第10話 ドッキリドキドキ大作戦
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「成程、再テストの結果、きり丸は満点だったのか。いつもこの位頑張ってくれたらいいのに……はぁ」
ため息が止まらない。
胃薬を飲んで、少しは落ち着いたはずの胃袋がまたしくしくと痛む気がして半助は思わず胃がある辺りを摩った。無論、撫でた所で胃痛が治るはずもない。それでも、腹を撫でるのは半ば習慣であった。
胃の痛みと疲れがダブルパンチで効果を表したのか、今日は背中やら他の場所も痛み、結果、新野から療養を言い渡され、一日休む事になってしまった。
お陰様で、胃に負荷をかけぬよう食堂のおばちゃん特性のお粥で胃袋を労り、苦い薬で胃腸の働きを助けている。とはいえ、寝てばかりいるわけにもいかぬため、澪が代わってくれた乱太郎達の補習の結果報告を見ていた。
授業態度に始まり、テストの内容そしてその結果が、普段の授業でこそ発揮して欲しい内容ばかりで……はぁ、とまた零れるため息。
幸せが逃げてなければいいのだが。
「土井先生。わたしももう休むから、そろそろ寝なさい」
「あ、はい。そうですね山田先生」
部屋で、同じく仕事をしていた伝蔵に声をかけられた。雨は止んではいるが、一時的な物だ。そう言えば、上級生達から下級生に仕掛けるドッキリドキドキ大作戦もとい、幽霊騒ぎは雨が降っておらず、地面がマシな夜に決行と聞いているが、今週の降り具合を見るに、これは来週になりそうだな、と思った。
「そうですね、もう寝ます」
「週末は、たまには長屋に帰ってゆっくりするんだな。ここに居ると、休みの時もつい仕事をしてしまいがちだろう。それに、天気が悪くなければドブさらいとかあるんじゃないのか」
「あ……確かに」
忍術学園で休みを過ごすと、どうしても仕事をやりながらになってしまう。仕事部屋と寝室が繋がっているせいだ。プライベートを切り離すのなら、週末は長屋に帰るのがベストなのだが、そうすると、きり丸のアルバイトの手伝いが大抵待っているのだ。
まぁ、ひょっとしたら半助の胃を傷める姿を見て、今回は手加減してくれるかもしれないが。
そして、ふと思い出す。きり丸から、長屋に帰った時でいいから、相談をしたいので時間を作ってほしいと言われていた事を。
きり丸のあの感じは、澪抜きの方が良さそうだし、この機会に今週末に長屋に帰った時に話を聞こう。補習のやり直しとはいえ、小テストで満点を取ったわけだし、団子でもご馳走してやろうーーそう、半助は思ってその夜は目を閉じた。
まさか、その先に特大級のドッキリが仕掛けられているとは露知らずに。
+++++
翌朝。
半助の体調はどうにか一晩で落ち着いた。念の為、朝ごはんはお粥だったが、胃の調子が悪くなければ夜には普通の食事を食べても良いと、新野から言い渡された。ただし、酒はもとより油っこい物や肉は今週は控えておくように、との事だ。
「半助さん、調子はどうなの。大丈夫?」
「やぁ、澪さん。昨日は補習を代わってくれて、どうもありがとう。食事に今週は少し気をつけるよう言われた程度だよ。大丈夫さ」
廊下を歩いていると、澪が声をかけてくれた。見ると、澪は本を抱えており、それは兵法書だった。
「兵法の勉強かい?」
「まぁね。半助さんと、議論するって約束したし。何を議論するかは、分からないけれど半助さんは兵法に詳しいから。議論をそれなりの物にするのに、わたしが勉強しなくちゃ恥ずかしいでしょ」
それはそうだ。
は組の、特に乱太郎達に澪の爪の垢でも煎じて飲ませたい気になる。とはいえ、澪に爪の垢なんてあるのか。今日も指先は爪が短く整えられ綺麗である。垢なんて見当たらない。
「そうだ、半助さん。例の事業の件なんだけど、梅雨が明けて時間さえあれば、一度、京に視察に行きたくて。できれば堺にも。本格的な企画書はその後になりそうなの」
「そうかい。焦らずに、じっくりやるといいさ」
「ふふ、そう言ってくれると助かるわ。そしたら、わたしはこれで。今から、六年生の稽古の予定なの」
「ああ、気をつけて」
廊下での会話は短い物だったが、それでも半助の気持ちは自然と上向く。ふわっ、と一瞬だけすれ違い様、澪から香るいい匂いに目を細めた。彼女自身の体臭と、ほんのり纏う香り。己の好きな女の香りだと思うと、何とも言えない名残惜しさを感じてしまいそうになる。
ーーいかん、これから授業だと言うのに。
気を取り直して、一年は組の教室へ向かう。今日、外は雨こそ降っていないが雲は重たげで、いつ降ってもおかしくなさそうな様子ではある。
外で遊べないせいか、ここの所、一年は組の子ども達の授業態度が益々落ち着きのない物になっていると感じるのは気のせいか。さっさと、お天道様のもと、子ども達が楽しく遊べたらいいのだが。
後で、澪に相談してみようか。澪なら、何か部屋で時間つぶしができる遊びがないか、知っていそうである。
博識な彼女の事だから……と、惚気にも似た事を考える。
澪の事をそうやって思い浮かべると、合戦場で彼女を抱き寄せた時の事まで思い出してしまいそうになる。
あの時見た、澪の涙はとても綺麗だった。同時に、力強く見える普段の澪とは異なる、まるで迷子の子どものようになってしまった華奢な身体を、慰め繋ぎ止めるように抱き寄せたのを思い出す。
澪は不思議な人だ。
稀なる美貌、頑健な肉体、そして尋常ならざる怪力と、底知れぬ知恵。どれもこれも普通ではない。なのに、ふとした時に精巧な細工が壊れてしまうような、そんな危うさがあった。
それは、貴重な知識をポロッと出してしまう危なっかしさだったり、あるいは、合戦を見て涙してしまう繊細さ故か。
今にも消えそうに、儚いというわけではない。
ただ、強いばかりではない澪の姿を見て、半助は、もしも澪が涙を流す事があるのなら、その全てを自分こそが受け止め、拭いたいと思った。
己が澪に甘えるように、澪が半助を指名して甘やかしてほしい、と頼んでくれた時、言葉には言い尽くせない程、とても嬉しかった。
そして同時に願ってしまった。
この先、ずっと澪が甘える相手は半助だけにしてくれないか、と。澪が涙を流すのも、辛いと言うのも、全部全て喜んで受け止める自信がある。
慰めが必要なら何度でも幾らでも、澪が満足するまで傍にいるから、だからどうか……と。
そして、その祈りにも似た願いのせいか、最近は澪を見ると、またあの時のように無性に抱き寄せたくなるのだ。甘えたいという要求だけでなく、甘やかしたいという要求まで芽生えてしまった。
これは中々に危険である。
前回は合戦の直後というのもって、緊張感があったし理性を保つことが出来た。あの状況で不埒な妄想ができるはずもない。
だが、今は違う。きっと、抱き寄せてしまったら、澪にもっと触りたいという生々しい男の性が顔を出すに違いない。
澪に甘やかされる時は、澪が主体だ。澪から半助に対して、性的な接触でも図らない限り男の情欲に火が点るなんて事はないだろうが、澪を甘やかすとなると、率先して触るのは半助から、となるわけで。
好きで好きで堪らない女を、自分の腕の中で甘やかすというのは……男にとってグッと来る物があった。
だからこそ、自制しなくてはならない。肉体の接触から性欲に火がついて、突っ走る馬鹿にはなれない。今の関係性を壊すのが怖くて、告白すら躊躇われる澪相手に、そんな大暴走が出来るはずもないのだが、澪に関しては彼女への想いが何かの弾みで溢れてしまわないかという、妙な心配があった。
嫌われたくないし、傷つけたいわけでもない。だからこそ、顔を出す欲を十重二十重に厳重に封じ込めるしかない。
「はぁ……、行くか」
思わず零れた溜息に、澪へ抱く切ない想いを込めるようにして、半助は一年は組の教室へと向かった。
本日は、教養ではなく忍術の授業である。忍術学園では、教科で学んだ事を実技で使う事もあるし、その逆に実技で習ったことを教科で後から知り深い知見を得る事もある。
「今日は天文について、学ぶぞ」
「天丼?すごく美味しそう!」
「天文だ、て、ん、も、ん」
じゅるり、とヨダレを垂らしそうな顔になり、しんベヱがボケをかますのを苦笑いして訂正する。
「天文とは、天文学の事だ。主に空の星の運行を観測する学問である。暦を作る根拠になっているだけでなく、これらの知識は日食や月食、時には国の行く末を占う事もできる。まぁ、最後のは非現実的だが、知っていると役に立つ。特に季節によって、夜の空に浮かぶ星の位置の把握が出来れば、非常に便利だ。暗闇でも空を見れば方角が分かるからな。忍者も、気運を高めるため占いをする事があり……」
授業の内容を黒板に書いていく。
背の高い半助は、黒板の上から下まで文字を書けるか、下の方に無理に書きすぎると、子供たちが座る位置からでは、文字が見辛い位置を把握しているので、よく見える範囲にしか字を書かない。かつかつと、硬質な音と共に黒板に文字を書いていくと、まだ最初の方なので子ども達の顔は集中力があった。
軽く視線を後ろへ向けて、子ども達の様子を伺う。その時だ。
前に居たきり丸と目が合う。すると、きり丸の口が軽く動いた。“はなし”ーーと、口の動きだけで伝えて来たらしき、きり丸を見て半助は、黙って頷いた。
もともと、週末はそのために長屋に帰るつもりだから、問題ない。
とはいえ、せっかくの休みに澪と離れてしまう事に少しの寂しさを感じてしまう。少し先になるが、澪が視察に行きたいと言っていた京や堺に可能なら、自分も同行できるよう予定を調整しよう。うまくいけば、特に堺の方は澪と泊付きの出張が出来るかもしれないし。
そう考えると、少し気分が上向いて来た。何やら、小さく寝息のような物が聞こえるが、今日の授業は胃が痛む事は無かった。薬の他に、密かな楽しみと目標が出来た効果かもしれなかった。
そして、その日の授業を無事に終えて、半助は胃を休めつつも、週末を迎える事になった。お粥から解放はされたものの、味気ない食事が続いており、早く来週がくれればいいのに、と思う。天麩羅定食が、煮魚定食に切り替えないといけなかったのは、地味に辛かったからだ。しかも、天麩羅は澪が食堂のおばちゃんを手伝って揚げていた代物だった。残念でしかない。
そんなこんなで迎えた週末の今日。
長屋はドブさらいの日と思われるので、澪から貰った物ではなくいつもの草臥れ気味の着物を着る。袴も少しずつ傷んではきているが、着物にしろ袴にしろ半助の手足が長いせいで、特注になる事もあり仕立て代が、普通の人より割増になるのだ。ただでさえ、それなりの値段がするのに注文すると、半助の払う銭は結構な額になる。
ケチではないが、ぽんぽん次から次に支払えるような金額ではないため、それが服を新調するのを億劫にするのに一役買っていた。
それもあって、澪からのプレゼントは嬉しいのは勿論、非常に有難かった。仮に半助が澪に恋心を抱いていなくても、深く感謝した事に変わりはなかっただろう。
袴も縫ってくれないかな、等と思うのは罰当たりというものだろう。
この所、少しづつ傷みがマシになってきた己の髪を烏帽子にしまい、いつもの着物と袴を着れば長屋に戻る準備は完了だ。既にきり丸とは待ち合わせをしており、外出許可も取ってある。
なお、澪の予定を確認したところ、本日はシナと町に出かけるようで、長屋のドブさらいを気にしていたが、きり丸と自分でやるから今回はシナと過ごすようにと伝えた所、申し訳なさそうにしつつも頷いていた。その際、長屋の家賃代だと銭を渡されてしまった。
半助としては銭等要らぬのに、澪の律儀な所は好ましい。とはいえ、助かるのは事実だ。有難く受け取り、家賃の足しにさせてもらう事にした……と言うより、澪が多めに渡してくれたので、二月程なら澪の出した金額だけで余裕そうだった。
澪から受け取った銭で、家賃を支払うために懐にしまい、きり丸との待ち合わせ場所である学園の門の外へ向かう。
そこには既にきり丸が居て、塀の近くにしゃがんで空を見上げていた。今日の天気は梅雨時期の合間の久々の晴れだ。雲ひとつない、というわけではないが雲の合間から太陽が顔を出す程度には天気がいい。
午後からまた曇って雨になる可能性もあるが、外に出る絶好の機会であろう。
「お待たせ、きり丸」
「そんなに待ってないんで、大丈夫っす」
「そうか。なら、帰ろうか。今日は多分、ドブさらいがあるだろうから。雨さえ降っていなければ、帰りに茶屋で団子でも食べよう。奢ってあ、げ、る。漢字の再テスト満点のご褒美だ」
「あげるっ?あひゃあひゃ、やったぁ!!」
きり丸がご機嫌になる言葉を強調すると、途端に飛び跳ねて喜ぶ。心得さえすれば、きり丸は扱いやすい。ただし、銭が絡むと勢いが良過ぎるので匙加減が大事だと、半助はよく理解していた。
それから、二人で長屋に戻った。半助がきり丸と揃って姿を表すと、真っ先に隣のおばちゃんが澪の事を尋ねて来た。
曰く。
「半助、あの子は滅多とない良いお嫁さんになるわよ。絶対モノにしなさいよ!」
との事。言われなくても、半助としてはそうなってほしい、というかそうする気満々のため、これがどうでもいい女性なら適当に苦笑いしてスルーするのだろうが、澪となると話は違う。
「ーーおばちゃん。わたし、その件については本気で頑張るので、ここは一つ黙って見守ってはくれませんか?」
と返した。半助の反応が予想外だったのか、おばちゃんは一瞬だけ惚けた風になっていたが、次の瞬間に「大家さんと応援してるからね!」と言って、思い切り背中を叩かれた。地味におばちゃんの張り手は痛かった。
微妙にヒリヒリする背中のまま、半助はきり丸とドブさらいをして、長屋の掃除を終えた。留守にしてから暫く経つため、少し埃っぽいのをきり丸と二人で綺麗に片付けると、長屋が随分とすっきりした。軽く布団も干しておく。
すると、澪が少しの間だけ使っていた布団が出てきて、何とも言えない気持ちが込み上げた。今日と言わず、これから先も澪の布団を干したいーーという、それだけ聞くと変態的な発言だが、ようは澪とずっと一緒にいたい。
恋人になり、いつかは嫁にしたいという健全な気持ちが沸き起こったのだ。隣のおばちゃんに、応援されたせいか嫁という言葉が脳内をぐるぐる駆け巡る。
嫁若しくは妻、いい響きだ。絶対にそうなるよう、何としても澪の恋人、いずれは夫に収まらねば。と、段々やる気になってくる。が、今すぐ告白する程の気概がない半助は、奥手という名のヘタレであろう。
「土井先生、その、今、前に言ってた話をしていいっすか?」
布団を干し終わり、少しだけ休憩していると、きり丸が話しかけてきた。そろそろ昼餉の時間である。ドブさらいを頑張ったご褒美にと、隣のおばちゃんから、昼に食べるよう握り飯の弁当の差し入れがあったので、そろそろ、きり丸と食べようかと思っていた所だ。
「ああ、いいとも。昼餉に、おばちゃんから貰った握り飯があるから、食べながらでいいか?」
「勿論です」
きり丸が何やら、畏まった様子で頷いた。それを不思議に思いつつ、湯を沸かし白湯を作る。長屋には、今は塩くらいしかないため、隣のおばちゃんからの差し入れは大変助かった。
竹の皮に包まれた昼餉を、きり丸と二人で食べる。握り飯に沢庵が数切れという、典型的な弁当を頬張ると、握り飯の中には酸っぱい梅干しが入っていた。丁度いい塩梅の味だ。
「それで、話ってなんだ?悩み事か」
きり丸かわざわざ時間を取って欲しいと言うなら、半助は十歳児の話だと切り捨てず、しっかりと聞いてやるつもりでいた。担任としてだけでなく、こうしてきり丸の保護者のように世話を焼く間柄だからこそ、余計にそう思う。
「……えっと、澪さんの事なんですけど」
「澪さんがどうしたんだ?」
澪絡みとは、何かあったのだろうか。
半助は澪とよく会って話をしているが、澪からきり丸の事で相談を受けてはいない。だとすると、澪がきり丸に何か話したのだろうか。それとも、きり丸が一方的に澪の事で悩んでいるのだろうか。好きな女の名前がきり丸の口から出たせいで、途端にあれこれ考えを巡らせてしまう。
「ぼく、澪さんが好きなんです」
「……ん?知っているが、それがどうした」
きり丸が澪の事を好きだなんて、見ればすぐ分かる。きり丸は澪に最初から好意的だったし、最初に出会ったためか澪ととても仲がいいのが、その証拠だ。子どもは素直で取り繕わないから、見ていれば好意の有無がはっきりする。
頷きながら、半助が白湯を口に含んだその時である。
「ぼく、澪さんの事が女の子として好きなんです。惚れてます。ぼくがもし六年生なら、嫁になって欲しいって土下座して頼むと思うくらい好きです」
「っ、ぶっ?!」
「うわっ、汚い……!もう、土井先生、床掃除したばっかなのに、吹き出さないで下さいよ!」
「す、すまないっ。て、誰のせいだと思っとんじゃー!!」
余りの事に、口に含んでいた白湯を床にぶちまけてしまった。
確かに汚い、きり丸が怒るのも分かる話ではあるが、予想だにしない告白をするきり丸の方が大問題である。
「す、好きって、お前っ、まだ十歳じゃないか!子どもだろっ。男女のいろはも知らんくせに」
「決めつけないで下さいよ。小さい頃、村で祭りの夜とかに物陰で男と女が、あれやこれやしてるのくらいは、チラッと見た事あります。恋人とかはよく分かんないけど、オレがせめてあと三つくらい歳が上なら、澪さんをそういう意味で狙うと思います。あんないい嫁さん、他にいると思います?いや、いないね。ぜーったい、いない。美人で賢くて、多芸多才だし。怪力だって、オレからしたら特典みたいなもんですよ」
間を置かず、色々と話すきり丸を前に半助は言葉を失ってしまう。分かるのは、きり丸は子どもだが、どうやら本当に異性として、澪を好いていると言うことくらいか。
「だからね、悔しいんです。ぼくが澪さんより、歳が離れているのが。だって、そうでしょ?ぼくが最初に澪さんと出会ったんですよ。ぼくが見つけたようなもんでしょ。澪さんは、言わばお宝ですよ。なのに……」
きり丸は、何故か自分の手の平を見ていた。
「なのに、見てくださいよ。ぼくの手は、小さい。土井先生より、澪さんより、小さくて子どもなんです。そのせいで、この手ではお宝をつかみ損ねるんです。見つけたのに、今のぼくじゃあ、手に入れられないんです。こんな悔しい事ってないですよ、まったく!」
きり丸の口調はいつも通りだ。本当に悔しそうな顔で、半助に自らの手を突き出していた。真剣な顔に、半助は少し気圧されそうになる。
「土井先生も、女の人として澪さんが好きなんですよね。七松先輩も。見てたら嫌でも分かります」
ずばり、きり丸に言われて半助は固まった。先程の告白に呆気に取られていたら、きり丸に自分の気持ちを看破されて、ほんの少し焦りのような気持ちが生まれる。だからって、澪を好きな気持ちを誤魔化せるわけがない。
「ああ、そうだ。わたしは澪さんが好きだ。きり丸と一緒だ。お嫁さんになってほしいと、そう思っている。否、そうしてみせる。他の男には、絶対に渡したくない」
気がつけば、半助はきり丸に真面目に返事をしていた。仮に、きり丸が本人が言うようにもう少し歳を重ねて、澪へとアピールていたらと思うと、例え、きり丸相手でも澪は譲れないと強く思ってしまった。
「そうすっか。わかりました……なら、オレも遠慮なくやれます!」
半助の言葉を聞いたきり丸が、ニカッ、と、八重歯を見せて笑った。
ーー何故か嫌な予感がする。
「待て。何が遠慮なくやるんだ?」
「何がって、土井先生の恋路の邪魔に決まってるじゃないですか。ぼく、澪さんと恋人になったり付き合えるだなんて、思ってませんけど、だからって土井先生や七松先輩に目の前で、澪さんを取られるのムカつきますもん」
可愛らしい子どもの笑顔で、とんでも発言をかますきり丸。
半助は、気がつけばわなわなと震えていた。
「じゃ、邪魔だと。お前、何をやる気だ?」
「いたいけなぼくができる事なんて知れてますっ。夏休み、澪さんとデートとか気軽にできるなんて思わない方がいいですよ。一石二鳥にすべく夏休みは、アルバイト三昧計画を今から準備してるんで。澪さんと、土井先生と、色々ご用意しときますから、お手伝いをよろしく!!」
「……は?」
ぐしゃり。
気がつけば、隣のおばちゃんが作ってくれた握り飯を、全力で握り潰していた。
握り飯を三分の二くらいは食べていたので、手付かずの物を潰すよりは少しはマシではあるが、問題はそこではない。
夏休みは、半助としても澪に年内に告白したい事もあり、関係の進展のためにデートやらをしたいと考えていたのに、ここに来てきり丸の邪魔という予想外すぎる壁にぶち当たってしまった。
澪を好きな男が小平太以外にも出てくる、それは予測の範囲内の事だったが、まさかその相手がきり丸だとは思いもよらなかった。
えらいこっちゃ。
「ふ、ざ、け、る、な!わたしの恋路の邪魔をするとはっ……!」
「ふざけてません!真剣です!!」
思わず、怒りの声を上げる半助を、きり丸がキッと睨み付けてきた。
「ぼくは、タダで澪さんを土井先生や七松先輩に取られたくないっ。渡したくないっ。ぼくが見つけた、初めて好きになった女の人なんですっ……。ドケチの名にかけて、絶対の絶対に!!」
きり丸の声が震えていた。
その震える声を聞いて、泣いてこそいないが、半助はきり丸が泣いているように見えた。
以前、半助に伝蔵が言った事を思い出す。
恋に年齢や立場は関係ない、と。だから、小平太だけでなく、きり丸だって澪を好きでもおかしくない。
自分が十歳で、澪が五つ離れていて、歳が近ければ結婚を申し込みたいくらい好きーーだが、実際は子どもの余り、手を出したくても出せない、出したところで手に入れられない。
半助がもし、きり丸の立場なら……。
そう考えたら、理解出来てしまった。歳が近い、あるいは年上というだけで、澪に結婚を申し込められる男達を、そのまま見守っていられるわけがない。
きり丸に邪魔をされる対象になってしまった、と思うと腹が立つ気持ちがあるが、きり丸の気持ちも分かってしまうと、怒るわけにもいかなくなった。
「はぁー……、分かった」
だから、半助はそれはそれは長いため息と共に頷くしかなかった。
「お前の気持ちは分かった。なら、わたしだって負けない。その程度で、澪さんを諦めないからな」
「そうですか。分かりました、応援なんてしませんよ。せいぜい、頑張ってくださいね」
せいぜい、頑張れというきり丸の言葉に半助は、力なく笑ってしまった。潰してしまった握り飯が手の平に付いたのを、無言で綺麗に食べると、白湯を吹き出したせいで濡れた床を手ぬぐいで拭いて、ついでに手も軽く拭う。
「きり丸もな。せいぜい頑張れ。わたしは澪さんと、必ず夫婦になる。年内には絶対に告白してやる。小平太にも渡さないし、お前の邪魔にも屈しないからな」
半助は、この件に関してきり丸を子ども扱いする気はなかった。澪を好きだと言うなら、年齢や立場は関係なくライバルとしてきり丸を扱う。すると、そんな半助の回答にきり丸がニヤリと笑った。
「へへっ、そうこうなくっちゃ」
「はは、帰りの茶屋の団子の件は無しだ」
「えーっ、そんな殺生なっ。大人気ない!」
「人の恋路を邪魔する奴に、奢る団子はないっ!」
団子の件を撤回すると、きり丸がしょげた顔になったが知った事か。この位の意趣返しくらいしても、バチは当たるまい。
ーーそして、この後。
半助の密やかな夏の楽しみが、小さな恋のライバルのせいでおじゃんになり、そのまま夏休みが終わってしまう悲劇が待っているのだが。
それはまた、別の話であった。
ため息が止まらない。
胃薬を飲んで、少しは落ち着いたはずの胃袋がまたしくしくと痛む気がして半助は思わず胃がある辺りを摩った。無論、撫でた所で胃痛が治るはずもない。それでも、腹を撫でるのは半ば習慣であった。
胃の痛みと疲れがダブルパンチで効果を表したのか、今日は背中やら他の場所も痛み、結果、新野から療養を言い渡され、一日休む事になってしまった。
お陰様で、胃に負荷をかけぬよう食堂のおばちゃん特性のお粥で胃袋を労り、苦い薬で胃腸の働きを助けている。とはいえ、寝てばかりいるわけにもいかぬため、澪が代わってくれた乱太郎達の補習の結果報告を見ていた。
授業態度に始まり、テストの内容そしてその結果が、普段の授業でこそ発揮して欲しい内容ばかりで……はぁ、とまた零れるため息。
幸せが逃げてなければいいのだが。
「土井先生。わたしももう休むから、そろそろ寝なさい」
「あ、はい。そうですね山田先生」
部屋で、同じく仕事をしていた伝蔵に声をかけられた。雨は止んではいるが、一時的な物だ。そう言えば、上級生達から下級生に仕掛けるドッキリドキドキ大作戦もとい、幽霊騒ぎは雨が降っておらず、地面がマシな夜に決行と聞いているが、今週の降り具合を見るに、これは来週になりそうだな、と思った。
「そうですね、もう寝ます」
「週末は、たまには長屋に帰ってゆっくりするんだな。ここに居ると、休みの時もつい仕事をしてしまいがちだろう。それに、天気が悪くなければドブさらいとかあるんじゃないのか」
「あ……確かに」
忍術学園で休みを過ごすと、どうしても仕事をやりながらになってしまう。仕事部屋と寝室が繋がっているせいだ。プライベートを切り離すのなら、週末は長屋に帰るのがベストなのだが、そうすると、きり丸のアルバイトの手伝いが大抵待っているのだ。
まぁ、ひょっとしたら半助の胃を傷める姿を見て、今回は手加減してくれるかもしれないが。
そして、ふと思い出す。きり丸から、長屋に帰った時でいいから、相談をしたいので時間を作ってほしいと言われていた事を。
きり丸のあの感じは、澪抜きの方が良さそうだし、この機会に今週末に長屋に帰った時に話を聞こう。補習のやり直しとはいえ、小テストで満点を取ったわけだし、団子でもご馳走してやろうーーそう、半助は思ってその夜は目を閉じた。
まさか、その先に特大級のドッキリが仕掛けられているとは露知らずに。
+++++
翌朝。
半助の体調はどうにか一晩で落ち着いた。念の為、朝ごはんはお粥だったが、胃の調子が悪くなければ夜には普通の食事を食べても良いと、新野から言い渡された。ただし、酒はもとより油っこい物や肉は今週は控えておくように、との事だ。
「半助さん、調子はどうなの。大丈夫?」
「やぁ、澪さん。昨日は補習を代わってくれて、どうもありがとう。食事に今週は少し気をつけるよう言われた程度だよ。大丈夫さ」
廊下を歩いていると、澪が声をかけてくれた。見ると、澪は本を抱えており、それは兵法書だった。
「兵法の勉強かい?」
「まぁね。半助さんと、議論するって約束したし。何を議論するかは、分からないけれど半助さんは兵法に詳しいから。議論をそれなりの物にするのに、わたしが勉強しなくちゃ恥ずかしいでしょ」
それはそうだ。
は組の、特に乱太郎達に澪の爪の垢でも煎じて飲ませたい気になる。とはいえ、澪に爪の垢なんてあるのか。今日も指先は爪が短く整えられ綺麗である。垢なんて見当たらない。
「そうだ、半助さん。例の事業の件なんだけど、梅雨が明けて時間さえあれば、一度、京に視察に行きたくて。できれば堺にも。本格的な企画書はその後になりそうなの」
「そうかい。焦らずに、じっくりやるといいさ」
「ふふ、そう言ってくれると助かるわ。そしたら、わたしはこれで。今から、六年生の稽古の予定なの」
「ああ、気をつけて」
廊下での会話は短い物だったが、それでも半助の気持ちは自然と上向く。ふわっ、と一瞬だけすれ違い様、澪から香るいい匂いに目を細めた。彼女自身の体臭と、ほんのり纏う香り。己の好きな女の香りだと思うと、何とも言えない名残惜しさを感じてしまいそうになる。
ーーいかん、これから授業だと言うのに。
気を取り直して、一年は組の教室へ向かう。今日、外は雨こそ降っていないが雲は重たげで、いつ降ってもおかしくなさそうな様子ではある。
外で遊べないせいか、ここの所、一年は組の子ども達の授業態度が益々落ち着きのない物になっていると感じるのは気のせいか。さっさと、お天道様のもと、子ども達が楽しく遊べたらいいのだが。
後で、澪に相談してみようか。澪なら、何か部屋で時間つぶしができる遊びがないか、知っていそうである。
博識な彼女の事だから……と、惚気にも似た事を考える。
澪の事をそうやって思い浮かべると、合戦場で彼女を抱き寄せた時の事まで思い出してしまいそうになる。
あの時見た、澪の涙はとても綺麗だった。同時に、力強く見える普段の澪とは異なる、まるで迷子の子どものようになってしまった華奢な身体を、慰め繋ぎ止めるように抱き寄せたのを思い出す。
澪は不思議な人だ。
稀なる美貌、頑健な肉体、そして尋常ならざる怪力と、底知れぬ知恵。どれもこれも普通ではない。なのに、ふとした時に精巧な細工が壊れてしまうような、そんな危うさがあった。
それは、貴重な知識をポロッと出してしまう危なっかしさだったり、あるいは、合戦を見て涙してしまう繊細さ故か。
今にも消えそうに、儚いというわけではない。
ただ、強いばかりではない澪の姿を見て、半助は、もしも澪が涙を流す事があるのなら、その全てを自分こそが受け止め、拭いたいと思った。
己が澪に甘えるように、澪が半助を指名して甘やかしてほしい、と頼んでくれた時、言葉には言い尽くせない程、とても嬉しかった。
そして同時に願ってしまった。
この先、ずっと澪が甘える相手は半助だけにしてくれないか、と。澪が涙を流すのも、辛いと言うのも、全部全て喜んで受け止める自信がある。
慰めが必要なら何度でも幾らでも、澪が満足するまで傍にいるから、だからどうか……と。
そして、その祈りにも似た願いのせいか、最近は澪を見ると、またあの時のように無性に抱き寄せたくなるのだ。甘えたいという要求だけでなく、甘やかしたいという要求まで芽生えてしまった。
これは中々に危険である。
前回は合戦の直後というのもって、緊張感があったし理性を保つことが出来た。あの状況で不埒な妄想ができるはずもない。
だが、今は違う。きっと、抱き寄せてしまったら、澪にもっと触りたいという生々しい男の性が顔を出すに違いない。
澪に甘やかされる時は、澪が主体だ。澪から半助に対して、性的な接触でも図らない限り男の情欲に火が点るなんて事はないだろうが、澪を甘やかすとなると、率先して触るのは半助から、となるわけで。
好きで好きで堪らない女を、自分の腕の中で甘やかすというのは……男にとってグッと来る物があった。
だからこそ、自制しなくてはならない。肉体の接触から性欲に火がついて、突っ走る馬鹿にはなれない。今の関係性を壊すのが怖くて、告白すら躊躇われる澪相手に、そんな大暴走が出来るはずもないのだが、澪に関しては彼女への想いが何かの弾みで溢れてしまわないかという、妙な心配があった。
嫌われたくないし、傷つけたいわけでもない。だからこそ、顔を出す欲を十重二十重に厳重に封じ込めるしかない。
「はぁ……、行くか」
思わず零れた溜息に、澪へ抱く切ない想いを込めるようにして、半助は一年は組の教室へと向かった。
本日は、教養ではなく忍術の授業である。忍術学園では、教科で学んだ事を実技で使う事もあるし、その逆に実技で習ったことを教科で後から知り深い知見を得る事もある。
「今日は天文について、学ぶぞ」
「天丼?すごく美味しそう!」
「天文だ、て、ん、も、ん」
じゅるり、とヨダレを垂らしそうな顔になり、しんベヱがボケをかますのを苦笑いして訂正する。
「天文とは、天文学の事だ。主に空の星の運行を観測する学問である。暦を作る根拠になっているだけでなく、これらの知識は日食や月食、時には国の行く末を占う事もできる。まぁ、最後のは非現実的だが、知っていると役に立つ。特に季節によって、夜の空に浮かぶ星の位置の把握が出来れば、非常に便利だ。暗闇でも空を見れば方角が分かるからな。忍者も、気運を高めるため占いをする事があり……」
授業の内容を黒板に書いていく。
背の高い半助は、黒板の上から下まで文字を書けるか、下の方に無理に書きすぎると、子供たちが座る位置からでは、文字が見辛い位置を把握しているので、よく見える範囲にしか字を書かない。かつかつと、硬質な音と共に黒板に文字を書いていくと、まだ最初の方なので子ども達の顔は集中力があった。
軽く視線を後ろへ向けて、子ども達の様子を伺う。その時だ。
前に居たきり丸と目が合う。すると、きり丸の口が軽く動いた。“はなし”ーーと、口の動きだけで伝えて来たらしき、きり丸を見て半助は、黙って頷いた。
もともと、週末はそのために長屋に帰るつもりだから、問題ない。
とはいえ、せっかくの休みに澪と離れてしまう事に少しの寂しさを感じてしまう。少し先になるが、澪が視察に行きたいと言っていた京や堺に可能なら、自分も同行できるよう予定を調整しよう。うまくいけば、特に堺の方は澪と泊付きの出張が出来るかもしれないし。
そう考えると、少し気分が上向いて来た。何やら、小さく寝息のような物が聞こえるが、今日の授業は胃が痛む事は無かった。薬の他に、密かな楽しみと目標が出来た効果かもしれなかった。
そして、その日の授業を無事に終えて、半助は胃を休めつつも、週末を迎える事になった。お粥から解放はされたものの、味気ない食事が続いており、早く来週がくれればいいのに、と思う。天麩羅定食が、煮魚定食に切り替えないといけなかったのは、地味に辛かったからだ。しかも、天麩羅は澪が食堂のおばちゃんを手伝って揚げていた代物だった。残念でしかない。
そんなこんなで迎えた週末の今日。
長屋はドブさらいの日と思われるので、澪から貰った物ではなくいつもの草臥れ気味の着物を着る。袴も少しずつ傷んではきているが、着物にしろ袴にしろ半助の手足が長いせいで、特注になる事もあり仕立て代が、普通の人より割増になるのだ。ただでさえ、それなりの値段がするのに注文すると、半助の払う銭は結構な額になる。
ケチではないが、ぽんぽん次から次に支払えるような金額ではないため、それが服を新調するのを億劫にするのに一役買っていた。
それもあって、澪からのプレゼントは嬉しいのは勿論、非常に有難かった。仮に半助が澪に恋心を抱いていなくても、深く感謝した事に変わりはなかっただろう。
袴も縫ってくれないかな、等と思うのは罰当たりというものだろう。
この所、少しづつ傷みがマシになってきた己の髪を烏帽子にしまい、いつもの着物と袴を着れば長屋に戻る準備は完了だ。既にきり丸とは待ち合わせをしており、外出許可も取ってある。
なお、澪の予定を確認したところ、本日はシナと町に出かけるようで、長屋のドブさらいを気にしていたが、きり丸と自分でやるから今回はシナと過ごすようにと伝えた所、申し訳なさそうにしつつも頷いていた。その際、長屋の家賃代だと銭を渡されてしまった。
半助としては銭等要らぬのに、澪の律儀な所は好ましい。とはいえ、助かるのは事実だ。有難く受け取り、家賃の足しにさせてもらう事にした……と言うより、澪が多めに渡してくれたので、二月程なら澪の出した金額だけで余裕そうだった。
澪から受け取った銭で、家賃を支払うために懐にしまい、きり丸との待ち合わせ場所である学園の門の外へ向かう。
そこには既にきり丸が居て、塀の近くにしゃがんで空を見上げていた。今日の天気は梅雨時期の合間の久々の晴れだ。雲ひとつない、というわけではないが雲の合間から太陽が顔を出す程度には天気がいい。
午後からまた曇って雨になる可能性もあるが、外に出る絶好の機会であろう。
「お待たせ、きり丸」
「そんなに待ってないんで、大丈夫っす」
「そうか。なら、帰ろうか。今日は多分、ドブさらいがあるだろうから。雨さえ降っていなければ、帰りに茶屋で団子でも食べよう。奢ってあ、げ、る。漢字の再テスト満点のご褒美だ」
「あげるっ?あひゃあひゃ、やったぁ!!」
きり丸がご機嫌になる言葉を強調すると、途端に飛び跳ねて喜ぶ。心得さえすれば、きり丸は扱いやすい。ただし、銭が絡むと勢いが良過ぎるので匙加減が大事だと、半助はよく理解していた。
それから、二人で長屋に戻った。半助がきり丸と揃って姿を表すと、真っ先に隣のおばちゃんが澪の事を尋ねて来た。
曰く。
「半助、あの子は滅多とない良いお嫁さんになるわよ。絶対モノにしなさいよ!」
との事。言われなくても、半助としてはそうなってほしい、というかそうする気満々のため、これがどうでもいい女性なら適当に苦笑いしてスルーするのだろうが、澪となると話は違う。
「ーーおばちゃん。わたし、その件については本気で頑張るので、ここは一つ黙って見守ってはくれませんか?」
と返した。半助の反応が予想外だったのか、おばちゃんは一瞬だけ惚けた風になっていたが、次の瞬間に「大家さんと応援してるからね!」と言って、思い切り背中を叩かれた。地味におばちゃんの張り手は痛かった。
微妙にヒリヒリする背中のまま、半助はきり丸とドブさらいをして、長屋の掃除を終えた。留守にしてから暫く経つため、少し埃っぽいのをきり丸と二人で綺麗に片付けると、長屋が随分とすっきりした。軽く布団も干しておく。
すると、澪が少しの間だけ使っていた布団が出てきて、何とも言えない気持ちが込み上げた。今日と言わず、これから先も澪の布団を干したいーーという、それだけ聞くと変態的な発言だが、ようは澪とずっと一緒にいたい。
恋人になり、いつかは嫁にしたいという健全な気持ちが沸き起こったのだ。隣のおばちゃんに、応援されたせいか嫁という言葉が脳内をぐるぐる駆け巡る。
嫁若しくは妻、いい響きだ。絶対にそうなるよう、何としても澪の恋人、いずれは夫に収まらねば。と、段々やる気になってくる。が、今すぐ告白する程の気概がない半助は、奥手という名のヘタレであろう。
「土井先生、その、今、前に言ってた話をしていいっすか?」
布団を干し終わり、少しだけ休憩していると、きり丸が話しかけてきた。そろそろ昼餉の時間である。ドブさらいを頑張ったご褒美にと、隣のおばちゃんから、昼に食べるよう握り飯の弁当の差し入れがあったので、そろそろ、きり丸と食べようかと思っていた所だ。
「ああ、いいとも。昼餉に、おばちゃんから貰った握り飯があるから、食べながらでいいか?」
「勿論です」
きり丸が何やら、畏まった様子で頷いた。それを不思議に思いつつ、湯を沸かし白湯を作る。長屋には、今は塩くらいしかないため、隣のおばちゃんからの差し入れは大変助かった。
竹の皮に包まれた昼餉を、きり丸と二人で食べる。握り飯に沢庵が数切れという、典型的な弁当を頬張ると、握り飯の中には酸っぱい梅干しが入っていた。丁度いい塩梅の味だ。
「それで、話ってなんだ?悩み事か」
きり丸かわざわざ時間を取って欲しいと言うなら、半助は十歳児の話だと切り捨てず、しっかりと聞いてやるつもりでいた。担任としてだけでなく、こうしてきり丸の保護者のように世話を焼く間柄だからこそ、余計にそう思う。
「……えっと、澪さんの事なんですけど」
「澪さんがどうしたんだ?」
澪絡みとは、何かあったのだろうか。
半助は澪とよく会って話をしているが、澪からきり丸の事で相談を受けてはいない。だとすると、澪がきり丸に何か話したのだろうか。それとも、きり丸が一方的に澪の事で悩んでいるのだろうか。好きな女の名前がきり丸の口から出たせいで、途端にあれこれ考えを巡らせてしまう。
「ぼく、澪さんが好きなんです」
「……ん?知っているが、それがどうした」
きり丸が澪の事を好きだなんて、見ればすぐ分かる。きり丸は澪に最初から好意的だったし、最初に出会ったためか澪ととても仲がいいのが、その証拠だ。子どもは素直で取り繕わないから、見ていれば好意の有無がはっきりする。
頷きながら、半助が白湯を口に含んだその時である。
「ぼく、澪さんの事が女の子として好きなんです。惚れてます。ぼくがもし六年生なら、嫁になって欲しいって土下座して頼むと思うくらい好きです」
「っ、ぶっ?!」
「うわっ、汚い……!もう、土井先生、床掃除したばっかなのに、吹き出さないで下さいよ!」
「す、すまないっ。て、誰のせいだと思っとんじゃー!!」
余りの事に、口に含んでいた白湯を床にぶちまけてしまった。
確かに汚い、きり丸が怒るのも分かる話ではあるが、予想だにしない告白をするきり丸の方が大問題である。
「す、好きって、お前っ、まだ十歳じゃないか!子どもだろっ。男女のいろはも知らんくせに」
「決めつけないで下さいよ。小さい頃、村で祭りの夜とかに物陰で男と女が、あれやこれやしてるのくらいは、チラッと見た事あります。恋人とかはよく分かんないけど、オレがせめてあと三つくらい歳が上なら、澪さんをそういう意味で狙うと思います。あんないい嫁さん、他にいると思います?いや、いないね。ぜーったい、いない。美人で賢くて、多芸多才だし。怪力だって、オレからしたら特典みたいなもんですよ」
間を置かず、色々と話すきり丸を前に半助は言葉を失ってしまう。分かるのは、きり丸は子どもだが、どうやら本当に異性として、澪を好いていると言うことくらいか。
「だからね、悔しいんです。ぼくが澪さんより、歳が離れているのが。だって、そうでしょ?ぼくが最初に澪さんと出会ったんですよ。ぼくが見つけたようなもんでしょ。澪さんは、言わばお宝ですよ。なのに……」
きり丸は、何故か自分の手の平を見ていた。
「なのに、見てくださいよ。ぼくの手は、小さい。土井先生より、澪さんより、小さくて子どもなんです。そのせいで、この手ではお宝をつかみ損ねるんです。見つけたのに、今のぼくじゃあ、手に入れられないんです。こんな悔しい事ってないですよ、まったく!」
きり丸の口調はいつも通りだ。本当に悔しそうな顔で、半助に自らの手を突き出していた。真剣な顔に、半助は少し気圧されそうになる。
「土井先生も、女の人として澪さんが好きなんですよね。七松先輩も。見てたら嫌でも分かります」
ずばり、きり丸に言われて半助は固まった。先程の告白に呆気に取られていたら、きり丸に自分の気持ちを看破されて、ほんの少し焦りのような気持ちが生まれる。だからって、澪を好きな気持ちを誤魔化せるわけがない。
「ああ、そうだ。わたしは澪さんが好きだ。きり丸と一緒だ。お嫁さんになってほしいと、そう思っている。否、そうしてみせる。他の男には、絶対に渡したくない」
気がつけば、半助はきり丸に真面目に返事をしていた。仮に、きり丸が本人が言うようにもう少し歳を重ねて、澪へとアピールていたらと思うと、例え、きり丸相手でも澪は譲れないと強く思ってしまった。
「そうすっか。わかりました……なら、オレも遠慮なくやれます!」
半助の言葉を聞いたきり丸が、ニカッ、と、八重歯を見せて笑った。
ーー何故か嫌な予感がする。
「待て。何が遠慮なくやるんだ?」
「何がって、土井先生の恋路の邪魔に決まってるじゃないですか。ぼく、澪さんと恋人になったり付き合えるだなんて、思ってませんけど、だからって土井先生や七松先輩に目の前で、澪さんを取られるのムカつきますもん」
可愛らしい子どもの笑顔で、とんでも発言をかますきり丸。
半助は、気がつけばわなわなと震えていた。
「じゃ、邪魔だと。お前、何をやる気だ?」
「いたいけなぼくができる事なんて知れてますっ。夏休み、澪さんとデートとか気軽にできるなんて思わない方がいいですよ。一石二鳥にすべく夏休みは、アルバイト三昧計画を今から準備してるんで。澪さんと、土井先生と、色々ご用意しときますから、お手伝いをよろしく!!」
「……は?」
ぐしゃり。
気がつけば、隣のおばちゃんが作ってくれた握り飯を、全力で握り潰していた。
握り飯を三分の二くらいは食べていたので、手付かずの物を潰すよりは少しはマシではあるが、問題はそこではない。
夏休みは、半助としても澪に年内に告白したい事もあり、関係の進展のためにデートやらをしたいと考えていたのに、ここに来てきり丸の邪魔という予想外すぎる壁にぶち当たってしまった。
澪を好きな男が小平太以外にも出てくる、それは予測の範囲内の事だったが、まさかその相手がきり丸だとは思いもよらなかった。
えらいこっちゃ。
「ふ、ざ、け、る、な!わたしの恋路の邪魔をするとはっ……!」
「ふざけてません!真剣です!!」
思わず、怒りの声を上げる半助を、きり丸がキッと睨み付けてきた。
「ぼくは、タダで澪さんを土井先生や七松先輩に取られたくないっ。渡したくないっ。ぼくが見つけた、初めて好きになった女の人なんですっ……。ドケチの名にかけて、絶対の絶対に!!」
きり丸の声が震えていた。
その震える声を聞いて、泣いてこそいないが、半助はきり丸が泣いているように見えた。
以前、半助に伝蔵が言った事を思い出す。
恋に年齢や立場は関係ない、と。だから、小平太だけでなく、きり丸だって澪を好きでもおかしくない。
自分が十歳で、澪が五つ離れていて、歳が近ければ結婚を申し込みたいくらい好きーーだが、実際は子どもの余り、手を出したくても出せない、出したところで手に入れられない。
半助がもし、きり丸の立場なら……。
そう考えたら、理解出来てしまった。歳が近い、あるいは年上というだけで、澪に結婚を申し込められる男達を、そのまま見守っていられるわけがない。
きり丸に邪魔をされる対象になってしまった、と思うと腹が立つ気持ちがあるが、きり丸の気持ちも分かってしまうと、怒るわけにもいかなくなった。
「はぁー……、分かった」
だから、半助はそれはそれは長いため息と共に頷くしかなかった。
「お前の気持ちは分かった。なら、わたしだって負けない。その程度で、澪さんを諦めないからな」
「そうですか。分かりました、応援なんてしませんよ。せいぜい、頑張ってくださいね」
せいぜい、頑張れというきり丸の言葉に半助は、力なく笑ってしまった。潰してしまった握り飯が手の平に付いたのを、無言で綺麗に食べると、白湯を吹き出したせいで濡れた床を手ぬぐいで拭いて、ついでに手も軽く拭う。
「きり丸もな。せいぜい頑張れ。わたしは澪さんと、必ず夫婦になる。年内には絶対に告白してやる。小平太にも渡さないし、お前の邪魔にも屈しないからな」
半助は、この件に関してきり丸を子ども扱いする気はなかった。澪を好きだと言うなら、年齢や立場は関係なくライバルとしてきり丸を扱う。すると、そんな半助の回答にきり丸がニヤリと笑った。
「へへっ、そうこうなくっちゃ」
「はは、帰りの茶屋の団子の件は無しだ」
「えーっ、そんな殺生なっ。大人気ない!」
「人の恋路を邪魔する奴に、奢る団子はないっ!」
団子の件を撤回すると、きり丸がしょげた顔になったが知った事か。この位の意趣返しくらいしても、バチは当たるまい。
ーーそして、この後。
半助の密やかな夏の楽しみが、小さな恋のライバルのせいでおじゃんになり、そのまま夏休みが終わってしまう悲劇が待っているのだが。
それはまた、別の話であった。
