第6話 女装軍団の妖怪退治
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伊作の悲鳴を聞きつけて、走って来たのは澪達だけではなかった。
「澪さん達も来たのか」
「文次郎か!」
星灯があるとはいえ、辺りが暗いのを物ともせずに文次郎達が走って同じ方向を目指していた。途中で偶然鉢合わせしたらしい。仙蔵の声に反応して彼が顔を向けた方と同じく視線を向けると、そこには文次郎達が揃っていた。
「こちらは異常無しでした、利吉さん」
「そうか。なら、潮江くん達もこのまま土井先生達の所へ向かおう。笛の音が聞こえないから、単なる事故ならいいんだが」
半助達との距離はそれ程離れていないはずだ。駆ければ、すぐに出会うはず。そう思った時である。
ピー!と笛の音がした。
だがーー遠い。
これは、何かあった可能性がある。
「っ、急ぐぞ!」
「利吉くん、悪いけど先に行くわ!」
今の利吉達は女装姿だ。明の服とはいえ、澪の方が動きやすい格好をしており、本気で駆ければ彼等より早い。
脚に全力で力を込めて地を蹴った。
びゅーん、と風のように去る澪。
その予想外過ぎるぶっ飛びなスピードに、残された利吉達は唖然とした。くのたま教室で同じ訓練をしてきた成果でもあったりするのだが、澪の元々の身体能力の高さと努力の賜物が人間離れした爆発的なスピードを生み出していた。
「っ嗚呼、すごい。澪さん流石過ぎる……!」
「もう見えないぞ。びっくり人間ショーか」
「利吉さん、留三郎、感心してる場合じゃないぞ。我々も追いかけねば!」
澪が去った後で、感心する二人に仙蔵のツッコミが炸裂していたのだった。
背後でそんなやり取りがあるとも知らない澪は、全速力で走っていた。辺りは疎らに木が生えている長閑な風景が広がっているが、背の高い草があちこちに生えており決して見通しがいいわけではない。
「土井先生、小平太くん、伊作くん、どこですか!」
この辺りのはずだと大きな声で呼ぶ。すると、小平太の声がした。
「澪さんっ、こっちだ!来てくれっ!!」
声のした方へ走ると、数メートル先に小平太がいた。そして、そのすぐ近くで伊作が青い顔でぐったりとして倒れている。半助の姿はない。
そして、小平太から衝撃の言葉が出た。
「鵺が出た」
「え?!」
「鵺は伊作を襲って、連れ去ったんだ。土井先生が何とか不意をついて伊作を取り返してくれたんだが、今度は土井先生が……!」
なんて事だ。
「土井先生と鵺はどっちに?!」
「東の方角だ。伊作を放っておくわけにもいかず、応援を呼ぶために急いで笛を吹いたのだが」
小平太の顔は焦りが滲んでいる。確かに気絶している伊作を置いてはいけない。
「わたしが追いかけます。すぐに利吉くん達も来ますから、同じ事を伝えてください!」
「ーーわかった。澪さん、気をつけてくれ」
女装しているとはいえ、プロの忍者の半助を連れ去ったのだ。鵺がどんな存在かは知らないが、尋常ならざるモノであるのは確かだ。澪は小平太に返事代わりに頷いて東の方角へ向けて走った。
暗くて見え辛いが、よく見ると地面には人間ではない何かの足跡がある。見た事もない大きなその足跡はひょっとして鵺の物ではないのか。伊作は青白い顔をして気絶こそしていたが、幸い大きな怪我を負った様子はなかった。
澪は半助が無事である事を心の底から祈る。
どうしてこんな時に、思い出すのが半助の優しい笑顔なのだろうかーー。何かあったらと思うと、焦りしか感じない。
「土井先生……、っ、半助さん!!」
気がつけば澪は半助の名前を大声で呼んでいた。
その瞬間だ。
「う、ぐ……」
微かに、半助の物と思われる呻き声が聞こえた。急いで立ち止まり、大急ぎで声のした場所へ駆け寄ると、そこには半助がまるで伊作のようにぐったりとした様子で気絶して倒れていた。
「半助さんっ、しっかり……!」
澪は急いで半助の様子を確認するために、抱き起こした。見ると、半助の顔はべっとりと濡れていて何やら凄まじく生臭い。顔だけではなく、あちこち粘液に塗れている。
せっかくの女装服に臭い粘液が付着し、すっかり着崩れていた。
「これは……」
とりあえず息もしているし、顔色が悪いのと臭い以外は至って無事そうであるが、一体何が起こったのか。知るのは気絶してしまった伊作と半助だけであろう。
「ーー澪さん、土井先生っ、どこですか?!」
少し離れた距離から、利吉の声がした。澪は意を決して半助を抱き上げる。背負うと服が汚れるため、お姫様抱っこである。
半助にとっては不名誉かもしれないが、そこは非常事態のため許してほしい澪である。絵的にも、背の高い女性を抱き上げただけにしか見えない筈であるーーOK、セーフだ。
等と、半助からすれば一発アウト必須であろう状況を意に介さず澪は半助を横抱きにして抱え、利吉達の所へ向かった。
「利吉くん!土井先生は気絶してるけど無事よ」
「澪さん!よかった……おーっと」
背の高い草をかき分けて利吉が澪達を見てホッとした顔の直後、何とも言えない表情になる。見てはいけない物を見たような感じだ。
「立花くん達、これはお願いだ。土井先生の名誉のためにもこの事は黙っておくように」
そして少しして後ろを振り返り、応援に駆けつけたらしい残りの面子に一言そう告げた。
仙蔵、長次、留三郎に文次郎の面々は、澪に抱き上げられて気絶してしまっている半助を見て何かを悟ったようだ。全員顔を見合わせた後、心得たように頷くのだった。
それから、気絶した伊作と半助の二人を連れて一行は一旦小屋に戻った。
ちなみに、やはりと言うか伊作も半助と同じ状態になっており、生臭い粘液に塗れていた。
とりあえずそのままにもできないので、二人の着物を脱がせて近くの川で洗い、身体を拭く事になった。ちなみに、当然のように澪は外で汚れた着物を洗う係である。
なお、気絶している間に利吉の報告書を手土産に留三郎と長次が鬼瓦の城へ向かい、伊作と半助の着替えを調達してくるとの事だった。
すん、と川の水で洗っても、なお残る着物の酷い臭いを嗅ぐ。
最初こそ何か分からなかったが、この臭いの正体が今なら分かるーーこれは、獣の臭いだ。
熊を素手で倒した事のある澪には分かる。これは大型のーーそれも恐らくは肉食の獣の唾液の臭いであると。
鵺はだとすると、大きな変異種の熊か何かなのかもしれない。だが、熊なら人を襲って食いそうな物なのにそれはなく、伊作も半助も唾液塗れにはなっていたが無傷であった。
一体全体、何があったと言うのか。
粗方臭いが落ちた着物の水気を絞っていると、人の気配がした。振り向くとそこに居たのは小平太だった。
「澪さん。伊作はまだだが、土井先生が目を覚ました。事情を聞くから一緒に来てくれ。洗い物がまだなら、わたしも手伝うから」
「大丈夫です、後は干すだけなのでーーすぐに行きます」
夜明けまでに乾くかは分からないが、生臭いままの着物を纏うよりはマシなはずだ。手早く二人の着物を干して、澪は小平太と一緒に小屋に向かった。
中に入ると、小屋の中にある小さな囲炉裏に火が灯されており半助が起き上がっていた。鬼瓦の城で着替えの調達が間に合ったらしく、浴衣を着ており、手には湯呑みに入った白湯がある。
ちなみに、顔色は悪い。
「土井先生、ご無事で良かったです」
恐らくは似たような言葉を既に多数かけられているのだろうが、澪はそう言わずにはいられなかった。
「ありがとう、澪さん」
囲炉裏に照らされた半助の表情が、澪を見て少しだけ和らいだような気がした。
小平太と澪が囲炉裏を囲むように座る利吉達に加わると、今もなお気絶してしまっている伊作の様子を見守りつつ、半助からの報告が始まった。
「面子も揃ったみたいだから、何があったか説明するよ……と言っても、丁度、月に雲がかかった時のことだったから、鵺の正体までは分からなかったんだが」
半助が一度だけ白湯で口を湿らせた。ほぅ、と一つ息を吐いて続きを話し出す。
「何かが近付いてくる気配がしたから、警戒をしていたら叢から鵺が飛び出して来て、最初に伊作を襲ったんだ。あっという間に、伊作が攫われて、わたしと小平太はその後を追いかけたんだ。鵺は四足の獣だった。追いついた時には伊作が気絶して涎塗れになっていてな。何とか伊作を取り返してから苦無を手に攻撃しようとしたんだが、飛びかかられて今度はわたしが捕まってしまった。帯の所を咥えられて、物凄い速さで駈けるものだから落とされた方がかえって怪我をすると思って、動けないでいると地面に下ろされて、そのまま、その……」
思い出すように話す半助が、腕の当たりをさすって青い顔になった。
「顔やら何やら散々に舐められまくったんだ。物凄い力で手をヤツの脚で押さえつけられて、身動きができなかった。殺意や敵意は鵺からは感じなかったが、生臭い上にザラザラした舌が這い回って。ううっ、涎が凄いわ、臭いわ、ざらざらした舌が痛いわ、牙が見えるからやたら怖いわ。気持ち悪すぎて……うぅ!」
「つまり、鵺にじゃれつかれて気絶したんですね。土井先生」
「そうだ。気色悪過ぎて思い出すだけで鳥肌が立つ。利吉くんも、やられてみたら分かるぞ。アレは最悪だ!!」
青い顔のまま、ギャンギャン吠えるように言う半助。よっぽど嫌だったのか、ぶんぶん首を振ってよく見ると腕に鳥肌まで立っている。
そんな半助の声に反応するように、伊作が呻きながら目を覚ました。すぐ横にいた留三郎が伊作を起き上がらせた。
「大丈夫か、伊作。気分はどうだ?」
「……留三郎」
ぼんやりとした顔で伊作は留三郎を見た。
そして、両目に見る見る内に涙が浮かぶ。身を震わせる伊作を留三郎がよしよしとでも言うように肩を叩くと、そのまま伊作が留三郎に抱きついた。留三郎は留子さんのため、浴衣姿の伊作が抱きつくと若いカップルのように見えるが、男子同士のためここに腐女子がいたら、スタンディングオベーションな光景であろうーー二人とも美少年なのだから。
「うわぁーーん!留三郎ぉおおお!!」
「あー、よしよし。怖かったな、気色悪かったなぁ。大丈夫だぞ、伊作。ほらほら落ち着け」
「ぼくのファーストキスが鵺に奪われたー!舌が口の中に入ってきて、凄い深いキスだったんだ。最悪だぁああ!!!」
Ohーー、それはお気の毒過ぎる。
伊作にもきっと、初めてのキスに夢があったに違いない。レモン味だろうかとか女の子の唇は柔らかいのだろうかとか。
それを思うと哀れでならない。生臭い獣の舌が口の中を這い回ったのだろう。伊作がさめざめと泣くのを見た半助の顔は深い同情の色があった。半助だけではない、同じ六年生や利吉までも、痛ましい物を見る視線を伊作に注いでいる。
「うぅ……もう、駄目だぁ。こんな事が起こるなんて。ぼくは、ぼくは、もう、お嫁に行けないぃぃ!」
「伊作、落ち着け。全く問題ないぞ。女装してただけでオレ達は男だ。嫁はもともと無理だ」
伊作の混乱ぶりが酷すぎる。しくしく泣いて鼻水まで啜っている。留三郎は伊作を抱き寄せて慰めているが、暫く収まりそうもない。伊作は可哀想ではあるが、鵺の事をちゃんと話し合いをせねばならず、申し訳ないが慰めるような時間はない。
伊作は宿舎で同室の留三郎に任せる事にした。
「ーー利吉くん。鵺は土井先生や伊作くんを襲ったものの、二人には大きな怪我もなく舐められまくっただけという事だけど、実際に怪我を負わされた人達って、どんな人達なの?」
伊作には悪いが、澪は半助の話を聞いて思った事を利吉に質問した。
鵺が四足の獣という事以外、正体は不明なものの、伊作や半助が涎まみれにされた事からして、誰かを喰らう恐ろしい人喰いの獣のような感じはしなかった。
であれば、死人は出ていないのだし鵺が何であれ倒すにしても、依頼主の意向はともかくとして、無闇に殺したりはしたくない。戦うとすれば、澪がやることになる確率が高く、そうであるなら尚更に無駄な殺生はしたくなかった。
「確か……酷い怪我人は皆男だな。家畜をやられたから応戦した村人達や、討伐の為に武装した兵達ばかりだ。女性にも怪我人はいたが、転んで出来た怪我なんかが大半で、鵺に直接やられたものではなかった気がするが」
「死人が出ていないなら、倒すのではなく捕獲に切り替えては駄目かしら。大人しくさせるからどうかと、鬼瓦只安様に確認は取れる?」
「ーーふむ、澪さんがそう言うなら。殺生はしない方向にできないか相談してみるよ」
「お願いね」
澪が倒してきた獣達は食べるためだったり、凶暴だったりとそれなりに理由があって命を絶ってきた。
半助達は襲われたというか、結果的にはじゃれつかれただけで大怪我はしていないし、鵺が襲ったのは何れも己を襲った人間ばかりーー鵺からすれば正当防衛だ。
ひょっとして、鵺自体は人間に友好的か若しくは慣れた動物ではないのだろうか。人間の女を好むのは襲ってくるのが男だから、というのはないのだろうか。
それでも依頼主が倒せと言うなら、鵺を気絶させて遠くへ逃がす等できないか思案する澪である。
「土井先生、大事な質問があります!」
澪と利吉の会話がひと段落した所で、ばっ!と手を高らかに挙げてふいに小平太が真面目な顔を半助に向けた。
「何だ、小平太」
「土井先生のファーストキスは無事でしたか?ファーストじゃなくてセカンドとかサードとかだったり?」
「真面目な顔でなんちゅー質問してくるんじゃいっ!黙秘に決まっているだろうが!!」
ギャンギャン怒鳴る半助。一年は組相手ならともかく、小平太相手にツッコミをするとは珍しい光景である。
「土井先生、まさかとは思いますが未経験だとかは」
「黙秘だ。わたしのプライベートを詮索するんじゃないっ」
「そうだぞ、小平太。二十五歳の土井先生が、何も知らないわけがなかろう。経験豊富な大人に違いない。その位にしておけ」
食い下がる小平太をギロリと半助が睨むと、仙蔵が止めに入った。が、経験豊富というワードにその場に居た全員が半助の方を見る。
勿論、澪もだ。
留三郎に慰められつつも泣いていた伊作まで、じーっと半助を見つめていた。
「経験豊富……」
「まぁ、土井先生モテそうですもんね」
「馴染みの女性とか居るんですか」
「長次に、文次郎、留三郎。それ以上言うようなら、チョーク攻撃をするぞ。わたしは常に教材を持ち歩いてるんだからな」
まぁ、二十五歳にもなれば女性経験くらいあるだろう。イケメンだし。それに忍者なのだし、情報を得るために女を抱くなんて事もしていた可能性はあるわけで。
……何故かちょっとモヤっとしたが、きっとそれは澪が忍びではないからだ。
閨で情報を吐かせるなんて行為をされる側の身になるから、もやもやするだけの話なのだろう。
まぁ、半助に関しては本命が利吉なのだし、過去の事を根掘り葉掘り聞くのは野暮という物だーーと半助からしたら、酷い勘違いを相変わらず炸裂させている澪である。
「とにかく、今日はもう終いだ。全員、軽く食事をしたらすぐに眠るとしよう。もう、すっかり夜更けだ」
会話を締めくくるように、利吉が咳払いしてからそう告げた事で、俄に騒がしかった話し合いは幕を閉じたのだった。
そして早朝の事。
空が薄らと明るくなってくる頃に、澪は誰かの動く気配がして目を覚ました。見ると、それは半助で腕を擦りながら小屋の外へと出て行った。六年生達や利吉は静かに目を閉じて眠ってる。隣を見ると利吉が腕を組んで眠っていた。厠か何がだろうかーーそう思った直後、澪も何やらトイレに行きたくなって来た。
尿意を覚えると中々寝付けなくなる。まだ夜明けには早いので、とりあえず厠ーーという名の大自然へ向かった。厠なんぞ小屋には併設さてないので、したくなったらその辺である。小なので許してほしい。
澪も小屋の外へ出てすっきりした所で、近くの川へ手を洗いに行った。すると、川辺に半助が居るのが見えた。同じように手を洗いに来たのかと思ったら、どうも違うようだ。自分自身を抱きしめるようにして、一人で座っている。
「半助さん、どうしたんですか?」
気になって、澪は半助に近付きつつ声をかけた。
「ーー澪さん、か」
振り向く半助の顔色は、先程よりマシとはいえ余りよくはない。その顔を見て、ひょっとして泣いたりしないだけで伊作と同じくらい、動揺してショックを受けているのではないかと思った。
半助は利吉に片想い中なのに、襲われた半助を利吉は差程に心配もしておらず、慰めてもいなかった。それは別に薄情でも何でもないが、半助からすると辛い物があるに違いない。
「半助さん、顔色が悪いです。大丈夫ですか?」
何だか心配になってきた。澪は急いで川で手を洗ってから半助に近付き、じっとその顔を見た。ぼんやりとした月明かりに照らされた半助の顔立ちは、鼻梁が高く全体的に目鼻立ちが整った美形である。
しかし、その眼には力がない。
そのせいか、まるで人形のようだーー可哀想である。
「澪さん。ひょっとして、わたしを心配してくれているのかい?」
「勿論ですよ。半助さん、顔色が悪いですし。鵺に舐められたのが相当気持ち悪かったんですよね。半助さんは大人だから、伊作くんみたいに泣くわけにもいかないし」
「…… 澪さん」
どうしていいか迷ったものの、澪は留三郎が伊作にそうしていたように半助の事をそっと抱き寄せた。
「えっと、嫌ならやめますから。わたしでよければ、こうしてますので」
ポンポンと半助の背中を叩いてやる。何度かそうしていると、半助がおそるおそる澪の背中に手を伸ばした。嫌ではないらしく小さな声で「全然嫌じゃないよ」と呟く半助の言葉が聞こえた。
「ーー澪さん、その、抱きしめていいかな?」
澪に縋りたいくらい、鵺に舐められまくったショックが大きいのだろう。澪でよければ、利吉の代わりになれるかは分からないが半助の慰めになるのに抵抗はなかった。
「はい、どうぞ」
お好きに、と続けようとした所で半助にぎゅっと抱きしめられた。座っている半助が立った澪を抱きしめている姿勢のため、澪が半助の頭を抱えるような格好になった。
傷んでいるせいで、ごわついた半助の髪が肌に当たる。こうしていると半助は大型犬のようだ。
「嗚呼」
半助のくぐもった低い声がした。普段、どちらかと言うと高い声で話す半助の、低い声にドキッとする。同時に背中がゾクッと震えた。
「澪さんの心臓の音がする……トクトクって。凄くいい音だ」
「そうですか?」
心臓の音なんて、鼓動の早い子どもの物以外は誰もが同じような気がするが。
「そうだよ。この世界でこの音を奏でるのは君だけだ。こんなに素敵な音は他にはない」
こそばゆい台詞である。半助が一年生の教師のせいか言葉のチョイスが照れてしまいそうな内容である。
「その、えっと、伊作が留三郎にしていたみたいに、わたしも澪さんに甘えて、いいだろうか?」
「どうぞどうぞ。普段からお疲れでしょうし、あんな目に遭われたんですから。わたしで良ければ幾らでも」
チラリ、と半助が上目遣いで澪を見てきた。
半助を見ると、顔色が大分良くなってきており耳も少しだけ赤い。少しは澪に慰められて気持ちが楽になればいいのだが。
「澪さん」
「はい」
「澪さん、澪さん、澪さん」
これは相当お疲れなのだろう。澪をぎゅうぎゅう抱き締めて半助が何度も名前を呼んでくる。澪を呼ぶ声が段々、低くなっているのは何故だろう。
思ったのだが、澪はどうやら半助の低い声が好みらしい。普段とのギャップがあるせいかもしれない。そう言えば、利吉もいい声をしているなとか何とか思ったり。
その時だ。
「澪さん、わたしは君に何処まで甘えていいんだろうか。何処までなら嫌じゃない?」
おずおずと、半助に問いかけられた。何だか主人の機嫌をとる利口なワンコのようである。相当参ってしまっているのだろう。半助はよくやっていると思う。忍術学園で若手の教師だし、担任は一年は組だし、きり丸のバイトの手伝いに果ては澪の仕事への同行である。
それで昨日は鵺に涎まみれにされたのだ。何だか可哀想になってきて、利吉に想いの届かない恩人の半助に、澪で出来る事なら何だってしてやりたい気持ちになってきた。
なので半助の傷んだ髪を、慈しむように撫でて返事をした。
「何処までも。貴方がしたいようにどうぞ、わたしに甘えてください。半助さん」
「っ?!」
聞いておいて半助の方が言葉に詰まった。見ると、顔が真っ赤になっている。顔色が良くなる所か、色々と通り越していないか。
ごくり、と半助の喉が鳴った。
「ーー今、改めて決めたよ」
「はい?」
何を改めて決めたのだろう。よくは分からないが、甘える内容でも決めたのだろうか。とはいえ、そんな感じもしない。謎である。
だが、半助が澪をじっと見つめる眼差しは直向きな物で、一瞬だけ呼吸が止まった。
「絶対に何が何でも手に入れるーーと」
ひょっして、利吉の事か。何と言う粘り強さか。半助には幸せになってほしいので、是非とも頑張ってほしいが険しい道である。こればかりは、利吉の気持ちも大事な事なのだから。
「今は未だ、わたしの言ってる事が分からなくてもいい」
「はぁ……」
実は分かっていますと言いたいが、利吉が好きだなんて澪にバレてほしくないかもしれない。澪はあえて分からないふりをした。演技はアレだが、嘘ならつける澪である。
スリスリと半助が、澪の手に頭を押し付けるようにしてきた。撫でてと、やっぱり催促しているワンコみたいで、可愛いなと思えてくる。なので、求められるままにヨシヨシする。でも人間だから顎の下とかは撫でないように気をつけた。
すーっと、半助が深く呼吸しているのが分かった。澪の香りで、鵺の生臭い唾液の臭いを誤魔化そうとでもしているのか。
段々、半助がワンコに思えてきて澪の表情が和やかになり、優しい気持ちが湧いてくる。母性かもしれない。見た目は歳上だが、精神年齢的には歳下という立ち位置の半助を、まるできり丸にそうするように、優しくしてやりたいと思った。
「澪さん。時々でいいから、わたしにこうしてくれないか。そしたら胃痛もマシになる気がするんだ」
「いいですよ」
だからか。半助のらしくない、でもだからこそ可愛いお願いに二つ返事で頷いた。
「優しいね、澪さんは。とんでもない事をわたしは言っているのに」
「そうですか?半助さんには、頑張ってる事を労わってくれる人がいても良いと思いますよ」
「そうか。なら、遠慮なく甘えようかな。でもわたし以外にこういう事はしないでくれ。きり丸達とかならまぁ、子どもだからいいとして。わたしの貴重な甘える回数が減ってしまうから」
「いいですよ」
「ーーじゃあ、これは最後のお願いだ。わたしと二人きりの時、わたしにも普通に話してくれないか。歳上だからって、敬語なんて使わないでほしいんだ。この通りだから」
敬語をやめてほしいなんて、まるで利吉みたいな事を言う。半助も下心無しに澪と言う人間を好ましいと思うから、敬語無しで話してほしいのだろう。そう思うと、胸が擽られたような気持ちになった。断る理由は無い。
「わかったーーいいよ、半助さん。流石に、敬称は残すけどね」
「ありがとう、澪さん。漸く言えたーーずっと君と、こんな風にわたしも話したかったんだ」
「半助さんは、わたしを呼び捨てにしないので?」
「それは、うーん。何だか、澪さんという言い方に慣れてしまったし。何より、澪さんには敬称をつけたい、と言うか」
「利吉くんと同じ事を言うのね。まぁ、いいけど」
何となく、利吉も半助も澪の中身の年齢を嗅ぎつけているのではないか、と思ったりする。実はわたしの魂の年齢は相当ですなんて言えない。前世で死んだ年齢+転生後の十五年を足せば、目を覆う年齢である。
「半助さん、もうそろそろ大丈夫?」
「んー、もうちょっと。かなぁ」
「へぇ意外。甘えん坊なんだ」
「誰にだってこういうわけじゃないよ。でも、澪さんにならこうしたい、と言うか。歳の割にしっかりしてて、頼もしいからかな」
「そうですかね。ちょっと、力が強いだけなのになぁ」
「……ちょっと?」
くすくすと笑う半助。くぐもった笑いをするせいで、頭が動いて髪が肌を掠める。ちょっと擽ったい。
「ねぇ、澪さん。この仕事が終わったら、時間を取ってもらえないか。君と話しをしたいんだ」
「ああ、わたしの持ってる知識とかを話す事になってたものね。いいわよ」
「……それもあるけど、それ以外に純粋にわたしと出掛けてほしいんだ。美味しい物を食べに行ったり、買い物に行ったり。一緒に気晴らしをしないか。きり丸といるとアルバイトに付き合わされるし、一人で町を歩くのは余り楽しくないし。ダメ?」
上目遣いが様になってきた半助である。最初はおずおずと甘えてきていたくせに、今や何やら普通に甘えてきていないか、このワンコ。
「うん、分かった。そしたら、この仕事が終わった週末にでも、一緒にデートしよっか」
「っーー、ありがとう。そう、デートだ。澪さんと、デートだっ」
ぱあっと、まるで向日葵のような笑顔になる半助。一年は組の良い子達のようだ。
その笑顔を見て澪も嬉しくなって笑みを返した。
それから、半助が満足するまで彼をよしよしし続けた澪だったのだった。
翌朝、鼻歌を歌うくらい機嫌が回復した半助を全員が不思議そうにして見ていた。
ただし、その中で一人、小平太だけが何やら面白くなさそうな顔をしていたのは、また別の話である。
「澪さん達も来たのか」
「文次郎か!」
星灯があるとはいえ、辺りが暗いのを物ともせずに文次郎達が走って同じ方向を目指していた。途中で偶然鉢合わせしたらしい。仙蔵の声に反応して彼が顔を向けた方と同じく視線を向けると、そこには文次郎達が揃っていた。
「こちらは異常無しでした、利吉さん」
「そうか。なら、潮江くん達もこのまま土井先生達の所へ向かおう。笛の音が聞こえないから、単なる事故ならいいんだが」
半助達との距離はそれ程離れていないはずだ。駆ければ、すぐに出会うはず。そう思った時である。
ピー!と笛の音がした。
だがーー遠い。
これは、何かあった可能性がある。
「っ、急ぐぞ!」
「利吉くん、悪いけど先に行くわ!」
今の利吉達は女装姿だ。明の服とはいえ、澪の方が動きやすい格好をしており、本気で駆ければ彼等より早い。
脚に全力で力を込めて地を蹴った。
びゅーん、と風のように去る澪。
その予想外過ぎるぶっ飛びなスピードに、残された利吉達は唖然とした。くのたま教室で同じ訓練をしてきた成果でもあったりするのだが、澪の元々の身体能力の高さと努力の賜物が人間離れした爆発的なスピードを生み出していた。
「っ嗚呼、すごい。澪さん流石過ぎる……!」
「もう見えないぞ。びっくり人間ショーか」
「利吉さん、留三郎、感心してる場合じゃないぞ。我々も追いかけねば!」
澪が去った後で、感心する二人に仙蔵のツッコミが炸裂していたのだった。
背後でそんなやり取りがあるとも知らない澪は、全速力で走っていた。辺りは疎らに木が生えている長閑な風景が広がっているが、背の高い草があちこちに生えており決して見通しがいいわけではない。
「土井先生、小平太くん、伊作くん、どこですか!」
この辺りのはずだと大きな声で呼ぶ。すると、小平太の声がした。
「澪さんっ、こっちだ!来てくれっ!!」
声のした方へ走ると、数メートル先に小平太がいた。そして、そのすぐ近くで伊作が青い顔でぐったりとして倒れている。半助の姿はない。
そして、小平太から衝撃の言葉が出た。
「鵺が出た」
「え?!」
「鵺は伊作を襲って、連れ去ったんだ。土井先生が何とか不意をついて伊作を取り返してくれたんだが、今度は土井先生が……!」
なんて事だ。
「土井先生と鵺はどっちに?!」
「東の方角だ。伊作を放っておくわけにもいかず、応援を呼ぶために急いで笛を吹いたのだが」
小平太の顔は焦りが滲んでいる。確かに気絶している伊作を置いてはいけない。
「わたしが追いかけます。すぐに利吉くん達も来ますから、同じ事を伝えてください!」
「ーーわかった。澪さん、気をつけてくれ」
女装しているとはいえ、プロの忍者の半助を連れ去ったのだ。鵺がどんな存在かは知らないが、尋常ならざるモノであるのは確かだ。澪は小平太に返事代わりに頷いて東の方角へ向けて走った。
暗くて見え辛いが、よく見ると地面には人間ではない何かの足跡がある。見た事もない大きなその足跡はひょっとして鵺の物ではないのか。伊作は青白い顔をして気絶こそしていたが、幸い大きな怪我を負った様子はなかった。
澪は半助が無事である事を心の底から祈る。
どうしてこんな時に、思い出すのが半助の優しい笑顔なのだろうかーー。何かあったらと思うと、焦りしか感じない。
「土井先生……、っ、半助さん!!」
気がつけば澪は半助の名前を大声で呼んでいた。
その瞬間だ。
「う、ぐ……」
微かに、半助の物と思われる呻き声が聞こえた。急いで立ち止まり、大急ぎで声のした場所へ駆け寄ると、そこには半助がまるで伊作のようにぐったりとした様子で気絶して倒れていた。
「半助さんっ、しっかり……!」
澪は急いで半助の様子を確認するために、抱き起こした。見ると、半助の顔はべっとりと濡れていて何やら凄まじく生臭い。顔だけではなく、あちこち粘液に塗れている。
せっかくの女装服に臭い粘液が付着し、すっかり着崩れていた。
「これは……」
とりあえず息もしているし、顔色が悪いのと臭い以外は至って無事そうであるが、一体何が起こったのか。知るのは気絶してしまった伊作と半助だけであろう。
「ーー澪さん、土井先生っ、どこですか?!」
少し離れた距離から、利吉の声がした。澪は意を決して半助を抱き上げる。背負うと服が汚れるため、お姫様抱っこである。
半助にとっては不名誉かもしれないが、そこは非常事態のため許してほしい澪である。絵的にも、背の高い女性を抱き上げただけにしか見えない筈であるーーOK、セーフだ。
等と、半助からすれば一発アウト必須であろう状況を意に介さず澪は半助を横抱きにして抱え、利吉達の所へ向かった。
「利吉くん!土井先生は気絶してるけど無事よ」
「澪さん!よかった……おーっと」
背の高い草をかき分けて利吉が澪達を見てホッとした顔の直後、何とも言えない表情になる。見てはいけない物を見たような感じだ。
「立花くん達、これはお願いだ。土井先生の名誉のためにもこの事は黙っておくように」
そして少しして後ろを振り返り、応援に駆けつけたらしい残りの面子に一言そう告げた。
仙蔵、長次、留三郎に文次郎の面々は、澪に抱き上げられて気絶してしまっている半助を見て何かを悟ったようだ。全員顔を見合わせた後、心得たように頷くのだった。
それから、気絶した伊作と半助の二人を連れて一行は一旦小屋に戻った。
ちなみに、やはりと言うか伊作も半助と同じ状態になっており、生臭い粘液に塗れていた。
とりあえずそのままにもできないので、二人の着物を脱がせて近くの川で洗い、身体を拭く事になった。ちなみに、当然のように澪は外で汚れた着物を洗う係である。
なお、気絶している間に利吉の報告書を手土産に留三郎と長次が鬼瓦の城へ向かい、伊作と半助の着替えを調達してくるとの事だった。
すん、と川の水で洗っても、なお残る着物の酷い臭いを嗅ぐ。
最初こそ何か分からなかったが、この臭いの正体が今なら分かるーーこれは、獣の臭いだ。
熊を素手で倒した事のある澪には分かる。これは大型のーーそれも恐らくは肉食の獣の唾液の臭いであると。
鵺はだとすると、大きな変異種の熊か何かなのかもしれない。だが、熊なら人を襲って食いそうな物なのにそれはなく、伊作も半助も唾液塗れにはなっていたが無傷であった。
一体全体、何があったと言うのか。
粗方臭いが落ちた着物の水気を絞っていると、人の気配がした。振り向くとそこに居たのは小平太だった。
「澪さん。伊作はまだだが、土井先生が目を覚ました。事情を聞くから一緒に来てくれ。洗い物がまだなら、わたしも手伝うから」
「大丈夫です、後は干すだけなのでーーすぐに行きます」
夜明けまでに乾くかは分からないが、生臭いままの着物を纏うよりはマシなはずだ。手早く二人の着物を干して、澪は小平太と一緒に小屋に向かった。
中に入ると、小屋の中にある小さな囲炉裏に火が灯されており半助が起き上がっていた。鬼瓦の城で着替えの調達が間に合ったらしく、浴衣を着ており、手には湯呑みに入った白湯がある。
ちなみに、顔色は悪い。
「土井先生、ご無事で良かったです」
恐らくは似たような言葉を既に多数かけられているのだろうが、澪はそう言わずにはいられなかった。
「ありがとう、澪さん」
囲炉裏に照らされた半助の表情が、澪を見て少しだけ和らいだような気がした。
小平太と澪が囲炉裏を囲むように座る利吉達に加わると、今もなお気絶してしまっている伊作の様子を見守りつつ、半助からの報告が始まった。
「面子も揃ったみたいだから、何があったか説明するよ……と言っても、丁度、月に雲がかかった時のことだったから、鵺の正体までは分からなかったんだが」
半助が一度だけ白湯で口を湿らせた。ほぅ、と一つ息を吐いて続きを話し出す。
「何かが近付いてくる気配がしたから、警戒をしていたら叢から鵺が飛び出して来て、最初に伊作を襲ったんだ。あっという間に、伊作が攫われて、わたしと小平太はその後を追いかけたんだ。鵺は四足の獣だった。追いついた時には伊作が気絶して涎塗れになっていてな。何とか伊作を取り返してから苦無を手に攻撃しようとしたんだが、飛びかかられて今度はわたしが捕まってしまった。帯の所を咥えられて、物凄い速さで駈けるものだから落とされた方がかえって怪我をすると思って、動けないでいると地面に下ろされて、そのまま、その……」
思い出すように話す半助が、腕の当たりをさすって青い顔になった。
「顔やら何やら散々に舐められまくったんだ。物凄い力で手をヤツの脚で押さえつけられて、身動きができなかった。殺意や敵意は鵺からは感じなかったが、生臭い上にザラザラした舌が這い回って。ううっ、涎が凄いわ、臭いわ、ざらざらした舌が痛いわ、牙が見えるからやたら怖いわ。気持ち悪すぎて……うぅ!」
「つまり、鵺にじゃれつかれて気絶したんですね。土井先生」
「そうだ。気色悪過ぎて思い出すだけで鳥肌が立つ。利吉くんも、やられてみたら分かるぞ。アレは最悪だ!!」
青い顔のまま、ギャンギャン吠えるように言う半助。よっぽど嫌だったのか、ぶんぶん首を振ってよく見ると腕に鳥肌まで立っている。
そんな半助の声に反応するように、伊作が呻きながら目を覚ました。すぐ横にいた留三郎が伊作を起き上がらせた。
「大丈夫か、伊作。気分はどうだ?」
「……留三郎」
ぼんやりとした顔で伊作は留三郎を見た。
そして、両目に見る見る内に涙が浮かぶ。身を震わせる伊作を留三郎がよしよしとでも言うように肩を叩くと、そのまま伊作が留三郎に抱きついた。留三郎は留子さんのため、浴衣姿の伊作が抱きつくと若いカップルのように見えるが、男子同士のためここに腐女子がいたら、スタンディングオベーションな光景であろうーー二人とも美少年なのだから。
「うわぁーーん!留三郎ぉおおお!!」
「あー、よしよし。怖かったな、気色悪かったなぁ。大丈夫だぞ、伊作。ほらほら落ち着け」
「ぼくのファーストキスが鵺に奪われたー!舌が口の中に入ってきて、凄い深いキスだったんだ。最悪だぁああ!!!」
Ohーー、それはお気の毒過ぎる。
伊作にもきっと、初めてのキスに夢があったに違いない。レモン味だろうかとか女の子の唇は柔らかいのだろうかとか。
それを思うと哀れでならない。生臭い獣の舌が口の中を這い回ったのだろう。伊作がさめざめと泣くのを見た半助の顔は深い同情の色があった。半助だけではない、同じ六年生や利吉までも、痛ましい物を見る視線を伊作に注いでいる。
「うぅ……もう、駄目だぁ。こんな事が起こるなんて。ぼくは、ぼくは、もう、お嫁に行けないぃぃ!」
「伊作、落ち着け。全く問題ないぞ。女装してただけでオレ達は男だ。嫁はもともと無理だ」
伊作の混乱ぶりが酷すぎる。しくしく泣いて鼻水まで啜っている。留三郎は伊作を抱き寄せて慰めているが、暫く収まりそうもない。伊作は可哀想ではあるが、鵺の事をちゃんと話し合いをせねばならず、申し訳ないが慰めるような時間はない。
伊作は宿舎で同室の留三郎に任せる事にした。
「ーー利吉くん。鵺は土井先生や伊作くんを襲ったものの、二人には大きな怪我もなく舐められまくっただけという事だけど、実際に怪我を負わされた人達って、どんな人達なの?」
伊作には悪いが、澪は半助の話を聞いて思った事を利吉に質問した。
鵺が四足の獣という事以外、正体は不明なものの、伊作や半助が涎まみれにされた事からして、誰かを喰らう恐ろしい人喰いの獣のような感じはしなかった。
であれば、死人は出ていないのだし鵺が何であれ倒すにしても、依頼主の意向はともかくとして、無闇に殺したりはしたくない。戦うとすれば、澪がやることになる確率が高く、そうであるなら尚更に無駄な殺生はしたくなかった。
「確か……酷い怪我人は皆男だな。家畜をやられたから応戦した村人達や、討伐の為に武装した兵達ばかりだ。女性にも怪我人はいたが、転んで出来た怪我なんかが大半で、鵺に直接やられたものではなかった気がするが」
「死人が出ていないなら、倒すのではなく捕獲に切り替えては駄目かしら。大人しくさせるからどうかと、鬼瓦只安様に確認は取れる?」
「ーーふむ、澪さんがそう言うなら。殺生はしない方向にできないか相談してみるよ」
「お願いね」
澪が倒してきた獣達は食べるためだったり、凶暴だったりとそれなりに理由があって命を絶ってきた。
半助達は襲われたというか、結果的にはじゃれつかれただけで大怪我はしていないし、鵺が襲ったのは何れも己を襲った人間ばかりーー鵺からすれば正当防衛だ。
ひょっとして、鵺自体は人間に友好的か若しくは慣れた動物ではないのだろうか。人間の女を好むのは襲ってくるのが男だから、というのはないのだろうか。
それでも依頼主が倒せと言うなら、鵺を気絶させて遠くへ逃がす等できないか思案する澪である。
「土井先生、大事な質問があります!」
澪と利吉の会話がひと段落した所で、ばっ!と手を高らかに挙げてふいに小平太が真面目な顔を半助に向けた。
「何だ、小平太」
「土井先生のファーストキスは無事でしたか?ファーストじゃなくてセカンドとかサードとかだったり?」
「真面目な顔でなんちゅー質問してくるんじゃいっ!黙秘に決まっているだろうが!!」
ギャンギャン怒鳴る半助。一年は組相手ならともかく、小平太相手にツッコミをするとは珍しい光景である。
「土井先生、まさかとは思いますが未経験だとかは」
「黙秘だ。わたしのプライベートを詮索するんじゃないっ」
「そうだぞ、小平太。二十五歳の土井先生が、何も知らないわけがなかろう。経験豊富な大人に違いない。その位にしておけ」
食い下がる小平太をギロリと半助が睨むと、仙蔵が止めに入った。が、経験豊富というワードにその場に居た全員が半助の方を見る。
勿論、澪もだ。
留三郎に慰められつつも泣いていた伊作まで、じーっと半助を見つめていた。
「経験豊富……」
「まぁ、土井先生モテそうですもんね」
「馴染みの女性とか居るんですか」
「長次に、文次郎、留三郎。それ以上言うようなら、チョーク攻撃をするぞ。わたしは常に教材を持ち歩いてるんだからな」
まぁ、二十五歳にもなれば女性経験くらいあるだろう。イケメンだし。それに忍者なのだし、情報を得るために女を抱くなんて事もしていた可能性はあるわけで。
……何故かちょっとモヤっとしたが、きっとそれは澪が忍びではないからだ。
閨で情報を吐かせるなんて行為をされる側の身になるから、もやもやするだけの話なのだろう。
まぁ、半助に関しては本命が利吉なのだし、過去の事を根掘り葉掘り聞くのは野暮という物だーーと半助からしたら、酷い勘違いを相変わらず炸裂させている澪である。
「とにかく、今日はもう終いだ。全員、軽く食事をしたらすぐに眠るとしよう。もう、すっかり夜更けだ」
会話を締めくくるように、利吉が咳払いしてからそう告げた事で、俄に騒がしかった話し合いは幕を閉じたのだった。
そして早朝の事。
空が薄らと明るくなってくる頃に、澪は誰かの動く気配がして目を覚ました。見ると、それは半助で腕を擦りながら小屋の外へと出て行った。六年生達や利吉は静かに目を閉じて眠ってる。隣を見ると利吉が腕を組んで眠っていた。厠か何がだろうかーーそう思った直後、澪も何やらトイレに行きたくなって来た。
尿意を覚えると中々寝付けなくなる。まだ夜明けには早いので、とりあえず厠ーーという名の大自然へ向かった。厠なんぞ小屋には併設さてないので、したくなったらその辺である。小なので許してほしい。
澪も小屋の外へ出てすっきりした所で、近くの川へ手を洗いに行った。すると、川辺に半助が居るのが見えた。同じように手を洗いに来たのかと思ったら、どうも違うようだ。自分自身を抱きしめるようにして、一人で座っている。
「半助さん、どうしたんですか?」
気になって、澪は半助に近付きつつ声をかけた。
「ーー澪さん、か」
振り向く半助の顔色は、先程よりマシとはいえ余りよくはない。その顔を見て、ひょっとして泣いたりしないだけで伊作と同じくらい、動揺してショックを受けているのではないかと思った。
半助は利吉に片想い中なのに、襲われた半助を利吉は差程に心配もしておらず、慰めてもいなかった。それは別に薄情でも何でもないが、半助からすると辛い物があるに違いない。
「半助さん、顔色が悪いです。大丈夫ですか?」
何だか心配になってきた。澪は急いで川で手を洗ってから半助に近付き、じっとその顔を見た。ぼんやりとした月明かりに照らされた半助の顔立ちは、鼻梁が高く全体的に目鼻立ちが整った美形である。
しかし、その眼には力がない。
そのせいか、まるで人形のようだーー可哀想である。
「澪さん。ひょっとして、わたしを心配してくれているのかい?」
「勿論ですよ。半助さん、顔色が悪いですし。鵺に舐められたのが相当気持ち悪かったんですよね。半助さんは大人だから、伊作くんみたいに泣くわけにもいかないし」
「…… 澪さん」
どうしていいか迷ったものの、澪は留三郎が伊作にそうしていたように半助の事をそっと抱き寄せた。
「えっと、嫌ならやめますから。わたしでよければ、こうしてますので」
ポンポンと半助の背中を叩いてやる。何度かそうしていると、半助がおそるおそる澪の背中に手を伸ばした。嫌ではないらしく小さな声で「全然嫌じゃないよ」と呟く半助の言葉が聞こえた。
「ーー澪さん、その、抱きしめていいかな?」
澪に縋りたいくらい、鵺に舐められまくったショックが大きいのだろう。澪でよければ、利吉の代わりになれるかは分からないが半助の慰めになるのに抵抗はなかった。
「はい、どうぞ」
お好きに、と続けようとした所で半助にぎゅっと抱きしめられた。座っている半助が立った澪を抱きしめている姿勢のため、澪が半助の頭を抱えるような格好になった。
傷んでいるせいで、ごわついた半助の髪が肌に当たる。こうしていると半助は大型犬のようだ。
「嗚呼」
半助のくぐもった低い声がした。普段、どちらかと言うと高い声で話す半助の、低い声にドキッとする。同時に背中がゾクッと震えた。
「澪さんの心臓の音がする……トクトクって。凄くいい音だ」
「そうですか?」
心臓の音なんて、鼓動の早い子どもの物以外は誰もが同じような気がするが。
「そうだよ。この世界でこの音を奏でるのは君だけだ。こんなに素敵な音は他にはない」
こそばゆい台詞である。半助が一年生の教師のせいか言葉のチョイスが照れてしまいそうな内容である。
「その、えっと、伊作が留三郎にしていたみたいに、わたしも澪さんに甘えて、いいだろうか?」
「どうぞどうぞ。普段からお疲れでしょうし、あんな目に遭われたんですから。わたしで良ければ幾らでも」
チラリ、と半助が上目遣いで澪を見てきた。
半助を見ると、顔色が大分良くなってきており耳も少しだけ赤い。少しは澪に慰められて気持ちが楽になればいいのだが。
「澪さん」
「はい」
「澪さん、澪さん、澪さん」
これは相当お疲れなのだろう。澪をぎゅうぎゅう抱き締めて半助が何度も名前を呼んでくる。澪を呼ぶ声が段々、低くなっているのは何故だろう。
思ったのだが、澪はどうやら半助の低い声が好みらしい。普段とのギャップがあるせいかもしれない。そう言えば、利吉もいい声をしているなとか何とか思ったり。
その時だ。
「澪さん、わたしは君に何処まで甘えていいんだろうか。何処までなら嫌じゃない?」
おずおずと、半助に問いかけられた。何だか主人の機嫌をとる利口なワンコのようである。相当参ってしまっているのだろう。半助はよくやっていると思う。忍術学園で若手の教師だし、担任は一年は組だし、きり丸のバイトの手伝いに果ては澪の仕事への同行である。
それで昨日は鵺に涎まみれにされたのだ。何だか可哀想になってきて、利吉に想いの届かない恩人の半助に、澪で出来る事なら何だってしてやりたい気持ちになってきた。
なので半助の傷んだ髪を、慈しむように撫でて返事をした。
「何処までも。貴方がしたいようにどうぞ、わたしに甘えてください。半助さん」
「っ?!」
聞いておいて半助の方が言葉に詰まった。見ると、顔が真っ赤になっている。顔色が良くなる所か、色々と通り越していないか。
ごくり、と半助の喉が鳴った。
「ーー今、改めて決めたよ」
「はい?」
何を改めて決めたのだろう。よくは分からないが、甘える内容でも決めたのだろうか。とはいえ、そんな感じもしない。謎である。
だが、半助が澪をじっと見つめる眼差しは直向きな物で、一瞬だけ呼吸が止まった。
「絶対に何が何でも手に入れるーーと」
ひょっして、利吉の事か。何と言う粘り強さか。半助には幸せになってほしいので、是非とも頑張ってほしいが険しい道である。こればかりは、利吉の気持ちも大事な事なのだから。
「今は未だ、わたしの言ってる事が分からなくてもいい」
「はぁ……」
実は分かっていますと言いたいが、利吉が好きだなんて澪にバレてほしくないかもしれない。澪はあえて分からないふりをした。演技はアレだが、嘘ならつける澪である。
スリスリと半助が、澪の手に頭を押し付けるようにしてきた。撫でてと、やっぱり催促しているワンコみたいで、可愛いなと思えてくる。なので、求められるままにヨシヨシする。でも人間だから顎の下とかは撫でないように気をつけた。
すーっと、半助が深く呼吸しているのが分かった。澪の香りで、鵺の生臭い唾液の臭いを誤魔化そうとでもしているのか。
段々、半助がワンコに思えてきて澪の表情が和やかになり、優しい気持ちが湧いてくる。母性かもしれない。見た目は歳上だが、精神年齢的には歳下という立ち位置の半助を、まるできり丸にそうするように、優しくしてやりたいと思った。
「澪さん。時々でいいから、わたしにこうしてくれないか。そしたら胃痛もマシになる気がするんだ」
「いいですよ」
だからか。半助のらしくない、でもだからこそ可愛いお願いに二つ返事で頷いた。
「優しいね、澪さんは。とんでもない事をわたしは言っているのに」
「そうですか?半助さんには、頑張ってる事を労わってくれる人がいても良いと思いますよ」
「そうか。なら、遠慮なく甘えようかな。でもわたし以外にこういう事はしないでくれ。きり丸達とかならまぁ、子どもだからいいとして。わたしの貴重な甘える回数が減ってしまうから」
「いいですよ」
「ーーじゃあ、これは最後のお願いだ。わたしと二人きりの時、わたしにも普通に話してくれないか。歳上だからって、敬語なんて使わないでほしいんだ。この通りだから」
敬語をやめてほしいなんて、まるで利吉みたいな事を言う。半助も下心無しに澪と言う人間を好ましいと思うから、敬語無しで話してほしいのだろう。そう思うと、胸が擽られたような気持ちになった。断る理由は無い。
「わかったーーいいよ、半助さん。流石に、敬称は残すけどね」
「ありがとう、澪さん。漸く言えたーーずっと君と、こんな風にわたしも話したかったんだ」
「半助さんは、わたしを呼び捨てにしないので?」
「それは、うーん。何だか、澪さんという言い方に慣れてしまったし。何より、澪さんには敬称をつけたい、と言うか」
「利吉くんと同じ事を言うのね。まぁ、いいけど」
何となく、利吉も半助も澪の中身の年齢を嗅ぎつけているのではないか、と思ったりする。実はわたしの魂の年齢は相当ですなんて言えない。前世で死んだ年齢+転生後の十五年を足せば、目を覆う年齢である。
「半助さん、もうそろそろ大丈夫?」
「んー、もうちょっと。かなぁ」
「へぇ意外。甘えん坊なんだ」
「誰にだってこういうわけじゃないよ。でも、澪さんにならこうしたい、と言うか。歳の割にしっかりしてて、頼もしいからかな」
「そうですかね。ちょっと、力が強いだけなのになぁ」
「……ちょっと?」
くすくすと笑う半助。くぐもった笑いをするせいで、頭が動いて髪が肌を掠める。ちょっと擽ったい。
「ねぇ、澪さん。この仕事が終わったら、時間を取ってもらえないか。君と話しをしたいんだ」
「ああ、わたしの持ってる知識とかを話す事になってたものね。いいわよ」
「……それもあるけど、それ以外に純粋にわたしと出掛けてほしいんだ。美味しい物を食べに行ったり、買い物に行ったり。一緒に気晴らしをしないか。きり丸といるとアルバイトに付き合わされるし、一人で町を歩くのは余り楽しくないし。ダメ?」
上目遣いが様になってきた半助である。最初はおずおずと甘えてきていたくせに、今や何やら普通に甘えてきていないか、このワンコ。
「うん、分かった。そしたら、この仕事が終わった週末にでも、一緒にデートしよっか」
「っーー、ありがとう。そう、デートだ。澪さんと、デートだっ」
ぱあっと、まるで向日葵のような笑顔になる半助。一年は組の良い子達のようだ。
その笑顔を見て澪も嬉しくなって笑みを返した。
それから、半助が満足するまで彼をよしよしし続けた澪だったのだった。
翌朝、鼻歌を歌うくらい機嫌が回復した半助を全員が不思議そうにして見ていた。
ただし、その中で一人、小平太だけが何やら面白くなさそうな顔をしていたのは、また別の話である。
