(切甘)もう一度だけ…
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――……傘の一件から色々な話をするようになり、やがて私たちは付き合うようになった。
緊張して固まるばかりの私を、いつだってうまくリードしてくれたのが朔先輩。
付き合おうかと言ってくれたのも、初めてのデートも手を繋ぐのも、みんな先輩からばかりだった。
ただこの頃になると三年生は受験や就職活動に忙しくなり、朔先輩も例外ではなかったから、しょっちゅうデートとか電話とか、そんなわけにはいかなかったし……学年が違うと学校内で毎日顔を合わせるということもなかったけれど。
『ねぇ、次は三年生がグラウンドで体育みたいだよ!』
『三年生はこの時期はもう体育無くしてあげて欲しいよね。でも朔先輩見れてラッキーだね!』
付き合っていることはなんとなく言えなくて秘密にしていたから、クラスメイトや友達の口から先輩の名前が出るたびドキッとしながら、私はよく密かに先輩を見つめてた。
かっこよくて優しい先輩。
二人きりのときもそれは変わらなくて、歳はたったひとつしか違わないのにうんと離れたお兄ちゃんみたいに頼もしかった。
寝る前に少しだけ交わすメールも、楽しみで着信音が鳴るのをいつも待ってた。
なにもかも先輩がリードしてくれていたから、当然初めてのキスも先輩からだった。
恋愛自体が初めてだったのだけど、なんとなく……そうなる空気みたいなのは読めた。
薄暗くなり外灯が点り始めた公園で、二人で笑い話をしていた時
寒かったからかあまり人がいない中、ふと会話が途切れて無言で見つめあった刹那、私を見る朔先輩の目がかすかに細められて……
ゆっくり近づいてきたのに任せて私も予感にときめきながら目を閉じた。
『…ぷっ…お前、緊張しすぎだろ……っ』
『え?あ…すみません……』
『謝らなくていいけどよ。お前ほんと可愛いな。』
『…っ…』
先輩の顔が近づいてきてガチガチになり、ただ目を瞑っているだけしか出来なくても、交わした唇の感触と温度だけはずっと覚えてた。
直前まで二人で飲んでいたミルクティの甘い香りがしていたことも。
思い出すたびに胸が躍って、そわそわと落ち着かなくなる。
恥ずかしいけどくすぐったい、そんな幸せを感じていた。
だけど……。
その日も突然やってきた。
放課後呼び出されて二人で歩いた帰り道に、神妙な面持ちの先輩が静かな声で言ったんだ。
『あのさ……少し、会うのやめないか……。』
なにをするにも先輩からで
"最後"すら
先輩からでしたね。
それは全部、緊張しているからってすべて先輩に任せっきりにしていた自分のせいだと、ずっと思っていたの。
思えば先輩と付き合っていた間、私から先輩に提案したことや、私から先輩にしてあげたことはひとつもなかった。
初めての恋で、どう恋愛したらいいかがわからなかった。
すごくすごく好きだったのに、それすらうまく伝えることができず…
いきなりそんなことを言い出した先輩を問い詰める勇気もなくて、ただ泣くのを堪えてうなずくしかできなかった。
それは、あの雨の日にただうなずいた自分となにも変わりなかった……それに気づいた時にはもう遅かったの。
一人で流した涙のひとかけらでも先輩の前で流せたらよかったのかな。
一言でも嫌だって言えたらよかったのかな……。
だけど三学期が始まる頃には三年生はほとんど登校する必要はなくなっていたから、私が校内で先輩を密かに見ることもなくなって……先輩はそのまま卒業した。
ただ、第一志望だと言っていた大学に無事に合格したらしいというのは噂で聞いて、それは本当に良かったと心から思った。
だけど直接……おめでとうって、言いたかった……。
……その、流されっぱなしで積極的に動けない自分の性格が私は大嫌いだった。
それで損したこともたくさんあった……だから、思いきってすべてリセットしたくて、前の会社を辞めて再就職を決めたのに。
「はぁ…………」
朔先輩から逃げるようにして貳課に戻ってきたあと、ついため息をこぼすと、イヴァさんが顔を上げた。
「どうしたの?浮かない顔して。」
「あ、いえ……なんでもありません。」
「壱課に行ってきたんでしょ。あそこはくせ者揃いだからね、なにかされたら言いなさいよ、特に喰とか。」
「あはは…ありがとうございます。」
少なくとも人間関係には恵まれそうだというのは、来てすぐにわかったけど。
……よりによって元恋人がいて気まずい、なんて言えないし……同じ課じゃないだけよかったのかも、と思っておこう。
それより早く仕事に慣れて色々こなせるようになって、朔先輩のことなんて忘れるんだ。
……もう、何年も前のことなんだから。
今こんなに胸がざわついているのは、思いもよらない人と再会して動揺しているせいだ……それだけだ。
何年も思い出さないように……もとい、思い出さずにいた出来事が……それもあまり良いとは言えない思い出が甦ってきたから、ちょっとだけ気持ちがあの頃に引きずられているだけだよ…。
それより仕事に戻ろう!と、とりあえず平門先輩のデスクまで行った。
「平門先……課長。戻りました。」
「なんだ、早かったな。」
「書類を渡してきただけなので。すみません、判をいただいてくるはずだったのですが……。」
「いや、いい。おおかた朔が姿を消していたんだろう。」
……そんなに頻繁にいなくなるのか、朔先輩……。
と、言えるわけもなく、肯定の代わりに薄く苦笑いを浮かべた。
それで伝わったらしく平門先輩も軽く頷いた。
「書類を渡してきたのなら、向こうで処理するだろう。それより積もる話でもあったんじゃないのか。」
「……平門課長は、私が朔課長と知り合いだとご存じなのですか?」
「ああ、同じ高校の後輩だったと聞いている。あいつとは同期入社以来の付き合いでな。」
「…そう、ですか……。なら、さっき私にも言ってくださったら良かったのに。」
「ビックリさせてやろうと思ったんだ。驚いただろう?」
「驚きすぎてどうにかなりそうでしたよ。」
後輩……か。
……私と同じく、元恋人だなんてわざわざ周りも自分も気まずくなることを言うわけがない。
そうわかっているはずなのに、胸の奥がズキッと痛んだ。
会わなくなってからそのまま何年も経って……しばらくは泣いて過ごしたこともあったけど、朔先輩はどうだったんだろう……とどうしても考えてしまう。
それを知ってどうしたいの。
離れたことを後悔していて欲しいのか……少しでも引きずっていて欲しいのか。
それだって今更のことなのに、私はどうしてもそれから、仕事の合間に気付けば先輩のことばかりを考えてしまっていた。
あのままいたら、きっと少なからずお互いの近況や昔話まで話が進んでいたのかもしれない。
朔先輩は、大学を出てこの会社に就職したのかな。
その経緯は聞くことはできても、"あれから"どうしていたのかは怖くて聞けない。
別れてからどうしていたのかなんて……私が聞かれても困るし。
いまだ未練タラタラというわけじゃないけど、笑って思い出話が出来るほど、思い出にはなりきれていないのが事実だから……。
部署が同じな以上は避けているわけにはいかないのだから、先輩と働く状況にも早く慣れないと…と思った。
そうしてようやく長かった一日が終わり、退社する時間になった。
今日お世話になったイヴァさんや他の皆さんに挨拶をして会社を出たところで、暗くなった空から大粒の雨が音を立てて降っていることに気づいた。
いつから降っていたのか、すでに地面のあちこちに水溜まりができている。
窓なんて見なかったから、全く気づかなかったな。
今日の天気予報ではくもりだって言っていたから、傘なんて持ってきていないのに…。
(……会社に貸し傘……なんてないよね……。)
駅まで濡れて行くか、どこかのコンビニで傘を買うかと思案していると、後ろから声をかけられた。