第5話 その男、仕事中毒につき
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「これ、澪さんが作ったお菓子です。山田先生と一緒に早めに食べてください」
授業を終えて暫くしてから、職員室にやって来たきり丸が竹の皮に包まれた見慣れない揚げ菓子を差し出してきた。
きな粉がまぶされた丸い形の揚げ菓子が放つ、油ときな粉の混ざった香ばしい食欲を誘う香りに、半助は思わず笑みを浮かべた。
「ありがとう、きり丸」
伝蔵は厠に行っているだけのため、すぐに帰ってくるだろう。きり丸は初めて澪と出会っているせいか、澪によく懐いている。澪もきり丸相手には歳下ということもあってか、砕けた話し方をしている。
ーー自分にも、敬語なんて要らないのに。そう思ってしまうのは、惚れてしまった故である。素の澪と会話できるきり丸がほんの少しだけ羨ましい半助である。
きり丸は、お菓子を渡すとさっさと行ってしまった。多分、澪のいる場所に戻って行ったのだろう。仕事があるため、ついて行きたい気持ちはあるがそこは堪える。
程なくして、伝蔵が帰って来た。
「うん?いい匂いがするな。それか」
「はい、澪さんからです。揚げ菓子のようですね。きな粉を塗してあります。美味しそうです」
「なら、お茶にでもしようか。温くなってしまったが、急須にまだお茶が残っているし」
「ですね」
仕事をしていると、気持ちを切り替えるためにお茶だの簡単なお茶請けだのを口にする事はままある。とはいえ、学園長が食べる取り寄せの羊羹のような高級品ではなく、もっと簡素な物が多い。
手を汚さなくてもいいようにという配慮からか、包みの中には竹の菓子楊枝が入っていた。
「澪くんらしいな。丁寧で気が利く事だ」
伝蔵が感心したように言い、パクリと揚げ菓子を口にした。
「おお、これはいけるな。きな粉とよく合う」
「では、わたしも一つ」
澪が作ったなら、きっと美味しいだろう。一つ食べると、揚げ菓子の香ばしさと共にきな粉の味がして、油のまったりとした旨みを感じる。道理できり丸が早く食べろと言うはずだ。これは揚げたてが一番美味い物である。
「んー、美味しいっ」
油と甘味の絶妙な味わいが口いっぱいに広がる。思わず本心からそう言うと、伝蔵が面白そうに笑った。
「ま、惚れた女が作ったんだ。そりゃそうだろう」
「んぐっ、山田先生、それはそうですけど誰かに聞かれたらどうするんですか」
「いや、お前さんが直接好きだとは言わないだけで、分かる者には態度でバレてるだろう」
ーーそんなに、あからさまなのか。否、確かに彼女に対しては簡単に嫉妬してしまっており、それらしい事を言いながら、その実、嫉妬からくる発言をしてしまいがちだ。
「恋心なんてものは、その想いが強ければ強いほど隠せないし、抑えようとしても無駄な物だ」
「それは、経験からくる話ですか?」
伝蔵の奥方はとても美しい。しかも優秀なくのいちだ。どちらが先に相手に惚れたのかは知らないが、あの奥方を物にした伝蔵は相当な努力をした可能性が高いわけで。
「んんっ、わたしの話はいい。それよりも半助の事だよ。言っておくが態度で好きだと訴えて、それが澪くんに伝わるなんて思わない事だ。うちの女房が言うには、男というのは言葉を惜しんで態度で語ろうとする悪い癖があるとの事だ」
それはまた経験からくる話なのか。
ツッコミしたいが、聞けば今度は睨まれそうてである。
だが、同時に恋という物の成就がそう簡単ではない事を思い知らされた。告白する、好きだと口にするだけの行為は、そんな事をするくらいなら苦手な練り物を食べる方がマシだと思わせるくらいには、無茶な事のような気がしていた。
とはいえ、理は明らかに伝蔵にある。
「好きな気持ちを押し殺せない、諦められない、なのに奥手とはーー難儀だな、半助」
「うぅっ……」
揚げ菓子は美味しいのに、温いお茶の苦味が胃に染みるように感じた。伝蔵にはポンポンと肩を叩かれる。
「半人前だった人間が一人前になろうとしてるんだ。手は貸さんが、応援はしとるよ」
「一人前、ですか?」
「そうだ。まさか澪くんと付き合って終わりなわけもないだろう。いい歳した男が、若い娘を弄ぶつもりか?」
「そんなわけないでしょう。澪さんと付き合えたなら、横槍が入る前に結婚します!!」
「ーーそういう事だ。所帯を持つなら、半人前ではなくなる。そうなったら名前を変えるか?一人前になるんだし」
半人前の半助ーー過去、そう言って土井半助と己を名付けた伝蔵が、面白そうに笑う。そんな風に名前を変えようか等と発想に至れる状況になればいいが、今のところ半助の願望で終わっている始末である。
進展があったとすれば、澪が教科の授業の補佐についてくれるようになった事だ。毎回ではないにせよ、授業の打ち合わせという名目で話せる機会が増えた。
そにしても、澪の教養が凄いと半助は内心でとても驚いた。読み書きは勿論のこと、算数にも強く隙がない。おまけに、それなりに文学にも精通しており和歌や漢詩に理解が深かった。
美しく強くて賢くて、性格も良くて気が利いて料理も上手で手先も器用。
欠点と言えば芝居が下手ということ。他にもあるかもしれない。あえて言うなら、年頃の娘なのに余りそれらしい反応がない事くらいか。
好きで恋人になりたい、誰かに奪われる前に嫁にしたい。でもきっと、澪を狙う者は結婚しても湧いて来るのだろう等と、どうにもなってないのに妄想が止まらないーー恋とはかくも恐ろしい。
「名前はこのままでいいですよ。わたしは土井半助以外の名前はいりません。それ以外の何者になる気もありません。そりゃ名前を変えようって状況になれたら、嬉しいですけど」
「何を呑気な事を言っとるんだ。そんな事を言ってぼやぼやしていたら、澪くんを取られるぞーー六年生辺りに」
「は?」
何を言い出すのだ。
驚いて伝蔵を見ると、切れ長の目が呆れた顔をして半助を見ていた。
「澪くんは今、六年生全員に稽古をつけている。接触の機会は多い。まだ忍たまのうちは澪くんも線引きするだろうし、六年生達も遠慮してどうこうはないだろう。学園にいるうちはいい、だが卒業したら生徒ではなくなる。どこにお互い線引きしたり遠慮する理由があるんだ。付き合っても誰も文句を言えん。六年生からすれば、澪くんは理想の嫁に見えてもおかしくはない。怪力だって見方によってはいい事だ。怪力の息子を授かれるかもしれんのだぞ。むしろ、それが目当てでもおかしくはない。家を盛り立てられる要素があるのだからな」
「……それは」
その通りだ。
頭を殴られたような衝撃に、半助は固まる。
「ライバルには警戒を怠るなよ。それには、なり得そうな存在も含む。単に男を近づけさせなければいいというのは、甘い対応だぞ」
ーーこれは絶対に経験があるからの忠告だ。
半助には嫌でもわかった。間違いなく、若かりし頃の伝蔵が実際に味わった苦労なのだ。
「澪くんが好きなら、確実に六年生は半助の邪魔をしてくるだろう。それも、おそらくは学生という立場を利用してだ。そして恋路の邪魔をして卒業し、即座に言葉を惜しまず口説くだろうよ」
「まるで既に六年生の誰かが、澪さんを好きなような話ですが」
おかしくはない話だが、そうなってほしくなくて思わず、否定の言葉を口にするも、自分の言葉に自信がない。伝蔵の言葉通りーーそんな気がしてならないのだ。
「なら半助は自分が十五歳なら、澪くんを好きにはならないと言えるのか。二十五歳だから好きになったのか」
「ーーっ、それは」
「そういうことだ。恋に年齢や立場なんて関係あるか」
ライバルなんて現れないでくれ、と願っても無駄なのだろう。人間は、こうあればいいと言う気持ちから世界を見ようとする。
だから、目の前の真実ではなく、知らず知らずのうちに見たいものを見て、選びたいものを選ぶのだ。
それは必ずしも悪い事ではないが、過ぎれば客観性を失い現実に対し瞽になる。
それは忍者にとっても、恋をする男にとっても致命的な人間の性質である。
「ううー、そんな事を言われたら既に澪さんを好きな輩がうようよいる気がしてきた」
「ははは、悩め悩め。うむ、菓子が美味い!」
「あっ、最後の一つを!」
「油断大敵ですな、土井先生」
やられた。
何気に狙っていた最後の揚げ菓子を伝蔵に奪われ、半助は恨みがましい目を伝蔵に向けた。
「こんな事が澪くんに起こってほしくないなら、デートの一つくらい誘うんだな」
奥手の半助に対する正しいアドバイスに、落ち込みそうになる。
だが、デートと聞いて忽ち半助の脳内で妄想が膨らむ。
是非とも澪をデートに誘いたい。
二人で色んな店を回って、昼飯は少し値の張るような物をご馳走してあげて、何ならお土産に澪に似合いそうな品を買ってあげて、それで美しい夕日の見える丘で二人きり、否、浜辺でもいい。
「いかん、妄想が開始されとる。おーい土井半助、せめて誘って成功してから妄想するんだぞー」
「っは!」
伝蔵の言葉で現実に帰還する。
そうだ、誘ってもいないのに妄想に浸ってる暇はない。
「山田先生、仕事がひと段落したらお菓子のお礼を言いに澪さんに会いに行きます。それで、デートに誘います!」
「よく言った半助っ。頑張れ!」
決意表明する半助を、伝蔵が激励してくれたのだった。
手を貸さないと言っておきながら、奥手な半助のやる気を燃えさせる細やかなフォローをしてくれている伝蔵の優しさに、言葉にこそしないが半助は温かい気持ちになるのだった。
それから、半助は気合を入れて仕事を片付けた。一年は組の今日配った計算問題の採点と、明日の授業の準備、補習が必要な乱太郎きり丸しんべヱの三人組のプリントを作り終え、澪の元へと向かった。
澪は丁度、六年生の稽古をつけている最中のため、その場所に行こうとした時である。
「ーー土井先生!」
爽やかな青年の声がした。
己を呼び止める聞き覚えのあるその声に振り向くと、泥棒退治以来の姿がそこにあった。
「利吉くんじゃないか。この前はきり丸のせいですまなかったね。怪我の具合はいいのかい?」
「ええ、まぁ。こうしてすっかり良くなったので、学園に来た次第です。澪さんにお会いしたくて。小松田くんに聞いたら、六年生達に稽古をつけてると教えられました」
ーー何というタイミングだ。
まさか、伝蔵に気合を入れられてデートに誘おうとしたら、その息子の利吉と出会うとは。おまけに、既に澪が何をしているか知っているとは。
おのれーー小松田と、入門票さえ書けばザル警備の事務員を叱れたらどれだけ気楽か。
澪をデートに誘うせっかくのいい機会だったが、難しそうである。
利吉は要注意だ。
泥棒退治の時、澪と二人きりになりたがっていたし。こんな要注意人物の前で、澪をデートに誘おうものなら邪魔されたっておかしくはないわけで。
せっかくのいい機会だったが、仕方ない。せめて周りに澪と自分のデートを邪魔しそうな者がいない時に、声をかけなければ。
「ついでに、父上にも今度の休みに母上のところにいい加減帰っていただきたく……」
「はは、利吉くんも大変だね」
時折、利吉が学園に現れては家に帰れと伝蔵を説得するのは山田親子の名物みたいな物だ。
「そしたら、わたしも澪さんに用事があるんだ。一緒に行こうか」
「はい、是非。せっかくですし、澪さんと六年生の稽古も見学できたらいいんですけど」
にこにこと笑う利吉は、いつも通りの好青年だ。だが、澪に関しては油断してはならぬ相手である。その事を忘れずに、澪が稽古を実施している場所まで向かう。
何だかんだ、半助も澪が六年生に稽古をつけているのを見るのは初めてだ。利吉の言う通り、居合わせられる物ならいいのだが。
そう思っていた願いが叶ったのか。
ちょうど、澪が六年生のうち七松小平太と中在家長次の二人に稽古をつけている最中だった。
はっきり言おうーーかなり容赦がない物だと。
「小平太くんは、長次くんより力が強いのでこっちの重りをつけて足をあげたまま、わたしがいいって言うまでV字の姿勢キープですよ。ほら、頑張ってください」
「ぐぬぬぬぬっー!いけいけどんどーん!!」
「長次くんも、小平太くんを見習ってやってみましょう」
「ぐぉおおお…!」
二人は鋼鉄で出来た重りを足首につけられた状態で、真っ赤な顔をして地面に尻をつき、足だけ上げるポーズをしている。腹筋と足の力に体幹も鍛えてそうではあるがーーエグい。
「どっしりとした下半身こそ、安定して技を繰り出す基本になります。足は腕より数倍は力が強いので、頑張って鍛えましょうね。あ、わたしも横でやりますから。よっ、と」
笑顔で二人の隣で、小平太の数倍はありそうな重りをつけて、まるで羽でも足に引っ掛けているかのような様で、綺麗なポーズを取る澪ーー流石である。
「ん、土井先生それに……利吉さん?」
呆然と利吉と二人で地獄の訓練を見てしまった半助であるが、天女の笑顔を向けられると頬に熱が集まるような心地がする。
「どうも、澪さん……以前に言った通り、貴女に会いに参りました」
「わたしは、お菓子のお礼を言いに。ごめんね、忙しい時に」
「いえいえ、今日はこれで最後なので。よかったら終わるまで見ていかれます?お話しがあるなら、その後で伺いますよ。武人の稽古になるので、忍者的な良し悪しは分からなくて。ご意見をくだされば嬉しいです」
にこにこ笑顔の澪だが、その横で真っ赤な顔して耐えている小平太と長次という対比に、改めて澪の凄さを知る半助である。
「二人とも、これに慣れたら次回はこの重りを足と腕につけて、崖を登りますからね」
「ーーっ、やってやるとも!なぁ、長次!!」
「……勿論だ」
「その時は、文次郎くんと留三郎くんも一緒に競争します。最下位は、重りをつけたまま六年生宿舎の共用部分の掃除です。是非とも頑張ってくださいね」
天女の顔をした鬼コーチがいる。
この扱きは、確かに武人向きだ。限界まで身体を酷使し、鍛えるやり方は如何にもである。忍者にも勿論、戦闘力は必要ではあるが、そんな戦場で無双するようなーーそれこそ、三国志に登場する関羽や呂布のような強さを希求してはいない。
だが、六年生の二人の目はやる気に燃えている。足を鍛える訓練は、武術に限らず忍者も必要なため特に何か言うこともない。
「澪さんが武人と忍びの違いを分かっているなら、わたしから言う事は何もないよ」
そう、澪はちゃんと自分の訓練が武人の物である自覚がある。だから、余りにも忍者に似つかわしくない訓練は避けるだろう。例えば一騎討ちの訓練とか。
「流石は澪さん……素晴らしい」
ぽつり、と利吉が小さな声で呟いた。真っ直ぐに澪を見つめる伝蔵譲りの切れ長の瞳が、何やら熱っぽい。
まさかとは思うが、危ない所を救出してくれた澪に一目惚れしたのか。母親にいい人を紹介されそうになり、自分と同じく逃げていたあの利吉が。
ぎょっとすると同時にヒヤリとする。何せ、理吉はフリーのプロの忍者の上、眉目秀麗な若者なのだ。半助からして文句のつけようがない出来た青年にして、弟分のような存在が澪に懸想しているかもしれないとあって、心中は穏やかではいられなかった。
それから、限界まで六年生二人の筋肉を苛めた辺りで澪は稽古の終了を告げた。
「お二人とも、お風呂で身体を温めてから、教えた柔軟をこなして眠ってください。夜更かしは禁止ですよ」
「わかった!」
「もそ……了解した」
忍者服が結構ボロボロだが、流石は六年生といった所か。二人とも疲れた様子でありながら、それを顔には出していない。
「利吉さん、お久しぶりです。わたし達の稽古を見たのだし、引き換えと言っては何ですが、この後、わたし達もご一緒してもいいですか?」
「自分も、利吉さんと久々なので話したいです……もそ」
邪気のない笑顔で笑う小平太に、その横で頷く長次。利吉はと言うと、困ったような顔になった。
「うーん、できれば人が少ない方がいいのだが。君たちとは改めて話をするというのはどうかな」
「ーーわたしも居るし、この際だから別にいいのでは。それとも、澪さんに他の人に聞かれたら困るような話でもするのかな」
もともとは、二人きりで話しがしたいと言っていた利吉である。澪は不思議そうな顔をしているが、どうせなら六年生の二人も巻き込んでしまえ、と半助の中の嫉妬に塗れた男が囁いた。
邪魔者は多い方がいい。
「はぁ、仕方ありませんね。澪さん、そしたら稽古を終えたところすみませんが、お話があります。ここでは何ですので、あまり人に見られない場所に移動しても?付き添いが三人居ますが他の大勢には見られたくないので」
「はぁ、分かりました」
真面目な顔をする利吉。この後、一体何を言う気かは知らないが、まさかの貴女に惚れましたなんて告白だった場合はーー阻止の一択である。デートすら誘えていない半助を前に、そんな一歩も二歩も飛び越える真似はさせない。
「ーー土井先生」
利吉の提案の通り、移動を開始しようとするとふいに声がかけられた。
見ると、小平太が近くに来て利吉には聞こえないよう、口だけ動かしてこう言った。
『お手伝いします』と。
その意味を知った半助は、瞬時に小平太の気持ちに気付いた。
ーー何たる事だ。
まさしく、伝蔵の発言が予言の如く的中したのを悟り、半助は動揺を隠すので精一杯になってしまったのだった。
授業を終えて暫くしてから、職員室にやって来たきり丸が竹の皮に包まれた見慣れない揚げ菓子を差し出してきた。
きな粉がまぶされた丸い形の揚げ菓子が放つ、油ときな粉の混ざった香ばしい食欲を誘う香りに、半助は思わず笑みを浮かべた。
「ありがとう、きり丸」
伝蔵は厠に行っているだけのため、すぐに帰ってくるだろう。きり丸は初めて澪と出会っているせいか、澪によく懐いている。澪もきり丸相手には歳下ということもあってか、砕けた話し方をしている。
ーー自分にも、敬語なんて要らないのに。そう思ってしまうのは、惚れてしまった故である。素の澪と会話できるきり丸がほんの少しだけ羨ましい半助である。
きり丸は、お菓子を渡すとさっさと行ってしまった。多分、澪のいる場所に戻って行ったのだろう。仕事があるため、ついて行きたい気持ちはあるがそこは堪える。
程なくして、伝蔵が帰って来た。
「うん?いい匂いがするな。それか」
「はい、澪さんからです。揚げ菓子のようですね。きな粉を塗してあります。美味しそうです」
「なら、お茶にでもしようか。温くなってしまったが、急須にまだお茶が残っているし」
「ですね」
仕事をしていると、気持ちを切り替えるためにお茶だの簡単なお茶請けだのを口にする事はままある。とはいえ、学園長が食べる取り寄せの羊羹のような高級品ではなく、もっと簡素な物が多い。
手を汚さなくてもいいようにという配慮からか、包みの中には竹の菓子楊枝が入っていた。
「澪くんらしいな。丁寧で気が利く事だ」
伝蔵が感心したように言い、パクリと揚げ菓子を口にした。
「おお、これはいけるな。きな粉とよく合う」
「では、わたしも一つ」
澪が作ったなら、きっと美味しいだろう。一つ食べると、揚げ菓子の香ばしさと共にきな粉の味がして、油のまったりとした旨みを感じる。道理できり丸が早く食べろと言うはずだ。これは揚げたてが一番美味い物である。
「んー、美味しいっ」
油と甘味の絶妙な味わいが口いっぱいに広がる。思わず本心からそう言うと、伝蔵が面白そうに笑った。
「ま、惚れた女が作ったんだ。そりゃそうだろう」
「んぐっ、山田先生、それはそうですけど誰かに聞かれたらどうするんですか」
「いや、お前さんが直接好きだとは言わないだけで、分かる者には態度でバレてるだろう」
ーーそんなに、あからさまなのか。否、確かに彼女に対しては簡単に嫉妬してしまっており、それらしい事を言いながら、その実、嫉妬からくる発言をしてしまいがちだ。
「恋心なんてものは、その想いが強ければ強いほど隠せないし、抑えようとしても無駄な物だ」
「それは、経験からくる話ですか?」
伝蔵の奥方はとても美しい。しかも優秀なくのいちだ。どちらが先に相手に惚れたのかは知らないが、あの奥方を物にした伝蔵は相当な努力をした可能性が高いわけで。
「んんっ、わたしの話はいい。それよりも半助の事だよ。言っておくが態度で好きだと訴えて、それが澪くんに伝わるなんて思わない事だ。うちの女房が言うには、男というのは言葉を惜しんで態度で語ろうとする悪い癖があるとの事だ」
それはまた経験からくる話なのか。
ツッコミしたいが、聞けば今度は睨まれそうてである。
だが、同時に恋という物の成就がそう簡単ではない事を思い知らされた。告白する、好きだと口にするだけの行為は、そんな事をするくらいなら苦手な練り物を食べる方がマシだと思わせるくらいには、無茶な事のような気がしていた。
とはいえ、理は明らかに伝蔵にある。
「好きな気持ちを押し殺せない、諦められない、なのに奥手とはーー難儀だな、半助」
「うぅっ……」
揚げ菓子は美味しいのに、温いお茶の苦味が胃に染みるように感じた。伝蔵にはポンポンと肩を叩かれる。
「半人前だった人間が一人前になろうとしてるんだ。手は貸さんが、応援はしとるよ」
「一人前、ですか?」
「そうだ。まさか澪くんと付き合って終わりなわけもないだろう。いい歳した男が、若い娘を弄ぶつもりか?」
「そんなわけないでしょう。澪さんと付き合えたなら、横槍が入る前に結婚します!!」
「ーーそういう事だ。所帯を持つなら、半人前ではなくなる。そうなったら名前を変えるか?一人前になるんだし」
半人前の半助ーー過去、そう言って土井半助と己を名付けた伝蔵が、面白そうに笑う。そんな風に名前を変えようか等と発想に至れる状況になればいいが、今のところ半助の願望で終わっている始末である。
進展があったとすれば、澪が教科の授業の補佐についてくれるようになった事だ。毎回ではないにせよ、授業の打ち合わせという名目で話せる機会が増えた。
そにしても、澪の教養が凄いと半助は内心でとても驚いた。読み書きは勿論のこと、算数にも強く隙がない。おまけに、それなりに文学にも精通しており和歌や漢詩に理解が深かった。
美しく強くて賢くて、性格も良くて気が利いて料理も上手で手先も器用。
欠点と言えば芝居が下手ということ。他にもあるかもしれない。あえて言うなら、年頃の娘なのに余りそれらしい反応がない事くらいか。
好きで恋人になりたい、誰かに奪われる前に嫁にしたい。でもきっと、澪を狙う者は結婚しても湧いて来るのだろう等と、どうにもなってないのに妄想が止まらないーー恋とはかくも恐ろしい。
「名前はこのままでいいですよ。わたしは土井半助以外の名前はいりません。それ以外の何者になる気もありません。そりゃ名前を変えようって状況になれたら、嬉しいですけど」
「何を呑気な事を言っとるんだ。そんな事を言ってぼやぼやしていたら、澪くんを取られるぞーー六年生辺りに」
「は?」
何を言い出すのだ。
驚いて伝蔵を見ると、切れ長の目が呆れた顔をして半助を見ていた。
「澪くんは今、六年生全員に稽古をつけている。接触の機会は多い。まだ忍たまのうちは澪くんも線引きするだろうし、六年生達も遠慮してどうこうはないだろう。学園にいるうちはいい、だが卒業したら生徒ではなくなる。どこにお互い線引きしたり遠慮する理由があるんだ。付き合っても誰も文句を言えん。六年生からすれば、澪くんは理想の嫁に見えてもおかしくはない。怪力だって見方によってはいい事だ。怪力の息子を授かれるかもしれんのだぞ。むしろ、それが目当てでもおかしくはない。家を盛り立てられる要素があるのだからな」
「……それは」
その通りだ。
頭を殴られたような衝撃に、半助は固まる。
「ライバルには警戒を怠るなよ。それには、なり得そうな存在も含む。単に男を近づけさせなければいいというのは、甘い対応だぞ」
ーーこれは絶対に経験があるからの忠告だ。
半助には嫌でもわかった。間違いなく、若かりし頃の伝蔵が実際に味わった苦労なのだ。
「澪くんが好きなら、確実に六年生は半助の邪魔をしてくるだろう。それも、おそらくは学生という立場を利用してだ。そして恋路の邪魔をして卒業し、即座に言葉を惜しまず口説くだろうよ」
「まるで既に六年生の誰かが、澪さんを好きなような話ですが」
おかしくはない話だが、そうなってほしくなくて思わず、否定の言葉を口にするも、自分の言葉に自信がない。伝蔵の言葉通りーーそんな気がしてならないのだ。
「なら半助は自分が十五歳なら、澪くんを好きにはならないと言えるのか。二十五歳だから好きになったのか」
「ーーっ、それは」
「そういうことだ。恋に年齢や立場なんて関係あるか」
ライバルなんて現れないでくれ、と願っても無駄なのだろう。人間は、こうあればいいと言う気持ちから世界を見ようとする。
だから、目の前の真実ではなく、知らず知らずのうちに見たいものを見て、選びたいものを選ぶのだ。
それは必ずしも悪い事ではないが、過ぎれば客観性を失い現実に対し瞽になる。
それは忍者にとっても、恋をする男にとっても致命的な人間の性質である。
「ううー、そんな事を言われたら既に澪さんを好きな輩がうようよいる気がしてきた」
「ははは、悩め悩め。うむ、菓子が美味い!」
「あっ、最後の一つを!」
「油断大敵ですな、土井先生」
やられた。
何気に狙っていた最後の揚げ菓子を伝蔵に奪われ、半助は恨みがましい目を伝蔵に向けた。
「こんな事が澪くんに起こってほしくないなら、デートの一つくらい誘うんだな」
奥手の半助に対する正しいアドバイスに、落ち込みそうになる。
だが、デートと聞いて忽ち半助の脳内で妄想が膨らむ。
是非とも澪をデートに誘いたい。
二人で色んな店を回って、昼飯は少し値の張るような物をご馳走してあげて、何ならお土産に澪に似合いそうな品を買ってあげて、それで美しい夕日の見える丘で二人きり、否、浜辺でもいい。
「いかん、妄想が開始されとる。おーい土井半助、せめて誘って成功してから妄想するんだぞー」
「っは!」
伝蔵の言葉で現実に帰還する。
そうだ、誘ってもいないのに妄想に浸ってる暇はない。
「山田先生、仕事がひと段落したらお菓子のお礼を言いに澪さんに会いに行きます。それで、デートに誘います!」
「よく言った半助っ。頑張れ!」
決意表明する半助を、伝蔵が激励してくれたのだった。
手を貸さないと言っておきながら、奥手な半助のやる気を燃えさせる細やかなフォローをしてくれている伝蔵の優しさに、言葉にこそしないが半助は温かい気持ちになるのだった。
それから、半助は気合を入れて仕事を片付けた。一年は組の今日配った計算問題の採点と、明日の授業の準備、補習が必要な乱太郎きり丸しんべヱの三人組のプリントを作り終え、澪の元へと向かった。
澪は丁度、六年生の稽古をつけている最中のため、その場所に行こうとした時である。
「ーー土井先生!」
爽やかな青年の声がした。
己を呼び止める聞き覚えのあるその声に振り向くと、泥棒退治以来の姿がそこにあった。
「利吉くんじゃないか。この前はきり丸のせいですまなかったね。怪我の具合はいいのかい?」
「ええ、まぁ。こうしてすっかり良くなったので、学園に来た次第です。澪さんにお会いしたくて。小松田くんに聞いたら、六年生達に稽古をつけてると教えられました」
ーー何というタイミングだ。
まさか、伝蔵に気合を入れられてデートに誘おうとしたら、その息子の利吉と出会うとは。おまけに、既に澪が何をしているか知っているとは。
おのれーー小松田と、入門票さえ書けばザル警備の事務員を叱れたらどれだけ気楽か。
澪をデートに誘うせっかくのいい機会だったが、難しそうである。
利吉は要注意だ。
泥棒退治の時、澪と二人きりになりたがっていたし。こんな要注意人物の前で、澪をデートに誘おうものなら邪魔されたっておかしくはないわけで。
せっかくのいい機会だったが、仕方ない。せめて周りに澪と自分のデートを邪魔しそうな者がいない時に、声をかけなければ。
「ついでに、父上にも今度の休みに母上のところにいい加減帰っていただきたく……」
「はは、利吉くんも大変だね」
時折、利吉が学園に現れては家に帰れと伝蔵を説得するのは山田親子の名物みたいな物だ。
「そしたら、わたしも澪さんに用事があるんだ。一緒に行こうか」
「はい、是非。せっかくですし、澪さんと六年生の稽古も見学できたらいいんですけど」
にこにこと笑う利吉は、いつも通りの好青年だ。だが、澪に関しては油断してはならぬ相手である。その事を忘れずに、澪が稽古を実施している場所まで向かう。
何だかんだ、半助も澪が六年生に稽古をつけているのを見るのは初めてだ。利吉の言う通り、居合わせられる物ならいいのだが。
そう思っていた願いが叶ったのか。
ちょうど、澪が六年生のうち七松小平太と中在家長次の二人に稽古をつけている最中だった。
はっきり言おうーーかなり容赦がない物だと。
「小平太くんは、長次くんより力が強いのでこっちの重りをつけて足をあげたまま、わたしがいいって言うまでV字の姿勢キープですよ。ほら、頑張ってください」
「ぐぬぬぬぬっー!いけいけどんどーん!!」
「長次くんも、小平太くんを見習ってやってみましょう」
「ぐぉおおお…!」
二人は鋼鉄で出来た重りを足首につけられた状態で、真っ赤な顔をして地面に尻をつき、足だけ上げるポーズをしている。腹筋と足の力に体幹も鍛えてそうではあるがーーエグい。
「どっしりとした下半身こそ、安定して技を繰り出す基本になります。足は腕より数倍は力が強いので、頑張って鍛えましょうね。あ、わたしも横でやりますから。よっ、と」
笑顔で二人の隣で、小平太の数倍はありそうな重りをつけて、まるで羽でも足に引っ掛けているかのような様で、綺麗なポーズを取る澪ーー流石である。
「ん、土井先生それに……利吉さん?」
呆然と利吉と二人で地獄の訓練を見てしまった半助であるが、天女の笑顔を向けられると頬に熱が集まるような心地がする。
「どうも、澪さん……以前に言った通り、貴女に会いに参りました」
「わたしは、お菓子のお礼を言いに。ごめんね、忙しい時に」
「いえいえ、今日はこれで最後なので。よかったら終わるまで見ていかれます?お話しがあるなら、その後で伺いますよ。武人の稽古になるので、忍者的な良し悪しは分からなくて。ご意見をくだされば嬉しいです」
にこにこ笑顔の澪だが、その横で真っ赤な顔して耐えている小平太と長次という対比に、改めて澪の凄さを知る半助である。
「二人とも、これに慣れたら次回はこの重りを足と腕につけて、崖を登りますからね」
「ーーっ、やってやるとも!なぁ、長次!!」
「……勿論だ」
「その時は、文次郎くんと留三郎くんも一緒に競争します。最下位は、重りをつけたまま六年生宿舎の共用部分の掃除です。是非とも頑張ってくださいね」
天女の顔をした鬼コーチがいる。
この扱きは、確かに武人向きだ。限界まで身体を酷使し、鍛えるやり方は如何にもである。忍者にも勿論、戦闘力は必要ではあるが、そんな戦場で無双するようなーーそれこそ、三国志に登場する関羽や呂布のような強さを希求してはいない。
だが、六年生の二人の目はやる気に燃えている。足を鍛える訓練は、武術に限らず忍者も必要なため特に何か言うこともない。
「澪さんが武人と忍びの違いを分かっているなら、わたしから言う事は何もないよ」
そう、澪はちゃんと自分の訓練が武人の物である自覚がある。だから、余りにも忍者に似つかわしくない訓練は避けるだろう。例えば一騎討ちの訓練とか。
「流石は澪さん……素晴らしい」
ぽつり、と利吉が小さな声で呟いた。真っ直ぐに澪を見つめる伝蔵譲りの切れ長の瞳が、何やら熱っぽい。
まさかとは思うが、危ない所を救出してくれた澪に一目惚れしたのか。母親にいい人を紹介されそうになり、自分と同じく逃げていたあの利吉が。
ぎょっとすると同時にヒヤリとする。何せ、理吉はフリーのプロの忍者の上、眉目秀麗な若者なのだ。半助からして文句のつけようがない出来た青年にして、弟分のような存在が澪に懸想しているかもしれないとあって、心中は穏やかではいられなかった。
それから、限界まで六年生二人の筋肉を苛めた辺りで澪は稽古の終了を告げた。
「お二人とも、お風呂で身体を温めてから、教えた柔軟をこなして眠ってください。夜更かしは禁止ですよ」
「わかった!」
「もそ……了解した」
忍者服が結構ボロボロだが、流石は六年生といった所か。二人とも疲れた様子でありながら、それを顔には出していない。
「利吉さん、お久しぶりです。わたし達の稽古を見たのだし、引き換えと言っては何ですが、この後、わたし達もご一緒してもいいですか?」
「自分も、利吉さんと久々なので話したいです……もそ」
邪気のない笑顔で笑う小平太に、その横で頷く長次。利吉はと言うと、困ったような顔になった。
「うーん、できれば人が少ない方がいいのだが。君たちとは改めて話をするというのはどうかな」
「ーーわたしも居るし、この際だから別にいいのでは。それとも、澪さんに他の人に聞かれたら困るような話でもするのかな」
もともとは、二人きりで話しがしたいと言っていた利吉である。澪は不思議そうな顔をしているが、どうせなら六年生の二人も巻き込んでしまえ、と半助の中の嫉妬に塗れた男が囁いた。
邪魔者は多い方がいい。
「はぁ、仕方ありませんね。澪さん、そしたら稽古を終えたところすみませんが、お話があります。ここでは何ですので、あまり人に見られない場所に移動しても?付き添いが三人居ますが他の大勢には見られたくないので」
「はぁ、分かりました」
真面目な顔をする利吉。この後、一体何を言う気かは知らないが、まさかの貴女に惚れましたなんて告白だった場合はーー阻止の一択である。デートすら誘えていない半助を前に、そんな一歩も二歩も飛び越える真似はさせない。
「ーー土井先生」
利吉の提案の通り、移動を開始しようとするとふいに声がかけられた。
見ると、小平太が近くに来て利吉には聞こえないよう、口だけ動かしてこう言った。
『お手伝いします』と。
その意味を知った半助は、瞬時に小平太の気持ちに気付いた。
ーー何たる事だ。
まさしく、伝蔵の発言が予言の如く的中したのを悟り、半助は動揺を隠すので精一杯になってしまったのだった。
