(切甘)もう一度だけ…
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「――……ペコ。」
「……あ、朔先輩……。」
「いま帰りか?」
「はい、先輩も?」
「おう。傘がないのなら入っていくか?」
「え…………。」
朔先輩は、笑いながら持っていた傘を私に差し出してきた。
……けど、折り畳みのその傘はとてもとても可愛いピンクと白の水玉模様で…思わず固まったら、朔先輩は私のそんな空気を察して口を開いた。
「キイチに借りたんだよ。あいつ、会社に置き傘してるのに今日は別で私服に合う傘を持って来たんだと。」
「あ……ああ、そうなんですか……ビックリした……。」
「別に俺がピンク好きなわけじゃねーよ?」
「いえ……」
…………一瞬、恋人の傘かと思ってしまった。
先ほどのやり取りを見るにキイチさんとはそんな関係に見えなかったから、明らかにホッとした自分の心を恨みたくなった。
この会社に限らず、恋人はいてもおかしくない…それを気にする自分がひどく滑稽に感じたから。
(……気にしないって決めたのに、思いきり気にしてるじゃないの……。)
別れた恋人と、再会した途端に気持ちが揺れるなんて……引きずってるみたいで格好悪い。
大嫌いなあの頃の自分がまだ自分の中にいるみたいで嫌だ……。
目の前の朔先輩は、すっかり大人の男性になっているのに、私は変われていないの?
「ほら、入れよ。」
先輩は折り畳みを開いて、空けた片側に入るよう私を促した。
けれどその傘は以前の先輩のものとは違って女性用のだから、二人で入るには狭い。
どうしても外側が濡れてしまうし、くっついてしまう。
「でも……」
「濡れて帰れるレベルの雨じゃねーよ?しばらく止みそうにもないしな。」
「…………」
大粒の雨は、強い音を立てて地面に打ち付けている。
確かに駅までか近くのコンビニまでだとしても、歩けばすぐびしょ濡れになるレベルだ。
断るには理由がない……正直初日で疲れているのもあって止むのを待ってはいられないので、お言葉に甘えて入れさせてもらうことにした。
全身が濡れないだけマシだ、と。
「ほら、もっと中まで入れよ、そっちの肩が濡れるだろ。」
「……っ……」
「ん?どうした?」
以前と同じことを言われて再び固まった私に、朔先輩が顔を向けた。
この瞳に見つめられるととても普通にはしていられない。
かといって無言のままでは失礼だし…なにか言わなきゃと、歩きながら考えを巡らせた。
「……ええと……前にもこんなことがありましたよね。」
「ん?」
―ああ、何言っているんだろ、私。
さっきは避けたくせに自分から昔話を振るなんて……。
まさか朔先輩は覚えていないだろうと思ったけど、先輩は懐かしそうに笑いながら言った。
「ああ、前にも一緒に傘をさして帰ったな、そういえば。」
「……覚えていたんですか。」
「そりゃあな。チャンスだって思ったし。」
「チャンス……?」
見上げると、先輩は笑った顔のままで言葉を続けた。
……時々触れる肩に内心ドキドキしながら、先輩の声に耳を傾ける。
雨に閉じ込められた傘の中……あの時と同じだと、切なくも懐かしい気持ちになる。
「今思うとけっこう恥ずかしいんだけどな。2年に可愛い子がいるって3年の間でも有名だったんだよ、お前。」
「え?」
「俺も例に漏れず、ってことで。玄関で困っている姿を見た時は、これはチャンスだって声をかけたわけ。」
「また、そんな冗談……」
「冗談で、いきなり面識もない後輩の女の子を傘に誘うかよ。これでも緊張したんだからな。」
「うそ……先輩が緊張?」
「俺だって緊張くらいするって。」
先輩でも緊張なんてするの……?
私の前ではいつでも余裕たっぷりって感じでリードしてくれていた、あの先輩が。
とても信じられない…けど、ふいと向けられた先輩の表情には僅かに照れが浮かんで見える。
…ついそらしてしまったけど……胸が、高鳴ってる。
交差点の横断歩道まで来て信号で立ち止まると、そのまま時が止まったかのように待ち時間が長く感じられた。
「お前のクラスが体育のたびに、よく窓からグラウンドを見ていたしな。まぁ他の奴らもだけど。」
「…………」
胸の奥から何かがこみ上げてきそうになるのを堪えて息を飲んだ。
それは、私が先輩を好きになってからよくしていたことだ。
授業は上の空で、グラウンドでのマラソンもサッカーも、先輩を目で追いながら心の中で頑張れ、頑張れって応援してた。
それを先輩もしていたなんて……それも私に。
そのことを思うと、嬉しいような泣きたいような気持ちになる。
そんなこと、当時は一言も言ってくれなかったのに。
私が先輩を好きになる前から、先輩は私を見ていたなんて。
「今だからぶっちゃけるけどな、あの時俺は駅まで歩く必要はなかったんだよ。」
「……知っています、先輩の家は学校から近いから。電車通学の私のために駅まで一緒に来てくれたんですよね。」
「気づいていたか。本当は傘だけ貸してもよかったんだけどな、できれば少しでも話したくてさ。」
そう。
先輩は駅まで行く必要はなかったのに、わざわざ私と一緒に駅まで来てくれた上、傘を貸してくれた。
濡れながら走り去っていく後ろ姿を見て、私は先輩を好きになったのだから…よく覚えてる。
こうして二人で傘の中にいると、まるであの頃に戻ったような気持ちになってくる。
何年も前なのについ昨日今日のことのような。
懐かしいのに…懐かしさの中に、嬉しさと切なさが混ざった甘酸っぱい気持ちがある。
もうずっと忘れていた一途な想いがそこにあった。
……どこで、間違ったんだろう。
キリがないのに、ついそう考えてしまう。
「あの頃は、よかったよな。毎日が楽しくて。」
「……そうですか?」
「今が不満なわけじゃねーけど。毎日学校で友達と騒いで笑って、隣にはお前がいてさ。戻りたいな、あの頃に。」
「――……」
信号が青に変わり周りの人たちが歩き出しても、私は立ち尽くしたまま動けなかった。
歩こうとした朔先輩は、動かない私に気づいて止まり、私を見てくる。
「……ペコ?」
「……今更ですよ、そんなの。」
戻りたいと思っても戻れるわけはない。
やり直したい過去があっても、それはもう過去であって、決してやり直しなんてできない。
あの時ああだったら、なんて、今更言ってもどうにもならない。
なら前に進むしかないのに……どうしてそんなことを言うの。
「今更って……」
「今更は、今更です……っ」
隣に私がいた頃を、よかった、戻りたい、なんて。
今更戻るどころか、私はあの頃からずっと先輩の隣にいたかったのに……。
「終わりにしたのは朔先輩じゃないですか……っ」
「…それは…まあ…そうだな…。」
顔を上げると、困惑した先輩の顔があった。
あの頃と変わらない身長差と同じで、私自身もあれからあまり変われていないのかもしれない。
それにひどく苛立って、ただ当時の楽しかった思い出を語っただけで先輩は悪くないのにほぼ八つ当たりしてしまった。
ただひとつだけ……
あの頃、あの時にこうして一言でも言えたなら、何か違ったのだろうか。
それこそ今更言っても仕方のないことだけど……。
あれから先輩はずっと、楽しい思い出のまま生きてきたのかな。
だとしたら、その楽しい思い出を差し置いて終わりの悲しみに浸って生きてきた私はなおさら惨めだ。
挙げ句ようやく忘れられたと思った今になって、あの頃に戻りたいと言われるなんて。
「……すみません。取り乱しました。」
「ペコ、あの時は俺は……」
「もうこの話は終わりにしてください……。」
暗に聞きたくないとの意思表示で早足で歩き出した私を、先輩が傘に入れながら追いかけてきた。
私はそれなりに早く歩いたつもりだったのに、先輩は歩幅を少し拡げただけ……
そっか、歩く速度も先輩は私に合わせてくれていたんだね。
私はいつもしてもらってばかりだ……どうして私はうまくやれないんだろう。
一度ダメになった関係は新たにやり直すことは難しいのかな。
せめて普通の上司と部下の関係になりたいのに、それもできないの。
前に進むしかないのに身動きひとつとれないなら、もうどうしたらいいのかわからない。
結局、私はあれからなにも変われていない。
自分を変えて、朔先輩と再会しても動じずに仕事をこなせるようになろうと昼間決めたばかりなのに。
甘酸っぱい思い出と共に胸が苦しくて仕方がない。
(……私、まだ朔先輩のことを忘れられていないの……?)
あの時どんな思いで別れを受け入れたか……なのに、あの頃に戻りたいなんて簡単に言わないで。
例え八つ当たりでも、そう思わずにいられなかった。
ダメだ、このままいたらどんどん嫌な私になる。
横断歩道を渡りきったところでコンビニが見えたので、私は立ち止まって朔先輩に向き直った。
「もう、ここで結構です。ありがとうございました。」
「駅はもうすぐそこだし、このまま入っていかないか。」
「どのみち、駅を出たらまた家まで歩きですし、ここで傘を買っていきます。」
「…そうか。」
朔先輩はまだ何か言いたげだったけど、私はもう一度お礼を言って頭を下げてからコンビニに滑り込んだ。
濡れていた先輩の肩を思うと、やっぱり一人用の傘に無理して二人入るよりはいいだろうと、売っていたビニール傘に手を伸ばして気づいた。
私の肩は全然濡れていないことに。
(……まさか。)
私が濡れないように、傘をほとんど私に向けていたんじゃ……。
「……っ」
なんで……
いつもあなたは私に色々してくれるんですか。
別れた今ですらこんな優しさを見せられたら、どうしたらいいの。
私はついさっき、八つ当たり的に言葉を吐いたばかりなのに…そんな自分がたまらず、消えてしまいたくなる。
崩れ落ちそうになるのを堪えて、ビニール傘をひとつ取るとレジに向かった。
先輩を追いかけたい衝動にも駆られたけど、どんな顔をしてどんな声をかけたらいいかわからない。
―……今でもあなたのことが好きだとしても、それをどう言葉にしたらいいのか。
それを告げることすら、今更に思えて息を吐いた。