(甘)夢見月 花守人の 思ひ初め
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「⋯では、礼の代わりにひとつ俺の頼みを聞いてもらえないだろうか。」
「は、はい。私にできることでしたらなんなりとお申し付けください。」
「そのかんざしを着けているところを見せてはもらえないだろうか。」
「え⋯かんざし、ですか?」
予想外だったのか驚いている様子の彼女に、俺はまた慌てて咳払いをして付け加えた。
「⋯大変見事な意匠なので、実際に着けたらどのように髪に映えるのか、是非見てみたいのだ。桜は今の時期にもよく合っているしな。」
「そういうことでしたら⋯少々お待ちいただけますか。」
「うむ。」
彼女は納得した様子で、大事に抱えていたかんざしを結い上げていた後ろ髪に挿した。
鏡がないので手探りで位置を確認し角度などを整えると、俺に見えやすいように斜めを向いた。
その仕草すらとても洗練されていて一切の迷いがなく、かんざしの扱いに慣れているのがよくわかる。
つける時に上げた腕の手首から先が着物の裾から覗かないように自然と気をつけている様子も、昨日今日で着物を着始めた者の動作ではなかった。
やはりどこかの良家のご令嬢なのだろうか。
話し方も上品でにじみ出る品位や育ちの良さは一挙手一投足に自然に出るので後から簡単に身につけられるものではなく、また隠すのもなかなか難しいものだ。
その動作にすら思わず見惚れてしまう。
「いかがでしょうか⋯?おかしいところはございませんか?」
つい彼女をジロジロと観察してしまい黙り込んだ俺に、彼女が視線だけを俺に向けて声をかけてくる。
ハッとして目を髪のほうへ向ければ、綺麗に挿された飴色がキラキラと輝いており、施された桜模様の細工は揺れている他の髪飾りの桃色のつまみ細工と見事に融合していた。
若い女性の明るい色味の振袖に飴色は少々渋いかと思っていたが、全くそんなことはなかった。
むしろより際立って輝いて見える。
まるでかんざしをメインに合わせてあつらえた装いのようだ。
「ああ⋯⋯綺麗だな。髪色と飾りと共に映えて着物とよく合っている。」
自然な賛辞が口から零れ出る。
女性を褒めることも慣れていない性分だが、心の底から言葉が出た。
彼女は少し恥ずかしそうに俯きながら身体ごとこちらを向いて、はにかむように照れ笑いを浮かべた。
「⋯⋯⋯っ⋯⋯」
その笑顔がまた⋯先ほどから何度か見た眩い花の笑顔とはまた違う種類のしとやかな笑顔で、また大変に可愛らしくて⋯心臓の鼓動が速まるのを止められなかった。
「ありがとうございます、祖母のかんざしを褒めていただけるのは本当に嬉しいです。」
「そうか⋯⋯いや⋯。」
かんざしだけを褒めたわけではないのだが⋯と言いかけて、何でもないと誤魔化した。
先ほどからトクトクと胸が妙に落ち着かない。
緊張している時に似ていてどこか違う。
そわそわするのに決して不快ではない。
それは生まれて初めての感覚で、自分でもどうすれば良いのかがわからず戸惑うばかりだ。
ただ、人前で歌う前の心地良い緊張感にもどこか似ている気はした。
⋯あと少しだけ、彼女となにか話がしたい、同じ時間を共有したいと思ってしまい、彼女とのこの時間が終わらぬように引き留める言葉を探してしまう。
先ほどまでは早く退散するべきかと思案していたというのに。
理由もなく女性を引き留めるなど、忌むべき軟派な行いと変わらぬだろうに⋯⋯。
「その⋯あなたの祖母君は、よほど大切な人だったのだな。」
⋯⋯聞きたかったことではあるが、苦し紛れにさすがに立ち入りすぎたかと思ったが、彼女は気分を害した様子はなかった。
それどころかさらに嬉しそうに笑った。
「はい、幼い頃に亡くなった母の代わりに、私を大切に育ててくれた人です。私にとって大切なもう一人の母と思っております。」
「⋯っ⋯そうか⋯⋯。」
この人は幼い頃に母も亡くしているのか。
ならばその母親代わりの祖母君を喪ったのは、よほど大きなショックだっただろう。
にもかかわらず、今穏やかに笑っているのは、その祖母君との温かい思い出が沢山心に溢れているからなのだろう。
きっと素晴らしい人だったのだろうことも、彼女を見ればよくわかる。
祖母君の話をする時の穏やかな表情も然ることながら、その祖母君の育て方がとても良かったのだろうことが人柄や仕草に良く表れている。
本当に大切に育ててもらったのだろうな。
「それでそのかんざしを頂いたのか?」
「はい、姉もいるのですが私は特に若い頃の祖母に生き写しなくらいに似ているのだそうです。祖父も昔からよく仰るくらいで。このかんざしは、若い頃に祖父が祖母にプロポーズをした時に贈ったものだと聞いております。」
「お2人分の大事な想いが込められているのだな。」
「はい。」
生き写しならば、その祖母君もさぞや美しかったのだろう。
彼女を見ていれば、おそらく同じように穏やかで優しげな女性だったのかもしれない。
当時から貴重だっただろう飴色のべっこうに細かな細工まで施した高級なかんざしを贈った祖父君は、よほど惚れ込んでいたと見える。
その祖父君からいただいたかんざしを長い間ずっと大事にしていて、同じく大事に育てた自分によく似た孫娘に譲った祖母君の深い想い。
そんなかんざしを褒められ、まるで祖母君を褒められたように喜ぶ彼女はその人格や心まで美しい。
たくさんの込められた想いにすっかり感心していると、今度は彼女のほうが質問を投げかけてきた。
「あの、大変不躾なのですが⋯
お着物や装飾品にとてもお詳しいのですね。」
「ん?」
「いえ、私と変わらない年頃のお若い男性ですのに、飴色のべっこうと聞いてすぐ貴重な品だとご理解もされていたので。とても造詣が深くていらっしゃるのだな、と思いまして。」
「あ⋯ああ。俺も、着物を着る機会が多い環境にあるものでな。両親も昔からよく着ているのを傍で見ていた。」
「そうなのですか、道理で。かんざしにもお詳しくていらっしゃるのですね。」
「⋯⋯そう、だな。」
言われてみれば、かんざしと聞いても普通の男は意匠だなんだと思い付くことはないのか。
⋯⋯今日の俺はごく普通のジャケットスタイルだが、このままでは普通の育ちではないことに気づかれてしまうかもしれない。
ごく一般的な家庭がどういうものなのかはよく知らんが、普段からよく着物を着るのは珍しいのではないだろうか。
彼女もさすがに聖川財閥は知っているだろう。
良家の育ちも感じるので、大きな家の存在感は一般的な女性よりずっと身近でわかってしまう。
ならばやはり、萎縮させてしまう前に離れるべきだ。
気を使わせるのはしのびなく、今まで普通に会話をしていた女性に改まって距離を取られるのは俺もさすがにつらい。
(だが⋯⋯⋯。)
彼女との会話や漂う空気があまりに心地よく、既に離れがたくなってきている自分がいる。
それは彼女が俺の正体を知らないから成り立っているものだとわかってはいるのだが、もう少しだけ話をしていたいと思ってしまう。
彼女にも、そして当然俺にも時間に限りはある⋯そろそろじぃが屋敷で肝を冷やしているかもしれん。
だが屋敷に着いたらそこには俺の定められた未来がある。
(⋯せめて、俺の婚約者もこのように穏やかな雰囲気の女性だったら⋯いや⋯)
いっそ彼女が俺の婚約者ならば良いのに。
そう、今更願っても仕方のないことを考えてしまう。
目の前に迫る現実を考えれば先ほどまで浮き足立っていた胸が一気に重くなり、俺の息を詰まらせる。
俺の婚約者殿は、今頃屋敷に向かっているか、もしかしたらもう着いているのかもしれない。
あちらはもう嫁ぐ覚悟を決めて俺を待っているかもしれんのに、俺が他の女性と比べるのは男として人間としてやってはいけない領域だ。
⋯⋯⋯ここが引き際か。
いつまでも、彼女を引き留めることもできまい。ここで別れ時だ。
ここまで無理を聞いてくれたじぃとの約束は守らなければ。
「⋯そのかんざしは、大事なときにつけるように言われたと言っていたな。」
「あ⋯はい。」
「では、今日はその大事な何かがある日ではないのか?ここにいて随分と時間が経ってしまったが、そろそろ家の者が心配していないだろうか。」
「あ⋯⋯⋯」
彼女が目を見開いて驚いた顔をした。
その後俺から視線を逸らして泳がせたので、どうやら図星だったらしい。
その表情は少し憂いの色を浮かべたのが気になった。
大事な日ではあるが彼女にはあまり気持ちの良い出来事がある日ではないのか。
だがその一瞬の表情はすぐに消え、またパッと笑みを浮かべ視線を戻した。
「⋯そうですね、とても大事なお約束がございました。かんざしの事ですっかり失念してしまいお恥ずかしい限りです。」
「気にする事はない。⋯俺も今まですっかり時間を忘れていた。」
「ふふっ⋯ではご一緒ですね。私もお話がつい楽しくて時間を忘れました。それと、とても大切な事にも気づけました。」
「そうなのか?」
「はい、その気づきを忘れぬうちに、私はそろそろ参ります。本当にありがとうございました。重ねて感謝致します。」
「⋯ああ、そろそろ俺も行こう。その前に⋯どんな気づきなのかだけ、聞いても構わないだろうか。差し支えなければだが。」
名残惜しい別れ際、往生際悪く投げかけた問いに彼女はほがらかに笑った。
「人と人は、話してみなければわからないこともある、と学びました。」
「⋯というと?」
「⋯私、これからとある方とお会いするのですが、打ち解けることができるかとても不安だったのです。ですが貴方様と楽しくお話ができたように、まずは会話をしてお相手を知る事が大事なのですね。」
「⋯っ!!」
⋯そうか。
気が合わなければどうしたものかと憂うのは早計で、まずは話してみないと何もわからない。
女性に慣れていない自分がこの彼女とはここまで会話を交わすことができたのだから、婚約者とも話してみれば存外ただの杞憂で終わるかもしれない。
相手と話す前から人柄を気にして悩んでも仕方がないことだった。
家に定められた婚約者という事実で目が曇っていたのかもしれない、全く考えに及ばなかった。
決して長くはないこの時間でそれに気づいた彼女は、とても聡く素直なのだろう。
俺の胸の詰まりも消えていくようで、とても爽やかな気分だ。
⋯もう大丈夫だ、覚悟を決めて婚約者と対面できる。
まずは会って話してみて、それから先を考えよう。
もしや俺の歌への気持ちも、話せば理解してもらえるやもしれん。じぃも素晴らしい女性だと褒めていたではないか。
「⋯俺も共に気付かされた、感謝する。」
「はい?」
彼女にしてみれば、何故感謝されたのかわからんだろう。
それでいい。だが、彼女と出会ったこの日のことは一生忘れずに大事な思い出として胸に留めておこう。
大切な気づきと時間をくれたこの女性のことを。
「無事にその者と打ち解けることができるよう祈っている。」
「あ⋯ありがとう、ございます。」
最後にまた何故か少しだけ寂しげな表情を浮かべ、彼女はまた笑った。
いつでも笑顔の素敵な、本当に花の精のような女性だ。
美しい振袖姿で大事な日に会う人間⋯おそらく彼女も、家の都合の見合いか何かをするのかもしれない。
一瞬の憂いの表情から察するに本人は気が進まず、俺と同じように一時的にでも逃げるようにしてこの場にいたのならば、ご令嬢がこの姿で1人でいたことにも納得がいく。
それでもきちんと相手と向き合うことを決めたならば応援してやりたい。
そのきっかけに少しでもなれたなら本当に良かった。
(⋯その相手が俺なら良かったな)
⋯などと思ったのは胸に秘めておく。
女性に対してこのように思ったのは初めてのことだ⋯その初めては、永遠に思い出としてしまっておこう。
そして同じ思いを婚約者に向けられるよう努力精進しよう。
最後に彼女の名が知りたい。
本当に予想通り良家のご令嬢なら、会ったことがないだけで俺も知っている家の者かもしれない。
だが、自分が名乗れんのに相手にだけ名乗らせるのは公平ではないだろうし、彼女ももしかしたら俺に気遣い家名を明かしたくないかもしれない。
ならば春の夢で名も知らぬ桜の精と一瞬の逢瀬をした⋯それで終わりにしよう。
「では、私はここで⋯。」
「1人で大丈夫か。」
「はい、家の者を呼びますので。」
「そうか。」
やはり1人ではなかったか。見合いなら近くまで俺が送るわけにもいかない、それをすれば俺自身も屋敷に向かう時間に間に合わなくなってしまう。
後ろ髪引かれるが、迎えを呼ぶなら大丈夫だろう。
「もし、またどこかでお会いできましたら、その時は改めて御礼をさせてくださいませ。」
「⋯そうだな。また会うことがあれば。」
「良かったです、今度はお断りをされずに済みそうですね。⋯それでは、失礼いたします。」
「ああ。」
彼女は深々と腰を折って礼をし、ゆっくり頭を上げて最後にニコリと笑って俺に背を向けた。
橋を抜けると川沿いに桜並木が並び、そこから風に乗った花びらがヒラヒラと舞う。
まだ咲き始めなので少ないが、穏やかな陽光の中での花びらは一層美しかった。
その中をゆっくりと歩いて行く彼女の背中を俺は見つめた。
本当に迎えを呼ぶつもりでいるのか、それまで1人で本当に大丈夫なのかが気になってしまった。
それと単純に名残惜しさが消えてくれず、未練がましく遠くなっていく背中を見つめる。
すると少し歩いたところで彼女は立ち止まり、そのままふと振り向いてこちらを見た。
視線に気づかれたかと思ったが、どこか迷いを見せる表情をしており、もしや彼女も別れを惜しんでくれているのではないかと淡い期待を寄せてしまう。
期待したところで、それが事実だったところでそこから何かが始まることはないのはわかっているのだが。
俺には婚約者がいて、それは決して俺の力では変えることができない現実。
彼女に淡い期待を寄せたところで、それで何かが変えられるわけもない。
ならば、いっそその手を引いて共に逃げるか。⋯いや、なにを馬鹿なことを。あまりに無責任で自分勝手だ。
そもそも彼女の気持ちもわからんのに。
今すぐに彼女に背を向けて逆方向へ去るべきだ。
なのに足を動かすこともできずにいると、先に彼女の方が俯きながら小走りで走り寄り、また距離を詰めてきた。
「⋯どうかしたか?」
「あ、あの⋯私⋯。」
ほんの数歩だけ開けた距離で向かい合い、彼女は下を向きながらためらいがちに口を開いた。
「先ほどから少し気になっていたことが⋯それから、お伝え忘れていたことも⋯。」
「なんだ?話してみると良い。」
まだ少しだけ話せる。
⋯⋯そう思い躍ってしまった胸に、自分で苦笑するしかなかった。
全く潔くなく、非常に未練がましい。
だがそんな自分が決して嫌ではないことに気づいてしまったからだ。
彼女のほうは俺の表情に気づいた風もなく下を向いたまま胸元で両手を握り込んで、妙に緊張した顔を上げた。
「間違いでしたら申し訳ございません。貴方様は、その⋯⋯もしかして、聖川家にゆかりの方では⋯?」
「っ!!!」
やはり気づかれたか。
だが、これまでの会話で気づかれる要素はあったか?
良家の子息ぐらいには予想されたとしても、大きな家は別に聖川家だけではない。
ピンポイントで我が家を悟られる発言はしただろうか⋯⋯ここが地元だからか?
返事をためらい自分の過去の発言で思い当たる節を頭で探っていれば、彼女は悲しそうに眉を下げた。
「申し訳ございません、やはり私の勘違いでしたでしょうか⋯?」
「⋯⋯いや⋯勘違いでは、ない。」
「⋯では、やはり⋯⋯」
悲しげな表情、そんな顔を見てしまっては、もう黙っていることも誤魔化すこともできない。
覚悟を決め、俺はまっすぐに彼女を見つめた。
「いかにも、俺の名は聖川真斗と言う。ずっと聞かれていたのに、なかなか名乗らずにすまなかった。」
「⋯っ!!」
彼女の瞳が零れんばかりに大きく開き、息を飲んだのがわかった。
下の名前まで名乗ったことで、俺が聖川財閥の子息だとわかったのだろう。
先ほどまで何気なく会話をしていた男が財閥の跡継ぎだと知れば、恐らく普通ではいられない。
あきらかに動揺して視線が彷徨いなかなか定まらない。
胸元で握っている両手が震えている。
幼気な女性にこんな反応をさせてしまうほどの家名を背負っていることを嫌でも思い知らされてしまう。
もうあの素直な笑顔は2度とは見せて貰えず、気遣うような顔ばかりを向けられてしまうのだろうか。
ここにきても、まだ俺は彼女の心情より自分のことばかりを考えている。
「まさか聖川家の方にあのようなことをさせてしまうなど⋯誠に申し訳ありません。」
「それはもう本当に気にしないでくれ。それより何故、俺が聖川の者だと気づいたのだ?」
「それは、あの⋯⋯お言葉や仕草の端々から、なんとなくそのようなお家の出自の方なのではと⋯それと⋯⋯。」
「ん?」
「以前に一度、少しだけお見かけしたことがあったもので⋯もしや、と。ですがあまりに昔の事でしたので、面影は似ていらっしゃると思っても確信まではなかなか持てませんでした。」
「⋯そうなのか?だがすまない、俺は⋯」
「ああ⋯私のことはご記憶に無くとも仕方ありません。昔の事であの一度きりでしたし、あれからは家の方針でこれまであまり公の場に出ることがありませんでしたから。」
⋯ならば、彼女は最初から薄々俺の正体に気づいていたのか。
そういえば、最初に俺を見た時に驚いた顔をしていたような気がする⋯あの時にはもう疑念を持っていたのか。
それでも俺から名乗らぬうちは確信もなく、何も知らないふりをしていてくれたのだな。
しかし、このような可憐な女性と一度でも相まみえて覚えていないということがあるのだろうか。
記憶を辿ってみるがやはり覚えがない。
そんな俺の顔色を読み取り、彼女は苦笑いを浮かべた。
「幼い頃に一度だけ、お祖父さま⋯祖父に連れられて財閥同士の親睦パーティーに行きました。初めてだったもので知り合いもおらず、困っていましたらそれぞれの財閥のご子息様がたに囲まれてしまいまして。」
「それはさらに困ったのではないか?」
「はい。そのときに外からお声をかけてくださって、助け出してくださったのが神宮寺家の御三男のレン様だったのですけれど⋯。」
「⋯⋯む。」
ここであの男の名前が出てくるとは。
⋯いや、待て。
幼い頃に財閥のパーティーに神宮寺がいたということは。
「その時、レン様とご一緒に真斗様もいらっしゃったのですよ。レン様が皆様がたを引きつけてくださっているうちに、真斗様が連れ出してくださいました。あれは見事な連携でしたね。」
「⋯⋯そうか、そんなことがあったのか。」
「覚えていらっしゃらなくとも当然です。お互いに名乗りもしませんでしたから。真斗様はその後すぐに戻っていらしたレン様をお連れして去ってしまわれましたし。」
「大方、今度は神宮寺が軽々しい口を聞いたのではないか?」
「いえ、そのようなことは⋯⋯。」
そう言いつつも表情が肯定している。
助け出した令嬢にまた奴は挨拶がわりに軽口を叩いたのだろう。
あの頃俺はよくパーティーのたびに神宮寺と共にいたが、恐らく女性に慣れていない俺と違い気さくに女性に声をかける奴に驚いて慌てて連れ去ったのだろうな。
記憶にはないがそんなところだろうと1人納得していると、彼女はまた申し訳なさそうな顔で下を向いた。
「その時、お二方がお互いを呼んでいらっしゃったお名前から、お二方の事を知りました。それで⋯神宮寺家と聖川家のご子息様に助けていただいたことを、後に祖父にお話をしてしまいまして⋯⋯⋯。」
「誰かに助けてもらったことを大人に報告するのは特におかしいことではないだろう。何故そんな顔をしている?」
少なくとも、その助けたらしい彼女の家から後に改めて礼を言われた覚えは俺はない⋯もしや父上は感謝を受け取ったのかもしれんが。
だからこそ思い出せずにいて申し訳ないことをしているのは俺のほうなのに、彼女のほうが居た堪れない表情をしている。
「沢山のご子息様がたに囲まれた事がとても怖かったと話した事がきっかけで、祖父のご意向で私はあまり公に出ない方針となりました。元々次女なので家は継ぎませんから、家の為に広く顔を繋ぐよりはより良いご縁のために自身を磨く方が良いだろうと。」
「なるほど、だから今まで顔を合わせる事がなかったのだな。」
「⋯はい。」
財閥同士の集まりに参加するくらいなら、やはり彼女の家もかなり名のある家なのだろう。
彼女を囲んだ子息たちはもしかすると、家の繋がりを作りたい関係で近づいたのかもしれない。
名家の者としては家同士の繋がりは大事なのでその考え自体は否定はできないが、幼い婦女子に対して正しい行いではない⋯なので祖父君の方針は間違っていない。
⋯そこで、俺はまだ彼女の名前を知らないことに気づいた。
先ほどから、自ら名乗ろうとしないのはあまり礼節ある行いではないが、なにか深い事情があるのだろうか。
(⋯名のある家柄ながら、次女ということもありあまり公に顔を出してこなかった⋯⋯どこかで聞いた話だな⋯?)
それも、財閥のパーティーに共に行ったのも、その後の彼女の方針を決めたのも彼女の祖父君⋯ということは、その祖父君が家の当主の可能性が高い。
それで、俺と年齢の近そうな令嬢のいる家となれば。
(⋯まさか。)
いや、そんなことはあるだろうか。
思いついてしまった自分の考えを自分で否定しようとして、同時に肯定したくなる。
再び心臓が早鐘を打つのを感じ密かに息を整えれば、彼女は沈んだ顔のまま深々と腰を折り頭を下げた。
「2度も助けていただき、今回は先にお名前をお伺いしておきながら、こちらからは一切名乗ることをせず大変な無礼を働きました。誠に申し訳ございません。」
「全く気にしていないので頭を上げてくれないか。それで⋯俺に伝え忘れた事とは?」
「⋯はい。」
彼女はゆっくり頭を上げ、まっすぐな瞳で俺を見つめてきた。
決意を込めた色ながらそれが時々揺らいでいるような、憂いも含んだ表情で。
緩く吹いた風で髪のつまみ細工がゆらゆらと小さく揺れた。
「大変申し遅れました。私は、綾瀬家の次女でかなでと申します。改めてお目にかかります、真斗様。」
「⋯っ⋯やはり綾瀬家の⋯⋯では、あなたが俺の⋯。」
「⋯⋯はい。このたび、真斗様の婚約者として本日は聖川家へ初顔合わせに伺う途中でございました。まさか先にこのような形でお会いするとは思いもせず、お見苦しいところをお見せしてしまいました。」
「いや⋯そんな事は断じて無いが、⋯っ⋯すみません、あまりに驚いて気の利いた言葉が何も浮かばず⋯不甲斐ないことですが。」
「とんでもございません。驚きはごもっともです。それと、どうか先ほどまでと同じようにお話をしていただけませんか?」
「⋯わかった。」
家名を聞いて態度を変えられるのは俺も嫌だと思っていたはずなのに、同じことをしてしまった。
だから彼女もなかなか名乗れなかったのだろう。
互いに重い家名を背負っているのだな。