第7話 ハマってください
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「土井先生ーっ、皆で鬼ごっこしてたら落とし穴に乱太郎ときり丸としんべヱが落ちてしまって。おまけに、しんべヱが二人のお腹の上に落ちた物だから、食べたランチを乱太郎達が吐いて悲惨な事になりました!」
「おいおい、またか……」
半助は作業中だった手を止めて、己を呼びに来た一年は組の学級委員長である庄左ヱ門と共に職員室から急いで現場に急行した。
午前中も一年は組の生徒である喜三太が、ナメクジのツボを持った状態で落とし穴に落っこちたばかりである。前日も一年は組の生徒が落とし穴に吸い込まれており、半助はやれやれとため息を吐かずにはいられなかった。
現場はかなり悲惨な有様だった。
二人が胃の内容物を戻したせいで、酸っぱい臭いが立ちこめている上に汚物と土で汚れた服に、あまりの事に涙を浮かべる乱太郎達とオロオロする他のは組の子ども達。
「うぇーん、臭いよー気持ち悪いよー!」
「食べたランチがー!勿体ないよぅー!幾ら分吐いたんだー!」
「うぇーん、ごめんなさい二人とも。でもぼくも臭いよー!」
きり丸の泣き所がいつも通り銭に偏っているのにツッコミたいが、それどころではない。
「はぁ……お前達、とりあえず服を脱いでしまえ。誰か、乱太郎達の部屋から替えを取ってきてくれ!」
「ーー土井先生、どうしたんですか?」
頭を抱えたくなりながらも指示を出していると、鈴を転がすような声がした。
振り向けば、黒い忍者服に「秘書」の名札。藍色のスカーフと腰紐をした何とも美しいくのいち姿の澪が。
半助は澪の姿を視界に入れただけで、視界がクリアになり乱太郎ときり丸の吐いた事で漂う酸っぱい臭いも、かなりマシになったように感じたーーかくも恋とは偉大である。
「うわぁーん、澪さーん」
「馬鹿、きり丸。澪さんが汚れるだろうか!」
澪に向かって駆け出したきり丸を何とか捕獲した。その間に澪は、近くにいた団蔵に事の次第を聞いたらしい。ふむふむと頷くと、半助の所へ向かってやって来た。
「お手伝いしますよ、土井先生」
ふわり、と柔らかく優しい笑顔を浮かべる澪。可憐な笑みに半助のみならず、近くで直視した三治郎が見蕩れた様子で澪を見上げていた。澪は美しい。もともと美しかったが、学園に来てから色んな表情を見せるようになり、優しくも溌剌とした彼女の笑顔を見る度に、半助は昨日よりも今日、今日よりも明日日増しに澪を好きになっていると思う。
「乱太郎くん達、わたしが洗濯をしておくから汚れた物はここで脱げますか?井戸の水は少し冷たいだろうから、今から大急ぎでお風呂も沸かしますね。髪にもちょっとついちゃってるから、全身ピカピカにしてスッキリしましょう。吐いてお腹が空くかもしれない分は、おにぎりでも食べて誤魔化しましょうか。は組の子達は誰か土井先生がさっき言ってたみたいに乱太郎くん達の着替えを取りに行って、他の子はわたしの手伝いをお願いできますか?」
てきぱきと澪が指示を出す。
半助より更に一歩踏み込んだ内容となっており、は組の良い子達も被害にあって散々な事になってる乱太郎達も笑顔になって、指示通り動いていたのだった。
それから後は、トントン拍子だった。最初にべそをかいていたのが嘘のように、乱太郎達はご機嫌になっていた。まぁ、風呂に入って軽く腹ごしらえも出来て綺麗になったのだから当たり前だ。腹ごしらえは当然のように吐いていないのに、しんベヱも食べており食堂のおばちゃんのおにぎりを美味しそうに頬張っていた。
すっかり落ち着いた乱太郎達は、忍者服が乾くまで空き教室で過ごすよう伝えておく。最初に乱太郎達が穴に落ちてしまった現場は、修復したのにまた酷い数の落とし穴が出来ており、ここのところ毎日のように低学年の忍たまがどこかで穴に落っこちている。
忍たま達は、日々修練しているだけあって軽傷で済むが、そうでない者が怪我をしては大変だと、澪が食堂のおばちゃんを筆頭に護衛している状態だ。その中に、年老いた学園長も勿論いる。
綾部喜八郎の落とし穴は侵入者への罠にもなるため、落とし穴それ自体に関しては掘るなとまで本人に特に言われてはいないが、間違って落ちてはまずい人が落ちないよう工夫されている事が多い。まぁ、多いというだけで全部ではないから事故でしばしば誰かが落ちるのだが今回の数はいつにも増して異常だった。
それこそ、乱太郎達が穴に落ちて吐いた翌日、待ちに待っていた澪とのデートで、澪が心配して半助に相談してくるくらいには。
「綾部くん本人に、落とし穴の数をせめて今の半分にするよう、先生方から注意がいるのでは?このままでは、低学年の忍たま達が安心して外で遊べなくて可哀想よ」
デートの当日。
今日は仕事の事を忘れて、澪と一緒に出かけられると意気込んでいた半助は出かけるや否や出鼻をくじかれた。
とはいえ、半助自身も気にはなっていた事だし、何より生徒の事とあっては、知らないフリをできるはずもなくーーデートだと言うのに忍術学園を背に、町に向かいつつも澪と綾部喜八郎について会話する羽目になってしまった。
「用具委員会もここのところ異常な数の穴を埋めるのに、参っているみたいだしな。留三郎が喜八郎が所属しているからと作法委員会委員長の仙蔵の所まで行ってわざわざ文句を垂れたらしいし……休み明けに喜八郎にわたしからも言っておこう。解消されないようなら、学園長命令で学園内での穴掘りに個数制限をつけてもらうさ。あいつの落とし穴は何だかんだ、侵入者対策にもなっているから加減が難しいんだよ。それより、澪さんは穴に落ちそうにならないのかい。むき出しの物もあるけど、隠されてる物もあるだろう?」
澪が穴に落ちても、彼女の身体能力からして怪我はまずしないだろうが、万が一という事もある。半助は澪が目の前で火縄銃に撃たれたあの夜から、日が経っているものの澪をずっと心配していた。
一応、保健委員の委員長である伊作から澪の肩の傷は、今や塞がって僅かに傷が盛り上がっている程度で、それもそのうち綺麗に治るだろうとの見立てだと半助は聞いていたが、脅威の回復力を人伝に知ってもなお、心配だった。
この戦国において、命は身分の貴賎なく失われやすい。戦に巻き込まれるだけでなく病に事故、死という偶発的な運命からは生きている以上は、何人たりとも逃れられない証左であるように。
それは、尋常ならざる怪力を誇る澪であっても同じことだ。
半助は何処までも甘えていい、と言って抱き寄せてくれた澪の鼓動を思い出す。力強く心臓が奏でる生きている人間の音を、当たり前のそれを愛しく、同時に尊くも感じた。
あの時の半助は、ただ幸せだと思った。
できれば、細い澪の身体に腕を巻き付け、背中に手を触れても許されていたあの甘美で永遠に続いてもいい瞬間をまた味わいたいと、強く思った。
「問題ないわ。落とし穴のトラップは攻略法があるから」
「攻略法?」
流石は澪である。
忍者でこそないが、卓越した身体能力は忍者を凌ぐと言うか、怪力を考えるとむしろ超えている。半助の愛する女性は、大人しく守られているような玉ではなかった。
ある意味では安心なのだが、半助の男らしさをアピールするには澪の方が色々と男らしいというーー伝蔵が指摘するとおり、攻略難易度という意味では恐ろしく高い女であった。さながら富士山の如しと言えよう。
「地面を殴るか蹴るかして揺らせば、隠してあっても穴の方から姿を見せてくれるもん」
「ーーなるほど」
地面を揺らせるだけの力を普通は出せない。
澪くらいにしかできない人間離れしたトラップ攻略方法に、遠い目になりそうになる半助である。利吉やくのたまがトラップ攻略の現場を見たらきゃーきゃー言いそうだ。
まさかの弟分のように思っている利吉が、くのたま達と同類であると先日同行した依頼先で確信した半助は、恋のライバルにならなくてよかったと思う一方で苦笑いを禁じ得なかった。まさか、利吉がああなると誰が予想できたであろうか。
どうしてこうも、澪という存在は他者を魅了するのか。とはいえ、澪の場合は慕われる一方でドクタケ忍者隊全員を震え上がらせる力量のため、味方になればこれ以上ない頼れる人物であり、敵になれば恐ろしさが半端ない。忍術学園に招いたのは、英断だったかもしれないと思ったり。
ーーどうしたら、澪は半助に振り向いてくれるのだろうか。
どうしたら、己の抱く日増しに肥大する恋慕の百分の一でも同じ気持ちを向けてくれるのだろうか。
あの手この手で、目的の物を手中にするのを企むのは忍者の十八番のはずなのに澪に関しては、恋愛という意味において彼女に意識してもらう為にどうするのが最善なのか想像もつかないでいた。
だが、どうしていいか分からないでいるくせに例えば小平太のような存在に、絶対に澪を奪われたくない。
あの日。
澪が半助を抱き寄せてくれた日に、彼女のこの世に一つしかない鼓動を聞いて改めて決めた。
何が何でも、この美しくも強い人を自分が手に入れると。まずは己の恋人にーーその後は必ず妻にしたいと。
そうでないと、否、そうならなければどうにかなりそうだったからーー他の男が、澪を娶るだなんて、想いを伝えていないのに日々成長する恋慕がそれだけは絶対に嫌だと、許さないと、絶叫していた。
欲しい欲しいと、喉から手が出そうな程に子どものように澪を求めていた。
過去、奪われてしまったモノをもう一度欲しがって、今度こそはそうらならないように、離したりしないよう手にするように。
この想いを言葉にするのは、まだ早いと思うから我慢できている。
時が来ていないのに何かの弾みで零れてしまって、澪が遠ざかってしまうのが一番嫌で我慢していた。
「澪さん、今日はせっかくこうして一緒に出かけてるんだ。是非、美味しいお店に行こう。しんべヱから前に聞いた事のある店なんだが、一人で行くのは気が引けていたんだ。ご馳走するし」
「やった、半助さんの奢りだ。それなら、わたしは反物と椿の油が欲しいから、よかったら売ってるお店に寄ってもいいかな?」
「勿論だとも」
君が行きたいというなら、何処へでもついて行く。その傍らに居たいから。すぐ側で君を見ていたい。どんな話だって喜んで聞くから、その綺麗な声で話してくれないか。
ーーそう言えたらいいが、流石にそんな口説き文句はそのまま好きだと言っているような物だし、箍も外れてしまうから口にはしない。
澪と道中歩いていると、すれ違う男達が市女笠を被るその姿をチラチラと見ては通り過ぎていく。美しい声に洗練された所作は、例え虫垂衣越しでもそれだけで美しい女なのだと伝わるのだろう。
すると、自然と半助にも注目が集まる。背が高く容姿が整っているせいもあって、人の目を道中かなり集めた。
その中に一つくらい、夫婦や恋人という誤解があったりしないか等と思っていたのだが。
「兄妹かしら」「護衛だろ」「下男じゃないのか」etc……。通り過ぎ様に聞こえたヒソヒソ声に、半助は転けそうになった。
何故、そうなる?!
と、思ったのだがふと我に返って己と澪の格好の違いに今更気付いた。
澪は完璧だった。
デートに相応しく、綺麗な着物に首元にはレースというらしい南蛮の美しく繊細な飾りをしており、歩くとふわりと彼女のつけている良い香りがするのだ。
対する半助はと言うと、汚れてこそいないが何時もの外出姿でお洒落もへったくれもない。澪と恋人同士になんて見えるはずもなく、どこぞのいい所のお嬢様とその護衛若しくは仕えてる下男であるーー悲しいが自業自得だ。
澪のファッションセンスが高い事も裏目に出ていた。
「……ぐぬぬ」
攻略難易度の高さに唸る半助。
さながら、現代で言うところの恋愛シミュレーションゲームの攻略対象が要求するパラメーターの高さに蹴躓いているプレイヤーの如しである。パラ上げがキツイ。
「半助さん。あそこに反物のお店があるから、行きましょう」
何やかんやで町についてしまった。途中、澪と己の格好の落差から来る周囲の見立てに気付いて愕然としていたら、目的地に到着してしまい、せっかくのデートなのに大した話が出来ていない事に気付く。
なんて事だーー地味に落ち込んでいる場合ではない。澪と親しくなって、とっとと告白してしまうためにもデートに集中しなくてはいけないというのに。
「そうだな、行こうか」
悶々としている己の葛藤を、顔に出さないようにするので精一杯である。忍者としての仕事の方が遥かに楽で簡単に演技ができるのに、自分のプライベートとなると応用が難しい。
一体、どうやって若き日の伝蔵は、あの美しい奥方を手中に収めたのか是非とも詳細が知りたかった。
反物屋の店に入り、品を見る。
先客がおり、店の主人はそちらを相手に楽しそうに話をしていたので、商品を集中して見る事ができたのだが、半助は澪が男物の生地ばかりを見ているのに気付き、思わず問いかけた。
「また、きり丸に着物をあげるのかい?」
「まぁ、それも悪くはないけれど。今回は別の事に使おうかと……うーん、これかなぁ」
ブツブツ言いながら、澪は手に取った幾つかの反物を半助の肩の辺りに持ってきた。浅葱、留紺、淡藤、虫襖ーー、それらの配色の反物と半助の顔を見比べている。
「何故、わたしに?」
まさか、男に着物でも縫う気かと思い、声が低くなるのが分かった。きり丸を筆頭に、低学年の忍たま達のためというなら子ども相手だし許せるが、澪と並んで遜色のない年齢の男に着物を送ると言われたら、今すぐ反物屋から出ていくのを我慢出来るかどうか。
「半助さんさえ嫌じゃないなら一つ、どうかと思って……大人の男性の袴は練習しないと厳しいけど、着物なら縫えると思うの。きり丸のが縫えたならいけるかな、と」
「え、わたしに仕立てくれるのか?」
澪が着物を縫ってくれると聞いて喜びが込み上げるのを、何とか抑えて顔がニヤついたりしないようにした。
「鵺捕獲のお礼がしたいしね。依頼主が喜んでたみたいで利吉さんから貰えたギャラが凄く良かったの。少しだけど、一緒に仕事をした半助さん達に何かの形でお返ししようって思って。せっかくなら半助さんは、日頃からお世話にもなってるし着物をあげようかなって。伝子さんの依頼の品が終わった後になるから、渡すまでに少し時間が欲しいけど」
「ははは、流石は澪さん。ありがとう、とっても嬉しいよ。君が選んでくれるなら色は何でもいいから」
着物を仕立てるには、それなりの裁縫の腕がいる。ましてや、大人の男の物なんて子どもの物と違い縫う量も多いから余計だ。仕立て屋に行くと当然綺麗に仕上がるが高くつくので、庶民は家族が縫ってくれた着物を着ている事が多い。
半助の裁縫の腕は繕い物ができる程度だし、着物を縫う時間もなければ布を選んで仕立て屋に頼むのも面倒くさくて、億劫になっていたのだ。だから毎回外出は同じ柄の着物だったし、澪とこうして出かけるまで気にした事もなかったのだが。
「わたしの手縫いで申し訳ないけれど、よかったら着てね」
「そんな事ないさ。きり丸が着ていた新しい着物の出来栄えは凄く良かったし」
澪が縫ってくれるなら、不格好だろうが喜んで着る自信がある。澪がその手で作ってくれる物なら大事にする。巾着袋がそうなのだから。
「ふふ、嬉しい事を言ってくれるじゃない。よし、煽てられたから時間かかるけど二つ作ってあげる。布が余ったら、きり丸に何か作ってあげたらいいしね。今の着物が青だから、少し違うので。この緑と紺色か薄い紫にしようかな。あ、でも裏表の布地を変えておくと、何かあった時に便利だし。うーん」
眉根を寄せて悩んでる姿が、とてつもなく可愛くて愛おしい。半助の反物を、恋愛的な意味でないとはいえ選んでくれている姿に、恋慕するなというのが無茶だ。ドキドキして、顔に熱が集まるのを堪えるので精一杯だった。
澪はそれから反物を結局三つ買った。自分の着物になる事もあり、半助自ら荷物持ちを申し出る。次は半助の物を何か見るといいと言われたので、特に何か見たい品があったわけではないのだが、気を遣わせてしまうのも申し訳なくて、ならばと男用の櫛を買うことにした。
実は、つい半月ほど前に折れてしまったのだが、まぁいいかと買わずにいたのだ。
「半助さん、櫛は一つしか買わないの?」
「櫛は一本あればいいだろう?」
「えっ」
櫛を物色してる最中に、澪が目を丸くしていた。当たり前の事を言っただけなのだが。髪結いの仕事をしてるわけでもあるまいし。
「半助さんの髪なら、最低二本はいるよ。目の粗いやつと、細かいのと。でないと、ちゃんと綺麗に梳けないって」
「別にいいよ。時間がないし、大体は前髪しか見せてないし」
「頭巾とか烏帽子の下に髪をしまい込む時に、無駄に収納力を発揮させるのってどうかと思う。きり丸に聞いた事あるけど、長屋で同居する前は汚部屋の住人だったんでしょう」
「うぐっ。それとこれとは、何の関係もない気が……」
きり丸め、余計な事を。
事実だが、片付けられないのではなく忙しくてついつい億劫だからやらなかっただけだ。長屋の一人暮らしは、別に一緒に住む人がいるわけでなし、迷惑をかけるわけじゃないからと……つい、茶碗を洗わず放置して生ゴミも貯めてたりしただけで。
職場で伝蔵と一緒に過ごす部屋は、ちゃんと片付けているのだし。これでも綺麗に保管部屋を保たねばならない、火薬委員会の顧問なんだし。
「あーりーまーすー。半助さんったら、自分の事になるとズボラ過ぎ。子ども達のことはよく気が付くし、面倒見がいいのに。自分の事は自分自身がまず面倒見てあげなくちゃダメなのよ」
「…………だったら、君が見てよ」
「はい?」
あ、やってしまった。
きょとんとした顔の澪を前に、半助はうっかり失言した事に気付く。つい、欲望がポロッと出た。嫌な顔をされる前に撤回せねば。いい歳をした男が、流石にやらかしてしまったか。
男らしくて頼りになる所を見せなければならないのに。
だが。
「甘えん坊さんね」
澪はやれやれと言うように笑った。笑ってくれた。半助の駄目な発言を丸ごと受け止めてくれた。あの日、川辺で半助を抱き寄せてくれたように。
「時々ならね。その代わり、わたしも甘やかしてあげるから、自分をもっと大事にしてね。自分の事は自分自身が一番に労わってあげないと、半助さんの事を大事に思ってる人達が悲しくなるから。わたしもその中にいるから、ね?」
「そ、それはどういう意味で」
「どういう意味も何も、山賊狩りする一歩手前で拾ってくれた恩人だもの。日頃からお世話にもなってるし。当たり前でしょ」
「あ、だよねー」
知ってた。
でも、澪の言葉が嬉しくて拗ねる気持ちは起こらなかった。
気がつけば澪の勧めもあり、半助は二本の櫛を買っていた。澪なら三本は買うと言われたので、二本に落ち着いた形だ。その後は椿の油を買いに行き、昼になったのでしんベヱが美味しいと言っていた飯屋に入った。
のだが。
「いらっしゃいませー。あ、土井先生それに澪さんまで」
「……アルバイトか、きり丸」
何故だ。
何故、澪と二人きりのデートのはずが、立ち寄った先の飯屋できり丸がアルバイトをしているのだ。きり丸の事は大事に思っているが、今日は澪とずっと二人きりだと思っていたのに。残念な気持ちを顔に出すまいとする半助である。
「今日は半助さんと、お買い物に来ていたの。きり丸は今日もアルバイトよね。頑張ってるわね」
「……そうですか。あの、オレ、仕事があるんで」
「そっかぁ。なら、また今度わたしとお出かけしましょ」
「あ、はい」
きり丸の態度が素っ気ない。いつもなら、澪を見たら駆け寄ってくるのに。
澪も不思議そうな顔をしている。だが、アルバイト中のきり丸が店の奥に引っ込んだ事で、今日は無理そうだと思ったのだろう。澪は諦めた様子で席に座った。
「きり丸、どうしちゃったんだろう。何か、素っ気なかったよね、今」
「まぁ、そうだな」
「何かしちゃったかな。早い内にこっそり話を聞いて、わたしが悪い事をしていたなら謝ろうかな」
気になるのだろう。澪はチラチラと店の奥に消えてしまったきり丸を探すように視線を向けている。少し、きり丸が羨ましい。澪にこんな風に自然と気にかけてもらえるなんて。
「それがいい。わたしからも、きり丸に澪さんが話したがっていたと声をかけておこう。さぁ、今は何が食べたいか選ぶといい。でないと、追い出されるぞ」
「ーーそれもそうね。そしたら、わたしは焼き魚定食にしようかな」
「なら、わたしは天ぷら定食にしよう」
それぞれ、お品書きを見て注文を終える。きり丸は厨房の奥で皿洗いでもしているのか、姿を見せなかった。
「所で、鵺捕獲のお礼と言っていたが、六年生達にも何かあげるんだろう。どんな物にするんだ?」
きり丸の事をいつまでも気にしてしまうのを阻止するためもあり、半助自身が少し気になっていた事を食べている最中に澪に質問した。
「それについては、消え物にしようかと。形が残る物は他の忍たま達の目もあるからね。お菓子か何かにしようと思ってるよ」
「そうか……」
己のお礼は形に残る着物で、六年生達はそうじゃない。おそらくは、忍たまである事を意識した線引きなのだろうが、それでも嬉しかった。こんな事で優越感を感じるなんて、どうかしている。でも、澪の事となるとどうにも自分でさえ知らなかった感情が顔を出すのだ。
息もできない程の渇望も、身を焦がすような嫉妬も、稚拙な優越感も、何もかもが澪という存在を求めての事である。
女を本気で好きになる事の重さと苦しさを、同時に味わう喜びと幸福を半助は身をもって味わっていた。
が、そんな半助から色々とアレな想いを向けられていると知らない澪は、半助にこっそり観察されているのも気にせず、注文してから少ししてやって来た定食を美味しそうにぱくついていた。
半助は生まれも育ちも戦国の人であり、その恋愛感情は現代日本人からすれば、はっきり言って重い物だった。
付き合って間を置かずに澪と結婚したいとか何とか半助は思っているが、現代日本人の思考としては絶賛婚活でもしてなければ、その発想は重たいと言わざるを得ない。
というか、昔の人の方が恋愛に対しては重い。身分違いの恋で心中してしまうくらいである。娯楽が少ないのと平均寿命の短さや死が身近にあったりする環境がなせる物であったりするため、当たり前といえば当たり前である。
対する澪はというと、生まれて十五年程は戦国育ちだがその中身は現代日本人だ。恋愛に関しては生粋の戦国の人と比べるとかなりライトである。
何せ、別れては結婚してを繰り返した澪の母は、戦国の世ではかなりアレな存在であるのに、澪の中の現代日本人の感覚はそれをOKとしたくらいである。
別れる、離婚する、というこの時代ではハードルの高いその行為に肯定的だし、己がする事にもあまり抵抗がなかったりした。
つまり、半助と澪の恋愛感覚は凄まじくズレていた。
が、当然ながらそんな事をしる由もない半助は、本日も澪に対する恋慕を募らせ、知らぬ間に現代日本で言うところの、超激重恋愛感情をせっせと育てていたのだった。
なお、その超激重恋愛感情の成長の限界は、まだまだ見えそうもなかったり。
半助の成長を今更止められぬその気持ちが、いつ報われるのかは神のみぞ知る事である。
「おいおい、またか……」
半助は作業中だった手を止めて、己を呼びに来た一年は組の学級委員長である庄左ヱ門と共に職員室から急いで現場に急行した。
午前中も一年は組の生徒である喜三太が、ナメクジのツボを持った状態で落とし穴に落っこちたばかりである。前日も一年は組の生徒が落とし穴に吸い込まれており、半助はやれやれとため息を吐かずにはいられなかった。
現場はかなり悲惨な有様だった。
二人が胃の内容物を戻したせいで、酸っぱい臭いが立ちこめている上に汚物と土で汚れた服に、あまりの事に涙を浮かべる乱太郎達とオロオロする他のは組の子ども達。
「うぇーん、臭いよー気持ち悪いよー!」
「食べたランチがー!勿体ないよぅー!幾ら分吐いたんだー!」
「うぇーん、ごめんなさい二人とも。でもぼくも臭いよー!」
きり丸の泣き所がいつも通り銭に偏っているのにツッコミたいが、それどころではない。
「はぁ……お前達、とりあえず服を脱いでしまえ。誰か、乱太郎達の部屋から替えを取ってきてくれ!」
「ーー土井先生、どうしたんですか?」
頭を抱えたくなりながらも指示を出していると、鈴を転がすような声がした。
振り向けば、黒い忍者服に「秘書」の名札。藍色のスカーフと腰紐をした何とも美しいくのいち姿の澪が。
半助は澪の姿を視界に入れただけで、視界がクリアになり乱太郎ときり丸の吐いた事で漂う酸っぱい臭いも、かなりマシになったように感じたーーかくも恋とは偉大である。
「うわぁーん、澪さーん」
「馬鹿、きり丸。澪さんが汚れるだろうか!」
澪に向かって駆け出したきり丸を何とか捕獲した。その間に澪は、近くにいた団蔵に事の次第を聞いたらしい。ふむふむと頷くと、半助の所へ向かってやって来た。
「お手伝いしますよ、土井先生」
ふわり、と柔らかく優しい笑顔を浮かべる澪。可憐な笑みに半助のみならず、近くで直視した三治郎が見蕩れた様子で澪を見上げていた。澪は美しい。もともと美しかったが、学園に来てから色んな表情を見せるようになり、優しくも溌剌とした彼女の笑顔を見る度に、半助は昨日よりも今日、今日よりも明日日増しに澪を好きになっていると思う。
「乱太郎くん達、わたしが洗濯をしておくから汚れた物はここで脱げますか?井戸の水は少し冷たいだろうから、今から大急ぎでお風呂も沸かしますね。髪にもちょっとついちゃってるから、全身ピカピカにしてスッキリしましょう。吐いてお腹が空くかもしれない分は、おにぎりでも食べて誤魔化しましょうか。は組の子達は誰か土井先生がさっき言ってたみたいに乱太郎くん達の着替えを取りに行って、他の子はわたしの手伝いをお願いできますか?」
てきぱきと澪が指示を出す。
半助より更に一歩踏み込んだ内容となっており、は組の良い子達も被害にあって散々な事になってる乱太郎達も笑顔になって、指示通り動いていたのだった。
それから後は、トントン拍子だった。最初にべそをかいていたのが嘘のように、乱太郎達はご機嫌になっていた。まぁ、風呂に入って軽く腹ごしらえも出来て綺麗になったのだから当たり前だ。腹ごしらえは当然のように吐いていないのに、しんベヱも食べており食堂のおばちゃんのおにぎりを美味しそうに頬張っていた。
すっかり落ち着いた乱太郎達は、忍者服が乾くまで空き教室で過ごすよう伝えておく。最初に乱太郎達が穴に落ちてしまった現場は、修復したのにまた酷い数の落とし穴が出来ており、ここのところ毎日のように低学年の忍たまがどこかで穴に落っこちている。
忍たま達は、日々修練しているだけあって軽傷で済むが、そうでない者が怪我をしては大変だと、澪が食堂のおばちゃんを筆頭に護衛している状態だ。その中に、年老いた学園長も勿論いる。
綾部喜八郎の落とし穴は侵入者への罠にもなるため、落とし穴それ自体に関しては掘るなとまで本人に特に言われてはいないが、間違って落ちてはまずい人が落ちないよう工夫されている事が多い。まぁ、多いというだけで全部ではないから事故でしばしば誰かが落ちるのだが今回の数はいつにも増して異常だった。
それこそ、乱太郎達が穴に落ちて吐いた翌日、待ちに待っていた澪とのデートで、澪が心配して半助に相談してくるくらいには。
「綾部くん本人に、落とし穴の数をせめて今の半分にするよう、先生方から注意がいるのでは?このままでは、低学年の忍たま達が安心して外で遊べなくて可哀想よ」
デートの当日。
今日は仕事の事を忘れて、澪と一緒に出かけられると意気込んでいた半助は出かけるや否や出鼻をくじかれた。
とはいえ、半助自身も気にはなっていた事だし、何より生徒の事とあっては、知らないフリをできるはずもなくーーデートだと言うのに忍術学園を背に、町に向かいつつも澪と綾部喜八郎について会話する羽目になってしまった。
「用具委員会もここのところ異常な数の穴を埋めるのに、参っているみたいだしな。留三郎が喜八郎が所属しているからと作法委員会委員長の仙蔵の所まで行ってわざわざ文句を垂れたらしいし……休み明けに喜八郎にわたしからも言っておこう。解消されないようなら、学園長命令で学園内での穴掘りに個数制限をつけてもらうさ。あいつの落とし穴は何だかんだ、侵入者対策にもなっているから加減が難しいんだよ。それより、澪さんは穴に落ちそうにならないのかい。むき出しの物もあるけど、隠されてる物もあるだろう?」
澪が穴に落ちても、彼女の身体能力からして怪我はまずしないだろうが、万が一という事もある。半助は澪が目の前で火縄銃に撃たれたあの夜から、日が経っているものの澪をずっと心配していた。
一応、保健委員の委員長である伊作から澪の肩の傷は、今や塞がって僅かに傷が盛り上がっている程度で、それもそのうち綺麗に治るだろうとの見立てだと半助は聞いていたが、脅威の回復力を人伝に知ってもなお、心配だった。
この戦国において、命は身分の貴賎なく失われやすい。戦に巻き込まれるだけでなく病に事故、死という偶発的な運命からは生きている以上は、何人たりとも逃れられない証左であるように。
それは、尋常ならざる怪力を誇る澪であっても同じことだ。
半助は何処までも甘えていい、と言って抱き寄せてくれた澪の鼓動を思い出す。力強く心臓が奏でる生きている人間の音を、当たり前のそれを愛しく、同時に尊くも感じた。
あの時の半助は、ただ幸せだと思った。
できれば、細い澪の身体に腕を巻き付け、背中に手を触れても許されていたあの甘美で永遠に続いてもいい瞬間をまた味わいたいと、強く思った。
「問題ないわ。落とし穴のトラップは攻略法があるから」
「攻略法?」
流石は澪である。
忍者でこそないが、卓越した身体能力は忍者を凌ぐと言うか、怪力を考えるとむしろ超えている。半助の愛する女性は、大人しく守られているような玉ではなかった。
ある意味では安心なのだが、半助の男らしさをアピールするには澪の方が色々と男らしいというーー伝蔵が指摘するとおり、攻略難易度という意味では恐ろしく高い女であった。さながら富士山の如しと言えよう。
「地面を殴るか蹴るかして揺らせば、隠してあっても穴の方から姿を見せてくれるもん」
「ーーなるほど」
地面を揺らせるだけの力を普通は出せない。
澪くらいにしかできない人間離れしたトラップ攻略方法に、遠い目になりそうになる半助である。利吉やくのたまがトラップ攻略の現場を見たらきゃーきゃー言いそうだ。
まさかの弟分のように思っている利吉が、くのたま達と同類であると先日同行した依頼先で確信した半助は、恋のライバルにならなくてよかったと思う一方で苦笑いを禁じ得なかった。まさか、利吉がああなると誰が予想できたであろうか。
どうしてこうも、澪という存在は他者を魅了するのか。とはいえ、澪の場合は慕われる一方でドクタケ忍者隊全員を震え上がらせる力量のため、味方になればこれ以上ない頼れる人物であり、敵になれば恐ろしさが半端ない。忍術学園に招いたのは、英断だったかもしれないと思ったり。
ーーどうしたら、澪は半助に振り向いてくれるのだろうか。
どうしたら、己の抱く日増しに肥大する恋慕の百分の一でも同じ気持ちを向けてくれるのだろうか。
あの手この手で、目的の物を手中にするのを企むのは忍者の十八番のはずなのに澪に関しては、恋愛という意味において彼女に意識してもらう為にどうするのが最善なのか想像もつかないでいた。
だが、どうしていいか分からないでいるくせに例えば小平太のような存在に、絶対に澪を奪われたくない。
あの日。
澪が半助を抱き寄せてくれた日に、彼女のこの世に一つしかない鼓動を聞いて改めて決めた。
何が何でも、この美しくも強い人を自分が手に入れると。まずは己の恋人にーーその後は必ず妻にしたいと。
そうでないと、否、そうならなければどうにかなりそうだったからーー他の男が、澪を娶るだなんて、想いを伝えていないのに日々成長する恋慕がそれだけは絶対に嫌だと、許さないと、絶叫していた。
欲しい欲しいと、喉から手が出そうな程に子どものように澪を求めていた。
過去、奪われてしまったモノをもう一度欲しがって、今度こそはそうらならないように、離したりしないよう手にするように。
この想いを言葉にするのは、まだ早いと思うから我慢できている。
時が来ていないのに何かの弾みで零れてしまって、澪が遠ざかってしまうのが一番嫌で我慢していた。
「澪さん、今日はせっかくこうして一緒に出かけてるんだ。是非、美味しいお店に行こう。しんべヱから前に聞いた事のある店なんだが、一人で行くのは気が引けていたんだ。ご馳走するし」
「やった、半助さんの奢りだ。それなら、わたしは反物と椿の油が欲しいから、よかったら売ってるお店に寄ってもいいかな?」
「勿論だとも」
君が行きたいというなら、何処へでもついて行く。その傍らに居たいから。すぐ側で君を見ていたい。どんな話だって喜んで聞くから、その綺麗な声で話してくれないか。
ーーそう言えたらいいが、流石にそんな口説き文句はそのまま好きだと言っているような物だし、箍も外れてしまうから口にはしない。
澪と道中歩いていると、すれ違う男達が市女笠を被るその姿をチラチラと見ては通り過ぎていく。美しい声に洗練された所作は、例え虫垂衣越しでもそれだけで美しい女なのだと伝わるのだろう。
すると、自然と半助にも注目が集まる。背が高く容姿が整っているせいもあって、人の目を道中かなり集めた。
その中に一つくらい、夫婦や恋人という誤解があったりしないか等と思っていたのだが。
「兄妹かしら」「護衛だろ」「下男じゃないのか」etc……。通り過ぎ様に聞こえたヒソヒソ声に、半助は転けそうになった。
何故、そうなる?!
と、思ったのだがふと我に返って己と澪の格好の違いに今更気付いた。
澪は完璧だった。
デートに相応しく、綺麗な着物に首元にはレースというらしい南蛮の美しく繊細な飾りをしており、歩くとふわりと彼女のつけている良い香りがするのだ。
対する半助はと言うと、汚れてこそいないが何時もの外出姿でお洒落もへったくれもない。澪と恋人同士になんて見えるはずもなく、どこぞのいい所のお嬢様とその護衛若しくは仕えてる下男であるーー悲しいが自業自得だ。
澪のファッションセンスが高い事も裏目に出ていた。
「……ぐぬぬ」
攻略難易度の高さに唸る半助。
さながら、現代で言うところの恋愛シミュレーションゲームの攻略対象が要求するパラメーターの高さに蹴躓いているプレイヤーの如しである。パラ上げがキツイ。
「半助さん。あそこに反物のお店があるから、行きましょう」
何やかんやで町についてしまった。途中、澪と己の格好の落差から来る周囲の見立てに気付いて愕然としていたら、目的地に到着してしまい、せっかくのデートなのに大した話が出来ていない事に気付く。
なんて事だーー地味に落ち込んでいる場合ではない。澪と親しくなって、とっとと告白してしまうためにもデートに集中しなくてはいけないというのに。
「そうだな、行こうか」
悶々としている己の葛藤を、顔に出さないようにするので精一杯である。忍者としての仕事の方が遥かに楽で簡単に演技ができるのに、自分のプライベートとなると応用が難しい。
一体、どうやって若き日の伝蔵は、あの美しい奥方を手中に収めたのか是非とも詳細が知りたかった。
反物屋の店に入り、品を見る。
先客がおり、店の主人はそちらを相手に楽しそうに話をしていたので、商品を集中して見る事ができたのだが、半助は澪が男物の生地ばかりを見ているのに気付き、思わず問いかけた。
「また、きり丸に着物をあげるのかい?」
「まぁ、それも悪くはないけれど。今回は別の事に使おうかと……うーん、これかなぁ」
ブツブツ言いながら、澪は手に取った幾つかの反物を半助の肩の辺りに持ってきた。浅葱、留紺、淡藤、虫襖ーー、それらの配色の反物と半助の顔を見比べている。
「何故、わたしに?」
まさか、男に着物でも縫う気かと思い、声が低くなるのが分かった。きり丸を筆頭に、低学年の忍たま達のためというなら子ども相手だし許せるが、澪と並んで遜色のない年齢の男に着物を送ると言われたら、今すぐ反物屋から出ていくのを我慢出来るかどうか。
「半助さんさえ嫌じゃないなら一つ、どうかと思って……大人の男性の袴は練習しないと厳しいけど、着物なら縫えると思うの。きり丸のが縫えたならいけるかな、と」
「え、わたしに仕立てくれるのか?」
澪が着物を縫ってくれると聞いて喜びが込み上げるのを、何とか抑えて顔がニヤついたりしないようにした。
「鵺捕獲のお礼がしたいしね。依頼主が喜んでたみたいで利吉さんから貰えたギャラが凄く良かったの。少しだけど、一緒に仕事をした半助さん達に何かの形でお返ししようって思って。せっかくなら半助さんは、日頃からお世話にもなってるし着物をあげようかなって。伝子さんの依頼の品が終わった後になるから、渡すまでに少し時間が欲しいけど」
「ははは、流石は澪さん。ありがとう、とっても嬉しいよ。君が選んでくれるなら色は何でもいいから」
着物を仕立てるには、それなりの裁縫の腕がいる。ましてや、大人の男の物なんて子どもの物と違い縫う量も多いから余計だ。仕立て屋に行くと当然綺麗に仕上がるが高くつくので、庶民は家族が縫ってくれた着物を着ている事が多い。
半助の裁縫の腕は繕い物ができる程度だし、着物を縫う時間もなければ布を選んで仕立て屋に頼むのも面倒くさくて、億劫になっていたのだ。だから毎回外出は同じ柄の着物だったし、澪とこうして出かけるまで気にした事もなかったのだが。
「わたしの手縫いで申し訳ないけれど、よかったら着てね」
「そんな事ないさ。きり丸が着ていた新しい着物の出来栄えは凄く良かったし」
澪が縫ってくれるなら、不格好だろうが喜んで着る自信がある。澪がその手で作ってくれる物なら大事にする。巾着袋がそうなのだから。
「ふふ、嬉しい事を言ってくれるじゃない。よし、煽てられたから時間かかるけど二つ作ってあげる。布が余ったら、きり丸に何か作ってあげたらいいしね。今の着物が青だから、少し違うので。この緑と紺色か薄い紫にしようかな。あ、でも裏表の布地を変えておくと、何かあった時に便利だし。うーん」
眉根を寄せて悩んでる姿が、とてつもなく可愛くて愛おしい。半助の反物を、恋愛的な意味でないとはいえ選んでくれている姿に、恋慕するなというのが無茶だ。ドキドキして、顔に熱が集まるのを堪えるので精一杯だった。
澪はそれから反物を結局三つ買った。自分の着物になる事もあり、半助自ら荷物持ちを申し出る。次は半助の物を何か見るといいと言われたので、特に何か見たい品があったわけではないのだが、気を遣わせてしまうのも申し訳なくて、ならばと男用の櫛を買うことにした。
実は、つい半月ほど前に折れてしまったのだが、まぁいいかと買わずにいたのだ。
「半助さん、櫛は一つしか買わないの?」
「櫛は一本あればいいだろう?」
「えっ」
櫛を物色してる最中に、澪が目を丸くしていた。当たり前の事を言っただけなのだが。髪結いの仕事をしてるわけでもあるまいし。
「半助さんの髪なら、最低二本はいるよ。目の粗いやつと、細かいのと。でないと、ちゃんと綺麗に梳けないって」
「別にいいよ。時間がないし、大体は前髪しか見せてないし」
「頭巾とか烏帽子の下に髪をしまい込む時に、無駄に収納力を発揮させるのってどうかと思う。きり丸に聞いた事あるけど、長屋で同居する前は汚部屋の住人だったんでしょう」
「うぐっ。それとこれとは、何の関係もない気が……」
きり丸め、余計な事を。
事実だが、片付けられないのではなく忙しくてついつい億劫だからやらなかっただけだ。長屋の一人暮らしは、別に一緒に住む人がいるわけでなし、迷惑をかけるわけじゃないからと……つい、茶碗を洗わず放置して生ゴミも貯めてたりしただけで。
職場で伝蔵と一緒に過ごす部屋は、ちゃんと片付けているのだし。これでも綺麗に保管部屋を保たねばならない、火薬委員会の顧問なんだし。
「あーりーまーすー。半助さんったら、自分の事になるとズボラ過ぎ。子ども達のことはよく気が付くし、面倒見がいいのに。自分の事は自分自身がまず面倒見てあげなくちゃダメなのよ」
「…………だったら、君が見てよ」
「はい?」
あ、やってしまった。
きょとんとした顔の澪を前に、半助はうっかり失言した事に気付く。つい、欲望がポロッと出た。嫌な顔をされる前に撤回せねば。いい歳をした男が、流石にやらかしてしまったか。
男らしくて頼りになる所を見せなければならないのに。
だが。
「甘えん坊さんね」
澪はやれやれと言うように笑った。笑ってくれた。半助の駄目な発言を丸ごと受け止めてくれた。あの日、川辺で半助を抱き寄せてくれたように。
「時々ならね。その代わり、わたしも甘やかしてあげるから、自分をもっと大事にしてね。自分の事は自分自身が一番に労わってあげないと、半助さんの事を大事に思ってる人達が悲しくなるから。わたしもその中にいるから、ね?」
「そ、それはどういう意味で」
「どういう意味も何も、山賊狩りする一歩手前で拾ってくれた恩人だもの。日頃からお世話にもなってるし。当たり前でしょ」
「あ、だよねー」
知ってた。
でも、澪の言葉が嬉しくて拗ねる気持ちは起こらなかった。
気がつけば澪の勧めもあり、半助は二本の櫛を買っていた。澪なら三本は買うと言われたので、二本に落ち着いた形だ。その後は椿の油を買いに行き、昼になったのでしんベヱが美味しいと言っていた飯屋に入った。
のだが。
「いらっしゃいませー。あ、土井先生それに澪さんまで」
「……アルバイトか、きり丸」
何故だ。
何故、澪と二人きりのデートのはずが、立ち寄った先の飯屋できり丸がアルバイトをしているのだ。きり丸の事は大事に思っているが、今日は澪とずっと二人きりだと思っていたのに。残念な気持ちを顔に出すまいとする半助である。
「今日は半助さんと、お買い物に来ていたの。きり丸は今日もアルバイトよね。頑張ってるわね」
「……そうですか。あの、オレ、仕事があるんで」
「そっかぁ。なら、また今度わたしとお出かけしましょ」
「あ、はい」
きり丸の態度が素っ気ない。いつもなら、澪を見たら駆け寄ってくるのに。
澪も不思議そうな顔をしている。だが、アルバイト中のきり丸が店の奥に引っ込んだ事で、今日は無理そうだと思ったのだろう。澪は諦めた様子で席に座った。
「きり丸、どうしちゃったんだろう。何か、素っ気なかったよね、今」
「まぁ、そうだな」
「何かしちゃったかな。早い内にこっそり話を聞いて、わたしが悪い事をしていたなら謝ろうかな」
気になるのだろう。澪はチラチラと店の奥に消えてしまったきり丸を探すように視線を向けている。少し、きり丸が羨ましい。澪にこんな風に自然と気にかけてもらえるなんて。
「それがいい。わたしからも、きり丸に澪さんが話したがっていたと声をかけておこう。さぁ、今は何が食べたいか選ぶといい。でないと、追い出されるぞ」
「ーーそれもそうね。そしたら、わたしは焼き魚定食にしようかな」
「なら、わたしは天ぷら定食にしよう」
それぞれ、お品書きを見て注文を終える。きり丸は厨房の奥で皿洗いでもしているのか、姿を見せなかった。
「所で、鵺捕獲のお礼と言っていたが、六年生達にも何かあげるんだろう。どんな物にするんだ?」
きり丸の事をいつまでも気にしてしまうのを阻止するためもあり、半助自身が少し気になっていた事を食べている最中に澪に質問した。
「それについては、消え物にしようかと。形が残る物は他の忍たま達の目もあるからね。お菓子か何かにしようと思ってるよ」
「そうか……」
己のお礼は形に残る着物で、六年生達はそうじゃない。おそらくは、忍たまである事を意識した線引きなのだろうが、それでも嬉しかった。こんな事で優越感を感じるなんて、どうかしている。でも、澪の事となるとどうにも自分でさえ知らなかった感情が顔を出すのだ。
息もできない程の渇望も、身を焦がすような嫉妬も、稚拙な優越感も、何もかもが澪という存在を求めての事である。
女を本気で好きになる事の重さと苦しさを、同時に味わう喜びと幸福を半助は身をもって味わっていた。
が、そんな半助から色々とアレな想いを向けられていると知らない澪は、半助にこっそり観察されているのも気にせず、注文してから少ししてやって来た定食を美味しそうにぱくついていた。
半助は生まれも育ちも戦国の人であり、その恋愛感情は現代日本人からすれば、はっきり言って重い物だった。
付き合って間を置かずに澪と結婚したいとか何とか半助は思っているが、現代日本人の思考としては絶賛婚活でもしてなければ、その発想は重たいと言わざるを得ない。
というか、昔の人の方が恋愛に対しては重い。身分違いの恋で心中してしまうくらいである。娯楽が少ないのと平均寿命の短さや死が身近にあったりする環境がなせる物であったりするため、当たり前といえば当たり前である。
対する澪はというと、生まれて十五年程は戦国育ちだがその中身は現代日本人だ。恋愛に関しては生粋の戦国の人と比べるとかなりライトである。
何せ、別れては結婚してを繰り返した澪の母は、戦国の世ではかなりアレな存在であるのに、澪の中の現代日本人の感覚はそれをOKとしたくらいである。
別れる、離婚する、というこの時代ではハードルの高いその行為に肯定的だし、己がする事にもあまり抵抗がなかったりした。
つまり、半助と澪の恋愛感覚は凄まじくズレていた。
が、当然ながらそんな事をしる由もない半助は、本日も澪に対する恋慕を募らせ、知らぬ間に現代日本で言うところの、超激重恋愛感情をせっせと育てていたのだった。
なお、その超激重恋愛感情の成長の限界は、まだまだ見えそうもなかったり。
半助の成長を今更止められぬその気持ちが、いつ報われるのかは神のみぞ知る事である。
