第10話 ドッキリドキドキ大作戦
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ドッキリドキドキ大作戦の翌朝。
演習場は何事も無かったかのように片付けられ、忍術学園は今日も平和な一日を迎えていた。昨夜、幽霊騒ぎで一年生達が阿鼻叫喚していた様子等微塵もない。
あの後、ネタばらしがあったとはいえ一年生には刺激が強かったのか、まともに眠れなかった者が多数いたらしく、翌朝の廊下で一年生達の多くが欠伸をしたり眠そうにしている姿が目撃された。
ーーで、澪はと言うと。
「おっ、おは、おはようございますっ。澪さん!!」
「はい、おはようございます」
早速、廊下ですれ違った際、一年い組の子から挨拶を受けていた。
澪が返事を返すと、皆、ホッとした顔を見せて去っていく。怯えられて避けられているわけではないが、まるで度胸試しのような有様に苦笑いしてしまう。まぁ、昨日の今日である。昨日までの事を思えば、かなりの進歩だと澪は思う事にした。
「おはよう、澪さん!」
「おはようございます、小平太くん。昨日はお疲れ様でした」
もさもさしたポニーテールが、ワンコの尻尾のように見える。元気よく挨拶をしてくれた小平太に、澪も笑顔で挨拶を返す。
「あの程度、どうということはないさ。むしろ、わたし達もいい経験になった」
「それはよかった。皆さんの頑張りのおかげで、一年い組の子達が朝から挨拶をしてくれまして」
今まで、澪に怯えた人が態度を変えた事は殆どなかった。
相手が澪を知り、態度を変えるその前に澪が母の再婚の関係で住んでいる場所を移動したりしたせいもあるのだが、澪の経験上、一度覚えた恐怖というのは一日やそこいらで失くなる物ではない。
だから、本心では脅えていてもあからさまな態度に出したり逃げたりしない事が、簡単でないと分かるので、い組の子達は昨夜、先輩に諭されたとはいえよくやっていると素直に感じていた。
「そうか。それなら、後は時が解決してくれるか」
「ええ、だと思います」
澪が頷くと小平太がニカッと、笑った。まるで太陽みたいな笑顔だ。
「小平太くんの笑顔は、こっちまで元気になれそうですねぇ」
なので、思ったことを口にする。すると、小平太は一瞬だけ固まるも、ややあって照れくさそうに小さく笑った。
「そ、そうか。澪さんにそんなふうに言ってもらえるのは嬉しいな。わたしでよければ、いつでも澪さんの前で笑うぞ」
ーー可愛い。
そう思うのは、小平太の結った髪が、もさもさしたワンコのしっぽのように見えるせいか。
あるいは、澪の母性が反応しているのかもしれない。中身は××(自主規制)歳なのだし。
「なら、わたしは元気が欲しい時は小平太くんと話すようにしますね。そしたら、笑っている顔を見られますし」
「っ……ああ、そうしてくれ!」
小平太の周りだけ、パァっと光っているように見える。
「では、わたしは三年ろ組の授業の補佐がありますので、これで」
「ハッ、わたしも、今から野外実習に出かけるんだった。すまん、澪さん。長次と待ち合わせしているから、行ってくる!」
「はい、いってらっしゃい。お気をつけてー」
びゅん!と音がしそうな速さだ。廊下を走らないようにと言う前に、あっという間に去ってしまう。まぁ、小平太なら廊下で人とぶつかる事もないだろう。
外の天気を見ると、梅雨時期だから仕方ないとはいえ生憎の曇りだ。せめて、小平太や長次の行き帰りの道中くらいは、雨が降らないようにと祈るばかりである。
それから、澪は予定通り三年ろ組の授業の補佐を行った。今日は剣術の授業の稽古のため、戸部新左ヱ門が授業の講師役である。
澪と戸部の仲は、至って普通である。戸部との剣の試合は、澪が半助を倒せるようになるまで延期状態なのだが、半助の剣術の腕前は澪より遥かに優れている事もあり、何時になるかは不明である。
そんな澪が、本日、戸部の依頼で剣術授業の補佐についている理由は、一重に三年ろ組の名物コンビを見張るためである。
「えいっ、とぉー!」
「はぁっ、たぁー!」
戸部の指示に従い、剣術の授業で三年ろ組の忍たま達が木刀をリズミカルに振り下ろす。素振りの練習である。それを何度か繰り広げていると、神崎左門の木刀が振り上げるタイミングで、疲労によって握力が不足したのかスポーンと後方へ吹っ飛んだ。
「取りにいかねばっ!あっちだ!!」
「はい、左門くん。替えの木刀です。わたしが取りに行くので動かないでくださいね」
木刀が吹っ飛んで行ったのとは異なる明後日の方向を指し、走っていこうとする左門の肩を素早く掴んで捕獲する。
「違うよ左門。こっちだよ」
「そっちでもないですからね、三之助くん」
ワザとか、ワザとなのか。
そう、澪が三年ろ組の補佐を頼まれたのは、何を隠そう方向音痴コンビである、神崎左門と次屋三之助が在籍するせいである。毎回二人の監督役をしている富松作兵衛が、澪と二人のやり取りを見てため息を着いていた。
日頃の苦労が偲ばれる。
「助かる、澪さん。すまないな……前に同じ事があった時、授業が中断してしまって」
「いえいえ、お気になさらず。戸部先生は授業の続きをどうぞ」
戸部が軽く頭を下げて礼を言うので、澪は笑顔で返事をして急いで木刀を取りに向かった。澪の言葉に頷くと、戸部が木刀を構えている子ども達の指導に戻る。
木刀は、学園のそこがしこに植えられた低木に埋まるように突き刺さっていた。それを引っこ抜き、元いた場所に戻る。振り下ろしの訓練の次は、突きの訓練をしていた。
「手首ではなく、腕全体を使って木刀を持つんだ。でなければ、関節を痛めるぞ」
木刀は意外と重い。戸部の言う通り、持ち方を誤ると手を痛めてしまう。
「澪さん、わたしは左半分を指導するので、右半分を頼む」
「わかりました……作兵衛くん、突く時に体幹がブレてます。腰に負荷がかかりすぎますよ」
利吉との特訓のおかげで、剣術の勘を澪は取り戻していた。とはいっても、半助には負けてしまう。忍たま相手になら、簡単な指導助言ができる程度の腕前だ。
作兵衛の傍にいき、姿勢を正す補佐をしてやると照れたのか、耳を真っ赤にしていた。三年生は小学校六年生と同じ十二歳である。まだまだ可愛い。
「澪さんっ、ぼくも見てくださいっ!」
「ぼくもー!できたら、作兵衛にしてるみたいにくっついてご指導をお願いします」
「お前達、剣術の稽古を何だと思ってる。澪さんでなく代わりに、わたしが行くぞ」
作兵衛を見て我も我もと手を挙げる忍たまに対し、戸部が鋭いツッコミを入れた。途端に、忍たま達が真顔になってブンブン首を振るものだから、それがおかしくてくすくす笑ってしまう澪だった。
それから無事に剣術の稽古を終え、その後は雨が降って来た事もあり自室で兵法の勉強をしながら、半助の着物の仮縫いをしたりして放課後まで時間を潰す事になった。
兵法と一口に言っても、実に奥が深い。有名な孫子もそうなのだが、勝つための戦術論であることは勿論のこと、ビジネスだったり人間関係だったりで活かせるような記述もあるのが面白い。澪が今、読んでいる三略については古代中国の王朝は周の軍師、太公望が著したとされている。
ちなみに、なんちゃって戦国時代において太公望は史記において記されている名前であり、娯楽小説で有名な封神演義は江戸時代に日本に入ってくる事もあって、太公望の名前を知っている者イコール、兵法か大陸の歴史を齧った事がある者という図式が成り立ったりする。
三略は上、中、下の三部で構成されており、策略については中編に詳しく記載がある。三略とセットで、六韜という兵法書も読むと勉強になるのでそちらも並行して学習する。なお、六韜の著者もまた太公望とされている。
難しい事というよりは、なるほどと納得するような内容が多い。兵法書だけあって、孫子と似たような事も書かれている。例えば戦わずして勝つのが最良、なんて当たり前の事とか。
「ーーふぅ、そろそろ時間かしら」
キリのいい所まで読み終えた所で、澪は伝蔵との約束通り一年は組の教室へと向かった。世間話、という名の議論を交わすためである。果たして何を言われるのやら。
「やぁ、澪さん。今から行くのかい?」
「……半助さん。あの、半助さんも来るのよね」
「当たり前じゃないか。見守ってるよ!」
は組の教室に向かう廊下で、ばっちり半助と鉢合わせした澪は笑うしかなかった。半助としては応援しているつもりなんだろう。あるいは、澪の話を聞きたいという好奇心か。
「本当に単なる世間話で終わっても、知りませんよ」
「分かってるさ。わたしとしては、澪さんの話が聞けたらそれでいいんだ」
かなりキザだが、君の綺麗な声が聞きたいからいるのさ!とか何とか言えば、アピール出来るのにチャンスをスルーしている半助である。
しかし、これこそが半助の通常運転のため、澪も目の前の男が己にベタ惚れな上にどちゃクソ重たい恋慕の情を抱えていると気付かずに済むというわけだ。
「はぁ、無駄な時間だったと後悔しても知らないんだから」
「そんな事ないさ。さぁ、中に入ろう」
唇を少し尖らせ半助に言うと、にこにこと笑顔で頷かれた。ちなみに、半助はそんな澪を見て可愛いと惚気けた事を考えていたりした。
廊下を程なく歩くと、一年は組の教室に到着する。戸を開けて中に入ると、既に一年い組の子達が居た。他にも、きり丸を筆頭に乱太郎やしんべヱに、は組の良い子達も多数おりーーそして何故か、六年生の文次郎と仙蔵まで居た。
「おお、揃ったか」
伝蔵も既に居た。教壇に立って、入口に立つ澪と半助を見ている。どうやら、澪達が最後だったらしい。
「何で文次郎くん達が居るんですか?」
「わたしは伝七から今日の事を聞いてな。歴史の授業も面白かったし、時間があったので顔を出した」
「オレは佐吉から聞いた。歴史の授業は参加できなかったから、今日は出たいと思ってな。邪魔はしないし、山田先生からも許可を貰ったぞ」
邪魔はしなくても、多数から注目されるというのは余り楽しい話ではない。ましてや、伝蔵相手の議論ともなれば。
「澪くん。そんなに長く話をするつもりじゃないから、立ったままでいいかね」
「山田先生に合わせます」
もともとは、合戦に応援に来てくれたことのささやかな礼のはずだった。それが何だってこんな事に……と、思わなくはないが、引き受けた以上は伝蔵にこそ決定権があるわけで、澪は黙って従う。
半助は、何も言わずには組の教室の後ろへと行ってしまった。どうやら、立ったまま聞くつもりらしく部屋の隅の方で腕組みして立っている。
「では、これから早速、澪くんと世間話ついでに色々と話す。澪くんにとっては、雑談適度の物だろうが、お前達には得るものがあるはずだ」
ごくり、と澪は生唾を飲み込んだ。地味にハードルを上げられた。
ちょっとお茶が欲しいかもしれない。急に喉が渇いたような気がした。
「ーーいつでもどうぞ」
内心の気持ちを悟られないよう、澪が促すと伝蔵は軽く頷いてから話し出した。
「これは、つい先日に仕入れた話なのだが……一向一揆の事だ。何でも、過日、越中の方で一向門徒と大名の衝突があったとそうだ。両者共、それなりの死傷者が出たそうだ。知っての通り、一向一揆は一向宗の者達が中心となり、土地の支配者達に対して行う一揆の事だが、あの者達は皆、戦う時は死ねば極楽浄土にいける故、死を恐れる事はないと奮闘するのだと聞く。故に大名達からすると、死を恐れぬ厄介極まりない相手だ」
一向一揆は、澪の知る元いた世界の過去の歴史でも、このなんちゃって戦国時代にも存在している。庶民にとって、暮らしの厳しい戦国時代では領主に善政を期待するだけでは、搾取されて殺される危険性が高い。そのため、領主に命懸けで一揆をするわけだが、一向一揆の凄い所は範囲と門徒の数だ。
越中だけではなく、加賀、三河、長島、畿内に及ぶ。一向門徒だけならもっと多い。
一向宗の特徴としては、他の宗派とは異なり肉食や妻帯が許されている事である。その存在の名前も、教義も澪の知る歴史と全く同じだ。故に、伝蔵の話が何処に行き着くのかと思いつつも、黙って続きを聞く。
「澪くんは、どう思うかね?一向宗では門徒は死ねば極楽浄土に行けると言うが……」
「さぁ、どうでしょうか。一度死んで生き返りでもしなければ、お答え出来ないかと」
ーー実は死んで生まれ変わった澪であるが、極楽浄土に行った覚えは当然ない。仮に神に近い存在に遭っていたとしても、死んで生まれ変わるまでの間の記憶がないので、何の話も出来はしない。
澪の回答に、伝蔵はニヤリと笑って更に質問した。
「では、より突っ込んだ質問をしよう。澪くんは神仏は居ると思うかね。宗教とは何だと思う?」
直ぐには答えにくい質問に、澪は僅かに眉を寄せた。雑談といえば雑談だが、テーマは重たい。
だが、質問としては素朴な物だ。
「えっと、まず御仏と神様についてですが……」
なので、考えながらも二つある質問のうち、一つ目から答える。
「わたしは、神仏が居たら良いとは思いますし、実際に神社なんかでお参りもします。が、その存在の証明はできません。その存在が居ない事もです」
「ほぅ。どうして存在の証明等ができないと」
「目の前にないからです。例えば、この教室にある黒板の存在は目の前にあるので証明できます。誰にでも目に見えて触れる事ができる存在の証明は容易い。ですが、神仏は像はあっても、像はあくまで神仏の姿を象った物に過ぎず、神仏そのものではありません。また、神仏が居ない事の証明も難しいです。というより、居ない事の証明はいる事の証明より難しいです。不存在の証明ーーこの場合、例えば神仏については、本当に神仏がいない事を世界中で確認しなくては断言できません。そしてそれは、わたしには不可能です。ですから、どちらも証明できないため、わたしは居たらいいなと思うのです。その方が都合がいいですし」
存在の証明あるいは、不存在の証明の議論はできないので、逃げの論法をとる。神仏については、強く言及すると忍たま達に何らかの宗教の信者が居たらややこしいからでもある。
この時代、人々は宗教を命懸けで信じている事は珍しくない。チラ、と忍たま達へ視線を向けると、じーっとい組の子達から見つめられていた。反対に、は組の子達はぽけーっとした顔をしている。
「なるほど。実は、わたしも似たような考えだ。そこまて宗教に帰依しているわけではないが、葬式をするとなれば坊主に教を読んでもらうだろう。ご利益のある寺社があればお参りをしたいし、たまにある巫女舞なんかを見るのだって楽しみの一つだ。神仏の存在の有無についての議論は、所詮、人間には手に負えない話だと思っているが、わたしも、神仏はいてくれる方がいいと考えている。こんな時代だからな」
伝蔵の考え方が、澪に近い事を意外に思いつつも同意して頷く。
「では、次のご質問……宗教とは、何だと思うという話ですが、あくまでもわたし一個人の見解である事を前提にお話しします」
「勿論だ。是非教えてくれ」
「ーー宗教はわたしが思うに、例えるなら痛み止めの薬です」
必要は発明の母ーー有名なトーマス・エジソンの言葉だ。その事を思いながら、ゆっくりと自分の考えを口にする。
「宗教は、古今東西、人のある所に様々に存在します。日ノ本にも明にも南蛮にも。呼び方は様々ですが、大勢の人々が神仏の類を信仰しています。そして、宗教はその多くがこの世での生き方を説き、死後の安寧を約束している。それは何故か……」
「ふむ、そういう事か」
流石は伝蔵。
皆まで言わずとも、澪の言わんとする事が直ぐに分かったらしい。だが、ふと見ると忍たま達は六年生を除き不思議そうな顔をしている。なので、澪はあえて話を続けた。
「この世は余程の権力者でもなければ、殆どの者にとって生き辛い。そして生きている以上は死の恐怖が付き纏います。その苦難や痛苦から、また恐れから逃れるために何かに縋りたくなる。それが神仏であり、宗教だとわたしは思います。まるで、痛み止めの薬ではないですか」
「痛み止めか。中々に上手い表現だ。一度ハマれば、常習性があり病みつきになってしまうしな。では聞くが、最近の日ノ本の宗教は宗派にもよるが、世の乱れの一部にもなっている。それについてはどう思う?わたしは、今の世が戦国だからこそ、宗教まで乱れているのだろうと見ているが」
伝蔵の見解に同意しつつ、次の問に関して考えながらも、ゆっくり答える。
「……そもそも、肥大化した組織は時が経てば何れは腐敗します。時の政権が移ろうのはそれです。宗教もまた同じではないのでしょうか。仰るように世の乱れもあるんでしょうけど」
「では、どのようにすれば宗教の乱れはなくなると思う?一揆勢を相手に各地の大名は大分苦慮している」
宗教の乱れを無くすーー澪はその答えを知っている。少し悩んだが、考えを話すだけならばと、言葉を紡いだ。
「宗教の乱れを正すには、とても強い統治者が必要です。仏法ではなく強力な王法によって国を治める必要があります。宗教は民の心の安寧のために存続させるにしても、全ての宗教は政から手を引かせる……即ち、政教分離が必須かと」
「つまりは、天下に覇を唱える強力な大名の出現が待たれると言うわけか。澪くんの話で行くと、仏罰や神罰を畏れぬ胆力のある大名の登場が望まれるな」
伝蔵の言葉に澪は頷いた。
「例え、第六天魔王と言われようが天下布武を為せるーーそういう方の登場が必要という
事になりますね」
まんま史実の織田信長の事を思いながら呟くと、伝蔵が難しい顔をした。文次郎や仙蔵は考え込むような顔をしており、は組はポカンとした顔、い組は何故か顔の表情が硬直している。半助は言うと、こちらも伝蔵同様に難しい顔になっている。
天下布武を為す、第六天魔王の悪名も恐れぬ者。それ即ち、乱世の奸勇だ。
戦国乱世とは、蠱毒のようだと澪は思う。
蠱毒とは、壺の中に毒虫を入れて戦わせ、生き残った虫の毒を使って相手を殺す中国の古い呪術を言うが、戦国の世はまさに毒虫が殺し合う壺の中だ。
その中で生き残った乱世の蠱ーーそれこそ、乱世の収集のために千を殺し、万を殺し、悪名を恐れぬ者の登場が待たれる。野蛮な話であるが、中世の世界で成り上がるには逆らう者は殺すしかない。
澪としては、戦は嫌いだし同じ国の民同士が殺し合うなんて……と、思うがそれが綺麗事に過ぎない事は歴史が証明している。
近代国家の概念や礎は、そこに至るまでに夥しい人間が死んだ事で創られたのだ。残念ながらその過程失くして、新しい世は来ない。
ふぅ、と澪は息を吐いた。少し喉が渇いたかもしれない。思っていたよりも、疲れる話になってしまった。
「天下布武、か。澪くんは、言葉の使い方が秀逸だな。今の世を、夜明け前の時代だとも言っていたし」
それは、よく似た世界の未来を知っているからだ、とは言えない。
「わたしは、早く平和な時代が来てほしいと思うのだが澪くんの話を聞いていると、まだまだ戦の世は続きそうだな」
やれやれとでも言うように伝蔵が苦笑いした。
「議論というよりは、澪くんの考えを始終聞くような事になってしまったが、わたしからの話は以上だ。付き合ってくれてありがとう」
「あ、いえ。こちらこそ……わたしの話で山田先生のお役に立っていればいいのですけど」
短かったような、長かったような。澪と伝蔵の話が終わると、すっ、と仙蔵が手を挙げた。
「澪さんに、わたし個人として色々と話が聞きたい。この後、時間はあるだろうか」
「それなら、オレも同席したい」
「えっ」
一体どんな話をされるのやら。六年生は大人顔負けの思考力があるだけに、伝蔵相手にした時と同様、疲れそうである。澪の顔が一瞬だけ曇ったのを見たせいか、半助が二人に声をかけた。
「二人とも、この手の話を立て続けにするのは少々気力を使う。日を改めてもいいのではないかな」
「……ふむ。それもそうですね、土井先生の仰るようにします。澪さん、後日改めて、わたしと話しをしてもらえるか」
「勿論ですよ。ただ、わたし個人の考えに寄るところが大きいので、その辺をご留意いただければ」
「無論だ」
日が改まっただけでも良しとしよう。半助のお陰で、この後は自由の身になった事に少しだけホッとする。
「今、何か凄い話を色々してた気がするけど、ようするにどういう事だと思う庄左ヱ門」
「ようするに、凄く強い大名が早く出てきて日ノ本の天下を統一するべきって事じゃないかな、きり丸」
ヒソヒソとは組の子ども達が話し合う。すると、そこにい組の子ども達が入っていく。
「そんな単純な話じゃないよ。強いだけじゃなくて、悪名を恐れない胆力を持つ傑物でないと」
「たんりょくって何?だんりょくとなにが違うの?」
「度胸があるってこと。胆は肝と同じ意味だ。肝が据わってるとか言うだろう」
「えっ、肝って座るの?怖っ」
「……山田先生か土井先生。どっちでもいいので、今からでも、は組に色々と補習した方がいいと思います」
い組の伝七が、神妙な顔で伝蔵と半助に言うと途端に二人とも、額に手を当ててため息をついた。おそらくは、その通りだと思ったのだろう。
「分かった。後で、わたしが澪くんの話を噛み砕いて説明しておく」
「お前達、今度、国語の授業で慣用句をみっちり叩き込んでやるからな……!」
伝蔵と半助が揃って、は組をジト目で睨むと途端に子ども達がタジタジになっていた。その何とも気の抜けたやり取りに、い組の子ども達や六年生の仙蔵と文次郎、そして澪まで笑ってしまうのだった。
ーーそして、その翌日から一年い組の子達に大きな変化があった。
「澪さんっ。今からぼくら、論語を勉強するんですけど、もし良かったら一緒にどうですか?」
「今度、ぼくらにも南蛮のお話を聞かせてください。詳しいんですよね」
おそらくは、昨日、伝蔵と澪とのやり取りを見て思う所があったのだろう。
澪は、一年い組から知的なお誘いを多数受けた。ちなみに、これが一年は組の場合、一緒に遊ぼうだの、ご飯を食べようだのになる。
「今から、六年生に稽古をつけますので図書室は難しいですが、南蛮のお話でしたら喜んで」
「本当ですかっ!ありがとうございますっ」
つい最近まで、澪を見たら怯えていたのが嘘のようだ。まるで警戒心の強い小動物が、心を許してくれたようで、嬉しくなってついつい相手をしてしまう。さぞや、今の澪はしまりのない笑顔を浮かべている事だろう。
「あの、澪さん。今まで、ごめんなさい」
「ぼくら、い組の皆で色々と話し合ってちゃんと澪さんに謝ろうって事になりました。本当にすみませんでした」
きっと、い組の子ども達の礼儀正しい所は、安藤や厚着の指導の賜物なのだろう。謝る必要なんてないのに、律儀に頭を下げる姿を前に澪の表情が柔らかな物になる。
ふわり、と優しく笑う澪。
その姿を直視した、一年い組の子ども達は固まってしまっていた。照れたのか、皆、耳がほんのり赤い。
「怒ってなんていませんよ。だから、今後はわたしと仲良くしてくださいね」
ふふ、と笑って澪が言うと、子ども達は頻りに頷いていた。
それからというもの、時たま澪の事を一年生達が取り合うようになったりする事態が勃発する事になるのだが……この時の澪は、呑気にも一年生の可愛らしさに只管に癒されていたのだった。
演習場は何事も無かったかのように片付けられ、忍術学園は今日も平和な一日を迎えていた。昨夜、幽霊騒ぎで一年生達が阿鼻叫喚していた様子等微塵もない。
あの後、ネタばらしがあったとはいえ一年生には刺激が強かったのか、まともに眠れなかった者が多数いたらしく、翌朝の廊下で一年生達の多くが欠伸をしたり眠そうにしている姿が目撃された。
ーーで、澪はと言うと。
「おっ、おは、おはようございますっ。澪さん!!」
「はい、おはようございます」
早速、廊下ですれ違った際、一年い組の子から挨拶を受けていた。
澪が返事を返すと、皆、ホッとした顔を見せて去っていく。怯えられて避けられているわけではないが、まるで度胸試しのような有様に苦笑いしてしまう。まぁ、昨日の今日である。昨日までの事を思えば、かなりの進歩だと澪は思う事にした。
「おはよう、澪さん!」
「おはようございます、小平太くん。昨日はお疲れ様でした」
もさもさしたポニーテールが、ワンコの尻尾のように見える。元気よく挨拶をしてくれた小平太に、澪も笑顔で挨拶を返す。
「あの程度、どうということはないさ。むしろ、わたし達もいい経験になった」
「それはよかった。皆さんの頑張りのおかげで、一年い組の子達が朝から挨拶をしてくれまして」
今まで、澪に怯えた人が態度を変えた事は殆どなかった。
相手が澪を知り、態度を変えるその前に澪が母の再婚の関係で住んでいる場所を移動したりしたせいもあるのだが、澪の経験上、一度覚えた恐怖というのは一日やそこいらで失くなる物ではない。
だから、本心では脅えていてもあからさまな態度に出したり逃げたりしない事が、簡単でないと分かるので、い組の子達は昨夜、先輩に諭されたとはいえよくやっていると素直に感じていた。
「そうか。それなら、後は時が解決してくれるか」
「ええ、だと思います」
澪が頷くと小平太がニカッと、笑った。まるで太陽みたいな笑顔だ。
「小平太くんの笑顔は、こっちまで元気になれそうですねぇ」
なので、思ったことを口にする。すると、小平太は一瞬だけ固まるも、ややあって照れくさそうに小さく笑った。
「そ、そうか。澪さんにそんなふうに言ってもらえるのは嬉しいな。わたしでよければ、いつでも澪さんの前で笑うぞ」
ーー可愛い。
そう思うのは、小平太の結った髪が、もさもさしたワンコのしっぽのように見えるせいか。
あるいは、澪の母性が反応しているのかもしれない。中身は××(自主規制)歳なのだし。
「なら、わたしは元気が欲しい時は小平太くんと話すようにしますね。そしたら、笑っている顔を見られますし」
「っ……ああ、そうしてくれ!」
小平太の周りだけ、パァっと光っているように見える。
「では、わたしは三年ろ組の授業の補佐がありますので、これで」
「ハッ、わたしも、今から野外実習に出かけるんだった。すまん、澪さん。長次と待ち合わせしているから、行ってくる!」
「はい、いってらっしゃい。お気をつけてー」
びゅん!と音がしそうな速さだ。廊下を走らないようにと言う前に、あっという間に去ってしまう。まぁ、小平太なら廊下で人とぶつかる事もないだろう。
外の天気を見ると、梅雨時期だから仕方ないとはいえ生憎の曇りだ。せめて、小平太や長次の行き帰りの道中くらいは、雨が降らないようにと祈るばかりである。
それから、澪は予定通り三年ろ組の授業の補佐を行った。今日は剣術の授業の稽古のため、戸部新左ヱ門が授業の講師役である。
澪と戸部の仲は、至って普通である。戸部との剣の試合は、澪が半助を倒せるようになるまで延期状態なのだが、半助の剣術の腕前は澪より遥かに優れている事もあり、何時になるかは不明である。
そんな澪が、本日、戸部の依頼で剣術授業の補佐についている理由は、一重に三年ろ組の名物コンビを見張るためである。
「えいっ、とぉー!」
「はぁっ、たぁー!」
戸部の指示に従い、剣術の授業で三年ろ組の忍たま達が木刀をリズミカルに振り下ろす。素振りの練習である。それを何度か繰り広げていると、神崎左門の木刀が振り上げるタイミングで、疲労によって握力が不足したのかスポーンと後方へ吹っ飛んだ。
「取りにいかねばっ!あっちだ!!」
「はい、左門くん。替えの木刀です。わたしが取りに行くので動かないでくださいね」
木刀が吹っ飛んで行ったのとは異なる明後日の方向を指し、走っていこうとする左門の肩を素早く掴んで捕獲する。
「違うよ左門。こっちだよ」
「そっちでもないですからね、三之助くん」
ワザとか、ワザとなのか。
そう、澪が三年ろ組の補佐を頼まれたのは、何を隠そう方向音痴コンビである、神崎左門と次屋三之助が在籍するせいである。毎回二人の監督役をしている富松作兵衛が、澪と二人のやり取りを見てため息を着いていた。
日頃の苦労が偲ばれる。
「助かる、澪さん。すまないな……前に同じ事があった時、授業が中断してしまって」
「いえいえ、お気になさらず。戸部先生は授業の続きをどうぞ」
戸部が軽く頭を下げて礼を言うので、澪は笑顔で返事をして急いで木刀を取りに向かった。澪の言葉に頷くと、戸部が木刀を構えている子ども達の指導に戻る。
木刀は、学園のそこがしこに植えられた低木に埋まるように突き刺さっていた。それを引っこ抜き、元いた場所に戻る。振り下ろしの訓練の次は、突きの訓練をしていた。
「手首ではなく、腕全体を使って木刀を持つんだ。でなければ、関節を痛めるぞ」
木刀は意外と重い。戸部の言う通り、持ち方を誤ると手を痛めてしまう。
「澪さん、わたしは左半分を指導するので、右半分を頼む」
「わかりました……作兵衛くん、突く時に体幹がブレてます。腰に負荷がかかりすぎますよ」
利吉との特訓のおかげで、剣術の勘を澪は取り戻していた。とはいっても、半助には負けてしまう。忍たま相手になら、簡単な指導助言ができる程度の腕前だ。
作兵衛の傍にいき、姿勢を正す補佐をしてやると照れたのか、耳を真っ赤にしていた。三年生は小学校六年生と同じ十二歳である。まだまだ可愛い。
「澪さんっ、ぼくも見てくださいっ!」
「ぼくもー!できたら、作兵衛にしてるみたいにくっついてご指導をお願いします」
「お前達、剣術の稽古を何だと思ってる。澪さんでなく代わりに、わたしが行くぞ」
作兵衛を見て我も我もと手を挙げる忍たまに対し、戸部が鋭いツッコミを入れた。途端に、忍たま達が真顔になってブンブン首を振るものだから、それがおかしくてくすくす笑ってしまう澪だった。
それから無事に剣術の稽古を終え、その後は雨が降って来た事もあり自室で兵法の勉強をしながら、半助の着物の仮縫いをしたりして放課後まで時間を潰す事になった。
兵法と一口に言っても、実に奥が深い。有名な孫子もそうなのだが、勝つための戦術論であることは勿論のこと、ビジネスだったり人間関係だったりで活かせるような記述もあるのが面白い。澪が今、読んでいる三略については古代中国の王朝は周の軍師、太公望が著したとされている。
ちなみに、なんちゃって戦国時代において太公望は史記において記されている名前であり、娯楽小説で有名な封神演義は江戸時代に日本に入ってくる事もあって、太公望の名前を知っている者イコール、兵法か大陸の歴史を齧った事がある者という図式が成り立ったりする。
三略は上、中、下の三部で構成されており、策略については中編に詳しく記載がある。三略とセットで、六韜という兵法書も読むと勉強になるのでそちらも並行して学習する。なお、六韜の著者もまた太公望とされている。
難しい事というよりは、なるほどと納得するような内容が多い。兵法書だけあって、孫子と似たような事も書かれている。例えば戦わずして勝つのが最良、なんて当たり前の事とか。
「ーーふぅ、そろそろ時間かしら」
キリのいい所まで読み終えた所で、澪は伝蔵との約束通り一年は組の教室へと向かった。世間話、という名の議論を交わすためである。果たして何を言われるのやら。
「やぁ、澪さん。今から行くのかい?」
「……半助さん。あの、半助さんも来るのよね」
「当たり前じゃないか。見守ってるよ!」
は組の教室に向かう廊下で、ばっちり半助と鉢合わせした澪は笑うしかなかった。半助としては応援しているつもりなんだろう。あるいは、澪の話を聞きたいという好奇心か。
「本当に単なる世間話で終わっても、知りませんよ」
「分かってるさ。わたしとしては、澪さんの話が聞けたらそれでいいんだ」
かなりキザだが、君の綺麗な声が聞きたいからいるのさ!とか何とか言えば、アピール出来るのにチャンスをスルーしている半助である。
しかし、これこそが半助の通常運転のため、澪も目の前の男が己にベタ惚れな上にどちゃクソ重たい恋慕の情を抱えていると気付かずに済むというわけだ。
「はぁ、無駄な時間だったと後悔しても知らないんだから」
「そんな事ないさ。さぁ、中に入ろう」
唇を少し尖らせ半助に言うと、にこにこと笑顔で頷かれた。ちなみに、半助はそんな澪を見て可愛いと惚気けた事を考えていたりした。
廊下を程なく歩くと、一年は組の教室に到着する。戸を開けて中に入ると、既に一年い組の子達が居た。他にも、きり丸を筆頭に乱太郎やしんべヱに、は組の良い子達も多数おりーーそして何故か、六年生の文次郎と仙蔵まで居た。
「おお、揃ったか」
伝蔵も既に居た。教壇に立って、入口に立つ澪と半助を見ている。どうやら、澪達が最後だったらしい。
「何で文次郎くん達が居るんですか?」
「わたしは伝七から今日の事を聞いてな。歴史の授業も面白かったし、時間があったので顔を出した」
「オレは佐吉から聞いた。歴史の授業は参加できなかったから、今日は出たいと思ってな。邪魔はしないし、山田先生からも許可を貰ったぞ」
邪魔はしなくても、多数から注目されるというのは余り楽しい話ではない。ましてや、伝蔵相手の議論ともなれば。
「澪くん。そんなに長く話をするつもりじゃないから、立ったままでいいかね」
「山田先生に合わせます」
もともとは、合戦に応援に来てくれたことのささやかな礼のはずだった。それが何だってこんな事に……と、思わなくはないが、引き受けた以上は伝蔵にこそ決定権があるわけで、澪は黙って従う。
半助は、何も言わずには組の教室の後ろへと行ってしまった。どうやら、立ったまま聞くつもりらしく部屋の隅の方で腕組みして立っている。
「では、これから早速、澪くんと世間話ついでに色々と話す。澪くんにとっては、雑談適度の物だろうが、お前達には得るものがあるはずだ」
ごくり、と澪は生唾を飲み込んだ。地味にハードルを上げられた。
ちょっとお茶が欲しいかもしれない。急に喉が渇いたような気がした。
「ーーいつでもどうぞ」
内心の気持ちを悟られないよう、澪が促すと伝蔵は軽く頷いてから話し出した。
「これは、つい先日に仕入れた話なのだが……一向一揆の事だ。何でも、過日、越中の方で一向門徒と大名の衝突があったとそうだ。両者共、それなりの死傷者が出たそうだ。知っての通り、一向一揆は一向宗の者達が中心となり、土地の支配者達に対して行う一揆の事だが、あの者達は皆、戦う時は死ねば極楽浄土にいける故、死を恐れる事はないと奮闘するのだと聞く。故に大名達からすると、死を恐れぬ厄介極まりない相手だ」
一向一揆は、澪の知る元いた世界の過去の歴史でも、このなんちゃって戦国時代にも存在している。庶民にとって、暮らしの厳しい戦国時代では領主に善政を期待するだけでは、搾取されて殺される危険性が高い。そのため、領主に命懸けで一揆をするわけだが、一向一揆の凄い所は範囲と門徒の数だ。
越中だけではなく、加賀、三河、長島、畿内に及ぶ。一向門徒だけならもっと多い。
一向宗の特徴としては、他の宗派とは異なり肉食や妻帯が許されている事である。その存在の名前も、教義も澪の知る歴史と全く同じだ。故に、伝蔵の話が何処に行き着くのかと思いつつも、黙って続きを聞く。
「澪くんは、どう思うかね?一向宗では門徒は死ねば極楽浄土に行けると言うが……」
「さぁ、どうでしょうか。一度死んで生き返りでもしなければ、お答え出来ないかと」
ーー実は死んで生まれ変わった澪であるが、極楽浄土に行った覚えは当然ない。仮に神に近い存在に遭っていたとしても、死んで生まれ変わるまでの間の記憶がないので、何の話も出来はしない。
澪の回答に、伝蔵はニヤリと笑って更に質問した。
「では、より突っ込んだ質問をしよう。澪くんは神仏は居ると思うかね。宗教とは何だと思う?」
直ぐには答えにくい質問に、澪は僅かに眉を寄せた。雑談といえば雑談だが、テーマは重たい。
だが、質問としては素朴な物だ。
「えっと、まず御仏と神様についてですが……」
なので、考えながらも二つある質問のうち、一つ目から答える。
「わたしは、神仏が居たら良いとは思いますし、実際に神社なんかでお参りもします。が、その存在の証明はできません。その存在が居ない事もです」
「ほぅ。どうして存在の証明等ができないと」
「目の前にないからです。例えば、この教室にある黒板の存在は目の前にあるので証明できます。誰にでも目に見えて触れる事ができる存在の証明は容易い。ですが、神仏は像はあっても、像はあくまで神仏の姿を象った物に過ぎず、神仏そのものではありません。また、神仏が居ない事の証明も難しいです。というより、居ない事の証明はいる事の証明より難しいです。不存在の証明ーーこの場合、例えば神仏については、本当に神仏がいない事を世界中で確認しなくては断言できません。そしてそれは、わたしには不可能です。ですから、どちらも証明できないため、わたしは居たらいいなと思うのです。その方が都合がいいですし」
存在の証明あるいは、不存在の証明の議論はできないので、逃げの論法をとる。神仏については、強く言及すると忍たま達に何らかの宗教の信者が居たらややこしいからでもある。
この時代、人々は宗教を命懸けで信じている事は珍しくない。チラ、と忍たま達へ視線を向けると、じーっとい組の子達から見つめられていた。反対に、は組の子達はぽけーっとした顔をしている。
「なるほど。実は、わたしも似たような考えだ。そこまて宗教に帰依しているわけではないが、葬式をするとなれば坊主に教を読んでもらうだろう。ご利益のある寺社があればお参りをしたいし、たまにある巫女舞なんかを見るのだって楽しみの一つだ。神仏の存在の有無についての議論は、所詮、人間には手に負えない話だと思っているが、わたしも、神仏はいてくれる方がいいと考えている。こんな時代だからな」
伝蔵の考え方が、澪に近い事を意外に思いつつも同意して頷く。
「では、次のご質問……宗教とは、何だと思うという話ですが、あくまでもわたし一個人の見解である事を前提にお話しします」
「勿論だ。是非教えてくれ」
「ーー宗教はわたしが思うに、例えるなら痛み止めの薬です」
必要は発明の母ーー有名なトーマス・エジソンの言葉だ。その事を思いながら、ゆっくりと自分の考えを口にする。
「宗教は、古今東西、人のある所に様々に存在します。日ノ本にも明にも南蛮にも。呼び方は様々ですが、大勢の人々が神仏の類を信仰しています。そして、宗教はその多くがこの世での生き方を説き、死後の安寧を約束している。それは何故か……」
「ふむ、そういう事か」
流石は伝蔵。
皆まで言わずとも、澪の言わんとする事が直ぐに分かったらしい。だが、ふと見ると忍たま達は六年生を除き不思議そうな顔をしている。なので、澪はあえて話を続けた。
「この世は余程の権力者でもなければ、殆どの者にとって生き辛い。そして生きている以上は死の恐怖が付き纏います。その苦難や痛苦から、また恐れから逃れるために何かに縋りたくなる。それが神仏であり、宗教だとわたしは思います。まるで、痛み止めの薬ではないですか」
「痛み止めか。中々に上手い表現だ。一度ハマれば、常習性があり病みつきになってしまうしな。では聞くが、最近の日ノ本の宗教は宗派にもよるが、世の乱れの一部にもなっている。それについてはどう思う?わたしは、今の世が戦国だからこそ、宗教まで乱れているのだろうと見ているが」
伝蔵の見解に同意しつつ、次の問に関して考えながらも、ゆっくり答える。
「……そもそも、肥大化した組織は時が経てば何れは腐敗します。時の政権が移ろうのはそれです。宗教もまた同じではないのでしょうか。仰るように世の乱れもあるんでしょうけど」
「では、どのようにすれば宗教の乱れはなくなると思う?一揆勢を相手に各地の大名は大分苦慮している」
宗教の乱れを無くすーー澪はその答えを知っている。少し悩んだが、考えを話すだけならばと、言葉を紡いだ。
「宗教の乱れを正すには、とても強い統治者が必要です。仏法ではなく強力な王法によって国を治める必要があります。宗教は民の心の安寧のために存続させるにしても、全ての宗教は政から手を引かせる……即ち、政教分離が必須かと」
「つまりは、天下に覇を唱える強力な大名の出現が待たれると言うわけか。澪くんの話で行くと、仏罰や神罰を畏れぬ胆力のある大名の登場が望まれるな」
伝蔵の言葉に澪は頷いた。
「例え、第六天魔王と言われようが天下布武を為せるーーそういう方の登場が必要という
事になりますね」
まんま史実の織田信長の事を思いながら呟くと、伝蔵が難しい顔をした。文次郎や仙蔵は考え込むような顔をしており、は組はポカンとした顔、い組は何故か顔の表情が硬直している。半助は言うと、こちらも伝蔵同様に難しい顔になっている。
天下布武を為す、第六天魔王の悪名も恐れぬ者。それ即ち、乱世の奸勇だ。
戦国乱世とは、蠱毒のようだと澪は思う。
蠱毒とは、壺の中に毒虫を入れて戦わせ、生き残った虫の毒を使って相手を殺す中国の古い呪術を言うが、戦国の世はまさに毒虫が殺し合う壺の中だ。
その中で生き残った乱世の蠱ーーそれこそ、乱世の収集のために千を殺し、万を殺し、悪名を恐れぬ者の登場が待たれる。野蛮な話であるが、中世の世界で成り上がるには逆らう者は殺すしかない。
澪としては、戦は嫌いだし同じ国の民同士が殺し合うなんて……と、思うがそれが綺麗事に過ぎない事は歴史が証明している。
近代国家の概念や礎は、そこに至るまでに夥しい人間が死んだ事で創られたのだ。残念ながらその過程失くして、新しい世は来ない。
ふぅ、と澪は息を吐いた。少し喉が渇いたかもしれない。思っていたよりも、疲れる話になってしまった。
「天下布武、か。澪くんは、言葉の使い方が秀逸だな。今の世を、夜明け前の時代だとも言っていたし」
それは、よく似た世界の未来を知っているからだ、とは言えない。
「わたしは、早く平和な時代が来てほしいと思うのだが澪くんの話を聞いていると、まだまだ戦の世は続きそうだな」
やれやれとでも言うように伝蔵が苦笑いした。
「議論というよりは、澪くんの考えを始終聞くような事になってしまったが、わたしからの話は以上だ。付き合ってくれてありがとう」
「あ、いえ。こちらこそ……わたしの話で山田先生のお役に立っていればいいのですけど」
短かったような、長かったような。澪と伝蔵の話が終わると、すっ、と仙蔵が手を挙げた。
「澪さんに、わたし個人として色々と話が聞きたい。この後、時間はあるだろうか」
「それなら、オレも同席したい」
「えっ」
一体どんな話をされるのやら。六年生は大人顔負けの思考力があるだけに、伝蔵相手にした時と同様、疲れそうである。澪の顔が一瞬だけ曇ったのを見たせいか、半助が二人に声をかけた。
「二人とも、この手の話を立て続けにするのは少々気力を使う。日を改めてもいいのではないかな」
「……ふむ。それもそうですね、土井先生の仰るようにします。澪さん、後日改めて、わたしと話しをしてもらえるか」
「勿論ですよ。ただ、わたし個人の考えに寄るところが大きいので、その辺をご留意いただければ」
「無論だ」
日が改まっただけでも良しとしよう。半助のお陰で、この後は自由の身になった事に少しだけホッとする。
「今、何か凄い話を色々してた気がするけど、ようするにどういう事だと思う庄左ヱ門」
「ようするに、凄く強い大名が早く出てきて日ノ本の天下を統一するべきって事じゃないかな、きり丸」
ヒソヒソとは組の子ども達が話し合う。すると、そこにい組の子ども達が入っていく。
「そんな単純な話じゃないよ。強いだけじゃなくて、悪名を恐れない胆力を持つ傑物でないと」
「たんりょくって何?だんりょくとなにが違うの?」
「度胸があるってこと。胆は肝と同じ意味だ。肝が据わってるとか言うだろう」
「えっ、肝って座るの?怖っ」
「……山田先生か土井先生。どっちでもいいので、今からでも、は組に色々と補習した方がいいと思います」
い組の伝七が、神妙な顔で伝蔵と半助に言うと途端に二人とも、額に手を当ててため息をついた。おそらくは、その通りだと思ったのだろう。
「分かった。後で、わたしが澪くんの話を噛み砕いて説明しておく」
「お前達、今度、国語の授業で慣用句をみっちり叩き込んでやるからな……!」
伝蔵と半助が揃って、は組をジト目で睨むと途端に子ども達がタジタジになっていた。その何とも気の抜けたやり取りに、い組の子ども達や六年生の仙蔵と文次郎、そして澪まで笑ってしまうのだった。
ーーそして、その翌日から一年い組の子達に大きな変化があった。
「澪さんっ。今からぼくら、論語を勉強するんですけど、もし良かったら一緒にどうですか?」
「今度、ぼくらにも南蛮のお話を聞かせてください。詳しいんですよね」
おそらくは、昨日、伝蔵と澪とのやり取りを見て思う所があったのだろう。
澪は、一年い組から知的なお誘いを多数受けた。ちなみに、これが一年は組の場合、一緒に遊ぼうだの、ご飯を食べようだのになる。
「今から、六年生に稽古をつけますので図書室は難しいですが、南蛮のお話でしたら喜んで」
「本当ですかっ!ありがとうございますっ」
つい最近まで、澪を見たら怯えていたのが嘘のようだ。まるで警戒心の強い小動物が、心を許してくれたようで、嬉しくなってついつい相手をしてしまう。さぞや、今の澪はしまりのない笑顔を浮かべている事だろう。
「あの、澪さん。今まで、ごめんなさい」
「ぼくら、い組の皆で色々と話し合ってちゃんと澪さんに謝ろうって事になりました。本当にすみませんでした」
きっと、い組の子ども達の礼儀正しい所は、安藤や厚着の指導の賜物なのだろう。謝る必要なんてないのに、律儀に頭を下げる姿を前に澪の表情が柔らかな物になる。
ふわり、と優しく笑う澪。
その姿を直視した、一年い組の子ども達は固まってしまっていた。照れたのか、皆、耳がほんのり赤い。
「怒ってなんていませんよ。だから、今後はわたしと仲良くしてくださいね」
ふふ、と笑って澪が言うと、子ども達は頻りに頷いていた。
それからというもの、時たま澪の事を一年生達が取り合うようになったりする事態が勃発する事になるのだが……この時の澪は、呑気にも一年生の可愛らしさに只管に癒されていたのだった。
