(甘)夢見月 花守人の 思ひ初め
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⋯⋯この人が、俺の婚約者。
まさかこのようなことが本当に現実で起こるとは。
先ほど密かに望んでそのまま秘めた想いが叶ったのに、どうにも動揺が抑えられない。
知らなかったこととはいえ綾瀬家のご令嬢に何か失礼な話し方はしなかっただろうか。
ましてやこれから永い時間を過ごす関係を構築していかなければならない相手だというのに。
だがそれよりも。
彼女は⋯かなで嬢は、自らを俺の婚約者と名乗ってからもまだ憂いの表情のままでいるのが気になる。
先ほど、今日は大事な日なのかと問うた時も一瞬だけ似たような表情を浮かべたが。
やはりこの婚約にはあまり気が進まないのか。
家が決めたことに逆らえないつらさは良くわかる⋯だから、意に沿わない婚姻を喜べない気持ちも、良く理解できた。
ならばやはり、この話は無くす方向に進める方が良いのだろうか。
今日ここに来るまでは俺もそれを望んでいたはず。
もしかなで嬢のほうから破棄を申し出てもらえたなら、まだかなで嬢のほうに付く傷が少ないので願ってもないはずなのだが。
⋯⋯こんなにも胸がざわつき心が揺らぐ。
じぃの言っていた通り、綾瀬財閥のかなで嬢はとても素晴らしい人柄の女性だ。
財閥の令嬢に相応しく品格と奥ゆかしさを持ち、とても穏やかな性格で。
少し話しただけで聡明さが垣間見え、他人への深い気遣いの心もある。
それに⋯憚らず言うなら、噂通りにとても可憐で大変可愛らしい顔立ちもしている。
楚々とした雰囲気も相まって現代の大和撫子だというのもあながち、じぃが盛った眉唾話ではなさそうだ。
共にいてとても心地よく、話していてとても楽しかった。
聖川家の次期当主の妻としても、俺の生涯の伴侶としても大変に申し分ない⋯むしろ、俺にはもったいないくらいの女性だ。
それでももう少しだけでも共に時間を共有したいと願ってしまったほどに、彼女に惹かれ始めている自分がいる。
本当に、会う前から悩むより会って話してみないと何事もわからんものだ。
まるで今までの憂いが嘘のように晴れていくのを肌で感じる。
かなで嬢は違うのか。
この少しの時間を共に過ごし、俺という人間を見ても、結婚相手として納得できるものを見つける事ができなかったのか?
人間は話してみないとわからぬこともあると言った彼女が、俺と話してみて何も感じなかったのだろうか。
その事に、初めて胸の痛みを感じた。
人に恋慕する気持ち、そしてその気持ちを相手に拒絶される痛みとはこのようなことを言うのだろう⋯と、この齢で初めて知った。
それでも⋯⋯彼女に、こんな悲しい顔はもうさせたくはない。
どうかもう一度だけで良いから、俺に向かって笑ってはもらえないだろうか⋯⋯。
桜の花びらが舞うような笑顔を咲かせてはくれないか。
それには婚約破棄の話をすれば、もしや⋯?
俺は震える胸を抑えて息を吸った。
「⋯かなで嬢。その⋯もしこの婚約が気が進まぬのなら、あなたの方から破談にしてはもらえないだろうか。」
「⋯えっ?」
「嫌な役割を押しつける形にはなってしまうが、俺から破談にするよりはあなたの評判に付く傷は少なくて済むだろう。婚約破棄の代償は、やり方を間違えれば女性のほうが大きく払うことになってしまう。」
「それでは真斗様の名誉に大きな傷が付きます。」
「俺のことは気にしなくていい、評判などこれからどうとでもしてみせる。あなたも、傷が少ない状態で早く次の心を許せるお相手を探すべきだ。」
「⋯⋯⋯真斗様⋯⋯」
胸は痛むが、これで彼女が心置きなく素敵なお相手とめぐりあえるならば、それでいい。
かなで嬢ならきっと、他のどの良家に嫁いでも立派にやっていけるだろう。
彼女を幸せにするのは俺でなくとも良いのだから。
⋯それに、俺には歌という夢と目標がある。
まだ確実にアイドルになれる保証もない身だが、もしも聖川の跡継ぎという立場を正式に捨てて歌の道を極めるならば、どのみちこの婚約はなくなる。
聖川の当主にならない俺とかなで嬢が結婚する理由はないのだから。
⋯だが、それでも彼女の表情は晴れなかった。
「ひとつお伺いしたいのですが、真斗様は、私との婚約をどうお考えでいらっしゃいますか?」
「それは⋯。」
言い淀む俺に、かなで嬢は悲しげな苦笑いを浮かべた。
「私にお気遣いをいただかなくともよろしいのですよ。家により定められた婚約に思うところがあるのも当然ですから。」
「いや、俺は⋯⋯。俺のことより、あなたがあまりに悲しそうな顔をするので、破談にしたほうが良いのかと思ったのだ。家による意に沿わぬ婚約はあなたも同じだろう。」
「⋯そうですか。やはりお気遣いをいただいてしまいましたね。ですが、私は婚約自体が嫌で悲しいわけではないのです。」
「⋯というと?」
かなで嬢はゆっくりと俯き、
何かを思案するように視線を巡らせてから桜並木のほうに目を向けた。
まるで帰る場所を失くした天女が空を恋しがるかのような雰囲気に、息を飲む。
「先ほどお話をした通り、幼い頃に真斗様がたに助けていただいたことを私はお祖父様にご報告をしてしまったのですが⋯その時、お祖父様がすっかりその気になってしまわれたようで。」
「その気とは、つまりそのまま聖川か神宮寺と縁を繋ごうと思ったということか?」
「はい。最初はどちらと縁を繋ぐか考えたそうなのですが、私が特に真斗様のお話ばかりをしたことで、少しでも私の意を汲もうと思ってくださったようで⋯では聖川家の真斗様と、ということになったのが今回の婚約のお話に繋がりました。次期当主の妻になるのは重責ですが、私ならきっとやっていけると。」
俺の話とは⋯⋯と、そこが非常に気になり、だが聞いてもいいものかと口を開くのを迷っていると、彼女は桜並木から俺に目を移して穏やかに笑った。
「怖くて固まっていた私の心を解そうとして気さくにお話をしてくださったレン様のお心遣いも大変嬉しかったのですが、男性との慣れないやりとりに気後れするばかりの私に気遣ってすぐに離れてくださった真斗様のお気持ちが、特に私は嬉しかったのです。」
「そ⋯うか⋯⋯。」
ご当主にそのように話をしてくださっていたとは⋯⋯。
幼かったゆえ、本当にそのような気遣いをしたというよりはとにかく神宮寺を引き離さねばと必死だっただけかもしれんのに、そのように前向きに捉えてくれるのだな。
ようやく笑ってくれたことに、俺の胸はまた熱くなる。
だが、再び眉を下げたので俺の胸もまた鳴く。
先ほどから忙しい心の動きに俺自身もまた戸惑った。
「お祖父様は幼いお二方の勇気と紳士な誠実さに大変感動していらしたので、家同士の繋がりとしてというよりは、少しでも私が幸せに暮らしていけそうなお相手をと考えてくださったのだと思います。⋯そのために、真斗様にとっては意に沿わぬ相手との婚約を推し進められた形となった事がずっと心苦しかったのです。」
「そのような⋯!それをずっと気にかけて胸を痛めていたのか?」
「私からお断りをすれば真斗様の名誉に傷となりますし、そもそもは我が家から話を持ちかけた縁談ですから、また一方的に正当な理由もなくこちらから破棄をするのは聖川家へのあまりにもな侮辱で⋯いっそ真斗様が私を気に入らずお断りくださればと願っておりました。」
「きっかけは確かにそうかもしれないが、これはあくまで家同士が決めた婚約であり、かなで嬢が気に病む必要はないだろう。あなたも最初から婚約まで進めるつもりで俺の話をご当主にしたわけではあるまい。この婚約にはあなたの意志もなかったのでは?」
「⋯。さすがに縁談に繋がるのは想定しておりませんでした。ですが、こうなる予想もせず特定の殿方の話をしたのは軽率だったと深く反省をしております。」
先ほどから婚約のことで憂いの表情をしていた理由がこれでわかった。
自分の発言のためにこの縁談が決まったことで俺に迷惑をかけたと気にしていたのだろう。
綾瀬家はずっと古くから続く旧家なので、綾瀬家のほうから無理に他の名家と繋がろうとしなくとも良いくらいの家格がある。
むしろ他家のほうが繋がりが欲しくて来ることの方が多いため、言わばいくらでも繋がる相手を選べる立場だ。
ならば少しでも可愛がっている孫娘のためになる縁組をしたいと考えれば、家柄だけではなく相手の中身までも考慮したいところだろう。
そこに当の孫娘から話を聞けば居ても立ってもいられなくなる。
逆に、家と繋がりたいためにいきなり幼い孫娘を集団で囲むような、相手への配慮の無いご子息の家とは縁を結びたくないと思うのが祖父君の御心だろう。
⋯本当に、大事に可愛がられて育てられたのだろうことがよくわかる。
深い優しさと愛情に包まれてきたから、こんなにも深い優しさと愛情に溢れた女性に成長したのだろう。
仕草や対人への話し方を見れば、その分名家に恥じない女性として厳しくしつけられてきた事も伺える。
そんな女性と縁を繋ぐ機会に恵まれたのは、俺にとっては幸運だ。
ならばその憂いは解いてやらなければ。
「先ほどの質問に、まだ答えていなかったな。」
「はい?」
俺は自分の考えと気持ちをきちんと伝えるため、改めてかなで嬢と向き合った。
まっすぐ目の前で見つめた彼女の瞳はとても綺麗で、見つめ返されるとどうにも面映ゆい。
その瞳の中に俺が映っていると思うと妙に緊張する。
「実は、最初はあなたのお名前しか聞かされておらず、顔も人柄もよく知らぬ相手との婚約には戸惑いと後ろ向きな気持ちのほうが強かったのが正直なところだ。」
「それはごもっともだと思います。」
深く頷いて同調の意思を示してくれた彼女に、温かい気持ちが湧く。
自分との縁談に後ろ向きな気持ちを抱かれるなど、不快に思われても仕方がないのに、むしろ彼女は俺の心情を理解してくれたのだ。
⋯この人となら、共に歩いていけるかもしれない。
そんな思いが頭をよぎる。
もちろんかなで嬢の意志も大切だが、もしも前向きになってもらえたなら⋯と考えてしまう。
共にすごす時間を重ねていけば、この温かさが彼女を想う心に形作られていく気がする。
誠実に、大切に接することでもしやいつかは彼女も俺を⋯⋯⋯そして、互いがかけがえのない夫婦となっていけたなら⋯⋯。
(⋯⋯⋯⋯だが⋯⋯。)
温まる心の中によぎるある想いが痛みを伴いそうになり、慌てて隅に追いやる。
まずは彼女の心の平穏が先だ、そうして俺はまた話を続けた。
「だが実際にあなたと話をしてみて、あなたの人柄に触れて、この縁談も悪くはないのではないのかと。⋯つまり、人と人は話してみないとわからぬ事もあると学ぶ事ができた。今はこの出会いにとても感謝している。」
「⋯え⋯。」
「だから、あなたが気に病む必要は全くない。そもそも、話してみないとわからんという事を教えてくれたのもあなただ。それに気づかせてもらえただけでも、この出会いに意味はあろう。」
「⋯そ、うですか⋯⋯。」
かなで嬢はまぶたを少し伏せて目線を下げ、うっすらと頬を赤く染めた。
ふさふさの睫毛すら彼女の魅力を縁取るようで胸に何かがこみ上げる。
それがうっかり溢れ出さないように気をつけながら、静かに息を吐いて呼吸を整えた。
「⋯真斗様は、この縁談にもうご負担なお気持ちは無いという解釈でよろしいのでしょうか。」
「⋯⋯⋯そうだな。だからもう、気に病まないでくれないか。」
早すぎる婚約に思うところはまだある。
生まれた家のために、自分の将来を他者に無断で決められる反発もある。
だが、相手に至っては不満なところも憂いも何もない。
それが伝わったのか、かなで嬢もようやく安堵の一息をついて顔を上げた。
「であれば私も、この件にもう憂いは一切ございません。」
ゆっくり微笑んだ愛らしさに素直に胸が高鳴る。
きちんと気持ちを確かめたわけではないが、かなで嬢はこの婚約を前向きに受け入れているような雰囲気がある。
⋯それは生まれついた家の宿命と受け入れているのか、それとも俺を気に入ってくれたのか。
理由はわからぬが、俺が後ろ向きな気持ちはもう無いと告げたことで彼女の心の枷が外れたならば、この婚約にはもう障害はないわけで。
進めたいといえばトントン拍子に進むのだろう。
彼女と歩む生涯が目の前に拓けている。
かなで嬢と夫婦となる未来が脳裏に掠め、きっと穏やかに慈しみ合う時間を共に過ごせるだろうと温かいものが心と身体を包む⋯⋯グラグラと揺れそうになるが、もうひとつの想いもまた、俺の胸を突いて痛ませるのだった。
これもまた、きちんと話さなければならないことだ。
「かなで嬢、まだ時間があるのでいま少しだけ、俺の話に付き合ってはもらえないだろうか。」
「あ⋯はい。お伴致します。」
俺は腕時計を見てまだ約束の時間まで少しばかり余裕があることを確認すると、かなで嬢を散歩に誘った。
橋の上は他の観光客の行き来もあり賑やかで、ずっと二人で向かい合って話しているのは目立つ。
川沿いに並ぶ桜並木へ促せば、草履を履いた小さな足でしずしずと後ろを着いてくるので歩幅を合わせゆっくり歩いた。
「綾瀬財閥は東京が本拠地だったな、かなで嬢は京都に来たことは?」
「お恥ずかしながら初めてです。家族は昔から多忙ですし、学院の修学旅行は海外でしたので国内はなかなか機会が無いままでして。」
「そうか⋯。」
「ですから、今回の京都は実は楽しみにしていたんです。ずっと日本の文化財に興味がありましたので。つい家の者からこっそりと離れてしまいました。」
「それで一人で歩いていたのか。」
「はい、うっかりかんざしを川に落としてしまい大変焦りました。」
そう言いながら桜を見上げた横顔は本当に綺麗で、まるで彼女を歓迎するかのように花びらがチラチラ舞う。
幼い頃よりご当主もご両親も忙しく、家族旅行の機会に恵まれることがあまりなかったのかもしれない。
それでもキラキラとした瞳に憂いのようなものはなく、ただ純粋に目の前の光景を楽しんでいるのがわかる。
俺としても慣れ親しんだ故郷の風景にそのようにワクワクと胸躍らせてもらえると嬉しくなる。
「本来ならば、こちらが綾瀬家から御息女を貰い受ける側なので東京まで挨拶に行かねばならぬところを、わざわざ来て頂いたのは申し訳なく思っている。」
「いいえ、元はお祖父様が持ち込んだお話で私は貰っていただく立場ですし。東京と京都の桜の違いも見てみたかったのでようやく叶いました。」
「そう言ってもらえるとありがたい。楽しんでもらえているようでよかった。」
「⋯私、そんなに楽しそうに見えます?」
「表情によく出ている。」
「お恥ずかしいです⋯。」
恥ずかしそうに口元を隠して俯く姿に、素直な愛しさが湧く。
⋯このまま、さらに深い情を彼女に抱いてしまう前に。
彼女との間にさらに親しげな空気を纏う前に、はっきりさせねば。
「⋯かなで嬢。」
「はい?」
俺はひときわ見事にたくさん花をつけている木の前で立ち止まり、合わせて立ち止まったかなで嬢に向き合った。
花吹雪とまではいかずとも、ひらひら落ちる花びらの中で佇む彼女は、淡い桜色の着物と同化して見え⋯⋯俺がなにか一言でも言葉を発すれば途端に消えてしまいそうなほど、幻の桜の精霊か空へ還る前の天女に見えた。
「俺がこの1年間、なにをしていたかは、何か我が家からは話を聞いているか?」
「はい。ええと⋯確か、将来の見聞を拡げるために、高等学校への進学は1年遅らせてご遊学をなさっているとお聞きしております。」
「遊学、か。」
本当の事を話すわけにいかなかった事情もわかるが、俺にとっては人生の覚悟を決めた選択を遊学と説明されるとは。
父上はどうしても俺の聖川家を継ぐ以外の道を認めたくないらしい。
なれるかもわからぬものにうつつを抜かしていると、綾瀬家に知らせたくなかったのだろうな。
綾瀬家が俺に聖川を継げる見込みがないと見切れば、この婚約も立ち消えになる。
いっそ最初に明かしておけばよかったのか⋯そうすれば、こうして出会う前に互いを知らないまま破談になったのかもしれない。
曇った俺の表情に気づき、かなで嬢も心配げな顔をした。
「何か憂うことがおありですか?」
⋯本当に優しい女性だ。
だからこそ、誰よりも彼女は幸せにならなければ。
俺が嘘をついて傷つけるわけにはいかない。
「⋯俺は、実は今、東京でとある学園に通っている。早乙女学園というのだが、ご存知だろうか。」
瞬間、すぐに思い当たったのか彼女の目が見開いた。
東京出身のうえ、かつ世間的にも有名な学園なので当然知っているだろう。
ただの遊学というのも厳しい言い訳だと気づいたろうか。
「早乙女学園と申しますと⋯あの、音楽を志す方を養成する有名な学園でしょうか⋯?」
「その通りだ。」
「なぜ真斗様が、とお聞きしても⋯?」
「俺は⋯⋯音楽がやりたい。聖川を継ぐより、歌を歌うアイドルになりたいのだ。そのために昨年より学園で学んでいる。」
「⋯っ!」
一瞬息を呑んだ雰囲気がしたが、あからさまに取り乱したり動揺したりはせず、冷静を保っている様子はさすがだと感心する。
普通、いきなり婚約者にこんな話をされれば平常心ではいられないだろうに。
内心を表に出さぬように教育されてきたのだろうな。
「父上とは1年間だけ自由にさせてもらう約束だった。1年間で芽が出なければ、諦めて家を継ぐ、と。とはいえ、あなたにも綾瀬家にも内密にしていた不誠実は心から詫びさせてほしい。誠に申し訳なかった。」
1年後、つまりは今年からの俺の歩み次第で綾瀬家の未来も変わる。
アイドルデビューできたとして、正式に聖川を継がないことになり破談にすれば、それだけかなで嬢も色々と不利な立場に立たされる。
いまから他の相手を探す手間もできてしまうし、そんな男と一度婚約し破談になってしまった曰く付きの女性だと彼女の評判に関わってしまう。
それは本当に申し訳なく、深々と頭を下げると、かなで嬢は慌てて頭を上げさせた。
それから気持ちを落ち着かせるように小さく息を吐いた。
「⋯少々混乱はしておりますけれど⋯正直にお話をしてくださってありがとうございます。⋯真斗様は、この1年間ずっと真剣にやりたかった音楽を学んでおられたのですね。」
「⋯ああ。できればこれからも続けたいと思っている。」
「続けられる見込みはあるのでしょうか?その⋯先ほど、ご当主さまとのお約束は、1年間とおっしゃっていましたが。」
かなで嬢は至極冷静に聞いてくれているが、どうやらマイナスな感情は持っていないように見える。
うまく隠しているだけでただの俺の欲目かもしれんが⋯話せばわかってもらえるような気がした。
⋯ぐっと、拳をきつく握る。
「実はもうすぐ学園で卒業オーディションがあり、合格すればデビューへの道が拓ける。もちろん俺はデビューを目指して全力で挑み、必ず機会を掴みたいと思っている。」
「1年経ってもそのままその道を貫きたいとお考えなのですね。」
「ああ。そうなれば⋯俺は、聖川財閥を継がない未来を行く事になるかもしれない。下手をすれば家を勘当になってしまい、聖川の人間ですらなくなる。」
そうなればこの婚約も破談となる。
そうみなまで言わずとも、かなで嬢はそのまま黙り込んだ。
俺から視線を外して俯くと、何かを思案するような表情を見せた。
そこにはわずかな戸惑いと、俺の気持ちを少しでも理解しようと努めているように見える。
「⋯かなで嬢はどうお考えか、意見を聞かせてほしい。」
今日、正式な婚約の話のために、これだけ美しく身なりを整えてわざわざ遠方から慣れぬ土地に来てくれた女性に、俺は酷い不誠実を働いている。
どんな叱責や罵倒も甘んじて受け入れる覚悟だった。
これで彼女との縁は永遠に絶たれてしまっても⋯そのことに胸は痛むが、夢を諦めることもまたできない。
生まれた時からずっと財閥を継ぐ事を義務づけられてきた俺が、初めて家のこと以外で自分で見つけ目指したいと願った道なのだ⋯どうしても貫き通したい。
もしかなで嬢から、諦めて家に従い家を継ぐよう説得されたとしても⋯。
その唇からどんな言葉が飛び出してもいいように腹を括って待っていると、やがて彼女がその口を開いた。
「⋯では、私からの願いをひとつだけ。どうかその夢をこのまま貫いてくださいませ。」
「⋯良いのか?」
「はい。真斗様の大事な夢と想いを、是非大切になさってください。」
かなで嬢はそのままふわりと微笑み、最高の笑顔を俺に向けてくれた。
てっきり勝手な男だと叱責されるものだと覚悟をしていたので驚いた。
まさか背中を押されるとは思わなかったのだ。
「怒ってはいないのか?あまりに勝手だと。」
「怒る?何故ですか?」
「何故、とは⋯⋯。」
逆に問われ言葉に詰まる。
いともあっさりと理解してもらえたのは大変有難いのだが、まるでこちらが理解不足を責められたような妙な気持ちになる。
戸惑っていると、彼女は笑みを崩さぬままで俺を見上げた。
「私は幼い頃より家の為に生きるよう教育されてきましたので、今更違う生き方を知りません。きっと真斗様も同じようなお育ちだったでしょうに、それでもご自分で目指したい道を見つけ、ご意志を貫く姿勢がとても素晴らしく思うのです。」
「⋯かなで嬢⋯⋯」
「とは言え私は自分のこの生き方や人生に何ら疑問や不満はないのですけれど⋯⋯ですから、夢を持つ真斗様がより眩しく見えます。なのでどうか叶えてください。晴れてアイドルとなられた真斗様を是非テレビで拝見したいです。」
「⋯っ⋯」
早乙女学園で出会った学友以外の人間に初めて向けられた前向きな応援に、胸が詰まる。
これまでずっと俺は、知り合った誰からも聖川の跡継ぎとしか見られてこなかった。
当主以外の人間になる人生はあり得ないと思われていたのに、家族以外で最も家の関係者とも言える婚約者から全面的な応援を受けるとは。
⋯⋯やはり彼女はとても素晴らしい女性だった。
このような女性と巡り会えた幸運を初めて天に感謝したい気持ちになった。
だが同時に、その素晴らしい女性に応援されるということは、その女性を永遠に手放す痛みを負うということだ。
これが周囲に迷惑をかけてでも自分の意志を貫く代償なのだろうか。
⋯それでも。
胸は痛むが、応援してくれたかなで嬢の気持ちを大切に心にしまい込み、誰よりも彼女の幸せを祈らねば。
「⋯有難う。必ず夢をこの手に掴み取ってみせる。かなで嬢の想いに報いよう。」
「はい、楽しみにしております。早く真斗様の歌が聴いてみたいです。」
「かなで嬢も良いご縁を掴めるように心から祈っている。少しでもあなたの醜聞にならぬように精一杯の尽力はさせてもらう。」
彼女の評判が落ちないようにどんな努力もする。
これは本当に本音で伝えると、かなで嬢は少しばかり目を瞬かせて首を傾げた。
それから何かを考え込む様子を見せたのでどうしたのだと問うと⋯。
「⋯⋯それは私たちの婚約を解消というお話ですか?やはり、アイドルに婚約者がいてはさすがに不味いのでしょうか⋯?」
「⋯⋯は⋯?」
また予想外の発言をされたので無意識に間抜けな声が漏れてしまった。
今度は目を瞬かせたのは俺の方だ。
アイドルに婚約者⋯⋯?
まさかかなで嬢は、このまま俺と婚約関係を続けるつもりだったと言うのか?
唖然とした俺の様子にかなで嬢は慌てた表情をした。
「あ⋯申し訳ございません。私と婚約を続けたいかどうか、真斗様のお気持ちを考えておりませんでした⋯。」
「いや⋯かなで嬢こそ、俺とこのまま婚約していても良いのか?下手をすれば俺は聖川の人間ですら無くなるのだが⋯。」
聖川財閥の次期当主になる予定の俺だったからこそ、綾瀬家のご令嬢とのご縁をいただけた身⋯だから、次期当主の座から降りればこの縁談も無くなるとばかり思っていたのだが。
かなで嬢は考えもしなかったような顔で、今俺の意図に気づいたように俺を見つめた。
「⋯ああ⋯そうですね、そうなれば破談となる可能性もございましたね。考えもしませんでした。」
「⋯⋯」
少し⋯いや、割と呑気な性格⋯なのだろうか。
自分の婚約が破談となる危機でもある話のはずなの、だが。
「私は⋯真斗様さえよろしければ、例え真斗様が夢を貫く道を選んでも寄り添う決意でおりましたので⋯。」
「だが、それはそちらのご当主が許さないだろう。聖川財閥の当主とならない俺にあなたを嫁がせるわけがない。」
それこそ可愛がって大事に育てた孫娘に、苦労するかもしれない人生を歩ませるなど⋯。
財閥当主夫人となり、共に財閥と家を切り盛りしていく立場も決して楽ではないが、家に絶縁され成功するかもわからないアイドルの妻になり支えていく人生よりは安泰だろう。
だが、俺の杞憂を嘘のようにかなで嬢は口元を手のひらで隠してくすくすと可愛らしく笑った。
「私は聖川財閥の当主夫人の座が欲しいわけではありませんので。私の気持ちはお祖父様もわかってくださると思います。」
「あなたの気持ちとは⋯。」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
口元を隠したまま、かなで嬢は目線を下げて頬を赤く染めた。
その仕草に胸の奥から期待がこみ上げどくどくと鼓動が高まる。
「⋯聖川財閥の次期ご当主様の妻になりたいのではなく⋯真斗様の妻になりたいと、そういう意味です⋯。」
「⋯⋯っ!」
「女の身ではしたない事を申しましてお恥ずかしい事は承知ですが⋯これが私の正直な気持ちです。どうか真斗様のお気持ちをお聞かせいただけませんか⋯?」
左右にウロウロと落ち着かない目線は決して俺のほうを向こうとしない。
だがその様子に彼女の真実の本音を感じ取り、自分の頬もまた熱くなっていくのを感じた。
⋯かなで嬢は俺を⋯好いてくれている。
ただの家に決められた婚約者としてではなく、1人の男として見てくれて恋情を抱いてくれている⋯。
予想だが確信に近い。
財閥の子息ではなくなるかもしれない、ただの何もない一人の男になっても、かなで嬢は俺に想いを向けついてきてくれるというのか。
安泰な人生という幸せを約束できなくても⋯これまで大事に育ててくれたご当主の意向に逆らうとしても⋯?
これほどひたむきな気持ちがほかにあるだろうか。
初めて女性から向けられた純粋な好意に俺は動揺し、混乱もし⋯⋯また、素直に喜びの感情に打ち震えた。
これで俺もまたいつの間にか彼女を一人の女性として好いていることを強く実感させられた。
綾瀬家のご令嬢だからではなく、綾瀬かなでという一人の女性に愛情を持ち始めている。