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「まずい、あと数日で軍資金が尽きる……!」
とある宿屋にて母と強制グッバイイベントを終えた澪は、早速詰みそうになっていた。
というのも、悲しいかなこれと言う仕事が中々見つからない。
人のいる町に働きに出るというのは、いつの世でも有り触れた話だ。なので、とりあえずは合戦場や緊迫状態が続く地域を避けながら人の多い場所を目指したのだが、張り紙を見て仕事を探すも雇用先全てに断られた。
皆一様に、「訳ありはちょっと……」だの「嫁に来ないか?」だの「愛人にならないか?」だの。
今世、澪は美少女だった。多分、美少女ばかりを集めた中でも指折りというか、下手したらトップになる美少女だった。男を切らしたことのない美魔女が母なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
この時代にしては背が女にしては高いものの、顔は現代日本でも十分に通じるレベルの美少女なのである。あともう数年したら、妙齢の美女へクラスチェンジする事だろう。
が、そのせいで仕事に就こうとすると訳ありと思われたり、妻や愛人としてどうだと口説かれるのだ。妻もどうかと思うが、愛人なんてもっと嫌だ。
これなら稼げる男を捕まえる方が楽かもしれない……が、母の真似はごめんである。男心を掴む技を伝授はされたが、使う気は毛頭ない。
とにかく、女衒だけは避けつつ、アルバイトでも何でもいいから路銀を稼がないとまずい。野宿はできなくはないが、この時代には狼が普通に野山に出るし、山賊や野盗の類がザラにいるのだ。まぁ、そういう輩をやっつけることはできるにはできるが、できる事なら避けるに越したことはない。
「うぅ、今日こそ仕事を見つけなければ……!」
決意を固めて、いざ出陣した。
合戦場もとい、町は通りを人々が行き交っている。堺のような都会でこそないが、それなりに人の住む場所はやはり活気があった。
「お花ー、お花は如何ですか?」
可愛らしい声の十歳前後と思しき女の子が、愛嬌のある笑顔で花を売っている。あんな感じで自分も仕事にありつかないと……と、思っているとその女の子と目が合った。
途端、にこりと花を差し出される。
「おねーさん、お花は如何ですか?」
すい、と差し出されたのは可憐な花だ。幾らか纏めて束にしてある。育てたというよりは摘んで来たのだろう。正直、要らないが愛らしい笑顔と声を前に断りづらい所もある。
「あー、そしたら一つだけ」
「まいどー」
軍資金が数日分しかないのにアホか、と自分でもツッコミを入れたが、目が合ってしまったのが運の尽きだ。幸い、花はそんなに高くなく小銭で売買できた。
その花を受け取ると、少女がしげしげとこちらを見つめていた。
「おねーさん、凄い美人ですね!」
どうやら、小銭を渡す時に虫垂衣から顔が垣間見えたらしい。その顔で苦労していたりするのだが、素直な褒め言葉にちょっと嬉しくなって、わざと顔をのぞかせて少女に笑いかけた。
「ありがとう。あなたもとっても可愛いわよ」
「……はぁ、本当に綺麗ですね。あの、その、ここ最近、仕事探しとかしてますよね」
照れたのか少女は、ぽっと頬を染めながら話しかけてきた。
「ちょっと、この辺りでは見かけない美人が仕事を探してるようだって、噂になってました」
「え、ウソ」
そんな噂になってるとは知らなかった。
いい感じの町だったのに、出て行った方がいいのではないか。とはいえ、次の場所に行くまでの路銀がやばい。
「あっちの通りにある小間物屋さんが、売り子を探してました。おねーさんなら、雇ってもらえると思います。ご主人は御年寄だから、安心でしょ?」
思わぬ情報を得て、澪は目を丸くした。
「そんな張り紙なんて無かったけど……」
「張り紙で募集してない所だってありますよ。まずはお店の人に声をかけてみるといいかもしれません」
「そっか。ありがとうね!」
なるかならないかは分からないが、歩き回る手間は省けた。ぎゅっと女の子の手を握ると、恥ずかしそうに下を俯いている。妹がいたらこんな感じだろうか、可愛い。花を買って良かった。
それから少女と別れ、早速教えられた小間物屋に向かった。簪や櫛を初めとした女性向けの品々が店舗に並べられている。
「ごめんくださーい」
「いらっしゃい」
声をかけると中から背の低い老人が出てきた。市女笠を外し、店内に入ると澪の美貌を見て何度か目を瞬いている。
「こりゃまぁ何と……天女かと思った」
「そんな大袈裟ですわ。あの、こちらで売り子を探していると聞きまして。その、雇ってはもらえないかと」
客ではないと知ったら、がっかりされるだろうか。あるいは、既に売り子が見つかっているかもしれない。
「ああ、お前さんが噂の子かい。あんたみたいな綺麗な子なら大歓迎だよ。売り子の子が最近、嫁いで辞めちゃってなぁ。品を並べるのも大変で」
「っ、本当ですか?!ありがとうございます!」
まさかの即決採用に、光明が指した気分だ。
「お給金はそんなにあげられないから、他の仕事とかけ持ちしたいなら若い娘さん向けの仕事を紹介するよ」
「是非お願いしますっ!」
小間物屋の主人が神様に見えてきた。
「そしたら、簡単に店のことを教えるから中に入りなさい」
「はいっ!」
あの花売りの女の子に感謝しなければ。
澪はその後、主人と談義しながらも店のことを簡単に教わり、商品のチェックや客の相手等をしながら早速に働いた。
気がつけばあっという間に昼餉の時間だった。
「澪ちゃん、おうどんでも食べに行こうか。奢るよ」
「まぁ、本当ですか。ありがとうございます」
小間物屋の主人はいい人で、澪は数時間で打ち解けていた。これなら、この先もうまくやっていけそうだ。
そう思い店から出て二人並んでうどん屋に向かって歩き出そうとした時だった。
ドドド……!と、音を立てつつ、土煙と共に何かが凄い勢いで真っ直ぐに、澪達に向かって突っ込んで来た。
「ぎゃあーーー!!」
若い男性の声がする。見ると、大きな猪の手綱を握りしめ引きずられていた。何故、こんな所に猪が?と思うよりも、猪が突っ込んでくる速度の方が早い。
避けることも出来るが、すぐ隣には小間物屋の主人がいるし、暴れ猪が店先に突っ込まないとも限らない。
それは咄嗟の判断だった。
「っ、はぁあああ!!」
澪はあえて自分から猪に飛び込んだ。そして、猪の牙を掴んで、衝撃を受け止める。普通なら吹き飛ばされるだろうそれを、全身で受け止めるとざりざり!と、地面がえぐれて、スピードが落ちた。
そして、手綱を握っていた男性に声をかけた。
「投げるから、手綱を放して!」
「っえ、はいぃー!」
パッと男性が持っていた手綱を離したのを見た澪は、そのまま猪の牙を持ち、巨体を背負い投げした。ペットかもしれないため、殺す気はなかったが大人しくさせなければならない。
猪はというと、まさか持ち上げられ挙句に投げられるとは思わなかったのだろう。豚の仲間だけに、ブヒッと鳴いて悲鳴を上げた。
ひっくり返った猪の腹を思い切り踏みつける。
「こらぁ、人混みで暴れんじゃないわよ。猪鍋にされたくなかったら、大人しくしなさいね」
動物は基本的に相手が格上の存在だと認識すれば、従順になる。犬のそれが顕著だが、何もそれは犬に限っての話ではない。動物の扱いは、猟師の元父親から教わっている。それこそ、狩りの仕方から捌き方まで。猪を肉と骨と革にばらす等、造作もない。
ギロリ、と睨みつけると猪は硬直して大人しくなった。のそのそと起き上がるも、暴れる気配はない。
猪は手綱を自分で口に咥え、震える身体で澪に差し出した。
「ひぃっ……!」
澪が猪から手綱を受け取った所で、小間物屋の主人の微かな悲鳴が聞こえた。ハッとして、そちらを向くと青い顔をしてガタガタ震えている。
ーーしまった。
「澪ちゃんっ、すまんが、雇う話は無かったことに!こ、これ、少ないけど今日の分ってことで」
小さな小袋が澪に向かって投げられた。どうやら、うどん屋に行くために持っていた銭らしい。そのまま、小間物屋の主人は老人とは思えぬ勢いで店に帰るや、高速で店仕舞いし、日も高いのに「本日休業」の貼り紙をして店の扉を閉めた。
残されたのは澪に怯えて従う猪と、その猪に引き摺られていた若い男に、それらを遠巻きに見ていた人々である。
「え……?わたし、クビ?マジで?」
雇われて働いた時間は三時間程だろうか。そんな馬鹿な。というより、今日のこの騒ぎは間違いなく噂になる。こんな恐ろしい怪力娘を雇う所はまずないと見ていい。
ーー詰んだ。
澪は深々とため息をついて、天を仰いだ。涙が出そうである。天国から地獄のような気分だ。
「……あ、あの」
「はい、手綱。多分、もう暴れないと思うんで」
猪に引き摺られていた男は、結構な男前だった。背も高いが、ハンサム君にときめいている場合ではない。目の前のイケメンより、仕事探しの方が余程に大事だ。
「あー、どうしよっかな。こうなったら、山賊狩りしよっかなぁ……」
半ばヤケクソだった。もういっそ、ろくでもない奴らを〆て金品を奪ってやろうかという気になる。元父親の武人がそうして、路銀を稼いだと武勇伝に聞いたことがあるし、何とかなるだろう。
「ちょっと、待ったぁー!!」
とりあえず宿に戻ろうとしたところで、ハンサム君に待ったをかけられた。着物の端を掴まれている。振り向くと、虫垂衣越しにイケメンの困った様子が見て取れた。
「あっ、あの、ひょっとして、わたしのせいでお嬢さんが路頭に迷いそうになってたりします?」
「その通りですけど何か?」
聞かれたので、普通にそうだと返事をする。今の澪に大丈夫ですよ、と強がる気遣いは皆無だ。そして、ついでとばかりに澪は心の内を垂れ流した。
「ロマンスグレーな再婚相手捕まえて明に渡った母から、貰った餞別のお金が底を尽きそうです。身体を売るのは嫌なので怪力を活かして、いっそ悪人からかっぱいでもいいかなって思ってます。どこかの誰かさんが暴れ猪を御しきれず、突っ込んできたおかげすわ。おほほほ!」
「わー!ごめんなさいごめんなさいっ!!」
「いいんですよぅ。山賊狩り誕生の瞬間だと思って下さいな。おほほほ!」
かなりヤケクソだった。だが、ハンサム君が気の毒なので、これ以上はやめておくことにした。
「まぁ、気に病まないでくださいな。何とかします、死に物狂いで」
「……いや、そこまで言われちゃうと、わたしが寝覚めが悪すぎますからっ!」
ハンサム君は着物の裾を離さない。見ると、少しもごもごしていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「あのっ、わたしの長屋に来ませんか?せめて、仕事が見つかるまで泊まってください!わたし以外に預かってる子どもが一人いますんで、ご心配なく!」
「……え?」
思わぬ提案に澪は目を見張った。若い男の家にのこのこ出向くのはちょっと……と、思わなくもないが、ぶっちゃけすごく助かるのは事実だ。子どもがいるとあれば、男に手出しをされる心配がかなり減る。それに、ハンサムというのも大きかった。澪を誘わなくても彼なら、女の方から寄っていくだろうし、恋人だっているかもしれないのだから。
否、恋人がいると逆にまずいか。
「わたしには恋人も妻もいない。だから、どうだろうか?流石にお嬢さんをそのまま放置というのは、わたしの良心が咎めますから」
ハンサム君はいい人らしい。少し悩んだが、あと数日して尽きてしまう軍資金を思うと、頷かずにはいられない澪だった。
「えっと、あの、それじゃあ……ご厄介になります」
ーーそれは、後に運命とも言うべき出会いであった。
とある宿屋にて母と強制グッバイイベントを終えた澪は、早速詰みそうになっていた。
というのも、悲しいかなこれと言う仕事が中々見つからない。
人のいる町に働きに出るというのは、いつの世でも有り触れた話だ。なので、とりあえずは合戦場や緊迫状態が続く地域を避けながら人の多い場所を目指したのだが、張り紙を見て仕事を探すも雇用先全てに断られた。
皆一様に、「訳ありはちょっと……」だの「嫁に来ないか?」だの「愛人にならないか?」だの。
今世、澪は美少女だった。多分、美少女ばかりを集めた中でも指折りというか、下手したらトップになる美少女だった。男を切らしたことのない美魔女が母なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
この時代にしては背が女にしては高いものの、顔は現代日本でも十分に通じるレベルの美少女なのである。あともう数年したら、妙齢の美女へクラスチェンジする事だろう。
が、そのせいで仕事に就こうとすると訳ありと思われたり、妻や愛人としてどうだと口説かれるのだ。妻もどうかと思うが、愛人なんてもっと嫌だ。
これなら稼げる男を捕まえる方が楽かもしれない……が、母の真似はごめんである。男心を掴む技を伝授はされたが、使う気は毛頭ない。
とにかく、女衒だけは避けつつ、アルバイトでも何でもいいから路銀を稼がないとまずい。野宿はできなくはないが、この時代には狼が普通に野山に出るし、山賊や野盗の類がザラにいるのだ。まぁ、そういう輩をやっつけることはできるにはできるが、できる事なら避けるに越したことはない。
「うぅ、今日こそ仕事を見つけなければ……!」
決意を固めて、いざ出陣した。
合戦場もとい、町は通りを人々が行き交っている。堺のような都会でこそないが、それなりに人の住む場所はやはり活気があった。
「お花ー、お花は如何ですか?」
可愛らしい声の十歳前後と思しき女の子が、愛嬌のある笑顔で花を売っている。あんな感じで自分も仕事にありつかないと……と、思っているとその女の子と目が合った。
途端、にこりと花を差し出される。
「おねーさん、お花は如何ですか?」
すい、と差し出されたのは可憐な花だ。幾らか纏めて束にしてある。育てたというよりは摘んで来たのだろう。正直、要らないが愛らしい笑顔と声を前に断りづらい所もある。
「あー、そしたら一つだけ」
「まいどー」
軍資金が数日分しかないのにアホか、と自分でもツッコミを入れたが、目が合ってしまったのが運の尽きだ。幸い、花はそんなに高くなく小銭で売買できた。
その花を受け取ると、少女がしげしげとこちらを見つめていた。
「おねーさん、凄い美人ですね!」
どうやら、小銭を渡す時に虫垂衣から顔が垣間見えたらしい。その顔で苦労していたりするのだが、素直な褒め言葉にちょっと嬉しくなって、わざと顔をのぞかせて少女に笑いかけた。
「ありがとう。あなたもとっても可愛いわよ」
「……はぁ、本当に綺麗ですね。あの、その、ここ最近、仕事探しとかしてますよね」
照れたのか少女は、ぽっと頬を染めながら話しかけてきた。
「ちょっと、この辺りでは見かけない美人が仕事を探してるようだって、噂になってました」
「え、ウソ」
そんな噂になってるとは知らなかった。
いい感じの町だったのに、出て行った方がいいのではないか。とはいえ、次の場所に行くまでの路銀がやばい。
「あっちの通りにある小間物屋さんが、売り子を探してました。おねーさんなら、雇ってもらえると思います。ご主人は御年寄だから、安心でしょ?」
思わぬ情報を得て、澪は目を丸くした。
「そんな張り紙なんて無かったけど……」
「張り紙で募集してない所だってありますよ。まずはお店の人に声をかけてみるといいかもしれません」
「そっか。ありがとうね!」
なるかならないかは分からないが、歩き回る手間は省けた。ぎゅっと女の子の手を握ると、恥ずかしそうに下を俯いている。妹がいたらこんな感じだろうか、可愛い。花を買って良かった。
それから少女と別れ、早速教えられた小間物屋に向かった。簪や櫛を初めとした女性向けの品々が店舗に並べられている。
「ごめんくださーい」
「いらっしゃい」
声をかけると中から背の低い老人が出てきた。市女笠を外し、店内に入ると澪の美貌を見て何度か目を瞬いている。
「こりゃまぁ何と……天女かと思った」
「そんな大袈裟ですわ。あの、こちらで売り子を探していると聞きまして。その、雇ってはもらえないかと」
客ではないと知ったら、がっかりされるだろうか。あるいは、既に売り子が見つかっているかもしれない。
「ああ、お前さんが噂の子かい。あんたみたいな綺麗な子なら大歓迎だよ。売り子の子が最近、嫁いで辞めちゃってなぁ。品を並べるのも大変で」
「っ、本当ですか?!ありがとうございます!」
まさかの即決採用に、光明が指した気分だ。
「お給金はそんなにあげられないから、他の仕事とかけ持ちしたいなら若い娘さん向けの仕事を紹介するよ」
「是非お願いしますっ!」
小間物屋の主人が神様に見えてきた。
「そしたら、簡単に店のことを教えるから中に入りなさい」
「はいっ!」
あの花売りの女の子に感謝しなければ。
澪はその後、主人と談義しながらも店のことを簡単に教わり、商品のチェックや客の相手等をしながら早速に働いた。
気がつけばあっという間に昼餉の時間だった。
「澪ちゃん、おうどんでも食べに行こうか。奢るよ」
「まぁ、本当ですか。ありがとうございます」
小間物屋の主人はいい人で、澪は数時間で打ち解けていた。これなら、この先もうまくやっていけそうだ。
そう思い店から出て二人並んでうどん屋に向かって歩き出そうとした時だった。
ドドド……!と、音を立てつつ、土煙と共に何かが凄い勢いで真っ直ぐに、澪達に向かって突っ込んで来た。
「ぎゃあーーー!!」
若い男性の声がする。見ると、大きな猪の手綱を握りしめ引きずられていた。何故、こんな所に猪が?と思うよりも、猪が突っ込んでくる速度の方が早い。
避けることも出来るが、すぐ隣には小間物屋の主人がいるし、暴れ猪が店先に突っ込まないとも限らない。
それは咄嗟の判断だった。
「っ、はぁあああ!!」
澪はあえて自分から猪に飛び込んだ。そして、猪の牙を掴んで、衝撃を受け止める。普通なら吹き飛ばされるだろうそれを、全身で受け止めるとざりざり!と、地面がえぐれて、スピードが落ちた。
そして、手綱を握っていた男性に声をかけた。
「投げるから、手綱を放して!」
「っえ、はいぃー!」
パッと男性が持っていた手綱を離したのを見た澪は、そのまま猪の牙を持ち、巨体を背負い投げした。ペットかもしれないため、殺す気はなかったが大人しくさせなければならない。
猪はというと、まさか持ち上げられ挙句に投げられるとは思わなかったのだろう。豚の仲間だけに、ブヒッと鳴いて悲鳴を上げた。
ひっくり返った猪の腹を思い切り踏みつける。
「こらぁ、人混みで暴れんじゃないわよ。猪鍋にされたくなかったら、大人しくしなさいね」
動物は基本的に相手が格上の存在だと認識すれば、従順になる。犬のそれが顕著だが、何もそれは犬に限っての話ではない。動物の扱いは、猟師の元父親から教わっている。それこそ、狩りの仕方から捌き方まで。猪を肉と骨と革にばらす等、造作もない。
ギロリ、と睨みつけると猪は硬直して大人しくなった。のそのそと起き上がるも、暴れる気配はない。
猪は手綱を自分で口に咥え、震える身体で澪に差し出した。
「ひぃっ……!」
澪が猪から手綱を受け取った所で、小間物屋の主人の微かな悲鳴が聞こえた。ハッとして、そちらを向くと青い顔をしてガタガタ震えている。
ーーしまった。
「澪ちゃんっ、すまんが、雇う話は無かったことに!こ、これ、少ないけど今日の分ってことで」
小さな小袋が澪に向かって投げられた。どうやら、うどん屋に行くために持っていた銭らしい。そのまま、小間物屋の主人は老人とは思えぬ勢いで店に帰るや、高速で店仕舞いし、日も高いのに「本日休業」の貼り紙をして店の扉を閉めた。
残されたのは澪に怯えて従う猪と、その猪に引き摺られていた若い男に、それらを遠巻きに見ていた人々である。
「え……?わたし、クビ?マジで?」
雇われて働いた時間は三時間程だろうか。そんな馬鹿な。というより、今日のこの騒ぎは間違いなく噂になる。こんな恐ろしい怪力娘を雇う所はまずないと見ていい。
ーー詰んだ。
澪は深々とため息をついて、天を仰いだ。涙が出そうである。天国から地獄のような気分だ。
「……あ、あの」
「はい、手綱。多分、もう暴れないと思うんで」
猪に引き摺られていた男は、結構な男前だった。背も高いが、ハンサム君にときめいている場合ではない。目の前のイケメンより、仕事探しの方が余程に大事だ。
「あー、どうしよっかな。こうなったら、山賊狩りしよっかなぁ……」
半ばヤケクソだった。もういっそ、ろくでもない奴らを〆て金品を奪ってやろうかという気になる。元父親の武人がそうして、路銀を稼いだと武勇伝に聞いたことがあるし、何とかなるだろう。
「ちょっと、待ったぁー!!」
とりあえず宿に戻ろうとしたところで、ハンサム君に待ったをかけられた。着物の端を掴まれている。振り向くと、虫垂衣越しにイケメンの困った様子が見て取れた。
「あっ、あの、ひょっとして、わたしのせいでお嬢さんが路頭に迷いそうになってたりします?」
「その通りですけど何か?」
聞かれたので、普通にそうだと返事をする。今の澪に大丈夫ですよ、と強がる気遣いは皆無だ。そして、ついでとばかりに澪は心の内を垂れ流した。
「ロマンスグレーな再婚相手捕まえて明に渡った母から、貰った餞別のお金が底を尽きそうです。身体を売るのは嫌なので怪力を活かして、いっそ悪人からかっぱいでもいいかなって思ってます。どこかの誰かさんが暴れ猪を御しきれず、突っ込んできたおかげすわ。おほほほ!」
「わー!ごめんなさいごめんなさいっ!!」
「いいんですよぅ。山賊狩り誕生の瞬間だと思って下さいな。おほほほ!」
かなりヤケクソだった。だが、ハンサム君が気の毒なので、これ以上はやめておくことにした。
「まぁ、気に病まないでくださいな。何とかします、死に物狂いで」
「……いや、そこまで言われちゃうと、わたしが寝覚めが悪すぎますからっ!」
ハンサム君は着物の裾を離さない。見ると、少しもごもごしていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「あのっ、わたしの長屋に来ませんか?せめて、仕事が見つかるまで泊まってください!わたし以外に預かってる子どもが一人いますんで、ご心配なく!」
「……え?」
思わぬ提案に澪は目を見張った。若い男の家にのこのこ出向くのはちょっと……と、思わなくもないが、ぶっちゃけすごく助かるのは事実だ。子どもがいるとあれば、男に手出しをされる心配がかなり減る。それに、ハンサムというのも大きかった。澪を誘わなくても彼なら、女の方から寄っていくだろうし、恋人だっているかもしれないのだから。
否、恋人がいると逆にまずいか。
「わたしには恋人も妻もいない。だから、どうだろうか?流石にお嬢さんをそのまま放置というのは、わたしの良心が咎めますから」
ハンサム君はいい人らしい。少し悩んだが、あと数日して尽きてしまう軍資金を思うと、頷かずにはいられない澪だった。
「えっと、あの、それじゃあ……ご厄介になります」
ーーそれは、後に運命とも言うべき出会いであった。