっとして公家との間にコネクションを作る機会になるのではないか。
以前、株式会社の説明を伝蔵達にした際、朝廷を商売に巻き込めないかと口にした所、どうやって渡りをつけるのかと指摘された事を真っ先に思い出した。
だから、これがその契機になるとまでは言わないが、何かの糸口になったりしないか……そう考えて打算から牛車に近付いたのだ。
言うなれば、これで大魚が食いつくとは思わぬがひとまず様子見で、餌をつけて竿を川へと放り込んだ釣り人の気持ちである。
スカかもしれない。
だが、小魚の一つでも釣れたら……そんな気持ちが、小魚所か川では釣れるはずのない立派な鯛を釣り上げてしまった気持ちであった。
つまり、予想外の大物過ぎて信じられない気持ち、と言うか。
ぶっちゃけ、関白に会える可能性が高い。だが、触らぬ神に祟なしとも言う。
色々考えると怖い切符を手に入れてしまった件について、無かった事にすべきか、はたまたワンチャン見込んで活用すべきか悩んだのである。
関白とか、流石にない。
ちょっとした役職についてる貴族で十分である。位が高すぎて逆に恐れ多い。まともに直視したら、目がやられるかもしれない。
驚きなのが、その関白が自分をーー正確には伝助を気に入ったと言う事だ。見目麗しい小姓を侍らせる戦国大名のような、男色を期待する物では無さそうな事があえて言うなら救いではある。
そう言う意味で気に入られたとなれば、どれだけ絶好の機会でもお近づきになるのはノーセンキューだからだ。女とバレた時が怖過ぎる。
それが、澪の嘘偽りない心境であった。だが、この吉と出るか凶と出るか分からない出来事を、学園長に報告しないわけにもいかない。
半ば放心状態の者も数名いたが、何とか上級生忍たま達と共に忍術学園に帰還したのは日が沈む直前の事だった。
出かける際、帰り道で景色のよい場所に寄ろうと言っていた勘右衛門が、すっかり腑抜けになってしまったので、当然ながらその機会は見送られた。
と言うか、皆が夢見心地であった。
例えるなら、現代風に言うと落とし物を交番に届け出たら、持ち主が総理大臣で直接礼をしたいから家に来いと言われた一般人と同じ気持ちになっていた。
たまたま親切を働いたら、どえらい人に繋がってしまったーーそのくらい、青天の霹靂であり有り得ない事が起こったと言っていい。
ドッキリドキドキ所の話ではない。
流石に事が事だけに、上級生達と共に澪は帰還早々に学園長室に駆けつけた。しかし、絶賛、学園長はお風呂中との事で仕方なく、ヘムヘムに先に夕食を食べておくよう指示され、全員で食堂へと向かった。
だが、食べる気が全くしなかった。それは、澪だけでなく上級生の忍たま達も同じだった。
なので、さっさっと湯漬けだけを食べる事にした。ちなみに、今日は食堂のおばちゃんのメニューではなく、当番の忍たま達が簡単な夕飯を用意してある日だ。そのため、湯漬けは澪達自身が用意した。
丁度、湯漬けを食べ終わるタイミングで食堂で半助と伝蔵と鉢合わせした。
二人は、上級生達と揃って湯漬けを食べている澪を見て、不思議そうな顔をしている。
「どうしたんだ、揃いも揃って湯漬けなんて。さては皆して食べ過ぎか?」
「食べ過ぎというより、色々あって食欲が無いんです。山田先生」
代表して答えたのは、文次郎である。澪は、お茶を啜りつつ同意して小さく頷いた。途端に、伝蔵の隣にいた半助が心配そうに澪を見た。
「そしたら、今日は早くお風呂に入って寝ないと」
「いえ、この後……六年生の皆と学園長先生の所に行きます。報告したい事があるので」
さっさと寝たいが、報告は今日中に終わらせたい。全員でぞろぞろ行く物でもないので、六年生達と報告に行く事になった。聞くと、六年生達から他にも学園長の耳に入れておきたい事があるのだとか。
伝蔵と半助は澪の答えに、食欲のない原因が報告にあると分かったのだろう。直ぐに二人とも目を合わせて頷きあった。
流石は一年は組の担当教師達である。寝所を共にするだけの事はあって、息ぴったりだ。
「その報告に、わたし達も同席していいかね。澪くん」
「あー……はい、いいですよ」
学園長に報告すれば、自ずと伝蔵辺りには伝わる話である。第一、既に上級生達も既に知っているのだから、教師相手に隠す事ではない。
手紙を読んだ際、澪としては上級生達にも読ませるか悩んだ。
だが、現場に立ち会った以上は気になるだろうし、下手に詮索されるよりはマシと逆に教えたのだ。そしたら皆、流石に誰彼構わず話す内容ではないと、自然と口を閉ざした。教えて正解だったと思う。
そりゃそうだ。
というより、殿上人に会ってなんなら喋って来たと言うのは、俄には信じられない。口にした所で信じてもらえない確率の方が高い。現代日本ならスマートフォンで一緒にいるのを撮影したら、いい証拠になるがここはなんちゃって戦国だ。そんな便利道具はない。
澪が了承すると、半助が優しい声音で話しかけてきた。
「なら、わたし達が夕飯を食べている間に、皆、お風呂にでも入ってくればいい。そしたら、少しは疲れも取れるだろうから。報告が終わったら寝るだけにしておいた方がいいと思うよ」
「あー……そうですね。そうします」
くのたまの宿舎にある簡易風呂を利用しよう。離れにある風呂は広いが、上級生達が入るかもしれない。
半助の言葉に従って、澪は食堂を後にしてから風呂に入って、すっきりした。髪が乾ききっていないが、手拭いを巻いて誤魔化し寝巻きは流石に失礼にあたるので、私服に着替えた。
伝蔵と半助の二人はと言うと、六年生達と共に澪を学園長室の前で待っていた。六年生は風呂にはまだ入ってないらしく、全員、外に出かけた時の姿のままだ。
「中に学園長先生がおられる。全員分の茶の用意もしてあるから入るとしよう」
「ありがとうございます」
そんなに長い話をするつもりはないのだが、風呂上がりというのもあって、少し喉を潤したい気がしていたので、お茶の用意は正直有り難かった。
ふと視線を感じたのでそちらを見ると、半助とバッチリ目があった。何故か、半助は澪を見ていたらしい。顔をパッと逸らされる。風呂上がりとはいえ、失礼にならない程度に身なりを整えたつもりだったのだが、何か気になる点でもあったのだろうか。
なお、当たり前だが半助は澪の風呂上がりの姿を見て、その何とも言えない色っぽさに見蕩れてしまっていたのであって、決して、だらしがないと見咎めたわけではない。
それがいまいち分からない澪は、気持ち着物の乱れをさっと直して学園長の部屋に入った。ちなみに、半助の様子に気が付いていた小平太の真ん丸な目が三角になりかけていたりしたが、澪は当然、気付いていなかった。
「失礼します」
すっ、と障子戸を開けて伝蔵が最初に中に入り、半助や六年生達と共に続く。部屋には、灯明皿に火がつけられており、その光が時折揺らめいていた。
ヘムヘムが、人数分のお茶をそっと差し出している。犬が二足歩行して、前足を人の腕のように使いこなしている珍風景に、今やすっかり慣れた澪である。
「学園長先生、夜分に失礼します。実は本日、町へ私用で赴いた際に色々あって、その事でわたし達と澪さんからご報告がありまして」
「何かは知らぬが、報告があることは聞いている。話すといい」
最初に仙蔵が口火を切ると、学園長が小さく頷いた。果たして、その余裕がいつまでもつは不明である。
「はっ。では……早速なのですが、本日は澪さんが五年生達と出かけており、偶然、我々はそれを追いかける形での外出となったのですが。澪さんの後を、ドクタケ忍者の風鬼がつけておりました」
「えっ」
六年生から、別件で報告したい事があるとは聞いていたが、それがまさかドクタケの事とは。澪は勿論の事、伝蔵と半助の眉がピクリと動いた。学園長はと言うと、微動だにしていない。
「そうであろうの。少し前にやった学園での試合については、ドクたま達の見学も許可していた。引率の魔界之小路先生から澪ちゃんの強さについて、ドクタケ忍者隊、ひいては稗田八方斎にも詳しく伝わったはず。むしろ、澪ちゃんのこれまでの活躍を考えればドクタケの動きは遅いくらいじゃ。故に、驚きはない。して、風鬼めは何を調べておったかの」
「それについてですが……小平太が、風鬼のメモを破り捨ててしまいまして」
「仙蔵はこう言っていますが、問題ありません、内容はきちんと覚えてるので。メモの中身は澪さんは男装も似合うとか、歩き方に品があるとか、笑顔が素敵とか、べた褒めの内容ばかりでした。ムカついたので、破り捨てました!!」
しょうもないメモの中身である。小平太の回答にズッコケそうになる澪。
何故か、半助が同意するように頷いているが、別に破り捨てるような内容でもない。しょうもなさ過ぎて。
「我々六年生からの報告は以上です。後は澪さん、お願いします」
「……分かりました」
ついでに、関白殿下の件も報告してくれて良かったのに。ぶっ飛び案件の方は譲られてしまった。仕方なく、澪は懐から例の書状を取り出す。
「本日、町中で牛車の車輪が壊れて立ち往生しておりましたので、少々お手伝いをしました。屋形の形は下級貴族の物でしたが、御者の数からして、それなりのご身分の方ではないかと推察し、率先して近付きました。勝手ながら、今後、何かの役に立つかもしれないと思っての事でした。途中、六年生の皆さんも人集りが出来ていた事もあって、駆けつけて手伝ってくれまして。その際、調べたところ、どうも牛車の歯車に壊れやすくなるよう、細工がされていたようでした。何者かにはめられたのでしょうが、詳細は不明です」
「ふむ、まぁ、武家と違い殺し合いこそないが、公家には公家の戦いというものがあるからの。それに下心があったとはいえ、人助け自体は感心すべき事じゃ。良い事をしたの」
うむうむ、と好々爺の笑みを浮かべる学園長に、澪は取り出してあった書状を差し出しつつ、話を続けた。
「屋形の中にいらっしゃったお方は、狩衣を纏った三十前後くらいのお公家様でした。わたし達の顔が見たいと、自ら牛車を降りられまして、馬の手配ができるまでの間、暇潰しに他愛ない話をしました。事が終わってから、礼として銭を受け取ったのですが……その際、御者の方から男装して伝助と名乗っていたわたしにと、こちらの文を頂戴しました。学園長にも中身を読んで頂きたく」
すいっと、学園長の前に書状をやる。学園長はお茶を軽く飲んでから、書状を広げて中を改めーー。
「……学園長?」
学園長は、動かない。まるで、作法委員会にある学園長のフィギュアとすり変わったのかと焦りそうになるくらい、微動だにしない。
ヘムヘムが心配そうに「へムゥ」と鳴いているが、黙ったままだ。
「失礼します、学園長!」
ハッ、とした顔で伊作が学園長に近付くのと、学園長がそのまま後ろに倒れるのは同時だった。
「なっ、座ったまま気絶していらっしゃる」
「おお、足の形が正座したままだ。やるなぁ」
「もそ……すごい」
「感心してる場合かっ!!」
学園長は、魂をどこかへ飛ばして抜け殻になってしまった。焦る文次郎に、場違いにも感心する小平太と長次を、留三郎がツッコミしている。
「一体、何を見たと言うんだ。土井先生、我々も読むぞ」
「了解しました。山田先生!」
文を持ったま気絶した学園長の手から、今度は伝蔵と半助が文を取り、二人同時に読み出した。
そして。
二人もまた、凍ったように固まった。
関白殿下の衝撃は、忍たま達よりも大人達への方が大きいようである。
「学園長、山田先生、土井先生、しっかりしてください!!」
大きな声で呼び戻すと、澪の声にハッとした様子で三人とも元に戻った。学園長は、器用にも起き上がり小法師よろしく正座の姿勢に戻っていた。
「すまんすまん、とんでもないお方の名前を目にして現実逃避してしまった」
「状況から考えて本物の可能性が高いが、どうして伝助…… 澪くん宛なのだ。他にも手伝った者がいたのだろう」
学園長が照れ笑いをする中、伝蔵が気を取り直して問いかけて来た。半助も同じ意見なのか、じっと澪を見つめてくる。
澪は、問われた事もあって今日の出来事の記憶を辿った。あの時、殿下は牛車の屋形から降りて来て皆を見渡し、最後に澪を見て固まっていたーー口許を扇で隠してはいたが、あの眼差しにあった感情は間違いなく驚きだ。
「何故かは分かりませんが、殿下はわたしを見て驚いた様子でした。その後、すぐに屋敷で下男として働かないかと誘われました。勿論、お断りをした次第です。わたしがお会いした方の正体を知ったのは、去り際に御者から渡されたその手紙からです。故に殿下が何をお考えかは、全く分かりません」
関白殿下ともなれば、下手に身分を明かすわけにはいかない。朝廷の位は、正一位から始まり十数段階以上に及ぶが、このうち、上位貴族は従三位以上を指し、本当にひと握りの人間しかなれないのである。
関白とは律令の令制にはない令外官と呼ばれる役職であり、臣下がつき得る最高の官位とされている。ようは、滅茶苦茶高貴な上に、半端なく位が高いのだ。
そんな人が、わざわざ身分を明かしてまで澪に接触を図る等……全く検討もつかない。
だが、最初こそ驚きで見落としていたが、冷静になって手紙を見れば見るほど、伺えるのは相手が澪を手繰り寄せようと必死なのではないかという事だ。
何故?
どうして?
ーー疑問は尽きない。
「澪さんの顔を見て驚いた、という事は何処かで出会った事がある、とか?」
「それは無いかと。わたしが畿内にやって来たのは、最近の事です。記憶にある限り、当然ながら、殿下と出会った事はありません」
半助の問いに答えつつ、澪は考える。父の顔を知らないというのもあるが、澪の顔は母親似だ。母親の方がより凄まじい美人ではあるが、母娘で並べば姉妹のように見える程度には似ている。声の質も似ているから、真似をしようと思えば出来る。
そこまで考えると、ひょっとしてーーと言う考えが浮かぶ。
「もしかすると、母上と面識がある……?」
ぽつり、と澪は気がつけば呟いていた。その発言を聞いた面々は、ハッとした顔になる。
「澪ちゃんは、母君似なのかの?」
「父の顔は知りませんから、比較は出来ませんが母とは姉妹かと思われるくらいには、似ているかと」
「確か、今は明の商人と結婚してあちらへ行かれたそうじゃが。母君が何をされていたお人か、澪ちゃんは知っておるかね?」
天性のできる男を誑し込む才能と、他の追随を許さぬ美貌の持ち主。
それが澪の知る母である。逆に言えば、それ以上は何も知らない。母が何も言わぬなら、澪もまた何も聞かないでいたが、何も父親の事に限った話ではない。
母もまた人の子である以上、父母が居て大人になるまで、色々あったはず。
だが、澪は何も知らない。母が何も語らなかったから、澪の母になる前、何をしていて、どんな風に生きていたか、全く分からなかった。
「ーー分かりません。自分の母の事なのに、すみません」
答える一方で、情けない気持ちになった。
生まれた時から、当たり前にいた母について過去を尋ねるくらいはしても良かったのではと今更後悔した。
血の繋がらない父親が傍にいた事もあり、前世の記憶がある事も手伝って気遣いをしてきた結果、こんな事になるなんて思いもよらなかった。
「澪ちゃんと姉妹に見える母君なら、さぞや美しい女性なのじゃろうて。もし、関白殿下が顔見知りだとすれば、宮中や貴族の屋敷で女房をしていたという可能性が高そうじゃの」
まぁ、顔見知りだと仮定するなら、その辺りの線が妥当なのかもしれない。たが、もしそうなら、母には多少なりとも公家の血が流れているという事だ。
つまりは、澪も公家の血筋の可能性があるわけだが、平安時代ならいざ知らず、戦国時代の公家は貧しい。公家の血が入ってるからと、喜べる物ではない。
とはいえ、あの母が女房?
ちなみに、女房とは宮中や貴族の屋敷に使える女官や使用人を指す。澪は、母が誰かに仕えている様が余り想像できなかった。
何せ、地で天上天下唯我独尊を往く性格をしているからだ。
澪は、最後にロマンスグレーな明人の旦那をゲットし、兵庫津で別れた母を思い浮かべたが、似合わないな、と素直に思った。まぁ、誰だって自分にぴったりな仕事に就く物ではない。確証がない以上は、ありそうな話として想定に留めておく。
「澪さんは、どうしたいんだい?」
半助の優しい声がした。見ると、澪の事をじっと見つめている半助の姿があった。文の内容を見て、伝蔵と二人で固まっていたのに今はすっかり復活していて、いつもの調子を取り戻しているようだ。
「関白殿下にもう一度、会ってみたいかい?」
まるで、なんて事ないように聞かれるが、そんな軽い物ではない。
「……非常に悩ましい、です。何せ、全く予想してなかった事ですから。虎穴に入らんずば虎子を得ずと言います。会って相手の考えを知って安心したい気持ちはありますが、一方で触らぬ神に祟りなしとも言いますし、スルーしてしまってもよいのではと」
単純に偉い人と知り合えるかも、とノコノコ行くのは早計だ。権威や権力がある人間というのは、普通の庶民では考えられない発想を平気でする。関白殿下から、嫌な感じは受けなかったが中には庶民を家畜のように考える者だっているのだ。
特に、戦国時代ともなれば、言わずもがなである。行って殺されるなんて事はないとは思うが、厄介な事に巻き込まれたり、場合によっては囚われて逃げられなくなったり、という可能性は捨てきれない。
だが、一方で宮中の実力者と繋がる二度とない機会である事は確実だ。澪にとっては、ひょっとすると母を知る人物である可能性もあるため、接触する価値がある。
まさにハイリスクハイリターンだ。
「もし会うなら、わたしが付き添うよ」
「土井先生は、今日、居合わせなかったから警戒されるかもしれません。で、あれば、わたしが澪さんと行った方がいいかと!」
半助が提案すると、小平太が負けじと手を挙げる。さほどに広くはない学園長の部屋で、半助と小平太が互いに笑顔で、目には見えない火花を一瞬散らすがそれ所ではない澪は完全スルーしていた。
「ま、無視をするのは楽だろうが、相手が本気で澪くんに会いたいと考えていた場合、人を使って捜索される可能性もないとは言えない。そういった心配をしたくないなら、訪ねてしまってもよいのではないか。屋敷に入る際に付き添いは最小になるかもしれんが、屋敷の外で待機組をつくれば多数で行っても支障はあるまい」
「澪ちゃん、学園長命令ということにしてもよいぞ。仕事だと思えば、幾分か気が軽かろう。例の計画の事を考えると、これは活用できる縁かもしれん。神様が澪ちゃんにくれたご褒美じゃと思えばいい」
伝蔵と学園長にそこまで言われると、関白殿下の存在が少しだけ軽く思えるから不思議だ。
「例の計画って、何ですか?」
学園長の話を聞いた文次郎が片眉を上げた。事業の件は、まだ実際の所は殆ど何も動いていないだけに、忍たまに話しをするようなものでもない。
案の定、学園長はにこりと笑って、はっきりとは答えなかった。
「なぁに、ちと澪ちゃんに秘書として働いてもらっておるだけじゃ。別に危ない事ではないし、公にできる段階になれば上級生に話すこともあるじゃろう。余り気にするでない」
「はぁ……学園長が、そう仰るなら」
文次郎は少し不思議そうな顔をしながらも、追求はしなかった。
「それよりも、関白殿下の屋敷を訪問するなら極秘裏にの。ドクタケが澪ちゃんを嗅ぎ回っているし、他の城の忍びに動きがないとも限らぬ。流石に関白殿下との接触を知られると、要らぬ誤解を生むかもしれぬからの。宮中に赴かれている事もあろうから、その辺の事も注意して訪問せよ」
「……畏まりました」
「うむ。伴は上級生と山田先生、土井先生から選ぶとよかろう。別に全員で向かっても構わんが、極秘裏である事を肝に銘じよ」
澪は学園長の命に畏まって静かに頭を下げた。
それから、報告会はお開きとなり各自今日は部屋で休む事となった。とはいえ、色々あったせいで、澪は眠るに眠れなかった。
それでも、何とか眠りにつくと幼い頃の夢を見た。
夢の中、暗闇に幼い頃の澪と、全く見た目の年齢の変わらぬ母がいた。
『ーーははうえ』
『澪は、お利口さんね。顔貌はわたしだけど、性格は誰に似たんだか』
おぎゃあ、とこの世に生を受けてから澪は前世の記憶を持っていたが、乳幼児の頃は身体に中々馴染まず、今にして思えば奇妙な幼児であった。
知恵付きが早く、子どもの割に喜怒哀楽が単調だった。不気味がられてもおかしくないのに、母はお利口だと言って澪を褒めていた。
『わたしには敵わないだろうけど、綺麗になりなさい。いい男を沢山引っ掛けられるようにね。男で女は変わるから』
夢の中で、よしよし、と母は澪の頭を撫でて口にする。実際、口癖だった。
『利口なのはいい事よ。わたしの知る限り色んな事を貴女に教えてあげる。まぁ、この美貌に関しては、流石に全部は伝えられないけどね。ふっ、我ながら娘すら超越する美しさ。流石わたし!』
二言目には自画自賛も多かったが、明るく溌剌とした性格をした母は、澪を娘として大切にしてくれた。
過去でも夢の中でも、それは変わらない。
だから、母の出てくる夢を見た翌朝には、ひょっとして母の過去に繋がる可能性のある邂逅の意味を、娘だからこそ逃げずに受け止めようと思った。
それがどんなに、驚くような事でも澪は一人ではないのだから。
簡単に言うと、摂政や関白に任じられる公家の中でも最高の家格を持つ五家の事である。
澪の知る前世の世界の日本では、古くは天皇に次ぐ地位を有し栄華を極めたのは藤原氏であった。五摂家とは鎌倉時代に成立した、藤原氏の嫡流の家柄である。公家の世界は、天皇と藤原氏が支配していると言っても過言ではなかった。
ーーこの世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたる事も なしと思へば。
そう詩にすら詠んだ一族は、伊達ではないという事である。
では、このヘンテコな世界ではどうか?と言うと。
史実と微妙に異なる名前もあるが、歴史の中に藤原の名前もあるし、五摂家もある。
ギャグみたいな名前の大名がいるので、当然ながら笑えそうな公家の名前等もあるわけだが、流石に関白殿下の名前は普通だった。
何だギャグじゃないのかと、何か期待を裏切られたような気になるのは、この巫山戯たなんちゃって戦国に慣れ親しんだ弊害か。
関白の名は、近衛幸久。
大河ドラマとかに出てくる事がある、史実に実在した室町末期の関白、近衛前久と名前が非常に似通っているが、なんちゃって戦国のため史実に限りなく名前が近い別人が居ても、さしたる驚きはない。
ーーが、流石に関白と町中で接触したとなると、ひっくり返りそうな話ではある。
ぶっちゃけて言うと、澪が立ち往生する牛車を助けたのは下心であった。
町で忍たま五年生達とランチに美味しいうどんを食べた後、澪は町中で人だかりを見つけて騒ぎを目撃した。
洛中からもほど近い町のため、牛車に乗っているのは貴族だと一目見て分かった。
御者が十数名になる事からして、屋形の形状こそ下級貴族の物だが、それなりに金があるか、又は屋形にそぐわぬ身分の者かもしれない……そう思った。
これは、ひょっとして公家との間にコネクションを作る機会になるのではないか。
以前、株式会社の説明を伝蔵達にした際、朝廷を商売に巻き込めないかと口にした所、どうやって渡りをつけるのかと指摘された事を真っ先に思い出した。
だから、これがその契機になるとまでは言わないが、何かの糸口になったりしないか……そう考えて打算から牛車に近付いたのだ。
言うなれば、これで大魚が食いつくとは思わぬがひとまず様子見で、餌をつけて竿を川へと放り込んだ釣り人の気持ちである。
スカかもしれない。
だが、小魚の一つでも釣れたら……そんな気持ちが、小魚所か川では釣れるはずのない立派な鯛を釣り上げてしまった気持ちであった。
つまり、予想外の大物過ぎて信じられない気持ち、と言うか。
ぶっちゃけ、関白に会える可能性が高い。だが、触らぬ神に祟なしとも言う。
色々考えると怖い切符を手に入れてしまった件について、無かった事にすべきか、はたまたワンチャン見込んで活用すべきか悩んだのである。
関白とか、流石にない。
ちょっとした役職についてる貴族で十分である。位が高すぎて逆に恐れ多い。まともに直視したら、目がやられるかもしれない。
驚きなのが、その関白が自分をーー正確には伝助を気に入ったと言う事だ。見目麗しい小姓を侍らせる戦国大名のような、男色を期待する物では無さそうな事があえて言うなら救いではある。
そう言う意味で気に入られたとなれば、どれだけ絶好の機会でもお近づきになるのはノーセンキューだからだ。女とバレた時が怖過ぎる。
それが、澪の嘘偽りない心境であった。だが、この吉と出るか凶と出るか分からない出来事を、学園長に報告しないわけにもいかない。
半ば放心状態の者も数名いたが、何とか上級生忍たま達と共に忍術学園に帰還したのは日が沈む直前の事だった。
出かける際、帰り道で景色のよい場所に寄ろうと言っていた勘右衛門が、すっかり腑抜けになってしまったので、当然ながらその機会は見送られた。
と言うか、皆が夢見心地であった。
例えるなら、現代風に言うと落とし物を交番に届け出たら、持ち主が総理大臣で直接礼をしたいから家に来いと言われた一般人と同じ気持ちになっていた。
たまたま親切を働いたら、どえらい人に繋がってしまったーーそのくらい、青天の霹靂であり有り得ない事が起こったと言っていい。
ドッキリドキドキ所の話ではない。
流石に事が事だけに、上級生達と共に澪は帰還早々に学園長室に駆けつけた。しかし、絶賛、学園長はお風呂中との事で仕方なく、ヘムヘムに先に夕食を食べておくよう指示され、全員で食堂へと向かった。
だが、食べる気が全くしなかった。それは、澪だけでなく上級生の忍たま達も同じだった。
なので、さっさっと湯漬けだけを食べる事にした。ちなみに、今日は食堂のおばちゃんのメニューではなく、当番の忍たま達が簡単な夕飯を用意してある日だ。そのため、湯漬けは澪達自身が用意した。
丁度、湯漬けを食べ終わるタイミングで食堂で半助と伝蔵と鉢合わせした。
二人は、上級生達と揃って湯漬けを食べている澪を見て、不思議そうな顔をしている。
「どうしたんだ、揃いも揃って湯漬けなんて。さては皆して食べ過ぎか?」
「食べ過ぎというより、色々あって食欲が無いんです。山田先生」
代表して答えたのは、文次郎である。澪は、お茶を啜りつつ同意して小さく頷いた。途端に、伝蔵の隣にいた半助が心配そうに澪を見た。
「そしたら、今日は早くお風呂に入って寝ないと」
「いえ、この後……六年生の皆と学園長先生の所に行きます。報告したい事があるので」
さっさと寝たいが、報告は今日中に終わらせたい。全員でぞろぞろ行く物でもないので、六年生達と報告に行く事になった。聞くと、六年生達から他にも学園長の耳に入れておきたい事があるのだとか。
伝蔵と半助は澪の答えに、食欲のない原因が報告にあると分かったのだろう。直ぐに二人とも目を合わせて頷きあった。
流石は一年は組の担当教師達である。寝所を共にするだけの事はあって、息ぴったりだ。
「その報告に、わたし達も同席していいかね。澪くん」
「あー……はい、いいですよ」
学園長に報告すれば、自ずと伝蔵辺りには伝わる話である。第一、既に上級生達も既に知っているのだから、教師相手に隠す事ではない。
手紙を読んだ際、澪としては上級生達にも読ませるか悩んだ。
だが、現場に立ち会った以上は気になるだろうし、下手に詮索されるよりはマシと逆に教えたのだ。そしたら皆、流石に誰彼構わず話す内容ではないと、自然と口を閉ざした。教えて正解だったと思う。
そりゃそうだ。
というより、殿上人に会ってなんなら喋って来たと言うのは、俄には信じられない。口にした所で信じてもらえない確率の方が高い。現代日本ならスマートフォンで一緒にいるのを撮影したら、いい証拠になるがここはなんちゃって戦国だ。そんな便利道具はない。
澪が了承すると、半助が優しい声音で話しかけてきた。
「なら、わたし達が夕飯を食べている間に、皆、お風呂にでも入ってくればいい。そしたら、少しは疲れも取れるだろうから。報告が終わったら寝るだけにしておいた方がいいと思うよ」
「あー……そうですね。そうします」
くのたまの宿舎にある簡易風呂を利用しよう。離れにある風呂は広いが、上級生達が入るかもしれない。
半助の言葉に従って、澪は食堂を後にしてから風呂に入って、すっきりした。髪が乾ききっていないが、手拭いを巻いて誤魔化し寝巻きは流石に失礼にあたるので、私服に着替えた。
伝蔵と半助の二人はと言うと、六年生達と共に澪を学園長室の前で待っていた。六年生は風呂にはまだ入ってないらしく、全員、外に出かけた時の姿のままだ。
「中に学園長先生がおられる。全員分の茶の用意もしてあるから入るとしよう」
「ありがとうございます」
そんなに長い話をするつもりはないのだが、風呂上がりというのもあって、少し喉を潤したい気がしていたので、お茶の用意は正直有り難かった。
ふと視線を感じたのでそちらを見ると、半助とバッチリ目があった。何故か、半助は澪を見ていたらしい。顔をパッと逸らされる。風呂上がりとはいえ、失礼にならない程度に身なりを整えたつもりだったのだが、何か気になる点でもあったのだろうか。
なお、当たり前だが半助は澪の風呂上がりの姿を見て、その何とも言えない色っぽさに見蕩れてしまっていたのであって、決して、だらしがないと見咎めたわけではない。
それがいまいち分からない澪は、気持ち着物の乱れをさっと直して学園長の部屋に入った。ちなみに、半助の様子に気が付いていた小平太の真ん丸な目が三角になりかけていたりしたが、澪は当然、気付いていなかった。
「失礼します」
すっ、と障子戸を開けて伝蔵が最初に中に入り、半助や六年生達と共に続く。部屋には、灯明皿に火がつけられており、その光が時折揺らめいていた。
ヘムヘムが、人数分のお茶をそっと差し出している。犬が二足歩行して、前足を人の腕のように使いこなしている珍風景に、今やすっかり慣れた澪である。
「学園長先生、夜分に失礼します。実は本日、町へ私用で赴いた際に色々あって、その事でわたし達と澪さんからご報告がありまして」
「何かは知らぬが、報告があることは聞いている。話すといい」
最初に仙蔵が口火を切ると、学園長が小さく頷いた。果たして、その余裕がいつまでもつは不明である。
「はっ。では……早速なのですが、本日は澪さんが五年生達と出かけており、偶然、我々はそれを追いかける形での外出となったのですが。澪さんの後を、ドクタケ忍者の風鬼がつけておりました」
「えっ」
六年生から、別件で報告したい事があるとは聞いていたが、それがまさかドクタケの事とは。澪は勿論の事、伝蔵と半助の眉がピクリと動いた。学園長はと言うと、微動だにしていない。
「そうであろうの。少し前にやった学園での試合については、ドクたま達の見学も許可していた。引率の魔界之小路先生から澪ちゃんの強さについて、ドクタケ忍者隊、ひいては稗田八方斎にも詳しく伝わったはず。むしろ、澪ちゃんのこれまでの活躍を考えればドクタケの動きは遅いくらいじゃ。故に、驚きはない。して、風鬼めは何を調べておったかの」
「それについてですが……小平太が、風鬼のメモを破り捨ててしまいまして」
「仙蔵はこう言っていますが、問題ありません、内容はきちんと覚えてるので。メモの中身は澪さんは男装も似合うとか、歩き方に品があるとか、笑顔が素敵とか、べた褒めの内容ばかりでした。ムカついたので、破り捨てました!!」
しょうもないメモの中身である。小平太の回答にズッコケそうになる澪。
何故か、半助が同意するように頷いているが、別に破り捨てるような内容でもない。しょうもなさ過ぎて。
「我々六年生からの報告は以上です。後は澪さん、お願いします」
「……分かりました」
ついでに、関白殿下の件も報告してくれて良かったのに。ぶっ飛び案件の方は譲られてしまった。仕方なく、澪は懐から例の書状を取り出す。
「本日、町中で牛車の車輪が壊れて立ち往生しておりましたので、少々お手伝いをしました。屋形の形は下級貴族の物でしたが、御者の数からして、それなりのご身分の方ではないかと推察し、率先して近付きました。勝手ながら、今後、何かの役に立つかもしれないと思っての事でした。途中、六年生の皆さんも人集りが出来ていた事もあって、駆けつけて手伝ってくれまして。その際、調べたところ、どうも牛車の歯車に壊れやすくなるよう、細工がされていたようでした。何者かにはめられたのでしょうが、詳細は不明です」
「ふむ、まぁ、武家と違い殺し合いこそないが、公家には公家の戦いというものがあるからの。それに下心があったとはいえ、人助け自体は感心すべき事じゃ。良い事をしたの」
うむうむ、と好々爺の笑みを浮かべる学園長に、澪は取り出してあった書状を差し出しつつ、話を続けた。
「屋形の中にいらっしゃったお方は、狩衣を纏った三十前後くらいのお公家様でした。わたし達の顔が見たいと、自ら牛車を降りられまして、馬の手配ができるまでの間、暇潰しに他愛ない話をしました。事が終わってから、礼として銭を受け取ったのですが……その際、御者の方から男装して伝助と名乗っていたわたしにと、こちらの文を頂戴しました。学園長にも中身を読んで頂きたく」
すいっと、学園長の前に書状をやる。学園長はお茶を軽く飲んでから、書状を広げて中を改めーー。
「……学園長?」
学園長は、動かない。まるで、作法委員会にある学園長のフィギュアとすり変わったのかと焦りそうになるくらい、微動だにしない。
ヘムヘムが心配そうに「へムゥ」と鳴いているが、黙ったままだ。
「失礼します、学園長!」
ハッ、とした顔で伊作が学園長に近付くのと、学園長がそのまま後ろに倒れるのは同時だった。
「なっ、座ったまま気絶していらっしゃる」
「おお、足の形が正座したままだ。やるなぁ」
「もそ……すごい」
「感心してる場合かっ!!」
学園長は、魂をどこかへ飛ばして抜け殻になってしまった。焦る文次郎に、場違いにも感心する小平太と長次を、留三郎がツッコミしている。
「一体、何を見たと言うんだ。土井先生、我々も読むぞ」
「了解しました。山田先生!」
文を持ったま気絶した学園長の手から、今度は伝蔵と半助が文を取り、二人同時に読み出した。
そして。
二人もまた、凍ったように固まった。
関白殿下の衝撃は、忍たま達よりも大人達への方が大きいようである。
「学園長、山田先生、土井先生、しっかりしてください!!」
大きな声で呼び戻すと、澪の声にハッとした様子で三人とも元に戻った。学園長は、器用にも起き上がり小法師よろしく正座の姿勢に戻っていた。
「すまんすまん、とんでもないお方の名前を目にして現実逃避してしまった」
「状況から考えて本物の可能性が高いが、どうして伝助…… 澪くん宛なのだ。他にも手伝った者がいたのだろう」
学園長が照れ笑いをする中、伝蔵が気を取り直して問いかけて来た。半助も同じ意見なのか、じっと澪を見つめてくる。
澪は、問われた事もあって今日の出来事の記憶を辿った。あの時、殿下は牛車の屋形から降りて来て皆を見渡し、最後に澪を見て固まっていたーー口許を扇で隠してはいたが、あの眼差しにあった感情は間違いなく驚きだ。
「何故かは分かりませんが、殿下はわたしを見て驚いた様子でした。その後、すぐに屋敷で下男として働かないかと誘われました。勿論、お断りをした次第です。わたしがお会いした方の正体を知ったのは、去り際に御者から渡されたその手紙からです。故に殿下が何をお考えかは、全く分かりません」
関白殿下ともなれば、下手に身分を明かすわけにはいかない。朝廷の位は、正一位から始まり十数段階以上に及ぶが、このうち、上位貴族は従三位以上を指し、本当にひと握りの人間しかなれないのである。
関白とは律令の令制にはない令外官と呼ばれる役職であり、臣下がつき得る最高の官位とされている。ようは、滅茶苦茶高貴な上に、半端なく位が高いのだ。
そんな人が、わざわざ身分を明かしてまで澪に接触を図る等……全く検討もつかない。
だが、最初こそ驚きで見落としていたが、冷静になって手紙を見れば見るほど、伺えるのは相手が澪を手繰り寄せようと必死なのではないかという事だ。
何故?
どうして?
ーー疑問は尽きない。
「澪さんの顔を見て驚いた、という事は何処かで出会った事がある、とか?」
「それは無いかと。わたしが畿内にやって来たのは、最近の事です。記憶にある限り、当然ながら、殿下と出会った事はありません」
半助の問いに答えつつ、澪は考える。父の顔を知らないというのもあるが、澪の顔は母親似だ。母親の方がより凄まじい美人ではあるが、母娘で並べば姉妹のように見える程度には似ている。声の質も似ているから、真似をしようと思えば出来る。
そこまで考えると、ひょっとしてーーと言う考えが浮かぶ。
「もしかすると、母上と面識がある……?」
ぽつり、と澪は気がつけば呟いていた。その発言を聞いた面々は、ハッとした顔になる。
「澪ちゃんは、母君似なのかの?」
「父の顔は知りませんから、比較は出来ませんが母とは姉妹かと思われるくらいには、似ているかと」
「確か、今は明の商人と結婚してあちらへ行かれたそうじゃが。母君が何をされていたお人か、澪ちゃんは知っておるかね?」
天性のできる男を誑し込む才能と、他の追随を許さぬ美貌の持ち主。
それが澪の知る母である。逆に言えば、それ以上は何も知らない。母が何も言わぬなら、澪もまた何も聞かないでいたが、何も父親の事に限った話ではない。
母もまた人の子である以上、父母が居て大人になるまで、色々あったはず。
だが、澪は何も知らない。母が何も語らなかったから、澪の母になる前、何をしていて、どんな風に生きていたか、全く分からなかった。
「ーー分かりません。自分の母の事なのに、すみません」
答える一方で、情けない気持ちになった。
生まれた時から、当たり前にいた母について過去を尋ねるくらいはしても良かったのではと今更後悔した。
血の繋がらない父親が傍にいた事もあり、前世の記憶がある事も手伝って気遣いをしてきた結果、こんな事になるなんて思いもよらなかった。
「澪ちゃんと姉妹に見える母君なら、さぞや美しい女性なのじゃろうて。もし、関白殿下が顔見知りだとすれば、宮中や貴族の屋敷で女房をしていたという可能性が高そうじゃの」
まぁ、顔見知りだと仮定するなら、その辺りの線が妥当なのかもしれない。たが、もしそうなら、母には多少なりとも公家の血が流れているという事だ。
つまりは、澪も公家の血筋の可能性があるわけだが、平安時代ならいざ知らず、戦国時代の公家は貧しい。公家の血が入ってるからと、喜べる物ではない。
とはいえ、あの母が女房?
ちなみに、女房とは宮中や貴族の屋敷に使える女官や使用人を指す。澪は、母が誰かに仕えている様が余り想像できなかった。
何せ、地で天上天下唯我独尊を往く性格をしているからだ。
澪は、最後にロマンスグレーな明人の旦那をゲットし、兵庫津で別れた母を思い浮かべたが、似合わないな、と素直に思った。まぁ、誰だって自分にぴったりな仕事に就く物ではない。確証がない以上は、ありそうな話として想定に留めておく。
「澪さんは、どうしたいんだい?」
半助の優しい声がした。見ると、澪の事をじっと見つめている半助の姿があった。文の内容を見て、伝蔵と二人で固まっていたのに今はすっかり復活していて、いつもの調子を取り戻しているようだ。
「関白殿下にもう一度、会ってみたいかい?」
まるで、なんて事ないように聞かれるが、そんな軽い物ではない。
「……非常に悩ましい、です。何せ、全く予想してなかった事ですから。虎穴に入らんずば虎子を得ずと言います。会って相手の考えを知って安心したい気持ちはありますが、一方で触らぬ神に祟りなしとも言いますし、スルーしてしまってもよいのではと」
単純に偉い人と知り合えるかも、とノコノコ行くのは早計だ。権威や権力がある人間というのは、普通の庶民では考えられない発想を平気でする。関白殿下から、嫌な感じは受けなかったが中には庶民を家畜のように考える者だっているのだ。
特に、戦国時代ともなれば、言わずもがなである。行って殺されるなんて事はないとは思うが、厄介な事に巻き込まれたり、場合によっては囚われて逃げられなくなったり、という可能性は捨てきれない。
だが、一方で宮中の実力者と繋がる二度とない機会である事は確実だ。澪にとっては、ひょっとすると母を知る人物である可能性もあるため、接触する価値がある。
まさにハイリスクハイリターンだ。
「もし会うなら、わたしが付き添うよ」
「土井先生は、今日、居合わせなかったから警戒されるかもしれません。で、あれば、わたしが澪さんと行った方がいいかと!」
半助が提案すると、小平太が負けじと手を挙げる。さほどに広くはない学園長の部屋で、半助と小平太が互いに笑顔で、目には見えない火花を一瞬散らすがそれ所ではない澪は完全スルーしていた。
「ま、無視をするのは楽だろうが、相手が本気で澪くんに会いたいと考えていた場合、人を使って捜索される可能性もないとは言えない。そういった心配をしたくないなら、訪ねてしまってもよいのではないか。屋敷に入る際に付き添いは最小になるかもしれんが、屋敷の外で待機組をつくれば多数で行っても支障はあるまい」
「澪ちゃん、学園長命令ということにしてもよいぞ。仕事だと思えば、幾分か気が軽かろう。例の計画の事を考えると、これは活用できる縁かもしれん。神様が澪ちゃんにくれたご褒美じゃと思えばいい」
伝蔵と学園長にそこまで言われると、関白殿下の存在が少しだけ軽く思えるから不思議だ。
「例の計画って、何ですか?」
学園長の話を聞いた文次郎が片眉を上げた。事業の件は、まだ実際の所は殆ど何も動いていないだけに、忍たまに話しをするようなものでもない。
案の定、学園長はにこりと笑って、はっきりとは答えなかった。
「なぁに、ちと澪ちゃんに秘書として働いてもらっておるだけじゃ。別に危ない事ではないし、公にできる段階になれば上級生に話すこともあるじゃろう。余り気にするでない」
「はぁ……学園長が、そう仰るなら」
文次郎は少し不思議そうな顔をしながらも、追求はしなかった。
「それよりも、関白殿下の屋敷を訪問するなら極秘裏にの。ドクタケが澪ちゃんを嗅ぎ回っているし、他の城の忍びに動きがないとも限らぬ。流石に関白殿下との接触を知られると、要らぬ誤解を生むかもしれぬからの。宮中に赴かれている事もあろうから、その辺の事も注意して訪問せよ」
「……畏まりました」
「うむ。伴は上級生と山田先生、土井先生から選ぶとよかろう。別に全員で向かっても構わんが、極秘裏である事を肝に銘じよ」
澪は学園長の命に畏まって静かに頭を下げた。
それから、報告会はお開きとなり各自今日は部屋で休む事となった。とはいえ、色々あったせいで、澪は眠るに眠れなかった。
それでも、何とか眠りにつくと幼い頃の夢を見た。
夢の中、暗闇に幼い頃の澪と、全く見た目の年齢の変わらぬ母がいた。
『ーーははうえ』
『澪は、お利口さんね。顔貌はわたしだけど、性格は誰に似たんだか』
おぎゃあ、とこの世に生を受けてから澪は前世の記憶を持っていたが、乳幼児の頃は身体に中々馴染まず、今にして思えば奇妙な幼児であった。
知恵付きが早く、子どもの割に喜怒哀楽が単調だった。不気味がられてもおかしくないのに、母はお利口だと言って澪を褒めていた。
『わたしには敵わないだろうけど、綺麗になりなさい。いい男を沢山引っ掛けられるようにね。男で女は変わるから』
夢の中で、よしよし、と母は澪の頭を撫でて口にする。実際、口癖だった。
『利口なのはいい事よ。わたしの知る限り色んな事を貴女に教えてあげる。まぁ、この美貌に関しては、流石に全部は伝えられないけどね。ふっ、我ながら娘すら超越する美しさ。流石わたし!』
二言目には自画自賛も多かったが、明るく溌剌とした性格をした母は、澪を娘として大切にしてくれた。
過去でも夢の中でも、それは変わらない。
だから、母の出てくる夢を見た翌朝には、ひょっとして母の過去に繋がる可能性のある邂逅の意味を、娘だからこそ逃げずに受け止めようと思った。
それがどんなに、驚くような事でも澪は一人ではないのだから。
