第2話 忍術学園へようこそ
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ドクタケ、タソガレドキ、チャミダレアミタケ、オーマガトキ、etc……。
澪は、己のいた世界の過去であれば、まずあり得ない地名のオンパレードを前に、悟りを開いた僧侶の如き顔になった。
「忍術学園の卒業生は優秀で、城に雇われエリートコースを歩む者も少なくない。有効的な城や中立な城もあるが、敵対的な行動に出てくる城も勿論ある。澪ちゃんは、わしの秘書になる立場だし、忍術学園から離れこれらの城の領地に入る際は、くれぐれも気をつけることを頼みたい」
澪に大真面目に講義してくれているのは、学園長である。そのすぐ横では、ヘムヘムが座布団に座って「ヘムヘム」と頷いているーースマホで撮影して動画投稿したいな、とか、思ったら負けである。
仙蔵の稽古を終えた翌日のこと。
くのたまの授業の補佐も終わり、澪は残る時間で学園長自ら教えてくれる有難い話を聞いて、地図と城の位置を頭に叩き込んでいた。
「上級生の実習では、潜入等も課題として行うことが多い。四年生から、この学園では授業の難易度が上がっていく。澪ちゃんも、もし上級生の授業についていく事があれば、向かう先が学園にとって友好的かそうでないかを把握する必要があるからの。全部覚えてほしい」
「畏まりました」
この程度の知識を頭に入れるくらいなら、お安い御用である。
「いいの、いいのぅ。美人秘書っ!」
澪の胸元にある秘書の札を見て、ニンマリ笑う学園長。と言っても、秘書らしい仕事は今のところ特にしていない。
「あの……学園長先生。お仕事のスケジュール管理や、学園の運営管理のお手伝い等、ありましたらいつでもお気軽に、わたしまでお願いしますね。一応、秘書ですので」
「勿論じゃ、用があったら言うとも。今日のところは、下がっててよいぞ」
にこにこ笑顔で言われると、頷くしかない。澪は一礼して去って行った。
+++++
庭園にある鹿脅しの音がカコン、と澪が去った後の学園長室で木霊する。
すっかり静かになった室内で、学園長がゆっくりと口を開いた。
「……おるかの。山田先生、土井先生」
天井裏にこれまで息を潜めていた忍びに、学園長が名を呼んで声をかけた。
音もなく、呼ばれた二人が天井裏から降りてくる。
忍術学園は、学園のあちこちに隠し通路やドンデン返しが仕掛けられており、中に入った人間を監視できる造りが存在している。学園長の部屋も例に漏れず同じであった。
澪が学園にやって来て数日、彼女の働き振りや行動を教師達、特に彼女を推薦した半助と伝蔵が中心になって監視し、また、澪の語る素性についても少しずつではあるが調べていた。
「学園での澪くんは、本当に優秀です。怪力だけじゃなく、あらゆる方面でその辺の大人より優秀ですな。些か、でき過ぎるとは思いますが、間者の可能性はほぼないでしょう。あの子は目立ち過ぎる、忍びには不向きだと思います」
伝蔵が澪について思った事を語ると、学園長は一つ頷き、今度は半助の方を見てきた。半助については、澪の過去の情報を可能な限り探る仕事をしている。とはいえ、彼女が居たのは遠方のため、中々裏は取れていない。
「兵庫津で母親と別れたというのは、本当のようです。明の私的貿易船に澪さんの母親と思われる人物が乗船していたと、兵庫水軍からの情報で分かっております。それ以前の事については、情報が不測していますので、澪さんの元父親達の名前を探る等して、裏が取れればと」
仕事だと分かっていて、やっている半助であるが僅かに胸がチクリとした。澪本人に何も言わないままで、こんな事をしていると知られたら……そう思うと、は組の成績を採点している時のように、胃が痛む気がするのだ。
「ま、澪ちゃんは白じゃろう。土井先生、あまり無理に探らんでもよいぞ。今後は教師陣の監視の目を緩めようかの。が、外出する際は、念のため引き続き気にしておいてほしい。ドクタケをはじめ、澪ちゃんの存在を知って接触があったら厄介じゃ。澪ちゃんは諜報活動には向かぬが、戦場であれば武者としての才能がずば抜けておる。下手な場所におれば、使い潰されかねん。雇ったのも何かの縁じゃ、ここで可能な限り保護せねばの。才能のある良い子じゃし、美人を取られたくないからの」
お茶を美味しそうに飲みながら、おっとり語る学園長に、半助は伝蔵と二人で畏って頷いたのだった。
部屋から退室するよう命じられたので、半助は伝蔵と別れて明日の授業の準備をするために一年は組の教室に戻った。
机が並べられた部屋は、子ども達がいないためガランとしており、窓から夕方になりつつある陽の光が入って来ている。
子ども達がきちんと清掃を終えているか、チョークは足りそうか、忘れ物がないか等細かな事の確認を終えたら、学級委員長の庄左ヱ門が書いた日誌を読んで終わりだ。
日誌を開こうとした、その時である。
「半助さん、居ますか」
足音はしていたので、誰か来るか通り過ぎるかと思ったら、正体は澪だった。
ガラリ、と扉が開くと自分と同じ忍者服を纏った澪がいる。
途端に鼓動をやけに強く感じて、澪と目を合わせられなくなった。最近の自分はおかしい。澪が、六年生に勝利して仮面を取って満面の笑顔で笑っているのを見た時から、やたら彼女の事を意識してしまうのだ。
「澪さん、どうしたんだい」
「御礼の品が出来上がったので、届けに来ました」
すい、と出来栄えのよい大きめの巾着が差し出された。落ち着いた色合いで、しっかりした布が使われている。
「もう作ったのかい。忙しいだろうに、すごいね。それにとても上手だ」
巾着を受け取って広げ、感心した。
出席簿だけじゃなく、他にも色々と入りそうだ。そのまま鞄として使っても、洒落ている見た目で素直にいい物だと思った。売れば欲しいと思う人間が出てくるだろうーーそんな品だ。
「いい物だね。凄く嬉しいよ、ありがとう」
声が震えていないか、心配だった。変な声が出そうなくらい嬉しかった。顔がくしゃくしゃになってやしないか、口元が笑いすぎてないか気になる。
柔らかな日の光に照らされる澪はとても美しい。若い姿をした山本シナと並べば、それだけで映えるだろうに。
「どういたしまして。喜んでいただけて、よかったです」
ふわ、と澪が微笑んだ。一枚の絵のような姿に、呼吸が止まるかと思った。可憐な少女の外見こそしているが、澪の笑みは不思議な艶がある。大人っぽい、と言うべきか。内側から彼女の魅力が強く感じられて、半助の身体は固まってしまう。
なんだこの体たらくは。
澪よりも十も歳上のくせに、澪よりも大人のくせに、どうして自分の方に余裕がないような事になってるんだろうか。
「あの、実は御礼を渡すついでに半助さんに相談したいことがありまして。今、お時間とかありますか」
「えっ、ああ、大丈夫だよ。澪さん」
綺麗な唇だ、花びらのようーーではない。
「実は、潮江さんと食満さんのことで」
きゅ、と可愛い眉間に困ったように皺が寄る。彼女と同じ歳の六年生の犬猿組の名に、さては澪の前であの二人が何かやらかしたのかと心配になった。
怪力があるとはいえ、澪は女性だ。何かあったら、それこそ、あの犬猿組が張り合ってーー例えば美しい澪に魅せられ、取り合うなんて事になったら……そうだったとしたら、本気で説教してやろうか。
「あの二人、実は試験の時にわたしにやられたせいで、落ち込んじゃってるそうなんです」
「ーーは?」
落ち込む、と聞いて半助の想像もとい妄想は止まった。
「同室の仙蔵くんや伊作くんから、喝を入れてほしいとお願いされまして。具体的には二人と戦ってほしいそうで」
「成程……ん?なぜ、その二人だけ名前呼びなんだ」
落ち込んでいるらしい犬猿組のことより、そちらの方が気になった。
「許可を貰ったので、名前で読んでいます。別に、二人だけじゃないですよ。小平太くんと長次くんもです」
「あー……そういう」
そういえば、自分の時も澪は許可を取っていたのを思い出す。下級生なら澪は名前で積極的に呼んでいるし、仙蔵や伊作の名前を澪が呼んだって問題無いはずなのに、面白くないと思ってしまった。
ーーやっぱり、おかしい。
何故だ。
「思春期の男の子のプライドをへし折った張本人のわたしが、喝を入れるために戦うにしても、それで本当にうまくいくのか。ちょっと気になりますし。大体、どういう風に潮江さんや食満さんに声をかけたらいいか分からず」
「伊作達にそこは丸投げされたんだな……」
澪が頼りになるせいで二人は任せたのだろうが、澪には何の責任もないのだし、それは頼まれても確かに困るだろう。
大体、落ち込むのはそもそもそうなる側の心の問題である。
同室だから、伊作達は放っておけなくなっただけなのだろうが、巻き込まれて困っているらしい澪を見ると放置はできない。
半助は手を貸してあげたくなった。
「分かった、わたしも協力しよう。落ち込んでいる二人には、伊作達の言うように澪さんからの喝が有効だと思うし、場を設けるのを手伝うよ」
「本当ですか、助かります。ありがとうございます、半助さん!」
まるで、目の前で花が開いたような笑顔だった。細い指先が半助の手に軽く触れる。
顔中に熱が集まっていく。固まってしまっている自覚があった。
思春期の男の子。
ふと、澪が犬猿組を語った言葉を思い出す。思えば、自分の澪に対する反応は思春期の少年のそれだ。
己を冷静に見れば、澪にやたらめたら挙動不振になりがちで、彼女の反応一つ一つに敏感に反応するようになっているは、余裕がないは、無駄な思考が働くは、これまでの自分ではありえない事態に目を覆いたくなる。
「本当に困っていたので、助かりました。後ほど、またお話ししましょう。わたし、これから山田先生ときり丸の所にも御礼の品を渡しに行かないといけませんので、失礼しますね」
澪がくるりと背を向けて離れてしまうーーその瞬間。
半助の身体が勝手に動いて、澪の手首を掴んでいた。半助の指が簡単に回ってしまう、何処にあの恐るべき怪力が潜んでいるか検討もつかない程、細くて華奢な女の手首だ。
ふわ、と澪から良い香りがした。忍びは基本的に匂いを纏うのを避ける。だが、澪は忍びではないためか花に似た香りがした。
まるで、今まで何も気付かなかった自分が馬鹿みたいで半助は澪の手を掴んでない方の手で、自らの顔を覆った。
「半助さん、どうしました」
澪の声がする。優しそうなのに落ち着いて、どこか凛とした心地の良い声。
嗚呼、ずっと聞いていたいーーではない!
なんて事だ、なんて事だ、なんて事だ。
「はっ、ご、ごめんね。あ、そ、そう!本当に巾着袋が嬉しかったから。それを言おうと思ったんだ。それはもう、大事に、大事にっ、使うから!」
「そうですか……作った甲斐があります。ご丁寧にどうも。では、わたしはこれで」
離したくない。
でも、流石に怪しまれるからと、手首を解放して澪を見送る。
また、半助以外誰もいなくなってしまった一年は組の教室で、へなへなと半助はその場に崩れ落ちた。
胸がドキドキして、顔が熱くて、息がちょっし辛い。
いつもの胃じゃなくて、痛むはずのない心が震えて、そのせいで身体がおかしい。
「ーーいやいやいや、相手は十五だぞ。生徒と同い年だぞ。正気かわたしは。時間も出会ってまだ然程、経ってないんだぞ。見た目は可憐だけど凄い怪力だぞ。そりゃあ、いい子だけど。下手したら、わたしだって負けるかもしれん強い子なんだぞっ。しかも、時々なんかやたら漢前だぞ!!」
誰も見てないのをいい事に、小声で床に向かってブツブツ話しかける。側から見たら、何かおかしな物でも食べて具合を悪くしたか、頭をぶつけたかとでも思われそうだが、口から溢れる言葉とは裏腹に、澪に反応している己の心は正直だった。
えらいこっちゃ。
土井半助ーー二十五歳、独身彼女無し。
やばい相手に恋をして、底なし沼にハマって抜けられなくなったのを自覚した瞬間であった。
それから、数分後。
どうにか普通を取り戻した半助は、無表情になった。いつも通り、冷静になれと己を奮い立たせ澪から貰った巾着を大事に、それは大事に小脇に抱えて教室を出て、一旦職員室へと戻った。
そこには伝蔵がいた。見ると、真新しい綺麗な巾着を手に持っている。どうやら、澪から渡されたらしく彼女はきり丸の所へと行ってしまったようだった。
「戻ったか。澪くんは律儀だな、針仕事も丁寧だ……いいお嫁さんになるな、あの子は。怪力がちょっと、いや大分、かなーりアレだけど」
嫁。
一言余計とはいえ、女子を褒める定番な言葉に、先程、色々自覚したばかりの半助は動揺した。
嫁ーー、もしも澪が自分とそんな関係になったら、と自動的に妄想が開始される。
澪が嫁になったら、浮気なんか絶対にしない、というか彼女以外に目移りする気がしない。
それはもう毎日彼女を褒めるし、それはもう甘やかす、甘えてくれるかは謎だが。というかむしろ甘えたいかもしれない。
きり丸に尻に敷かれそう等と言われたが、構うものか。むしろ喜んで敷かれてやる。
澪のお尻は形がよく可愛いのだ。
「おーい、土井せんせーい、土井半助ー。どうした、わたしの話が聞こえとるか。おーい、何で笑っとるんだ。ちょっと、不気味だぞー」
思考が妄想と言う名の荒波に揉まれている半助を、伝蔵が顔を顰めて見ていた。
「あんたねぇ、澪くんに惚れたのは分かったが、あの子はわたしの妻……否、多分それ以上に攻略難易度が高いぞ」
「っ?!山田先生、どうしてそれを。わたし、今さっき気付いたばかりなのに!」
ずばり、伝蔵に気持ちを当てられて慌てる半助。そして、難易度が高いと評価する伝蔵に気が付けば詰め寄っていた。
「攻略難易度が高いって、どういう意味です。さては、すでに澪さんには想い人とか付き合っている男がいるとか、そう言う……」
「近い近い近い!ちょっと、離れてくれんか。そう言う意味じゃなくて、澪くんは純粋に惚れさせるのが難しいと言っておるのだ。女は自分より優秀な男が基本的に好きだ。土井先生、あの子を男らしく圧倒できるのか?」
言われた内容に半助は固まる。
普通は女より男は強い。逞しい肉体に強い力がある。女はそれにときめいて……これが普通だ。
が、澪はというと身体は華奢だが、怪力がやばい。アホみたいにやばい。攻撃が当たったら、半助も瞬時にやられる妙な確信があるくらいにはやばい。
滅多にいない美人で手先も器用だし、料理も上手、字も達筆で賢いし狩猟の腕前もかなりのもの。しかも多分、まだ何かある隠し玉の要素。
「ひょ、兵法ならわたしが上だと思います。それに、忍びですから」
「あのねぇ、そんな物は、澪さんが同じく学び出したら追い付かるかもしれんだろうが。ここには、その手の資料がわんさかあるだろうに」
「うぅ……」
澪の高性能且つ多機能さを思い出し、半助の顔が情けなく歪んだ。
「十も上であれば、その分だけ澪くんより頼りになる所を見せにゃならん。そうでなければ歳の離れた男に、女は惚れんぞ」
「ぐはっ」
無慈悲に言い渡される内容に、悶絶しそうな半助である。
「わたしに当たり前のことを言われた程度で、落ち込むようなら傷が浅いうちに諦めるという手もあるが」
「それは……無理です」
すでに抜け出せない沼にいるのに、不可能である。半助はキリッとした顔をして、首を振った。
「なら、悩んで苦しむ事だな。まだ若いんだ、半助。頑張るんだな」
ぽん、と元気づけるように肩を叩かれる。
「早々ないとは思うがライバルが現れる前に、澪くんに異性として興味くらいは持ってもらえるようにな。今の所、あの子は土井先生に対して特に何とも思っとらんだろうし」
「何と言う辛口っ。それに、そんな不吉な事を言わんでください。縁起でもない!」
幾ら天女の如き美少女でも恐ろしい怪力ゆえ、そんな簡単に彼女に惚れるような自分みたいな男は出てこないと思いたい。
半助は顔が引き攣りそうになるのを堪えた。
ーー後に、この伝蔵の発言が事実になると知っていたら、半助は喋る前に伝蔵の口を塞いだ事だろう。
この日を境に、半助は己のハマった沼のせいで、新たな胃痛の種をまた一つ抱える羽目になるのだった。
澪は、己のいた世界の過去であれば、まずあり得ない地名のオンパレードを前に、悟りを開いた僧侶の如き顔になった。
「忍術学園の卒業生は優秀で、城に雇われエリートコースを歩む者も少なくない。有効的な城や中立な城もあるが、敵対的な行動に出てくる城も勿論ある。澪ちゃんは、わしの秘書になる立場だし、忍術学園から離れこれらの城の領地に入る際は、くれぐれも気をつけることを頼みたい」
澪に大真面目に講義してくれているのは、学園長である。そのすぐ横では、ヘムヘムが座布団に座って「ヘムヘム」と頷いているーースマホで撮影して動画投稿したいな、とか、思ったら負けである。
仙蔵の稽古を終えた翌日のこと。
くのたまの授業の補佐も終わり、澪は残る時間で学園長自ら教えてくれる有難い話を聞いて、地図と城の位置を頭に叩き込んでいた。
「上級生の実習では、潜入等も課題として行うことが多い。四年生から、この学園では授業の難易度が上がっていく。澪ちゃんも、もし上級生の授業についていく事があれば、向かう先が学園にとって友好的かそうでないかを把握する必要があるからの。全部覚えてほしい」
「畏まりました」
この程度の知識を頭に入れるくらいなら、お安い御用である。
「いいの、いいのぅ。美人秘書っ!」
澪の胸元にある秘書の札を見て、ニンマリ笑う学園長。と言っても、秘書らしい仕事は今のところ特にしていない。
「あの……学園長先生。お仕事のスケジュール管理や、学園の運営管理のお手伝い等、ありましたらいつでもお気軽に、わたしまでお願いしますね。一応、秘書ですので」
「勿論じゃ、用があったら言うとも。今日のところは、下がっててよいぞ」
にこにこ笑顔で言われると、頷くしかない。澪は一礼して去って行った。
+++++
庭園にある鹿脅しの音がカコン、と澪が去った後の学園長室で木霊する。
すっかり静かになった室内で、学園長がゆっくりと口を開いた。
「……おるかの。山田先生、土井先生」
天井裏にこれまで息を潜めていた忍びに、学園長が名を呼んで声をかけた。
音もなく、呼ばれた二人が天井裏から降りてくる。
忍術学園は、学園のあちこちに隠し通路やドンデン返しが仕掛けられており、中に入った人間を監視できる造りが存在している。学園長の部屋も例に漏れず同じであった。
澪が学園にやって来て数日、彼女の働き振りや行動を教師達、特に彼女を推薦した半助と伝蔵が中心になって監視し、また、澪の語る素性についても少しずつではあるが調べていた。
「学園での澪くんは、本当に優秀です。怪力だけじゃなく、あらゆる方面でその辺の大人より優秀ですな。些か、でき過ぎるとは思いますが、間者の可能性はほぼないでしょう。あの子は目立ち過ぎる、忍びには不向きだと思います」
伝蔵が澪について思った事を語ると、学園長は一つ頷き、今度は半助の方を見てきた。半助については、澪の過去の情報を可能な限り探る仕事をしている。とはいえ、彼女が居たのは遠方のため、中々裏は取れていない。
「兵庫津で母親と別れたというのは、本当のようです。明の私的貿易船に澪さんの母親と思われる人物が乗船していたと、兵庫水軍からの情報で分かっております。それ以前の事については、情報が不測していますので、澪さんの元父親達の名前を探る等して、裏が取れればと」
仕事だと分かっていて、やっている半助であるが僅かに胸がチクリとした。澪本人に何も言わないままで、こんな事をしていると知られたら……そう思うと、は組の成績を採点している時のように、胃が痛む気がするのだ。
「ま、澪ちゃんは白じゃろう。土井先生、あまり無理に探らんでもよいぞ。今後は教師陣の監視の目を緩めようかの。が、外出する際は、念のため引き続き気にしておいてほしい。ドクタケをはじめ、澪ちゃんの存在を知って接触があったら厄介じゃ。澪ちゃんは諜報活動には向かぬが、戦場であれば武者としての才能がずば抜けておる。下手な場所におれば、使い潰されかねん。雇ったのも何かの縁じゃ、ここで可能な限り保護せねばの。才能のある良い子じゃし、美人を取られたくないからの」
お茶を美味しそうに飲みながら、おっとり語る学園長に、半助は伝蔵と二人で畏って頷いたのだった。
部屋から退室するよう命じられたので、半助は伝蔵と別れて明日の授業の準備をするために一年は組の教室に戻った。
机が並べられた部屋は、子ども達がいないためガランとしており、窓から夕方になりつつある陽の光が入って来ている。
子ども達がきちんと清掃を終えているか、チョークは足りそうか、忘れ物がないか等細かな事の確認を終えたら、学級委員長の庄左ヱ門が書いた日誌を読んで終わりだ。
日誌を開こうとした、その時である。
「半助さん、居ますか」
足音はしていたので、誰か来るか通り過ぎるかと思ったら、正体は澪だった。
ガラリ、と扉が開くと自分と同じ忍者服を纏った澪がいる。
途端に鼓動をやけに強く感じて、澪と目を合わせられなくなった。最近の自分はおかしい。澪が、六年生に勝利して仮面を取って満面の笑顔で笑っているのを見た時から、やたら彼女の事を意識してしまうのだ。
「澪さん、どうしたんだい」
「御礼の品が出来上がったので、届けに来ました」
すい、と出来栄えのよい大きめの巾着が差し出された。落ち着いた色合いで、しっかりした布が使われている。
「もう作ったのかい。忙しいだろうに、すごいね。それにとても上手だ」
巾着を受け取って広げ、感心した。
出席簿だけじゃなく、他にも色々と入りそうだ。そのまま鞄として使っても、洒落ている見た目で素直にいい物だと思った。売れば欲しいと思う人間が出てくるだろうーーそんな品だ。
「いい物だね。凄く嬉しいよ、ありがとう」
声が震えていないか、心配だった。変な声が出そうなくらい嬉しかった。顔がくしゃくしゃになってやしないか、口元が笑いすぎてないか気になる。
柔らかな日の光に照らされる澪はとても美しい。若い姿をした山本シナと並べば、それだけで映えるだろうに。
「どういたしまして。喜んでいただけて、よかったです」
ふわ、と澪が微笑んだ。一枚の絵のような姿に、呼吸が止まるかと思った。可憐な少女の外見こそしているが、澪の笑みは不思議な艶がある。大人っぽい、と言うべきか。内側から彼女の魅力が強く感じられて、半助の身体は固まってしまう。
なんだこの体たらくは。
澪よりも十も歳上のくせに、澪よりも大人のくせに、どうして自分の方に余裕がないような事になってるんだろうか。
「あの、実は御礼を渡すついでに半助さんに相談したいことがありまして。今、お時間とかありますか」
「えっ、ああ、大丈夫だよ。澪さん」
綺麗な唇だ、花びらのようーーではない。
「実は、潮江さんと食満さんのことで」
きゅ、と可愛い眉間に困ったように皺が寄る。彼女と同じ歳の六年生の犬猿組の名に、さては澪の前であの二人が何かやらかしたのかと心配になった。
怪力があるとはいえ、澪は女性だ。何かあったら、それこそ、あの犬猿組が張り合ってーー例えば美しい澪に魅せられ、取り合うなんて事になったら……そうだったとしたら、本気で説教してやろうか。
「あの二人、実は試験の時にわたしにやられたせいで、落ち込んじゃってるそうなんです」
「ーーは?」
落ち込む、と聞いて半助の想像もとい妄想は止まった。
「同室の仙蔵くんや伊作くんから、喝を入れてほしいとお願いされまして。具体的には二人と戦ってほしいそうで」
「成程……ん?なぜ、その二人だけ名前呼びなんだ」
落ち込んでいるらしい犬猿組のことより、そちらの方が気になった。
「許可を貰ったので、名前で読んでいます。別に、二人だけじゃないですよ。小平太くんと長次くんもです」
「あー……そういう」
そういえば、自分の時も澪は許可を取っていたのを思い出す。下級生なら澪は名前で積極的に呼んでいるし、仙蔵や伊作の名前を澪が呼んだって問題無いはずなのに、面白くないと思ってしまった。
ーーやっぱり、おかしい。
何故だ。
「思春期の男の子のプライドをへし折った張本人のわたしが、喝を入れるために戦うにしても、それで本当にうまくいくのか。ちょっと気になりますし。大体、どういう風に潮江さんや食満さんに声をかけたらいいか分からず」
「伊作達にそこは丸投げされたんだな……」
澪が頼りになるせいで二人は任せたのだろうが、澪には何の責任もないのだし、それは頼まれても確かに困るだろう。
大体、落ち込むのはそもそもそうなる側の心の問題である。
同室だから、伊作達は放っておけなくなっただけなのだろうが、巻き込まれて困っているらしい澪を見ると放置はできない。
半助は手を貸してあげたくなった。
「分かった、わたしも協力しよう。落ち込んでいる二人には、伊作達の言うように澪さんからの喝が有効だと思うし、場を設けるのを手伝うよ」
「本当ですか、助かります。ありがとうございます、半助さん!」
まるで、目の前で花が開いたような笑顔だった。細い指先が半助の手に軽く触れる。
顔中に熱が集まっていく。固まってしまっている自覚があった。
思春期の男の子。
ふと、澪が犬猿組を語った言葉を思い出す。思えば、自分の澪に対する反応は思春期の少年のそれだ。
己を冷静に見れば、澪にやたらめたら挙動不振になりがちで、彼女の反応一つ一つに敏感に反応するようになっているは、余裕がないは、無駄な思考が働くは、これまでの自分ではありえない事態に目を覆いたくなる。
「本当に困っていたので、助かりました。後ほど、またお話ししましょう。わたし、これから山田先生ときり丸の所にも御礼の品を渡しに行かないといけませんので、失礼しますね」
澪がくるりと背を向けて離れてしまうーーその瞬間。
半助の身体が勝手に動いて、澪の手首を掴んでいた。半助の指が簡単に回ってしまう、何処にあの恐るべき怪力が潜んでいるか検討もつかない程、細くて華奢な女の手首だ。
ふわ、と澪から良い香りがした。忍びは基本的に匂いを纏うのを避ける。だが、澪は忍びではないためか花に似た香りがした。
まるで、今まで何も気付かなかった自分が馬鹿みたいで半助は澪の手を掴んでない方の手で、自らの顔を覆った。
「半助さん、どうしました」
澪の声がする。優しそうなのに落ち着いて、どこか凛とした心地の良い声。
嗚呼、ずっと聞いていたいーーではない!
なんて事だ、なんて事だ、なんて事だ。
「はっ、ご、ごめんね。あ、そ、そう!本当に巾着袋が嬉しかったから。それを言おうと思ったんだ。それはもう、大事に、大事にっ、使うから!」
「そうですか……作った甲斐があります。ご丁寧にどうも。では、わたしはこれで」
離したくない。
でも、流石に怪しまれるからと、手首を解放して澪を見送る。
また、半助以外誰もいなくなってしまった一年は組の教室で、へなへなと半助はその場に崩れ落ちた。
胸がドキドキして、顔が熱くて、息がちょっし辛い。
いつもの胃じゃなくて、痛むはずのない心が震えて、そのせいで身体がおかしい。
「ーーいやいやいや、相手は十五だぞ。生徒と同い年だぞ。正気かわたしは。時間も出会ってまだ然程、経ってないんだぞ。見た目は可憐だけど凄い怪力だぞ。そりゃあ、いい子だけど。下手したら、わたしだって負けるかもしれん強い子なんだぞっ。しかも、時々なんかやたら漢前だぞ!!」
誰も見てないのをいい事に、小声で床に向かってブツブツ話しかける。側から見たら、何かおかしな物でも食べて具合を悪くしたか、頭をぶつけたかとでも思われそうだが、口から溢れる言葉とは裏腹に、澪に反応している己の心は正直だった。
えらいこっちゃ。
土井半助ーー二十五歳、独身彼女無し。
やばい相手に恋をして、底なし沼にハマって抜けられなくなったのを自覚した瞬間であった。
それから、数分後。
どうにか普通を取り戻した半助は、無表情になった。いつも通り、冷静になれと己を奮い立たせ澪から貰った巾着を大事に、それは大事に小脇に抱えて教室を出て、一旦職員室へと戻った。
そこには伝蔵がいた。見ると、真新しい綺麗な巾着を手に持っている。どうやら、澪から渡されたらしく彼女はきり丸の所へと行ってしまったようだった。
「戻ったか。澪くんは律儀だな、針仕事も丁寧だ……いいお嫁さんになるな、あの子は。怪力がちょっと、いや大分、かなーりアレだけど」
嫁。
一言余計とはいえ、女子を褒める定番な言葉に、先程、色々自覚したばかりの半助は動揺した。
嫁ーー、もしも澪が自分とそんな関係になったら、と自動的に妄想が開始される。
澪が嫁になったら、浮気なんか絶対にしない、というか彼女以外に目移りする気がしない。
それはもう毎日彼女を褒めるし、それはもう甘やかす、甘えてくれるかは謎だが。というかむしろ甘えたいかもしれない。
きり丸に尻に敷かれそう等と言われたが、構うものか。むしろ喜んで敷かれてやる。
澪のお尻は形がよく可愛いのだ。
「おーい、土井せんせーい、土井半助ー。どうした、わたしの話が聞こえとるか。おーい、何で笑っとるんだ。ちょっと、不気味だぞー」
思考が妄想と言う名の荒波に揉まれている半助を、伝蔵が顔を顰めて見ていた。
「あんたねぇ、澪くんに惚れたのは分かったが、あの子はわたしの妻……否、多分それ以上に攻略難易度が高いぞ」
「っ?!山田先生、どうしてそれを。わたし、今さっき気付いたばかりなのに!」
ずばり、伝蔵に気持ちを当てられて慌てる半助。そして、難易度が高いと評価する伝蔵に気が付けば詰め寄っていた。
「攻略難易度が高いって、どういう意味です。さては、すでに澪さんには想い人とか付き合っている男がいるとか、そう言う……」
「近い近い近い!ちょっと、離れてくれんか。そう言う意味じゃなくて、澪くんは純粋に惚れさせるのが難しいと言っておるのだ。女は自分より優秀な男が基本的に好きだ。土井先生、あの子を男らしく圧倒できるのか?」
言われた内容に半助は固まる。
普通は女より男は強い。逞しい肉体に強い力がある。女はそれにときめいて……これが普通だ。
が、澪はというと身体は華奢だが、怪力がやばい。アホみたいにやばい。攻撃が当たったら、半助も瞬時にやられる妙な確信があるくらいにはやばい。
滅多にいない美人で手先も器用だし、料理も上手、字も達筆で賢いし狩猟の腕前もかなりのもの。しかも多分、まだ何かある隠し玉の要素。
「ひょ、兵法ならわたしが上だと思います。それに、忍びですから」
「あのねぇ、そんな物は、澪さんが同じく学び出したら追い付かるかもしれんだろうが。ここには、その手の資料がわんさかあるだろうに」
「うぅ……」
澪の高性能且つ多機能さを思い出し、半助の顔が情けなく歪んだ。
「十も上であれば、その分だけ澪くんより頼りになる所を見せにゃならん。そうでなければ歳の離れた男に、女は惚れんぞ」
「ぐはっ」
無慈悲に言い渡される内容に、悶絶しそうな半助である。
「わたしに当たり前のことを言われた程度で、落ち込むようなら傷が浅いうちに諦めるという手もあるが」
「それは……無理です」
すでに抜け出せない沼にいるのに、不可能である。半助はキリッとした顔をして、首を振った。
「なら、悩んで苦しむ事だな。まだ若いんだ、半助。頑張るんだな」
ぽん、と元気づけるように肩を叩かれる。
「早々ないとは思うがライバルが現れる前に、澪くんに異性として興味くらいは持ってもらえるようにな。今の所、あの子は土井先生に対して特に何とも思っとらんだろうし」
「何と言う辛口っ。それに、そんな不吉な事を言わんでください。縁起でもない!」
幾ら天女の如き美少女でも恐ろしい怪力ゆえ、そんな簡単に彼女に惚れるような自分みたいな男は出てこないと思いたい。
半助は顔が引き攣りそうになるのを堪えた。
ーー後に、この伝蔵の発言が事実になると知っていたら、半助は喋る前に伝蔵の口を塞いだ事だろう。
この日を境に、半助は己のハマった沼のせいで、新たな胃痛の種をまた一つ抱える羽目になるのだった。
