(甘)夢見月 花守人の 思ひ初め
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それから、約束の時間には間に合わせねばとひとまずバスに乗り、屋敷のある街の少し前で降りてゆっくりと歩いた。
駅前は栄えているが、離れればのどかだ。
川にかかる橋を渡る途中ですれ違う観光客が感嘆の声を挙げながら通り過ぎていく。
そこでようやく、地元に着いてからまだ京都自慢の景色をひとつも観ていないことに気がついた。
見上げれば川沿いに並ぶ早咲きの河津桜が花を開き始めていた。
日差しは穏やかで風が心地よい。
生まれ育った街の空気だ、と思うと自然と肩の力が抜ける。
もう少し後に来ていれば満開の姿を見られただろうに、それだけは惜しい。
「⋯⋯ん?」
川のせせらぎを耳にしながら橋を渡り、もう少しで渡り切る手前で欄干から身を乗り出している着物姿の女性の姿が目に飛び込んだ。
婦女子をジロジロと見るのは不躾な行いだが⋯川を眺めているのかと思いきや、それにしては妙に上半身を前に出し過ぎているので今にも落ちてしまいそうで大変危うい。
深くはない川なのでまさか身投げはないと思うが、橋はそれなりに高さはあるので落ちてしまえば無事に済むかはわからない。
ましてや着物では余計に動きづらいだろうに、落ち着きなく下を向いてキョロキョロとしているのが余計に危なっかしくて放ってはおけなかった。
(⋯本当に落ちる場所を探しているのではないだろうな?)
切羽詰まったようなただならぬ雰囲気に思わずやや早足で近づけば、着物の淡い桃色の生地に薄い白の見事な枝垂れ桜の柄が見えた。この季節によく合うとても上品な振袖だ、生地も仕立ても上質でかなり上等な品であることが傍目に見てもよくわかる。
だがそんなに欄干にもたれては、せっかくの着物が汚れてしまう。
「何をしているのだ?危ないぞ。」
「っ?」
俺の声に反応しビクリと肩を跳ねさせた女性が、ふいとこちらを向いた。
前髪がふわりと浮いて横髪が風に靡くと、くりっとした目が俺を捉える。
振袖の色味から若い女性だろうとは予想していたが、俺と同い年か少し下くらいだろうか。
顔立ちは年相応らしいあどけなさもあるが、随分と着物を着慣れていそうで全く浮いていない雰囲気がどこか品の良さを感じさせる。
サイドを三つ編みにし、そのまま後ろで編み込まれてまとめられた髪に飾られた花飾りから垂れたつまみ細工が揺れる。
綺麗な鼻筋と形の良い唇、やや眉が下がり憂いの表情で困り顔をしているが、一目見てとても可憐だと思ってしまった。
何よりも目を惹いたのがぱっちりとした大きな澄んだ瞳だ。
楚々とした雰囲気でとても可愛らしい整った顔立ちに似合う薄めの化粧、それはまるで春に舞い降りた桜の精のようで⋯⋯。
(⋯⋯何を考えているのだ、俺は。)
あまりジロジロと見るのは失礼だが、つい目を惹く洗練されたオーラのようなものを感じる。
女性は俺の姿を見て少し驚いた表情をしたが、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべた。
「あ⋯どうかお気になさらず。景色を眺めていただけですので⋯。」
「そのわりには、下の方ばかりを眺めていたようだが。」
「え、あ⋯ええと⋯⋯。」
川が好きなのか、とも思ったが⋯それにしては、楽しんで眺めていたようには見えない。
指摘されて笑顔が動揺しているような色に変わる。
通りすがりの見ず知らずの男にいきなり声をかけられて警戒をしているのかもしれない。
女性の身で考えれば正しい反応だ。
決して怪しい者ではないと伝えたいが、俺のほうも妙齢の女性の扱いに長けているわけではないので、その警戒心を解く術はわからない。
だが、明らかに普通ではない様子はどうにも放ってはおけなかった。
俺もそれなりの家に生まれ育ち、人や物を見る目はある程度養われているつもりだ。
近くで見れば余計に、かなり高価そうな着物を着慣れていそうな女性が供もつけずに1人でいることに違和感を覚えた。
ましてや着ているのは単なる訪問着ではなく振袖⋯簡単な外出ではないだろう。
近くに車を止めている様子もないが、一人歩きはどうにも腑に落ちない。
⋯最近では観光地を着物を着て歩くのが流行っているらしいので、その可能性も捨てきれないが。
あれこれと対応を考えていると女性が動揺しながら俺と向き合い、だがチラリと川の方を気にしている素振りで、ピンときた。
「不躾なことを聞くが、川に落とし物でもしたのか?」
「っ!」
ピクリと肩が跳ねた様子で正解だとわかった。
だから身を乗り出してキョロキョロとしていたのか。
ひとまず身投げではなさそうで安心した。
しかし川に落とし物、か。
女性の身なりと先ほどから焦っているらしい様子から察するに、落とし物もそれなりに高価なものか貴重なものなのかもしれない。
どちらにせよ簡単には諦めきれない大事なもので間違いはないだろう。
「⋯⋯ふむ。」
「あの、ですが大したものではございませんので⋯っ⋯あ」
女性がなんとかこの場を収めようとするのも構わず、橋の欄干に近づいて女性が見ていたと思しき辺りを覗き込んでみた。
深くはないがサラサラと流れがそれなりにあり、水面に日光が反射しキラキラして眩しい。
こちらからでは川底までは到底見えないな。これは困るはずだ。
1人ならば誰かに助けも求められなかっただろう。
「あの辺りか?何を落としたのだ。」
女性を見るとどうしたものか迷っている表情をしたが、背に腹は代えられないと悟ったか同じく欄干から少し身を乗り出し、川底を指さした。
「かんざしです、あの辺りかと思うのですが⋯。」
「かんざしか⋯意匠は?」
「あ⋯飴色のべっこうです、細工は桜で⋯⋯。」
「べっこうか、それはまた貴重な品だな⋯飴色ならばまだ望みがあるか。」
「はい?」
「まだ川底から見つけやすい色だ。少し待っていてくれ。」
ジャケットを脱いで畳み、欄干に掛けて中の長袖シャツの袖をめくると、女性は慌てて俺を止めた。
「お、お待ちください、何をなさるおつもりですか?」
「ここからただ眺めるより、川に入って探したほうが早く確実だろう。」
この時期ならまだ水は冷たいかもしれないが、ならばなおさら女性に入らせるわけにはいかん、致し方あるまい。
だが女性は驚いた顔で首を横に振り、さらに俺を止めようとした。
「そのような事をしていただくわけには参りません、自分でなんとかいたしますからどうかお止めください。」
「だが、その着物では川に入るのは難しいだろう。」
「それは⋯っ⋯そうですが⋯。」
「誰か他に連れは?」
「⋯っ⋯おりません⋯私、一人、です⋯。」
「⋯そうか。」
だから先ほどからどうして良いのかわからず困っていたのだろう。
高価な着物を濡らすわけにもいかず、往来で裾をまくり上げて足を出すのも恥じらいがあるだろう。
一人なら助けも頼めない。
俺はズボンをまくり上げれば裾は濡れにくく、男なので足を出してもその点はまだ女性より問題はない。
どうにか安心させてやりたくて、なるべく口角を上げることを試みる。
うまくできているか自信はないが。
「案ずるな、すぐに見つけてくる。上着だけ下に落ちないように見ていて欲しい。」
「あ⋯。」
なんとか止めようとする彼女を振り切り、小走りで橋を抜けて脇から土手に降りて川を覗いた。
この流れの速さなら足をとられることはないだろう、おそらくかんざしも流されてはいない。
うまく分かりやすい場所に沈んでいてくれと願いながら、ズボンの裾を膝までまくり上げ靴と靴下を脱ぐ。
川に足を入れて小石の少なそうなところを選んで底を探りながら進んだ。
春で暖かいとはいえやはり水は冷たい。
川の真ん中ではなく端のほうで落としたのがまだ救いだろう。
指さしたのはおそらくこのあたりのはず⋯と顔を上げて見上げてみれば、欄干から上半身を乗り出して下を覗き込んでくる彼女が見えた。
橋が高い上に逆光で顔は見えないが、おそらく心配そうにしているだろう。
「大丈夫だ、危ないのであまり身を乗り出すな。」
大きめに声を張ると聞こえたのか彼女が少しだけ上半身を引っ込めた。よし、それで良い。
それからまた川底に目を落とし、腰を曲げて両手も水に浸けてよく目を凝らした。
底の泥を手探りしつつ、付近にも視線を巡らせる。
慎重に辺りを探りながら移動していくと、何分経ったかの頃に少し泥を被った飴色がきらりと光ったのを見つけた。
それを掴んで水で泥を拭えば、細かく施された美しい桜の細工が見えた。これはまた見事なべっこうのかんざしだ。
「これか!?」
また声を張り上げてそれを上に掲げれば、彼女はまた身を乗り出した。
「それです、そのかんざしですっ!!ああ良かった⋯っ!!ありがとうございますっ!!」
顔は見えないが、一生懸命に声を出して叫んでいる。
声が不安定な発声が、彼女が大声を出すことに慣れていないことを物語っていて。
それでも懸命に叫んで礼を言う姿に、よほど大切なものなのだろうことが伺えた。
乗り出しすぎて勢いで落ちてしまわぬうちに早く戻らねば。
早く持ち主の手元に戻して安心させてやろう。
川岸に戻って上がってから、ポケットに入れていたハンカチを出してまずかんざしを拭いた。
べっこうはもう今では入手の難しい品で、しかも飴色となればかなりの高級品だ。
細工の細かさといい、本物であればとても高価で貴重だろう。
年季は入っていそうだが傷ひとつなく、持ち主に大事にされてきたのがよくわかる。
壊してしまわぬようにそっと手のひらで包み、ハンカチで足を軽く拭いて靴だけ履いた。
土手を上がり橋に近づけば、女性がパタパタと小走りで駆け寄ってきた。
草履の頼りなさがまた危うい。
「待たせてしまったな。」
「いいえ、本当にありがとうございます、なんとお礼を申せば良いのか⋯!あの、どうかこちらをお使いください。」
「ああ、済まない。」
差し出されたハンカチをありがたく受け取り、それでかんざしを包んで差し出すと、女性はまた驚いた表情をした。
「俺のハンカチは使ってしまったのでな。素手で握りしめてしまったのでかんざしに俺の手垢や指紋がついたかもしれん。」
「いいえ、そのようなことはございません⋯っ!お風邪を召されてしまいます、お早くこちらをお召しになってください。」
「わざわざ持っていてくれたのか、ありがたい。」
ハンカチに包んだかんざしを渡し、代わりに丁寧に渡された自分のジャケットを羽織る。
彼女はかんざしをまじまじと見つめてから、泣き出しそうな顔で大事そうに胸に抱え込んだ。
「良かった⋯っ⋯。」
「よほど大事なものと見えるな。」
いくらべっこうが高価でも、かんざしを落としただけにしては取り乱し方も普通ではなく、今も無事に取り戻してうっすらと目に涙を浮かべている。
それで思わず問いてみれば、彼女ははい、と深く頷いた。
「亡くなった祖母の形見なのです。生前、私の大事な時に身につけるようにと授かりまして。」
「祖母の⋯?」
なるほど、祖母君から賜ったものならば年季が入っているのも、入手困難な本物のべっこうなのも頷ける。
その祖母君がお若い時代にはまだ手に入りやすかったのだろうし、飴色のべっこうは今日の彼女の振袖の色味に比べればいささか落ち着いた色合いだが、形見で身に着けたならば納得がいく。
振袖を着て、遺言に従って身に着けるほど大事な何かがある日だったのか。
それに⋯。祖母、か。
「⋯どうかなさいましたか?」
思わず黙り込んでしまった俺を彼女が覗き込んでくる。
可憐な顔で見つめられてついらしくもなく動揺してしまった。
「⋯っ⋯いや⋯偶然だが、俺にも、祖母からいただいた品があるのでな。」
「そうなのですか?」
「ああ、だから⋯よほど大事なものなのだろうことはよくわかる。俺にとっても祖母は大事な人なのでな。」
咳払いをして動揺を誤魔化したが、彼女は頬を上気させ嬉しそうに微笑んだ。
「⋯そうでしたか。」
清楚な振袖姿に加えその可憐な笑顔で、まるでそこに満開の桜が咲いた様に見え⋯⋯俺はまた自分の心臓が跳ねたのを自覚した。
先ほどの取り繕った笑顔とは違う、心からの喜びの満面の笑顔だ。
⋯⋯いや、確かに彼女は楚々とした花のように可愛らしいが、容姿の良さのみでこのように反応するのは女性に対して却って失礼だ。
だが、祖母君の形見を大切にするその心根もまた、美しいと思った。
その祖母君は彼女にとってよほど大切な人だったのだろう。
俺にとっても祖母は大切な人だ、だからその共通点もあり、勝手ながら親近感が湧いた。
彼女の祖母君について、そのかんざしに込められた想いについて聞いてみたい気持ちになったが、今知り合ったばかりで根掘り葉掘り聞くわけにもいかない。
気軽に女性に迫るような軟派な男だと誤解されたくない。
とくに神宮寺のような、女性に対して軽薄な男と同じになど思われるのは屈辱だ。
さてどうするか、誤解されないためにはこのまま退散したほうが良いかと思案していると、彼女はまた深々と腰を折り頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。このご恩は決して忘れません。」
「いや⋯礼を言われる程のことではない。頭を上げてくれ。」
このまま地面に三つ指でもつきそうな仕草に慌てて頭を上げさせたが、このままでは気がすまないのか申し訳なさそうにジッと見上げられてしまった。
これはなかなか簡単には退散させてはもらえなさそうだ。
「ハンカチやお召し物が汚れてしまったでしょうから、是非クリーニング代をこちらで負担させてください。」
「そこまで上等なものでは無いので気にしなくて良い。ハンカチはもとより服もそれほど濡れてはいないからな。」
「では、後ほど家の者とご自宅に改めてお礼に伺わせていただけませんか?」
「それは⋯。」
⋯自宅を教えれば、恐らく恐縮させてしまうだろう。
聖川の名前はそれほどに大きい。
できればこの人には、俺を聖川の人間というフィルターでは見てほしくなかった。
だからそれも遠慮し断ると、彼女はとても残念そうな顔をした。
どうにか感謝の意を表したいのだろう、その気持ちはとても尊く、俺が勝手にしたことにそこまで恩を感じ、返礼をしたいと思ってもらえるのは素直に嬉しいが、同時に申し訳なくもなる。
こちらは最初は身投げを疑っていたくらいで、単なる落とし物が理由だったことについ安堵してしまうという無礼なことをしたのだ。
彼女にとっては充分に絶望的な出来事だったのだろうに⋯その後ろめたさを俺は卑怯にも彼女に隠している以上、のうのうと謝礼を受け取るわけにはいかない。
それでも、俺の後ろ暗さを知らない彼女はまだ引き下がらなかった。
「それでは、せめて貴方様のお名前だけでもお聞かせいただけませんか。心に留めさせてください。」
「⋯いや⋯⋯名乗る程の者ではないのでな。恩を着せるつもりもないので本当に気にせずにいてくれないか。」
「⋯⋯そうですか。残念ですが感謝の押し付けは却ってご無礼となりますし、ご意向は承りました。」
申し出を無下に断り続ける俺に一瞬落ち込んだ表情をした彼女は、気を取り直すようにまた微笑んだので胸が少し痛んだ。
頑なに正体を隠すことにやや気まずさもあり、彼女の気持ちを晴らすにはと少し考えてから、胸元に大事に抱え込まれているかんざしに目を向けた。