第8話 忍術学園に迫る白き✕✕……
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いつも通りアルバイトから学園に戻ってくる。今日は畑の害虫駆除と雑草抜き依頼だった。おかげで少し腰が痛い。幾ら子どもだからって、長い時間の畑仕事は堪える物だ。
夕餉に間に合うように学園に戻り、きり丸は長屋には戻らずに食堂に直行した。そこには、絶対に真っ先に座って夕餉を食べていそうな、同じ宿舎で同室の食いしん坊、福富しんべヱの姿がない。
「あ、お帰り。きり丸ー」
「ただいま、乱太郎。しんべヱはどうしたんだ?」
「さぁ……わたしも、今さっき保健委員の仕事が終わって来た所だから」
空いていたらいつも座る食堂の席に、乱太郎が腰かけて先に食べかけていた。きり丸もカウンターに行って急ぎ夕食を取りに行き乱太郎の向かいに座る。
今日の夕飯のメニューは幸運なことに小エビの入ったかき揚げだった。味噌汁に冷奴と漬物もついている。早速、かぶりつくとサクサクの衣が美味い。
乱太郎も、大当たりの夕飯を食べて顔が幸せそうだ。とはいえ、それこそ、この夕食を一人でお代わりもして食べそうなしんベヱの姿はない。
「なぁ、そう言や……五年生居なくないか?」
「うん、そう言えば昼も居なかったよね。しんベヱをご馳走に誘った尾浜先輩だけじゃなくて、他の五年生もいなかたったし。なんでだろ?」
もぐもぐと食べながら違和感に気付く。群青色の制服を着た上級生達が居ない。別に皆が同じ時間に食べるとは限らないので、居なくても不思議ではないがしんベヱが居ない事と合わせて違和感を感じた。
「部屋になら戻ってるかも。わたし、早く食べてしんベヱを探してくる」
「オレも!」
しんベヱはのんびり屋だし、部屋にお菓子のカスを零してネズミやゴキブリが来る騒ぎもあるが、一方ではきり丸のアルバイトを手伝ってくれるし、朗らかで優しい性格の持ち主なのだ。乱太郎と同じく気になったきり丸は、急いでご飯を食べて忍たま長屋の自分達の部屋へ向かった。
「そんなに走ってどうしたんだ、乱太郎、きり丸」
韋駄天乱太郎と言われるくらいに足が早い乱太郎を追いかけていると、今から食堂に夕飯を食べにでも行くのか半助の姿があった。近くに澪は居ないーー何故かその事に少しだけだが、ホッとする自分がいる。どうしてだろうか。
あの日。
澪が半助と一緒にきり丸のバイト先に現れ、普通に半助と楽しそうに話して過ごしているのを見てからおかしい。破落戸に乱暴されたのを助けられて、それをきっかけにいつものようにする事ではできるのだが、こうして何かの古傷のように疼いては、ふとした時に顔を出す自分でもよく分からない気持ちを抱えていた。
半助も、澪も、どちらも好きだ。だから、好きな二人が仲良くしているのならそれでいい。きり丸に対して二人が変わらない気持ちでいてくれるなら、それでいいじゃないか。
きり丸の方は何も変わらないのだ。二人が好きなのだから。
ーー笑え。
「しんべヱが、夕飯にも顔を出さないから気になって。乱太郎と一緒に宿舎の部屋を覗こうかと!」
「そうか、なら一応わたしも行こう。大丈夫だとは思うが念のため」
きり丸の返答に対して、真面目な半助らしい言葉があった。呼ばれたので止まっていた乱太郎が前方で頷く。きり丸も無言で頷いて返事をし、三人で忍たま長屋へと向かった。
「おーい、しんべヱ。いるか?」
「開けるよー」
乱太郎、きり丸、しんべヱの部屋の前にたどり着き、声をかけて障子戸をするりと開けて中の様子を伺う。
その時である。
部屋の中に、灯りもつけずにモゾモゾ動く異様なまでに丸々とした大きな影が見えた。
「ら、乱太郎……、きり丸ぅ」
「「しんべヱ!」」
暗くなっていく外の僅かな光に照らされて、しんべヱの姿が浮かび上がる。
「身体がこんなになっちゃて。動けないよぉ……ゆ、夕ご飯食べたいのに」
「うわぁー、人ってそんなに膨れるのか」
「しんべヱ、どれだけ食べたの?」
「と言うより、そんな状態で更に夕餉を食おうとする奴があるかぁー!!」
部屋のほぼ三分の一の面積を占領する気かと言わんばかりに、ころころと大きな丸い影の正体はしんべヱだった。
普段からぽっちゃりで、見た目以上に重たいのに今はそれ以上だ。忍たまの制服が破けんばかりにパツパツで、顔は両側の頬がまるまるとしておりでかいコブのようになっている。
きり丸が感心し、乱太郎が呆れ、半助は真っ当なツッコミをする。
そんな中、動けなくて当然なしんべヱがちょこんと座りふーふーと顔に汗をかきながら、苦しそうに息を吐いて座っていた。
「うぷっ。だって、食べても食べても出てくるから……もう、無理ですって言いたかったんだけど」
「何それ。尾浜先輩と、ご馳走食べに行ったんじゃないの?」
「行ったよ。行って、ふー、はー、いっぱい他の先輩達も一緒に食べて、うぷっ……あ、もうムリ」
乱太郎の質問に答えていたしんべヱが、急に白目を剥いた。見ると、気絶して口から魂が出ている。
「おい、まさかあのしんべヱが食べ過ぎで気絶したのか?!」
現場を見てしまった半助が、焦ったような声を出す。乱太郎が慌ててしんべヱの元に向かう。どうやら息はしているらしいが、何やら気絶しながらも魘されている。
「し、白い、また……アレが来る。食べないと、澪さんが、地獄に……かく」
「え」
「何だと?」
しんベヱの呟きに、きり丸も半助も同時に反応した。白いアレ、澪が地獄に。不穏なしんベヱの残したキーワードに、二人は顔を見合わせる。
「土井先生っ……!」
思わず、きり丸は切羽詰まった声が出ていた。
半助がきり丸を見て、深く頷いている。
「乱太郎、悪いがしんベヱを診ていてくれ。わたしは今から、きり丸と一緒に五年生の忍たま長屋の様子を確認してくるから!」
「頼んだぞ、乱太郎!」
「へ?え?ちょっと、二人ともー!」
半助と一緒にきり丸は駆け出した。上級生の長屋なんて早々に行ったりはしないが、今はそんな事を言っている場合ではない。
目覚ますは、しんベヱの事を食事に誘った尾浜勘右衛門の部屋である。
五年生の忍たま長屋も、基本的には下級生達と同じ造りをしている。直ぐに辿り着き、目当ての名前の札が掲げられた部屋の戸の外から声をかけた。
「尾浜先輩!一年は組のきり丸ですっ。部屋に戻ったらしんベヱが偉いことになっていたので、今日何があったか聞かせて頂きに来ました!!」
「同じく一年は組の教科担当、土井半助だ。うちのクラスの生徒が世話になったようだが、何があったか聞かせてくれるか?」
部屋に居たらいいのだが。
そう思いつつ、外から声をかけると中から「うぅ……」と苦しげな声が聞こえた。
「き、きり丸に土井先生……、わ、分かりました。入ってください」
「失礼します」
代表してきり丸が障子戸を開け放つと、その中にはお腹を抱えて倒れる尾浜の姿があった。普段、頼り甲斐を感じさせる上級生忍たまの姿はそこにはない。
口から、今にもなにか飛び出しそうなのを我慢している。そんな姿の尾浜が居た。顔色はあまり良くなく、抱えている腹がいつもは平らなのに今はになり膨らんでいる。
一目で分かる、食べ過ぎだと。しんベヱと全く同じ症状の尾浜にきり丸も半助も目を合わせた。
「尾浜先輩……食べ過ぎ、ですよね?」
「それ以外の何に見える。う、っぷ」
「おいおい。まさか、他の五年生もこうなんじゃないだろうな」
半助が眉を寄せて問うと、無言で勘右衛門が頷いた。なんてこった。
「兵助が、澪さんに相応しい至高の豆腐料理を食べさせたい、って。どれも美味いって、言ったのに兵助は納得しないし、オレ達が頑張らないと、澪さんが、豆腐地獄に落ちてしまうっ……!」
くわっ!と、目を見開き、尾浜が匍匐前進してきり丸達の所に来た。さながら敗残兵のように、妙に迫力ある姿にきり丸も半助も固まる。
そして、尾浜は血走った目で二人の足首を掴んで来た。
「お、オレ達だけでは、最早、豆腐小僧どころか、豆腐大魔王と化した、兵助を止められないっ!きり丸、土井先生っ、二人の力で澪さんを、彼女を守ってほしい!」
まるで遺言のようだ。はぁはぁと、食べ過ぎの余りに息を苦しそうに吐き、這い蹲って言う尾浜には妙な迫力があった。
「食べれども食べれども、無限に出てくる地獄の豆腐懐石エンドレスコースに澪ちゃんを巻き込む事はできないっ!後の事は、頼、む……うぇっぷ、かく」
「尾浜先輩ーー!!」
ダイイングメッセージは豆腐。
そんな感じの倒れ方をした尾浜は、気絶してもなお、魘されていたりした。
ーーううっ、苦しい、うぷっ。
五年生の忍たま長屋から、次々と低く唸る戦場の叢で倒れ伏す兵士の如き声が聞こえてくる。一気に、忍たま長屋がお化け屋敷かと言わんばかりの有様である。
「ーーというか、今さっき、澪“ちゃん‘’って言わなかったか勘右衛門のヤツ?」
「どこに反応してんですか、土井先生。それどころじゃないですよ。この有様、久々知先輩を止めないと……!」
とりあえず、尾浜をそのままにする訳にはいかない。きり丸は頑張って気絶した尾浜の姿勢を変えて楽な状態にさせつつ、パンパンになっている袴の紐を緩めておいた。
「なら、兵助に対して豆腐や豆腐料理作りの禁止命令を学園長に出してもらうか」
「そんなの一時的な措置にしかならんでしょうがっ。無限豆腐料理製造機になった久々知先輩が、そんなので止まるなら五年生の先輩方やしんベヱがあんな事になるわけないじゃないですか!」
きり丸は、不破雷蔵経由であるが久々知兵助の豆腐料理攻撃の恐ろしさを少しは聞いて知ってはいた。
まさか、こんな事になるくらいヤバいとは思っていなかっただけである。
きり丸の言葉を聞いた半助が困ったような顔で、腕を組んだ。
「それはつまり、あれか……無限豆腐地獄をわたし達で突破するのか」
「それしかありませんっ。澪さんは力比べなら忍術学園所か日本一かもしれませんが、胃袋は普通です。それとも、土井先生は澪さんが無限豆腐地獄に落ちてもいいと?だったら、オレ、土井先生の事、見損ないますよ!」
まさか、半助の澪に惚れたという気持ちはその程度なのか。一瞬、そう思うと無性に腹が立ってそう口にする。
「そんなわけなかろう!」
すると、即座に否定された。
「何の策もなく挑んでも、わたしやきり丸だけで勝算があるのか?見てみろ、五年生長屋の惨状を。思い出せしんベヱの姿をっ。兵助、否、豆腐大魔王の無限豆腐地獄をわたし達だけで突破するのは、無謀だから言ってるんだ」
「……そりゃそうですけど」
真剣な顔で、無限豆腐地獄について語り合う二人。
さながらそれは、忍術学園に迫る白き豆腐の恐怖に挑むかのようだった。笑うに笑えない。
半助は真顔になって、暫し黙る。きり丸はじっと半助の顔を見て、答えを待った。
ややあって。
「……はぁ、こうなったら大勢を巻き込んで人海戦術だ。わたしは今から六年生長屋に行く。小平太に会って来る」
「七松先輩ですか?」
「気は進まないが、澪さん絡みなら身体を張るくらいはするだろう。小平太の事だ、何人か他の六年生も、特に文次郎や留三郎なんかを巻き込んで参戦するかもしれん。きり丸は、今からくのたま達に可能なら声をかけて、この事を伝えてくれ。確か、しんベヱとはる胃袋の確かーーそうこ、という女子生徒がいたはず。その子にも参戦を頼もう」
「っ、了解しました!」
確かに、半助の言う通り徒手空拳で二人で挑んでも仲良く腹を抱えて倒れるだけだ。せめて一人でも多くを巻き込むしかない。
きり丸は半助と別れ、くのたまを探した。と言っても流石にくのいち長屋には立ち入れず、そのためもう一度食堂に戻って探すことにした。夕飯時のタイミングのため、誰か居るだろうと思ったのだ。
そしたら、その感は当たった。食堂に行くと、戸部新左エ門ときり丸と同じクラスの皆本金吾と同じ机で、くのたまのトモミが食事中だった。
三人に声をかけようとしたその時である。
「えっ、澪さんと試合ですか?!」
金吾の驚いたような声がした。
「それって、まさか澪さんが戸部先生の事を好きって事?!お付き合いを条件に剣術で試合を挑むとかそう言う……ろ組の伏木蔵から聞いたけど澪さんって、渋い大人の男性が好みなんでしょっ」
ーー頭の中が、真っ白になった。
その金吾の言葉の意味を全部理解する前に、気が付いたらきり丸はその場から逃げるように立ち去った。
せっかく、くのたまのトモミを見つけたのにも関わらず。それが何故なのか、頭の中がぐちゃぐちゃで分からなかった。
「ーーはぁ、はぁ」
ドキドキして、胸が苦しい。
澪が、戸部新左ヱ門を好きなんてそんな風には見えなかったが、本当なのだろうか。
もしそうなら、半助はどうなるのだ。
きり丸は近くで見ていたから分かる。半助の目が、それは愛おしそうに澪を見ていると。
それなのに、澪が別の男を恋い慕っていると知ったら。
半助の事を考えると苦しい、この動悸はそのせいなのだろうか。分からないーーまだ、十歳のきり丸には、己の抱く気持ちの答えが分からなかった。
「あら、きり丸じゃない。そんな所で何してるの?」
きり丸が食堂から少し離れた廊下で立ち竦んでいると、ふいに聞き覚えのある声がかかった。振り向くと、そこにはユキとおシゲが居た。二人とも、不思議そうな顔できり丸を見ている。
「あっ、えっとーーあ!そうだ二人に頼みたい事があって」
直ぐに言葉が出てこなかったが、慌てて本来の目的を偶然にも達成する事にする。二人は久々知兵助の豆腐無間地獄の話と、其れが下手をしたら澪に影響するかもしれない、というきり丸の話を聞いて顔色を変えた。
「何ですって、一大事だわ。分かったわ、きり丸っ任せて頂戴。そうこに声をかけるから!」
「しんベヱ様がそんな事になってるなんて、大変でしゅっ。早く、保健室の伊佐先輩に胃薬を貰いに行かないと!」
きり丸の話を聞いて真っ先に澪を心配するユキ、方やしんベヱを心配するおシゲ。二人のくのたまのベクトルがどちらに向いているか、大変分かりやすい光景である。
とりあえず、何とか任せられた事は達成した。今頃、半助は六年生長屋で七松小平太と接触している事だろう。他ならぬ、澪のために。
「ーーどうすっかな」
分からない。
どうするのが正解なのか、分からないがきり丸の頭の中は金吾が発した言葉が、ぐるぐると渦巻いている。小銭を落とした時と遜色ないような、何とも言えない不安を覚えて、豆腐料理を食いすぎたしんベヱや尾浜でもないのに、胃のあたりに変な感じを覚えて思わず、そこを摩ってしまったのだった。
ーーそして、翌日。
「きり丸、顔がまるで潮江文次郎先輩みたい……大丈夫?」
きり丸の顔を朝一番に見た乱太郎がそう呟くほど、きり丸はまともに眠れなかった。
睡眠が何より大切な小さな身体で悶々とした結果、見事なまでに眠られなかった。昨日はユキとおシゲに仔細を報せて終わってしまい、半助の首尾も確認出来ていない。
一晩でしんベヱの身体は元に戻っていた。おそるべき消化吸収能力である。その代わりと言ってはなんだが、顔だけは何故か戻らなかった。いつものぽっちゃりなしんベヱの身体に、やたら丸くて落ちそうな頬が二つくっついている。
鼻水といい、剛毛といい、澪の人間離れした怪力と身体能力も大概だが、しんベヱもベクトルが違うだけで人間離れしているな、と思ったり。
「おー、大丈夫だ。きっと、早ければ今日か明日、遅くとも数日以内には多分、久々知先輩から豆腐攻撃があるからな。備えないと」
「わたしも、久々知先輩の事をしんベヱから聞いてびっくりしたよ。保健室には組の他の皆んなと引きずって何とか連れていったら、おシゲちゃんと遭遇して大変だったし」
「ぼく、身体が元に戻ったからまた食べられるよ。尾浜先輩が言ってたんだ、澪さんを豆腐地獄に落とさないために頑張るって。だから、ぼくまた食べるよ。食べる事ならまかせてっ!!」
頼もしい事である。身体は戻ってはいるが、顔はまだのため本当に大丈夫かとしんベヱに言いたいが、そんな余裕はない。
二人は、きり丸の何処か塞いだ様子を見て不思議そうにしている。
「きりちゃん、どうしたの?悩みがあるならわたし達が聞いてあげる」
「そうだよ、きり丸。ぼく達にできることなら、タダで手伝ってあげる」
「ーーッ?!」
あげる、タダ。
どケチ根性が染み付いたきり丸の魂を震わせる二人の言葉に、身体が反応する。まさにきり丸というどケチな少年の心を掌握する、攻めまくった一手であった。
そして。
きり丸は結果的に乱太郎達に、昨日、食堂で金吾が言った言葉を洗いざらい話す事になった。
「えーっ、澪さんが戸部先生の事が好きで、付き合うために試合を申し込んだって、それ本当なの、きりちゃん?!」
「澪さんが、渋い大人の男性が好きって話は、ぼくもおシゲちゃんが言ってたの聞いたけど、本当だったんだね」
二人は驚きつつも、うんうん唸っている。きり丸はと言うと、半助を前にしては大変言い辛い内容を二人になら洗いざらい話せた。
喋ったおかげか、少しだけ胸のつかえがなくなったようで、ほっと息を吐く。
その時だった。
きり丸達の部屋の外でカタン、と微かに音がした。何だろう、と振り返るが障子戸の向こうには人影も何もない。気の所為か。風の音かもしれない。
この時。
きり丸は全く気がついていなかった。
まさか一番今の会話を聞かれたくなかった相手、土井半助その人が、六年生長屋での事を伝えるため、朝早くから自分達の部屋を訪ねて来ていた事に。
夕餉に間に合うように学園に戻り、きり丸は長屋には戻らずに食堂に直行した。そこには、絶対に真っ先に座って夕餉を食べていそうな、同じ宿舎で同室の食いしん坊、福富しんべヱの姿がない。
「あ、お帰り。きり丸ー」
「ただいま、乱太郎。しんべヱはどうしたんだ?」
「さぁ……わたしも、今さっき保健委員の仕事が終わって来た所だから」
空いていたらいつも座る食堂の席に、乱太郎が腰かけて先に食べかけていた。きり丸もカウンターに行って急ぎ夕食を取りに行き乱太郎の向かいに座る。
今日の夕飯のメニューは幸運なことに小エビの入ったかき揚げだった。味噌汁に冷奴と漬物もついている。早速、かぶりつくとサクサクの衣が美味い。
乱太郎も、大当たりの夕飯を食べて顔が幸せそうだ。とはいえ、それこそ、この夕食を一人でお代わりもして食べそうなしんベヱの姿はない。
「なぁ、そう言や……五年生居なくないか?」
「うん、そう言えば昼も居なかったよね。しんベヱをご馳走に誘った尾浜先輩だけじゃなくて、他の五年生もいなかたったし。なんでだろ?」
もぐもぐと食べながら違和感に気付く。群青色の制服を着た上級生達が居ない。別に皆が同じ時間に食べるとは限らないので、居なくても不思議ではないがしんベヱが居ない事と合わせて違和感を感じた。
「部屋になら戻ってるかも。わたし、早く食べてしんベヱを探してくる」
「オレも!」
しんベヱはのんびり屋だし、部屋にお菓子のカスを零してネズミやゴキブリが来る騒ぎもあるが、一方ではきり丸のアルバイトを手伝ってくれるし、朗らかで優しい性格の持ち主なのだ。乱太郎と同じく気になったきり丸は、急いでご飯を食べて忍たま長屋の自分達の部屋へ向かった。
「そんなに走ってどうしたんだ、乱太郎、きり丸」
韋駄天乱太郎と言われるくらいに足が早い乱太郎を追いかけていると、今から食堂に夕飯を食べにでも行くのか半助の姿があった。近くに澪は居ないーー何故かその事に少しだけだが、ホッとする自分がいる。どうしてだろうか。
あの日。
澪が半助と一緒にきり丸のバイト先に現れ、普通に半助と楽しそうに話して過ごしているのを見てからおかしい。破落戸に乱暴されたのを助けられて、それをきっかけにいつものようにする事ではできるのだが、こうして何かの古傷のように疼いては、ふとした時に顔を出す自分でもよく分からない気持ちを抱えていた。
半助も、澪も、どちらも好きだ。だから、好きな二人が仲良くしているのならそれでいい。きり丸に対して二人が変わらない気持ちでいてくれるなら、それでいいじゃないか。
きり丸の方は何も変わらないのだ。二人が好きなのだから。
ーー笑え。
「しんべヱが、夕飯にも顔を出さないから気になって。乱太郎と一緒に宿舎の部屋を覗こうかと!」
「そうか、なら一応わたしも行こう。大丈夫だとは思うが念のため」
きり丸の返答に対して、真面目な半助らしい言葉があった。呼ばれたので止まっていた乱太郎が前方で頷く。きり丸も無言で頷いて返事をし、三人で忍たま長屋へと向かった。
「おーい、しんべヱ。いるか?」
「開けるよー」
乱太郎、きり丸、しんべヱの部屋の前にたどり着き、声をかけて障子戸をするりと開けて中の様子を伺う。
その時である。
部屋の中に、灯りもつけずにモゾモゾ動く異様なまでに丸々とした大きな影が見えた。
「ら、乱太郎……、きり丸ぅ」
「「しんべヱ!」」
暗くなっていく外の僅かな光に照らされて、しんべヱの姿が浮かび上がる。
「身体がこんなになっちゃて。動けないよぉ……ゆ、夕ご飯食べたいのに」
「うわぁー、人ってそんなに膨れるのか」
「しんべヱ、どれだけ食べたの?」
「と言うより、そんな状態で更に夕餉を食おうとする奴があるかぁー!!」
部屋のほぼ三分の一の面積を占領する気かと言わんばかりに、ころころと大きな丸い影の正体はしんべヱだった。
普段からぽっちゃりで、見た目以上に重たいのに今はそれ以上だ。忍たまの制服が破けんばかりにパツパツで、顔は両側の頬がまるまるとしておりでかいコブのようになっている。
きり丸が感心し、乱太郎が呆れ、半助は真っ当なツッコミをする。
そんな中、動けなくて当然なしんべヱがちょこんと座りふーふーと顔に汗をかきながら、苦しそうに息を吐いて座っていた。
「うぷっ。だって、食べても食べても出てくるから……もう、無理ですって言いたかったんだけど」
「何それ。尾浜先輩と、ご馳走食べに行ったんじゃないの?」
「行ったよ。行って、ふー、はー、いっぱい他の先輩達も一緒に食べて、うぷっ……あ、もうムリ」
乱太郎の質問に答えていたしんべヱが、急に白目を剥いた。見ると、気絶して口から魂が出ている。
「おい、まさかあのしんべヱが食べ過ぎで気絶したのか?!」
現場を見てしまった半助が、焦ったような声を出す。乱太郎が慌ててしんべヱの元に向かう。どうやら息はしているらしいが、何やら気絶しながらも魘されている。
「し、白い、また……アレが来る。食べないと、澪さんが、地獄に……かく」
「え」
「何だと?」
しんベヱの呟きに、きり丸も半助も同時に反応した。白いアレ、澪が地獄に。不穏なしんベヱの残したキーワードに、二人は顔を見合わせる。
「土井先生っ……!」
思わず、きり丸は切羽詰まった声が出ていた。
半助がきり丸を見て、深く頷いている。
「乱太郎、悪いがしんベヱを診ていてくれ。わたしは今から、きり丸と一緒に五年生の忍たま長屋の様子を確認してくるから!」
「頼んだぞ、乱太郎!」
「へ?え?ちょっと、二人ともー!」
半助と一緒にきり丸は駆け出した。上級生の長屋なんて早々に行ったりはしないが、今はそんな事を言っている場合ではない。
目覚ますは、しんベヱの事を食事に誘った尾浜勘右衛門の部屋である。
五年生の忍たま長屋も、基本的には下級生達と同じ造りをしている。直ぐに辿り着き、目当ての名前の札が掲げられた部屋の戸の外から声をかけた。
「尾浜先輩!一年は組のきり丸ですっ。部屋に戻ったらしんベヱが偉いことになっていたので、今日何があったか聞かせて頂きに来ました!!」
「同じく一年は組の教科担当、土井半助だ。うちのクラスの生徒が世話になったようだが、何があったか聞かせてくれるか?」
部屋に居たらいいのだが。
そう思いつつ、外から声をかけると中から「うぅ……」と苦しげな声が聞こえた。
「き、きり丸に土井先生……、わ、分かりました。入ってください」
「失礼します」
代表してきり丸が障子戸を開け放つと、その中にはお腹を抱えて倒れる尾浜の姿があった。普段、頼り甲斐を感じさせる上級生忍たまの姿はそこにはない。
口から、今にもなにか飛び出しそうなのを我慢している。そんな姿の尾浜が居た。顔色はあまり良くなく、抱えている腹がいつもは平らなのに今はになり膨らんでいる。
一目で分かる、食べ過ぎだと。しんベヱと全く同じ症状の尾浜にきり丸も半助も目を合わせた。
「尾浜先輩……食べ過ぎ、ですよね?」
「それ以外の何に見える。う、っぷ」
「おいおい。まさか、他の五年生もこうなんじゃないだろうな」
半助が眉を寄せて問うと、無言で勘右衛門が頷いた。なんてこった。
「兵助が、澪さんに相応しい至高の豆腐料理を食べさせたい、って。どれも美味いって、言ったのに兵助は納得しないし、オレ達が頑張らないと、澪さんが、豆腐地獄に落ちてしまうっ……!」
くわっ!と、目を見開き、尾浜が匍匐前進してきり丸達の所に来た。さながら敗残兵のように、妙に迫力ある姿にきり丸も半助も固まる。
そして、尾浜は血走った目で二人の足首を掴んで来た。
「お、オレ達だけでは、最早、豆腐小僧どころか、豆腐大魔王と化した、兵助を止められないっ!きり丸、土井先生っ、二人の力で澪さんを、彼女を守ってほしい!」
まるで遺言のようだ。はぁはぁと、食べ過ぎの余りに息を苦しそうに吐き、這い蹲って言う尾浜には妙な迫力があった。
「食べれども食べれども、無限に出てくる地獄の豆腐懐石エンドレスコースに澪ちゃんを巻き込む事はできないっ!後の事は、頼、む……うぇっぷ、かく」
「尾浜先輩ーー!!」
ダイイングメッセージは豆腐。
そんな感じの倒れ方をした尾浜は、気絶してもなお、魘されていたりした。
ーーううっ、苦しい、うぷっ。
五年生の忍たま長屋から、次々と低く唸る戦場の叢で倒れ伏す兵士の如き声が聞こえてくる。一気に、忍たま長屋がお化け屋敷かと言わんばかりの有様である。
「ーーというか、今さっき、澪“ちゃん‘’って言わなかったか勘右衛門のヤツ?」
「どこに反応してんですか、土井先生。それどころじゃないですよ。この有様、久々知先輩を止めないと……!」
とりあえず、尾浜をそのままにする訳にはいかない。きり丸は頑張って気絶した尾浜の姿勢を変えて楽な状態にさせつつ、パンパンになっている袴の紐を緩めておいた。
「なら、兵助に対して豆腐や豆腐料理作りの禁止命令を学園長に出してもらうか」
「そんなの一時的な措置にしかならんでしょうがっ。無限豆腐料理製造機になった久々知先輩が、そんなので止まるなら五年生の先輩方やしんベヱがあんな事になるわけないじゃないですか!」
きり丸は、不破雷蔵経由であるが久々知兵助の豆腐料理攻撃の恐ろしさを少しは聞いて知ってはいた。
まさか、こんな事になるくらいヤバいとは思っていなかっただけである。
きり丸の言葉を聞いた半助が困ったような顔で、腕を組んだ。
「それはつまり、あれか……無限豆腐地獄をわたし達で突破するのか」
「それしかありませんっ。澪さんは力比べなら忍術学園所か日本一かもしれませんが、胃袋は普通です。それとも、土井先生は澪さんが無限豆腐地獄に落ちてもいいと?だったら、オレ、土井先生の事、見損ないますよ!」
まさか、半助の澪に惚れたという気持ちはその程度なのか。一瞬、そう思うと無性に腹が立ってそう口にする。
「そんなわけなかろう!」
すると、即座に否定された。
「何の策もなく挑んでも、わたしやきり丸だけで勝算があるのか?見てみろ、五年生長屋の惨状を。思い出せしんベヱの姿をっ。兵助、否、豆腐大魔王の無限豆腐地獄をわたし達だけで突破するのは、無謀だから言ってるんだ」
「……そりゃそうですけど」
真剣な顔で、無限豆腐地獄について語り合う二人。
さながらそれは、忍術学園に迫る白き豆腐の恐怖に挑むかのようだった。笑うに笑えない。
半助は真顔になって、暫し黙る。きり丸はじっと半助の顔を見て、答えを待った。
ややあって。
「……はぁ、こうなったら大勢を巻き込んで人海戦術だ。わたしは今から六年生長屋に行く。小平太に会って来る」
「七松先輩ですか?」
「気は進まないが、澪さん絡みなら身体を張るくらいはするだろう。小平太の事だ、何人か他の六年生も、特に文次郎や留三郎なんかを巻き込んで参戦するかもしれん。きり丸は、今からくのたま達に可能なら声をかけて、この事を伝えてくれ。確か、しんベヱとはる胃袋の確かーーそうこ、という女子生徒がいたはず。その子にも参戦を頼もう」
「っ、了解しました!」
確かに、半助の言う通り徒手空拳で二人で挑んでも仲良く腹を抱えて倒れるだけだ。せめて一人でも多くを巻き込むしかない。
きり丸は半助と別れ、くのたまを探した。と言っても流石にくのいち長屋には立ち入れず、そのためもう一度食堂に戻って探すことにした。夕飯時のタイミングのため、誰か居るだろうと思ったのだ。
そしたら、その感は当たった。食堂に行くと、戸部新左エ門ときり丸と同じクラスの皆本金吾と同じ机で、くのたまのトモミが食事中だった。
三人に声をかけようとしたその時である。
「えっ、澪さんと試合ですか?!」
金吾の驚いたような声がした。
「それって、まさか澪さんが戸部先生の事を好きって事?!お付き合いを条件に剣術で試合を挑むとかそう言う……ろ組の伏木蔵から聞いたけど澪さんって、渋い大人の男性が好みなんでしょっ」
ーー頭の中が、真っ白になった。
その金吾の言葉の意味を全部理解する前に、気が付いたらきり丸はその場から逃げるように立ち去った。
せっかく、くのたまのトモミを見つけたのにも関わらず。それが何故なのか、頭の中がぐちゃぐちゃで分からなかった。
「ーーはぁ、はぁ」
ドキドキして、胸が苦しい。
澪が、戸部新左ヱ門を好きなんてそんな風には見えなかったが、本当なのだろうか。
もしそうなら、半助はどうなるのだ。
きり丸は近くで見ていたから分かる。半助の目が、それは愛おしそうに澪を見ていると。
それなのに、澪が別の男を恋い慕っていると知ったら。
半助の事を考えると苦しい、この動悸はそのせいなのだろうか。分からないーーまだ、十歳のきり丸には、己の抱く気持ちの答えが分からなかった。
「あら、きり丸じゃない。そんな所で何してるの?」
きり丸が食堂から少し離れた廊下で立ち竦んでいると、ふいに聞き覚えのある声がかかった。振り向くと、そこにはユキとおシゲが居た。二人とも、不思議そうな顔できり丸を見ている。
「あっ、えっとーーあ!そうだ二人に頼みたい事があって」
直ぐに言葉が出てこなかったが、慌てて本来の目的を偶然にも達成する事にする。二人は久々知兵助の豆腐無間地獄の話と、其れが下手をしたら澪に影響するかもしれない、というきり丸の話を聞いて顔色を変えた。
「何ですって、一大事だわ。分かったわ、きり丸っ任せて頂戴。そうこに声をかけるから!」
「しんベヱ様がそんな事になってるなんて、大変でしゅっ。早く、保健室の伊佐先輩に胃薬を貰いに行かないと!」
きり丸の話を聞いて真っ先に澪を心配するユキ、方やしんベヱを心配するおシゲ。二人のくのたまのベクトルがどちらに向いているか、大変分かりやすい光景である。
とりあえず、何とか任せられた事は達成した。今頃、半助は六年生長屋で七松小平太と接触している事だろう。他ならぬ、澪のために。
「ーーどうすっかな」
分からない。
どうするのが正解なのか、分からないがきり丸の頭の中は金吾が発した言葉が、ぐるぐると渦巻いている。小銭を落とした時と遜色ないような、何とも言えない不安を覚えて、豆腐料理を食いすぎたしんベヱや尾浜でもないのに、胃のあたりに変な感じを覚えて思わず、そこを摩ってしまったのだった。
ーーそして、翌日。
「きり丸、顔がまるで潮江文次郎先輩みたい……大丈夫?」
きり丸の顔を朝一番に見た乱太郎がそう呟くほど、きり丸はまともに眠れなかった。
睡眠が何より大切な小さな身体で悶々とした結果、見事なまでに眠られなかった。昨日はユキとおシゲに仔細を報せて終わってしまい、半助の首尾も確認出来ていない。
一晩でしんベヱの身体は元に戻っていた。おそるべき消化吸収能力である。その代わりと言ってはなんだが、顔だけは何故か戻らなかった。いつものぽっちゃりなしんベヱの身体に、やたら丸くて落ちそうな頬が二つくっついている。
鼻水といい、剛毛といい、澪の人間離れした怪力と身体能力も大概だが、しんベヱもベクトルが違うだけで人間離れしているな、と思ったり。
「おー、大丈夫だ。きっと、早ければ今日か明日、遅くとも数日以内には多分、久々知先輩から豆腐攻撃があるからな。備えないと」
「わたしも、久々知先輩の事をしんベヱから聞いてびっくりしたよ。保健室には組の他の皆んなと引きずって何とか連れていったら、おシゲちゃんと遭遇して大変だったし」
「ぼく、身体が元に戻ったからまた食べられるよ。尾浜先輩が言ってたんだ、澪さんを豆腐地獄に落とさないために頑張るって。だから、ぼくまた食べるよ。食べる事ならまかせてっ!!」
頼もしい事である。身体は戻ってはいるが、顔はまだのため本当に大丈夫かとしんベヱに言いたいが、そんな余裕はない。
二人は、きり丸の何処か塞いだ様子を見て不思議そうにしている。
「きりちゃん、どうしたの?悩みがあるならわたし達が聞いてあげる」
「そうだよ、きり丸。ぼく達にできることなら、タダで手伝ってあげる」
「ーーッ?!」
あげる、タダ。
どケチ根性が染み付いたきり丸の魂を震わせる二人の言葉に、身体が反応する。まさにきり丸というどケチな少年の心を掌握する、攻めまくった一手であった。
そして。
きり丸は結果的に乱太郎達に、昨日、食堂で金吾が言った言葉を洗いざらい話す事になった。
「えーっ、澪さんが戸部先生の事が好きで、付き合うために試合を申し込んだって、それ本当なの、きりちゃん?!」
「澪さんが、渋い大人の男性が好きって話は、ぼくもおシゲちゃんが言ってたの聞いたけど、本当だったんだね」
二人は驚きつつも、うんうん唸っている。きり丸はと言うと、半助を前にしては大変言い辛い内容を二人になら洗いざらい話せた。
喋ったおかげか、少しだけ胸のつかえがなくなったようで、ほっと息を吐く。
その時だった。
きり丸達の部屋の外でカタン、と微かに音がした。何だろう、と振り返るが障子戸の向こうには人影も何もない。気の所為か。風の音かもしれない。
この時。
きり丸は全く気がついていなかった。
まさか一番今の会話を聞かれたくなかった相手、土井半助その人が、六年生長屋での事を伝えるため、朝早くから自分達の部屋を訪ねて来ていた事に。
